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偽りの想いを花水木に託す2

「綺麗ですねえ」

「ああ。今年も綺麗に咲いてくれた」


 数日後。私は白井家の広大な中庭で、清玄さん、そして赤斑と花見をしていた。


赤斑が管理を担っているそこは、四季折々に美しい花が楽しめるように整えられている。今の時期に庭を彩っているのは純白のハナミズキだ。花弁のようにも見える四枚の総苞片の中央には、小さな黄色い花が咲いている。元々は北アメリカ原産の木なのだが、新しいものが好きな清玄さんのために、わざわざ取り寄せて植えたのだそうだ。穢れひとつないその白さは、純和風な庭園の中にあっても自然と馴染んでいる。


 私たちはハナミズキの下に竹製の縁台を置いてもらって、今まさに盛りを迎えている花を眺めていた。春の日差しは穏やかで、弱り切った体に活力を与えてくれるようだ。


普段はきっちりスーツを着込んでいる清玄さんも、今日ばかりは単衣仕立ての小紋の着流しを身に纏い、リラックスした様子だった。


 しかし、私にはひとつ気がかりなことがあった。


「お疲れですか?」


 隣の清玄さんをじっと見つめる。彼の目の下には濃い隈が刻まれている。ここ数日は食欲もあまりないようで、少し痩せたように思えてならない。


「そんなことはないよ」

「いいえ。絶対に疲れてますよね? 無理をしているんじゃないですか。朝から晩まで私に付き添ってるんですから。ねえ? 赤斑」


 私が訊ねると、後ろで控えていた赤斑は、中折れ帽を胸に当てて一礼した。


「奥様のおっしゃる通りです。ご主人様の平均睡眠時間は、以前よりも二時間ほど減少しています」

「おい、余計なことを言うんじゃない」

「事実ですので」


 清玄さんの鋭い視線を、赤斑は涼しげな顔で躱した。


私は「やっぱり!」と怒りながら、両手で優しく清玄さんの頭を抱え込む。


「う、わっ」


 そしてそのまま、彼の頭を自分の膝の上に乗せた。


「ちょっと狭いかもですけど」


 くすりと笑って、彼の灰色がかった頭を撫でてやる。清玄さんは動揺しているようで、耳まで真っ赤になってしまっていた。


「それで、なにが気がかりなことでもあるんですか?」


私の問いかけに、清玄さんは数瞬黙り込んだ後、おもむろに口を開いた。


「……体調はどうだね?」

「私、ですか? おかげさまで大分よくなりました。もう少しで完治するかと」

「そうか」


 彼は相槌を打つと、なにかもどかしいのか指先で首筋を掻いた。普段は革手袋を嵌めていて見えない手が露わになっている。興味を惹かれて、そっと手を伸ばす。筋張っていて、あちこちに大小様々な傷跡があった。


