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貸本屋ゆうれい4

 夕方が近くなると、小雨がぱらつき始めた。


 雲は限りなく薄い。夕陽が透けるくらいの空模様だから、通り雨だろうと傘も差さずに金沢の町をゆく。


清玄さんとやって来たのは、金沢に伝わる飴買い幽霊の伝承で一番有名な場所だ。


 金沢市内には、寺社が集まる箇所が三つほどある。ここはその中のひとつで、浅野川の近くにある卯辰山山麓寺院群、光覚寺に繋がるあめや坂だ。かつてここには、道沿いに何軒もの飴屋が並んでいたらしい。その多くが金沢の老舗「あめの俵屋」の暖簾分けであったそうだが、現在その名残はなく、閑静な住宅街が広がるばかりだ。


坂を上りきった先に見えるのが光覚寺。雨で濡れたアスファルトが、鮮やかな夕陽を反射してキラキラと光っていた。


「えっと……飴買い幽霊の伝説が遺っているのは、四つの寺院ですね。ここのお寺には、飴買い幽霊を供養するためのお地蔵さんがあるんですっけ」


 金沢駅で入手した観光ガイドを見ながら、清玄さんに訊ねる。


「ああ。寺の墓地にあるはずだよ」

「よし! 行きましょう!」


 気合いを入れて坂を上る。最悪、代金の回収はできなくとも、あの女性が持ち帰ったままの本だけは取り戻したい。


 あめや坂は結構な急勾配だった。あまりにもキツいものだから、かつて藩政期には、子どもたちが荷車を押して駄賃をもらっていたと言われているくらいだ。あまり運動が得意でない私にとって、この坂を上るのは少々骨が折れた。


「……ひい。しんどい……」


 ようやく坂を登り切り、噴き出してくる汗をハンカチで拭う。


 朝方、金目にも重いと言われたし、ダイエットがてら運動をするべきかも知れない。にゃあさんと一緒にジョギングするのもいい。彼女も、最近はふっくらしてきたから。


「大丈夫かな?」

「うう……清玄さん、余裕ですね」

「私は足腰だけは自信があるんだ」


――体力は年齢と関係ないのね……。


そんなことをつらつら考えていると、遠くに白い人影が見えた。


「ああっ!」


 思わず大きな声を上げる。すると、人影はふらりと建物の影に消えて行った。

 白地の紫陽花柄の浴衣、長い髪の毛。あの女性に間違いない。


「清玄さん!」

「はいはい」


 ちっとも急ごうとしない清玄さんを置いて、私はひとりで駆け出した。


 ――足がガクガクする! ああもう、だらしないったら!


 ダイエットどころか、筋トレを決意して境内を駆ける。寺院内に人影はない。ひたすら女性の姿を追って走って行くと、境内の裏手に墓地に続く階段が見えた。また結構な坂だ。元々、金沢は河岸段丘の町で高低差がある場所が多い。加えて、ここは卯辰山の麓である。全力疾走するには些か難易度が高い。


「はあ、ひい……」


 フラフラになりながらも、木々に囲まれ、少し苔むした階段を上る。

 そうしてたどり着いた先――多くの地蔵が建ち並ぶ場所に彼女はいた。


 大きな木のもとに、地蔵尊が三体並んでいる。苔むしてはいるものの、きちんと手入れされているようで、瑞々しい花が供えられていた。女性は、手にした赤い風呂敷包みを優しげな手付きで撫でながら、なにかブツブツ呟いているように思える。


 この頃には小雨は上がっていた。


雲間から天使のはしごが下りてきて、地上を優しく照らしている。鮮やか過ぎるほどの夕焼けだ。視界が茜色に染まって、長く昏い影が伸びている。


「あの……」


 私が声をかけると、その人はゆらりとこちらに顔を向けた。

 ドキン、と心臓が跳ねた。何故ならば、女性がさめざめと泣いていたからだ。


「よくも……」

「え?」

「よくもまあ、そんな平気な顔をしてここに来られたものですね」


 ――なんだか雰囲気が違う。


 店で感じたような幽霊のような儚さ、おどろおどろしさは消え失せている。その代わりに生者独特の重苦しい空気を纏っていて、見ているだけで息が詰まりそうだ。


 ――それに平気な顔って……どういうことだろう?


