貸本屋ゆうれい2
翌日から、私の朝食の準備には誰かが一緒についてくれることになった。皆眠そうだったけれど、手伝いをしてくれたりして、普段より炊事が捗ったと思う。
あの女性がわが家にやってきたのは、三日後のことだ。
その日は現し世でアルバイトがある日だった。他の人とのシフトの兼ね合いで、出勤するのは私と金目。ちょうどいいからと、その日は金目が付き添ってくれていた。
「ふわ……。流石にまだ眠いよねえ」
「ごめんね。無理をお願いしちゃって。はい、どうぞ」
しきりに目を擦っている幼馴染みに、できたばかりの玉子焼きを差し出す。
金目は心から嬉しそうに笑うと、大きな口を開けてそれに齧り付いた。
「美味しい~。僕、玉子焼きの味付けは、ナナシより夏織の方が好きなんだよね」
「おお。嬉しいこと言ってくれるじゃない。ソーセージも食べる?」
「やった。役得じゃん~」
年頃の男の子らしく、朝から食欲旺盛な金目に思わず笑みを零す。そんな私を、目を細めて見つめていた金目は、背後に回ると頭の上に顎を乗せてきた。
「金目、重いんだけど」
「夏織がちっちゃいのが悪いよね。顎を置くのに最適な高さ」
「これから伸びるもんじゃなし、それって不可抗力じゃない」
思わず抗議の声を上げるも、クスクス笑って取り合ってくれない。
「それよりも夏織。ぬらりひょんから海月を預かってたよね。アレどうしたの?」
「ああ……あのちっちゃい子? そうだね、ぬらりひょんがなかなかうちに寄ってくれなくて、まだ返せないままなんだ。今は金魚鉢に入れてあるけど」
ちら、と台所の隅に視線を向ける。納屋から引っ張り出してきた金魚鉢には、ぬらりひょんから預かった海月を放してある。普通ならばもっと気を遣わなくちゃいけないのだろうが、厳密には普通の生き物と違うらしい海月は、餌もあげていないというのに、今日も元気に水の中をぷかぷか浮いたり沈んだりしていた。
「あんなとこにあったんだ。あ、そうだ~。僕いいこと思いついちゃった。夏織にこれをあげよう」
ゴソゴソと懐を探った金目が取り出したのは、何本かの烏の羽根だ。
「え、金目の抜け毛じゃん」
「言い方~! 間違ってないけどさあ」
金目はケラケラ笑うと、それを私のポケットに押し込んだ。
「この羽根を持ってたらいいことあるよ。多分ね」
「ええ……なにそれ。天狗の羽根って御利益あったっけ?」
「あるある。きっとあるよ。なにせ僕の神通力っぽいものが籠められてる」
「アハハ。ぽいって……」
――とん、とん、とん。
金目といつもの調子で話していると、待ち侘びていた音が聞こえてきた。
私は金目と視線を交わすと、ガスを止めてエプロンを脱いだ。店の方に行こうとして、金目が反対方向に向かっているのに気が付いて声をかける。
「どこに行くの?」
「僕は外から回るよ」
にこりと笑った金目は、カラカラとガラス戸を開けて縁側に出ると、ふわりと宙に舞い上がった。金目の姿が見えなくなると、私は大きく息を吐いて気合いを入れる。
――今日こそは!
提灯を手に持ち、ついでに用意しておいた料金表を手にする。つっかけを履いて店の入り口を目指せば、カラコロ、軽快な足音が物音ひとつしない店内に響く。今日は月が綺麗に出ているからか、普段よりか幾ばくかは明るい。幻光蝶の黄みがかった光と、月の青白い光が混じり合って、開店前で冷め切った貸本屋の内部を優しく照らしていた。
「どちら様ですか」
相手はわかっているものの、一応声をかける。
すると、磨りガラスの向こうの人影は、ゆらり、柳の木のように揺れて「本を貸して頂きたいのです」といつもの台詞を放った。
「今、開けますね」
『そんな得体の知れない客、もう二度と店に入れるんじゃない』
その瞬間、脳裏に水明の声が蘇ってきた。
しかし、すぐに首を振って振り払う。
もしも、この人が私に害を為そうとしている某かだったのであれば、今まで少なくとも三回もチャンスがあったはずだ。それをむざむざ無駄にしているのだから、この女性が私になにかをしようとしているとは考えづらい。
「……よし!」
私は気合いを入れると、ガラス戸の鍵を開けた。
からり、戸を開けた途端に温い風と抹香の匂い。その人は、今日も生気がまるでない顔で、赤い風呂敷に入ったなにかを大切そうに抱いて立っていた。
「あの、今日はお話があります」
女性が消えてしまう前にと話を持ちかける。
「実は、お代について相談したいことがありまして――」
慇懃無礼にならないように細心の注意を払いつつ、慎重に言葉を選びながら話し始める。もしかして気分を害してしまうんじゃないかとドキドキしている私を、女性はどこを映しているか判然としない瞳で見つめている。
「これ、貸本屋の料金表です。あの……非常に申し上げにくいんですが、今まで頂いたお代だと、本を貸し出すにはかなり足りなくて」
一旦、女性から視線を外した。
折りたたんでいた料金表を開こうと、手もとに視線を落とす。そして――。
「ひっ!」
思わず、悲鳴を上げて仰け反った。
何故ならば、黒々とした髪の毛が手もとに大量に落ちてきたのだ。
「なに。なにこれ」
ねっとりと脂で固まっている髪を振り払おうとする。けれど、指に絡まってしまいなかなか取れない。他人の髪の毛への嫌悪感で全身が粟立っている。
「取れた」
やっとのことで髪の毛を落とした私は、安堵の息を漏らし――しかし、すぐに息を呑んだ。鼻を摘まみたくなるほどに濃厚な抹香の匂い。あの女性が、知らぬ間に吐息が聞こえそうなほど近くに立っている。
――下駄の音なんてしなかったのに。
耳の奥で、なにか鈍い音が鳴っている。それが己の心臓の音なのだと気が付くまで、数瞬かかった。恐ろしい勢いで鼓動を重ねる心臓は、私の全身から汗を噴き出させる。
――どうしてこんなに恐怖を感じるんだろう?