苦労人の手だ、と思う。


 おもむろに傷跡を指先でなぞると、彼は私の手を捕らえて軽く握った。


「――不安なんだ」

「不安?」


 やわやわと私の手の感触を楽しむように指を動かしながら、清玄さんは訥々と語る。


「……君の体がよくなったら……私のもとを去ってしまうんじゃないかと」


 首を傾げる。私とこの人は夫婦だ。どうしてそう思うのだろう。


「私はどこにも行きませんよ? 奥さんですし……寿命の話だったら、清玄さんの方が年上だから、置いて逝かれるのは私ですよね?」

「そういうことじゃない。そうじゃないんだ……」


 苦しげに呟いた清玄さんは、手を握る力を強めると言った。


「聞いてくれるかい? 私の話を」


 小さく頷くと、彼は安堵したように息をゆっくり吐いた。

 そして語り始めた。それは、白井清玄という男の半生だ。


「――私の〝居場所〟は常に誰かに奪われてきた」


 清玄さんは白井家ではなく、代々続く祓い屋の家系の長男として生まれた。

 幼い頃から祓い屋としての技術を叩き込まれ、普通の家庭の子どもたちが楽しそうに遊んでいるのを羨ましく思いながらも、家のためにと研鑽を重ねてきたのだそうだ。


 彼曰く、実力は平々凡々。


特に秀でた部分もなければ、劣る部分もない。それは跡取りとしては致命的だった。

歴史ある家を継ぐためには、相応の能力が求められる。

彼も……そして周囲の大人たちも、少しでも実力をつけようと躍起になっていたらしい。彼の手に刻まれた傷の数々は、その頃についたものなのだそうだ。


「そのうち歳の離れた弟が生まれた。父が愛人に産ませた子だ。初めは可愛いと思っていたよ。ある日を境に、そんな気持ちは霧散したがね」


 弟が五歳になったある日。祓い屋としての適性検査が行われたのだという。結果は清玄さんにとって想定外のものだった。彼の弟は〝天才〟だったのだ。


「翌日から、弟と私の部屋が取り替えられた。食事の際には弟が私よりも上座に座るようになり、明らかに待遇が変わった。私に与えられるはずのものはすべて弟にいき、私にはおこぼれしかこなくなった。そう――私は次期当主の座を奪われたのだよ。その瞬間から、私は私ではなく、弟の〝スペア〟に成り下がった」

「〝スペア〟だなんて……」

「そういう家だったのだよ。偉大なる祓い屋一族であるという矜持だけはご立派な、救いようがない……愚かな家だ」


 それからの日々は、清玄さんにとって辛いものであったようだ。それまで、当たり前のように与えられていたものが奪われたという事実。それが実力に見合わない過剰な期待であれ、行き過ぎた修行であれ、彼はそれに縋って生きてきた。


〝当主になるのだから。自分は他の子とは違うのだから、仕方がない〟


 そう思えばすべてを諦められたのに、次期当主の座まで奪われてしまったのだ。

 かといって、その日から普通の子と同じように生きられるわけでもない。〝スペア〟はあくまで〝スペア〟。万が一に備えて、清玄さんは普通に生きることも叶わず、只々古いだけの家に囚われ続ける羽目になった。


「生殺しというのはこういうことを言うのだろうね。家から出ることも逃げることもできずに、弟の取り巻きには馬鹿にされ、不遇な境遇にも耐えなければならない。弟こそが〝スペア〟であったのに、と内心穏やかではいられなかった」

「……大丈夫ですか」


 するりと、空いている方の手で清玄さんの肩を撫でる。私からは清玄さんの顔は見えない。けれど、その背中がどうにも泣いているようにしか思えなかった。


 清玄さんは私の手を頬に寄せると、話を続けた。


「そのうち弟に子ができた。その子は私よりも優秀であったらしい。そこでようやく私の〝スペア〟としての役割は終わった。次に与えられたのは……政略結婚のための駒だ」


 清玄さんの結婚相手とされたのは、彼の生家と同じくらいに長い歴史を持つ、とある祓い屋の一族の女性だった。


「白井家への婿養子の話が出た時は、正直ホッとしたんだ。やっとあの忌々しい家から出られると。新しい家に行けば〝次期当主〟でも〝スペア〟でもない、私が私でいられる場所が見つかるのではないかと」


 彼は小さく自嘲すると「甘かったんだ」と吐き捨てるように言った。


「家から出られることに浮かれ、私は自分があくまで政略結婚の駒であることを失念していた。新しい家に来たって……私の〝居場所〟なんてあるはずがないというのに」


 待っていたのは〝お飾りの当主〟の座だったのだ。

白井家は犬神憑きの家系で、その血に宿した強力な犬神を代々引き継いで来た。

結婚相手の女性は病弱で、当主としての仕事は不可能だった。そこで、血統だけは文句のつけようがない清玄さんに白羽の矢が立ったのだ。


「すべてが馬鹿馬鹿しくなったよ。私の自由になることなんて欠片もなかった。実権は妻が握っていたのだから、なんの力も持たない私には、結局――」

「ま、待ってください」


 そこで私は話を遮った。頭が混乱している。今の話はどういうことだろう。

 白井家とはこの家のことだ。

そして、清玄さんの妻とは……私ではないのか?


