表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
112/167

偽りの想いを花水木に託す1

 すべてが曖昧だった。朦朧としてあらゆるものが滲んでいるような。


 色や音、自分と他人の境目すらも判然とせず、気を抜けば意識が混濁しかねない。


そんな狭間で、私はゆらゆらと揺蕩っていた。息をするだけで激痛に見舞われる。なにかを考えようとすると、すぐに思考が霧散してしまう。自分が和室に寝かされていること、白い浴衣を着ていること、その部屋がお香の甘ったるい匂いで満ちていること、大怪我をしていることくらいは理解していたが、それ以外はなにもわからない。そんな私の傍には常にある人物がいた。


「今日のご機嫌は如何かな。さあ……包帯を取り替えよう」


 彼はとても優しかった。まるで壊れ物に触れるように丁寧に手当をしてくれ、高熱にうなされる私を、昼夜問わず献身的に看病をしてくれる。


彼は不思議な薬を使った。そのお陰か、私の体はみるみるうちに回復していった。

しかし怪我は治れども、傷跡が完全に消えることはないらしい。


「ああ、迂闊だった。やはりあやかしは愚かで救いがたい。私のものをこれほどまでに傷つけるだなんて」


 彼は傷の手当てを終えると、いつも悲嘆に暮れた。

はらはらと涙を零して、後悔の念に打ちひしがれ、私のために嘆いてくれる。


そんな時、私は必ず彼の頬にそっと触れた。

腕を懸命に伸ばして、指の腹でゆるゆると彼の頬をなぞり、笑う。


「優しいんですね。ありがとう」

「…………」


そうすると、いつも彼は少し寂しそうな顔をした。

けれども乱れた心はそれで落ち着くようで、涙を拭って笑顔を浮かべる。


「気を遣わせて悪かったね。今日も本を読もう。昨日の続きだね……」


 穏やかな心を取り戻した後、彼は物語を読んでくれた。私が本好きだと知ってのことだ。私はそれに耳を傾けながら、そっと目を閉じるのが常だった。


 なにせ意識が朦朧としていて、物語を追うことすら難しかったのだ。なにかに集中しようとすると、甘い匂いが鼻を擽り、頭がぼんやりして正常な思考が阻害される。

しかし、穏やかに読み聞かせをしてくれる彼の声色は耳に心地よく、止めるのは忍びなかった。美しい音楽を聴いているようなつもりでその時間を過ごす。


 ぱたん、と本が閉じられた。彼の伽羅色の瞳が細められ、目尻に笑い皺ができる。


「今日はここまでだ。続きは明日にしよう。疲れただろう? 眠りなさい」


 彼は私の髪を撫でると、額に唇を落とした。

頬を緩め、お返しと言わんばかりに私は彼の手の甲に唇を寄せる。


「ありがとう。清玄さん」

「いいんだ、みどり(、、、)。君は、僕の可愛い奥さんなんだから」


 清玄さんは私の髪を優しく撫でると、そのまま部屋を出て行った。

 襖が閉まるまで彼の後ろ姿を見送り、ほうと息を吐く。


目を閉じて、またあの曖昧な世界に身を投じる。ズキズキと未だ完治していない傷が痛む。香の甘い匂いに意識を任せると、すべての境が滲んで溶けた。ゆらゆら、ゆらゆら。あまりにも曖昧な世界は私を不安にさせて、ふと自分のことを思い返した。




 私の名前は白井みどり。

彼、白井清玄の妻だ。

 先日、重症を負った私は、ここ白井家の屋敷で静養している。


***


 二週間も経つと、私の体は随分とよくなった。まだ手足の感覚が覚束ないものの、介助があれば動ける程度になったのだ。そのことを清玄さんはとても喜んでくれた。


「ああ……! 本当によかった!」


 渋みがかった顔を安堵に緩ませ、私を抱きしめる。


「普通の生活を送れるように、徐々に慣らしていこう。頑張れそうかい?」

「はい。清玄さんがいてくれるなら」

「まったく君は。嬉しいことを言ってくれるじゃないか!」


 翌日から、清玄さんはリハビリだと私を外に連れ出してくれた。


 初日は部屋から出て縁側に座るだけ。翌日はもう少し距離を伸ばして。ずっと横になっていたせいか体力が落ちきっている私に、清玄さんは辛抱強く付き合ってくれた。


 リハビリは大変だった。けれど、日に日に回復していることを自覚できて嬉しくもあった。ただひとつだけ、気になることはあったが……。


「ねえ、清玄さん。水明にはいつ会えるの? 最近、顔を見ていないから心配だわ」

「今は、遠いところで仕事をしているよ。なにも心配することはない。あの子は、この家をひとりで支えるくらいに立派に成長したんだ」

「そう……」


 私には可愛いひとり息子がいる。……いる、はずだった。けれど、どうにも思考が鈍くなっているせいか、上手く思い出せない。非常にもどかしい思いをしていたが、それも間もなく終わるだろうと予想していた。


 何故ならば、怪我が回復するにつれ、曖昧だった意識がはっきりとしてきたのだ。


 そのことに私は内心ホッとしていた。あの思考能力が鈍くなる感覚は、体が健康に近づくにつれて不快に感じられて仕方がなかったのだ。それに、献身的に看病をしてくれている清玄さんの話をしっかり聞けないのも不満だった。