首を傾げると、女性は風呂敷包みに頬を寄せて続けた。


「貴女には聞こえないのでしょうね。この場所に渦巻く、愛する子を手放さなければならなかった母の無念の声が。理解できないのでしょうね。懸命に飴でわが子の命を繋いだ母の決意が。故郷を捨て、親を捨て……幽世に紛れ込んだ貴女には」

「……どういうことです? なにが言いたいんですか」


 女性の言葉に、頭の隅がチリリと熱を持った。


 この人は、私のなにを知っていてそれを語っているのだろう。


 そもそも前提が間違っている。私の故郷は幽世だ。生まれが現し世であるのは事実だが、幼かった私自身が選んだことではない。私には幽世の皆に育てられたのだという自負がある。まるでそれが偽りであったと言わんばかりの女性の口ぶりに、顔を顰める。


 不快感を露わにした私を、女性は涙で濡れた顔でぼんやりと見つめた。


「なにが? 貴女に言いたいことは山ほどありますけれど。そうね、そうよね。貴女はなにも知らないのかも知れない。まずはこれを見てもらいませんと」


 そう言うと、女性はゆらゆら揺れながら私に近づいてきた。


 虚ろな瞳。紫を通り越して黒くなっている唇。やつれた頬。幽世で見た時よりも、明るい現し世で見るその姿は凄惨のひと言に尽きて、思わず身構える。


「貴女には知ってもらわないといけないわ。ええ、そうよ。さあ、見て。見て――」


 女性は私の真っ正面に立つと、物悲しげに顔を歪め、大事そうに抱えていた風呂敷包みをするりと解いた。

 ぷうん、一匹の蝿が中から飛び立つ。


「……っ!」


 中身を目にした途端、私はその場に尻餅をついてしまった。


「うえっ、うぐ……うえええ……」


 猛烈な吐き気を催して嘔吐く。視界がチカチカする。目にしたものが信じられなくて、視界がぐわんぐわんと回っている。


 女性が抱いていたのは、赤ん坊の死体だった。

 死んでからかなり経過しているのだろう。変色した体はグズグズに崩れかけ、耐えがたい腐臭を放っている。


 状況がまるで理解できない。どうして彼女は、私にそんなものを見せようと思ったのか。必死に考えを巡らせるも、追い打ちのように告げられた言葉に益々混乱する。


「この子は貴女が殺したも同然」

「どっ……どういう……」


 ――ああ! 早く! 清玄さん、早く来て!


 未だ姿を見せない古狐のあやかしを待ち焦がれながら、少しでも距離を取ろうとじりじりと後退る。彼女は指先でわが子の頬を突くと、感情が死んでしまったような平坦な声で言った。


「この子、冬に生まれたばかりだった。大切に、大切に育んできたのに、ある日突然人間に攫われてしまったの。必死に幽世中を捜し回った。でも見つけられなくて。途方に暮れていたら、あの人が教えてくれたのよ。この子の亡骸の場所を!」


 すう、と女は私の背後を指さした。動揺しつつも、ゆっくりと振り返る。


「え……」


 そこにいたのは、清玄さんだった。


「やあ!」


 夕陽を背に立った彼は、にこやかに手を上げる。


「清玄さん……?」


 驚愕に目を見開く私を、清玄さんはなにも言わずに見つめている。


すると、女性が再び語り始めた。


「私、あの人から聞いたの。貴女が現し世の祓い屋と繋がっていること。貸本屋に潜り込み、あやかしたちを誑かしていること。あやかしの体の一部は、祓い屋に高く売れるんですってね? うちの子も、お金のために攫ったんでしょう」