「私の他に、奥さんがいるんですか」


 声が震えそうになりながら訊ねると、彼はハッとしたように顔をこちらに向けた。

体の向きを変えると、私の頬に手を伸ばす。


「悪かった。今のは……別の話だ。忘れてくれ……君の悲しむ顔を見たくない」

「……清玄さんがそういうのなら」


 違和感を覚えつつも、疑問を呑み込む。

それよりも、今は目の前の弱り切っている人を放って置けなかった。


「清玄さん、今も〝居場所〟がないと思っているんですか?」


 膝枕なんてしたせいで乱れた髪を指で梳いて、そっと訊ねる。すると、清玄さんはまるで迷子の子どものような顔になった。クスクスと笑って続ける。


「私の隣はあなたの〝居場所〟にはなり得ませんか」


 清玄さんが小さく息を呑んだのがわかった。彼の額にかかった髪をそっと退けてやる。


「〝居場所〟がないって、逃げる場所もないってことですよ。苦しくてもどこにも行けない。周りが全部敵に思えて、息をするのも辛い」


 人は誰しも〝居場所〟を必要としている。それがないと上手く羽を休められない。


〝居場所〟はなんだっていいのだ。恋人、家族、友人、好きな場所、没頭できる趣味。

 つまりは、心が安らぐ場所であればどこでもいいし、なんでもいい。

そこにずっといたい。それさえあれば、明日を迎えるのが怖くない。

それが〝居場所〟。誰もが当たり前に持っているようで、一度失ってしまうと、なかなか取り戻すのが難しいものでもある。


「私を〝居場所〟だと思ってくれていいんですよ。清玄さんは、妻である私をとても大切にしてくれた。私ね、誰かから優しくしてもらったら、同じぶんだけ優しさを返してあげなさいって教わったんです。だから……」


 ――それは誰から教わったのだったか。


 チリ、とまた頭が痛む。無精髭だらけの男性の顔が、フッと脳裏に浮かんだ気がした。


 ――なんなのこれ……。


 不思議に思いながらも、切なそうに私を見上げている清玄さんに笑いかける。


「だからもう〝居場所〟がないと嘆く必要はないんです。ね? そうでしょう?」

「…………」


 すると、清玄さんは黙ったまま、私の腰に抱きついてきた。

ぎゅう、と。まるで、甘えん坊の子どものように。

 そして蚊の鳴くような声でこう言った。


「……君が……本心からそう思ってくれるなら」


 私は軽く目を見開くと、彼の肩をポン、ポンと優しく叩いた。


 ――なんて不器用で、可愛い人だろう。いつまでも素直になれないんだなあ。


 ふと上を見上げると、春らしいくすみがかった空に輝く、満開のハナミズキが目に入った。ハナミズキの花言葉は……確か〝私の想いを受けてください〟だ。


 その時、ハナミズキの花が風もないのに微かに揺れた。


 じっと目を凝らすと――先日見かけた、光る蝶がいるではないか!


「清玄さん、あそこ! ほら、不思議な蝶がいませんか……!」


 興奮気味に清玄さんの肩を揺らす。しかし、彼はそれにはまったく取り合わず、益々私を強く抱きしめると、ぽつりと言った。


「蝶なんていない。蝶なんていないんだ。みどり……」


 私は小首を傾げると、花の周りを戯れ飛ぶ蝶に視線を戻した。

先日とは違い、その姿が消えることはない。

確かにそこにいるのに、清玄さんはいないという。


私の目がおかしいのだろうか?