 ――それにしても。


 大怪我で、こんなにも頭が働かなくなるものだろうか。


 一度、清玄さんに訊ねたことがある。彼曰く、私の部屋で焚いている香の効果なのだそうだ。確かに、怪我をして寝込んで以来、私の部屋は常に香の匂いで満ちていた。

蜂蜜のような甘ったるい匂い。それを嗅ぐと、脳天が痺れ、意識が朦朧としてくる。


私は香を止めてくれないかと頼んだ。自分の意思に関係なく眠らされることに恐怖を感じたからだ。すると彼は、まるで子どもに言い聞かせるように言った。


「あの香は痛みを鈍くする効果があるんだ。止めたらきっと眠れなくなる。すべては君のためなんだ。我慢してくれるかい?」


 そう言われては了承するしかない。


 彼の行動はすべて思いやりや優しさから来ている。私のためにとやってくれていることを、否定するのは申し訳ないと思う。それにこれも怪我が完治するまでだ。

 その日を待ち焦がれながら、彼との穏やかな日々を過ごしていく。




 ある日のこと。昼寝から目を覚ますと、清玄さんの姿が消えていた。


「起きるまで傍にいるって言っていたような……?」


 わが夫ながら妻を甘やかし過ぎだろうと半ば呆れつつも、少し不安になった。

記憶にある限り、清玄さんは私との約束を破ったことはない。香炉の火も落ちている。彼が席を外して随分と経っているようだ。


私は、羽織を肩からかけてそっと廊下に出た。


「足裏の感覚がまだ変だなあ……」


 転ばないように慎重に床板を踏みしめながら、清玄さんの姿を探して屋敷を彷徨う。

 白井家のお屋敷は立派な造りをしていた。この家は祓い屋として長い歴史を持っている。犬神遣いの白井家と言えば、界隈では有名だ。その歴史に比例するかのような長い長い廊下沿いには、部屋が数え切れないほどに連なっていて、廊下の一番奥は闇に沈んでしまっているほどだ。


 ――ちょっと不気味。


 小さく震えて、廊下の奥から視線を逸らす。その瞬間、なにか光るものを視界の隅に捉えて、私はおもむろに視線を戻した。


「蝶々……?」


 薄暗い廊下の向こうを、チラチラと燐光をまき散らして飛ぶ蝶の姿がある。

 その儚げで美しい姿に魅了された私は、足音を消して蝶に近づいて行った。


「それで、状況はどうだ」


 すると、通りがかった部屋の中から清玄さんの声が聞こえてきた。普段、私に話しかけている時とはまるで違う硬い声。驚いて足を止めると、更に別の声が続いた。


「上々です。予定は八割がた終了しております。負の感情は日に日に強くなり、あと少しすれば術式は完成するでしょう」


 ――一体、なにを話しているのだろう……。


 言葉ひとつひとつに不穏な空気を感じる。すると、再び清玄さんの声がした。


「そんなことはどうでもいい。私が聞いているのは貸本屋のことだ」


 ――貸本屋?

 その単語を耳にした途端、心臓が跳ねた。


 自分の中の、なにがそれに反応しているのかまるでわからない。けれど、その言葉は私の胸を高鳴らせ、同時に不安にさせた。

 その時、先ほどの人物とはまた別の声がした。


「はいはい。そっちの管轄は僕だね。まあ、ご想像の通りだよ。大切なあの子がいなくなったって血相変えているよ。ちょっと可哀想なくらいにね。……おっと」


 その人物は、ある程度まで話すと口を閉ざした。随分、中途半端なところで止めるのだなと思っていると、すらりと襖が開く。


「先生。お客さんが来ているけど?」


 襖から顔を覗かせたのは、黒髪に金目の青年だ。修験僧のような不思議な格好をしている。彼は私を上から下まで不躾に眺めると、どこか薄っぺらい笑みを浮かべた。


「初めまして。先生の奥さんですよね?」


 私は何度か目を瞬くと、ぺこりと頭を下げた。


「初めまして。妻のみどりです」


 すると青年の背後から、ひょいともうひとりが顔を覗かせた。


紅いメッシュの入った黒髪に、女性かと見紛うほどに線の細い顔、パーカーに着流しという今風な組み合わせの彼は、清玄さんの使い魔である犬神の青年だ。


「もう少し眠っていらっしゃると思っていたんですが。起きてしまわれましたか」

「あ、は、はい。ごめんなさい。目が覚めたら清玄さんがいなくて」

「それで探しにいらっしゃったと。香が足りなかったでしょうか。いつもと同じ量を焚いたつもりだったのですが。大変失礼しました。……ご主人様」

「ああ」


 すると部屋の奥から清玄さんが現れた。立ち尽くしたままの私の手を取る。


「私がいなくて驚いただろう。ちょうどいい時間だ。お茶にしないか」


 先ほどまでのものとはまた違う、聞き慣れた優しい声。

 私はホッと胸を撫で下ろすと「はい」と彼の手を握り返した。


「今日の茶請けは黒糖饅頭なんかいいかも知れないな」

「そうですね」


 ふたり並んで部屋へ向かう。

なんとなく視線を感じて後ろを振り向くと、金目の青年と目が合った。


「……ハハ」


 彼は少し気まずそうに眉を下げ、ヒラヒラと手を振った。そのまま赤斑と一緒に部屋に戻っていく。そこで、ふと思い出してあの光る蝶を探した。やはり見間違いだったのだろうか。蝶なんてどこにもいない。


「どうかしたのかい」

「いいえ。大丈夫です」


なんとなく気になりつつも、私は隣を歩く清玄さんに意識を戻した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