「なにを言ってるの。私がそんなことをするわけ……」

「嘘を言わないで! 貸本屋で祓い屋の少年を匿っている癖に ソイツを通じて、あやかしを売り渡していたんだわ、なんて女なの!」

「確かに元祓い屋だった子はいるけれど、そんなことは絶対にしていません!」


 水明のことを言われてカッと頭に血が上る。気分の悪さなんて忘れて叫ぶと、その人は青白い顔を醜く歪ませた。


「貴女の言葉なんてなにひとつ信じられるものですか。貴女が私の子を攫う手引きをしたのよ! そこの人がそう言ったの。全部、全部……貴女が悪いんだって。絶対に赦さない。本当はもっと早く殺したかったけれど、あの貸本屋は厄介だった。あそこでなにか仕出かしたら、すぐにでもぬらりひょんにバレてしまうもの。でも……貴女はここに来てくれた。私に殺されに来てくれた! 嬉しい。さあ、殺してあげる!」


 女性は黒い髪を振り乱して叫んだ。にんまりと怪しい笑みを浮かべると、ぷつりと唇が切れて深紅の雫が零れる。


「大丈夫。一番痛くしてあげるわ」


その瞬間、女性の首が浮かび上がった(、、、、、、、、、)。ゆらゆらと首だけ宙に舞った女は、黒い髪を揺らめかせて、ゲタゲタと壊れたような笑いを上げる。


「その首、噛み千切ってあげる! 腸を食らって、そこらにまき散らしてあげるわ!」


 そして、猛然と私に向かって飛んできた。


「ひ、飛頭蛮……」


 慌てて体を伏せる。頭上をものすごい勢いで首が通過していった。ブチブチと嫌な音がして、頭に激痛が走る。髪をいくらか持っていかれたらしい。


 ――なにが一体どうなっているの……!


 女性が飴買い幽霊でなかったこともだが、自分に関するなんの根拠もない噂が衝撃的だった。足に力が入らず、這いつくばるように逃げ惑いながら、状況を静観している清玄さんに視線を送る。彼はゆったりと腕を組んで僅かに微笑みを浮かべていた。


「……っ!」


 ――騙されたのだ。


 それを知って、涙が零れた。水明にあれほど口酸っぱく言われていたというのに、のうのうと現し世にやってきた自分が情けなくて、情けなくて。涙が止まらなくなる。


 同時に、この女性に恐怖を感じていた理由も理解した。

 来店時、女性の視線には明らかな殺意や憎しみが滲んでいたのだろう。鈍感な私がまったく気が付かなかっただけ。後悔ばかりが募る。


「大人しく食われろォ!」


 けれど、私はここで死ぬわけにはいかない。

 飛頭蛮の攻撃を必死に躱しながら、清玄さんとは逆の方向に走り出す。坂を無理矢理駆けてきたからか、下半身がガタガタで今にも転びそうだ。


 脳裏に浮かんでいるのは、大好きな貸本屋の面々の姿。


 ――皆に嘘をついてしまった。謝らなくちゃ……!


 急な階段を駆け下り、墓石の合間を縫って進む。しかし、飛頭蛮はいとも簡単に私に追いつくと、腕や脚の肉を抉ってはゲラゲラ下品に嗤う。


「死ね、苦しめ、逃げ惑え うちの子はもっと苦しかったんだ ギャハハハ」


 ――このままじゃ……!