不安になって赤斑を見ると、彼は柘榴のような色をした瞳を細め、なにを考えているかよくわからない表情でそこに立っていた。


***


 ふと、夜中に目を覚ました。

 障子戸越しに、青白い月の光が室内に差し込んでいる。


 梅雨前だというのにやたら蒸している。寝間着の袂を寛げ、枕もとの水差しに手を伸ばそうとすると――視界の隅に人影を見つけて、びくりと体を硬くした。


「おや。ようやくお目覚めですね」


 それは赤斑だった。

 私の布団の傍に座り、じっとこちらを見つめている。


「そろそろ香が切れる頃かと思いまして。驚かせてしまいましたね。申し訳ありません」

「え、どうして赤斑が? 清玄さんは……?」

「お疲れのようでしたので、自室でお休み頂いております。それに今日は、僕ひとりの方が、都合がよかったものですから」

「都合……?」

「こちらの話です。お気になさらず」


 赤斑はにこりと形だけの笑みを顔に貼り付けた。


 ――気にするなって言われても……。


 女性の部屋に侵入しておいて、理由をはぐらかされるのは非常に不愉快だ。

 睨みつけようとして……けれども、また頭痛がしてきたので止めた。今回の痛みは今までにないほど酷い。まるで脳天を鈍器で殴られているようなそれに、堪らず呻く。


 必死に痛みに耐えていると、目の前に水の入ったコップが差し出された。


朦朧としながら視線を上げると、笑っているようで笑っていない赤斑の顔がある。


「どうぞ」

「あ、りがとう……」


 コップを受け取って、一気に中身を飲み干す。ぬるい水は優しく体に沁みて、ほんの僅かだけ痛みを和らげてくれた。


「……はあ。助かったよ。最近、頭痛が本当に多くて」


 ため息と共に零すと、赤斑の深紅の瞳がすうと細まった。


「香が徐々に効かなくなってきているのでしょう。人は慣れる生き物ですから」

「……お香? ああ、痛みを鈍くするっていう……」

「それは正確な情報ではありませんね。鎮痛効果は確かにありますが、主たる効果はまた別です。対象の思考を鈍らせ、使用者が思い描く偽りの現実を見せ続ける。捕らえたあやかしを洗脳する際に使用する、秘伝の香なのです」


 ――洗脳?


 物騒な発言に胸がざわつく。赤斑が小さく笑った。それはまるで、私の反応を楽しんでいるかのようだ。


「激しい頭痛は、洗脳が解け始めている証拠です。僕としては、香の効果なんてさっさと切れてしまえばいいと思っているのですが」


 一体、彼はなにがいいたいのか。

益々混乱していると、赤斑は私に質問をしてきた。


「頭痛の頻度はどれくらいでしょうか」

「え……? えっと、結構頻繁に」

「思考が妨げられる感覚などは?」

「ずっとなにかが引っかかっている感覚は……ある、かな」


 まるで医師の問診のようだ。深く考えずに素直に答える。

彼は満足そうに頷くと、私の枕を指さした。


「そこの下を探ってみてください。いいものが入っていますよ」

「え……?」


 言われた通りに枕の下に手を入れると、なにかが指先に触れた。そこにあったのは、濡れ羽色をした数本の烏の羽根だった。


 ――あの金色の目をした青年の髪の色と同じ。


 その瞬間、頭痛がまた酷くなった。必死に痛みに耐えていると赤斑が続けて言った。


「さて。そろそろ頃合いのようです。わが主に怒られてしまうかも知れませんが……。仕方がありません。それもこれもすべては――〝主の望みを叶えるため〟」


 赤斑は、またあの薄っぺらい笑みを浮かべて言った。


「奥様、少しお出かけしませんか」

「こんな時間に? 清玄さんの許可がないと、それは……」

「問題ありませんよ。これはご主人様のためでもあるのですから」

「ええと……?」


 意味がわからない。思わずポカンと口を開けると、赤斑は「間抜けな顔ですね」とクスクス笑って、それから表情を消して真顔になった。


「貴女に拒否権はありません。これは決定事項ですよ」


 そして懐からあるものを取り出した。それはマッチ箱だ。


「羽根を一本だけ手に持ってください。残りは懐にでも入れておいてくだされば」


 赤斑は、中からマッチを一本だけ取ると、おもむろにそれを擦る。薄暗い室内に、ぽうと小さな明かりが灯った。煙の匂い。私たちの影が伸びて、炎が揺れる度に踊る。


「実はね、僕も……迷子なんですよ」


 彼はどこか弱々しい笑みを浮かべると、マッチの明かりをじっと見つめて言った。


「昼間に〝居場所〟の話をしていたでしょう。あれは僕にも大変刺さりました。ええ、それはもう痛いほどに。僕にはご主人様しかいません。けれど、ご主人様は僕を〝居場所〟とはしてくださらない。僕にも〝居場所〟なんてないんです」


 でも、私は違うのだと赤斑は語った。


「帰るべきところが貴女にはある。ならばここにいるべきではない。貴女は、わが主の求めに応えられないのですから。だから、貴女にかけられたまやかしを解きます」


 そう言うと、赤斑は炎に息を吹きかけた。途端に赤色が青色に変わり、パチパチと七色の火花が弾け出す。あまりにも不思議な現象に驚いていると、彼はマッチの火をそっと羽根に近づけた。パチン! と一際大きな火花が散り、羽根が先端から燃え上がる。


「えっ……」

「離してはなりませんよ。それは道しるべですから」


 思わず羽根を手放そうとした私の手を、上から包み込むように握る。そして、パチパチとはじけ飛ぶ色とりどりの火花を、うっとりと目を細めて眺めた。


「これが燃え尽きた時、貴女の夢は醒めます。準備はよろしいですか?」


 私は小さく息を呑むと、泣きそうになって訊ねた。


「その前に訊かせて。清玄さんは、本当に私を騙していたの?」


 あの優しい夫が。寂しそうに私に触れていた彼が。私を香で洗脳していた?


 ――信じたくない。


「そもそも、どうして私を奥さんに……?」

「…………」


 その問いかけに赤斑は答えてはくれなかった。

 にこりと白々しい笑みを浮かべると、どこか芝居がかった口調で語り始める。


「ここですべてを詳らかに説明してもよいのですが、僕自身、かなり捻くれている自覚がありまして。私情を挟まず、客観的に説明ができる自信がありません。ですから、ご自身の目で確かめてください。僕から言えることは、ただひとつ――」


 赤斑は一旦言葉を句切ると、どこか意味ありげに言った。


「誰もが、親になれるわけではないのですよ」


 謎めいた赤斑の言葉。その意味を汲み取ることができずに目を瞬くと、彼は打って変わって爽やかな笑みを浮かべた。


「この羽根はとある烏天狗のものでしてね。ご存知ですか。彼らは人を惑わすのが大変上手い。相手が幻に包まれているのを自覚できないくらいに完全に騙すんです。彼らの技は一級品。そして――幻から呼び戻す技も、そうであると僕は思います」


 その瞬間、羽根から目を焼くほどの明るい光が放たれた。あまりの眩しさに目を瞑る。

 指先にチリチリと熱を感じたかと思うと、羽根が指の中から消えたのがわかった。


「う……」


 恐る恐る目を開ける。

すると――私は周囲のあまりにも劇的な変化に、思わず目を瞬かせた。


 そこは私の部屋のはずだった。けれど、すべてが変わってしまっている。


 綺麗だった壁はひび割れだらけになり、天井には蜘蛛の巣が張っていて、干からびた虫の死骸が引っかかっている。襖は黄ばみ、破れ、畳は床下から生えた木に押し上げられ、めくれてしまっていた。崩れかけた天井からは、見慣れたものとは違う、薄桃色の夜空が顔を覗かせている。まるで別世界に迷い込んでしまったようだ。


 ふわり、私の周囲に光るものが寄ってきた。それは、あの燐光を発する蝶だ。ヒラヒラと遊ぶように舞いながら、私の顔を掠めるように飛んでいる。


「うう……」


 その瞬間、今までにないほどの痛みが襲ってきた。頭が割れそうだ。マグマのように熱を持ち、表皮に近い血管が脈打っているのがわかる。視界にちらつく蝶の姿を見る度に、記憶の断片のようなものが脳裏に浮かんでは沈んでいく。その記憶はどれも見覚えがないはずなのに、胸が苦しくなるほどに愛おしい。


「私……私は」


 その場に蹲って、必死に痛みに耐える。脳内をまるで走馬灯のように駆け巡っているのは、〝本当の〟私が過ごしてきた時間そのものだ。


 幼い私。昏い世界。集まってくる蝶。絶え間なく襲い来る恐怖。流れ続ける涙。

けれど、そんな私の傍にはいつだって優しい異形の住民たちがいた。

私の〝居場所〟は彼らが棲まう場所にある。

人間とは違う価値観を持つ、怖いけれど愛嬌のあるあやかしたちが棲む場所――幽世。


『大丈夫だ。なあんも心配することはねえよ。俺がいる。俺がいるからな』


 ――東雲さん。

じわじわと温かな熱を持った涙が自然と溢れてくる。

ああ……私は〝みどり〟ではない。私は――。


「私は夏織。幽世の貸本屋の娘、だ」


 やっとのことで呟くと、赤斑はゆっくりと頷いた。


「そうです。貴女は村本夏織。そしてここは幽世です。現し世と薄紙一枚で隔たれている常夜の世界。これが、貴女の真実ですよ」


 赤斑は静かに語ると、押し入れの中から提灯を取り出した。

 慣れた手付きで、近くにいた蝶をそこに入れると、私に向き直る。


「ご案内しましょう。よろしければ、僕が話せることを道々ご説明させて頂きます」


 そう言って、どこか寂しげに笑った。

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