 体験したこともないほどの激痛に見舞われて、けれども諦めるわけにもいかずに、必死に墓地を駆け回る。体があちこち熱い。出血が酷くて視界が霞んできた。


「やだ……助けて……! 誰か……!」


 これほどまでに自分の無力さを悔やんだことはない。

 私に東雲さんのような力強さがあれば。私にナナシのような薬の知識があれば。

 私ににゃあさんのような妖術を操る力があれば。私に――……。

 彼のような勇気と術を扱うだけの能力があれば。


「水明……! 助けて」


 声を張り上げて叫ぶ。ここに彼がいるはずもないのに、どうしてか頭の中は水明のことでいっぱいで。彼の姿を探して、思わず視線を彷徨わせた。


「ギャッ……」


 その瞬間、狂ったように嗤い続けていた飛頭蛮の声が途切れた。


「えっ? ……う、わあっ!」


 意識が逸れて、足をもつれさせて勢いよく転ぶ。全身をしたたかに打ち、痛みに喘ぐ。

すぐに立ち上がろうとしたが、走り続けていたせいで体が上手く動かない。


 ――このままじゃ食べられる……! でも、もう走れない!


 己を待ち受けている末路を想像して絶望的していると、真っ赤なラインの入った靴が見えた。あまりにも見覚えのある靴だ。無愛想で、不器用な彼が愛用している靴――。


「えっ……」


 思わず顔を上げると、そこには酷く焦った顔で自分を見下ろす水明の姿があった。


「お前! どうしてこんなところにいるんだ!」


 水明は私を抱き起こすと、怪我の具合を確認して苦しげに眉を顰めている。


「あ……わた、私……」

「喋るな。事情は後で聞く」


 彼の毅然とした態度に、こくりと頷く。水明はポーチから薬を取り出すと、手早く私の怪我を手当していった。


「ど、どうしてここに? 金沢だよ?」

「だから喋るなと……まあ、いい。飛頭蛮の子が行方不明になったと聞いて、ぬらりひょんから調査しろと言われたんだ。だが、当の飛頭蛮になかなか会えなくてな。金目に(、、、)この辺りで見かけたと聞いて……そうしたらお前がいて」


 ――金目。


 ズキン、と胸が痛む。頭の中がグチャグチャで、なにも考えられない。小さな頃からずっと一緒にいる大好きな幼馴染み。彼がしたことなんて考えたくもない。


「うう……うううう……」


 水明のパーカーをぎゅうと掴んで、静かに涙を零す。そんな私を、水明は無言で強く抱きしめてくれた。

 その時、墓石の影から黒いものが飛び出してきた。それは犬神のクロだ。


「水明! とりあえず足止めはしてきたよ!」


 長い胴に短めの脚。見慣れた可愛らしい姿にホッと安堵の息を漏らしていると――突然、クロの小さな体が吹っ飛んだ。横から黒い影が襲いかかったのだ。


「ギャンッ!」

「クロッ」


 それはクロよりも二回りほど大きな四つ足の獣だった。色合いはクロと同じだというのに、オオカミのように立派な体躯をしている。突然現れた獣に、水明は素早く護符入りのポーチに手を伸ばす。しかし、直後に大きく目を見開いて動きを止めた。


彼の見つめる先――そこには、清玄さんの姿がある。


「――父さん?」


 その瞬間、ガツンと鈍い音が聞こえて、水明の体がぐらりと傾いだ。

 元々満身創痍だった私は、為す術もなく水明と共に倒れ込んだ。私の視界には、ぐったりと硬く目を瞑る水明と、血で染まった石を手にした――金目の姿があった。


「金目、どうして」


 声をかけるが、金目はスイと目を逸らしてしまった。そこに陽気な声が響いた。


「いやあ、やっと倅を取り戻せた。金目君には感謝しなくちゃねえ」


 清玄さんはニッコリと頬笑んだ後、まるでスイッチが切れたように表情を消した。

そして――動けないままの私の首に手を伸ばす。


「あっ……ぐっ……」

「君にも礼を言わなくてはね。安らかに眠れ。ご苦労様」


 頸動脈を締められ、徐々に意識が薄らいでいく。

私はポロポロと大粒の涙を零しながら――。


 ――東雲さん。ごめんね。


 今まで私を育ててくれた養父に、心の中でひたすら謝り続けていた。


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