ふと、疑問に思う。なにせ私は幽世育ちだ。今まであやかしたちとは散々顔を合わせてきた。巨大なあやかしに本能的に恐怖を覚えることはある。けれど、それも相手のことを知るまでのことだ。この人とは何度も会っている。いい加減慣れてもいいだろうに、毎度のように恐怖を覚えるのがどうにも腑に落ちなかった。
怖くて怖くて、顔を上げることができない。うなじの辺りに、肌がひりつくほどに女性の視線を感じる。
「あの……」
深呼吸をしてから、心を奮い立たせて顔を上げる。そこには、漆黒の髪の毛のカーテンの奥で、じいと私を見下ろす女性の顔があった。
「……っ」
言葉を失った私に、女性は引き攣ったような笑みを浮かべた。血が滲んだ色の悪い唇を微かに振るわせて、ささくれだった指で首に巻いていたスカーフの端を掴む。
するり、紫陽花の青色が遠ざかる。現れたのは、首を一周する生々しい鬱血の痕。
「……ひ」
「なにしてんの!」
悲鳴を呑み込んだその瞬間、金目の鋭い声が響いた。
先ほどまでとは打って変わって、素早い動きで女性が振り返った。通りの真ん中で仁王立ちしている金目を見つけて小さく舌打ちすると、脱兎の勢いで駆け出す。
「あっ……待て! こりゃ踏み倒すつもりかも知れないよ! 夏織早く立って!」
「そ、そんなこと言われても……」
正直、腰が抜けそうだった。散々、怖いものを見せつけられた後なのだ。生まれたての子鹿よりも走れない確信がある。
「ああもう! 仕方ないなあ!」
マゴマゴしていると、金目は私をおもむろに抱き上げた。
「ありが……」
「重っ……」
「それは禁句!」
金目は通りの真ん中に出ると、翼を大きく開いた。浮遊感が襲ってきて、たちまち私たちは空へと浮かび上がる。家を出たからか、人間である私に誘われて、幻光蝶がどこかから集まって来た。
ふわり、ゆらり。美しい蝶を引き連れて、上空から逃亡者の姿を探る。
「――あ、あそこ!」
すると、少し先を行ったところにある辻を女性が曲がったのが見えた。
「掴まってて!」
金目はスピードを上げると、辻に向かって一直線に飛んだ。風を切る音が耳もとで唸り、あまりの速さに目を瞑る。その時「あれ?」と金目の拍子抜けしたような声がした。
揺れが収まっている。どうやら目的地に到着したらしい。
そろそろと目を開けると、そこにあったのは暗闇に沈む路地だ。
女性の姿はどこにもなく、辺りを見回してもなんの気配もしない。
「逃げられちゃった……?」
「だねえ」
金目と顔を見合わせて、深くため息をつく。
その瞬間、ドッと疲れが襲ってきた。これぞ骨折り損のくたびれもうけ。脱力感に見舞われていると、そこに聞き慣れない声がした。
「――おや。金目君じゃないか。どうしたんだね」
「……先生!」
途端に金目の顔が輝く。
あまり他人に心を開かない金目にしては珍しいと驚いていると、その人はコツコツと革靴を鳴らしながらこちらへ歩いてきた。
一匹の幻光蝶が気まぐれに寄って行き、件の人物の姿が露わになる。
仕立てのよさそうな英国調のスリーピースのスーツ。糊の利いたシャツに、革靴は磨き上げられていて汚れひとつない。白髪交じりの灰色がかった髪は几帳面に撫でつけられ、柔らかく細められた瞳は、キャラメルを思わせる甘い色。目尻には僅かに笑い皺があり、四十台後半くらいに見える。しかし、醸し出す雰囲気はどこか若々しい。
遠近さんと似たような年齢だが、あの人の薔薇を思わせる華やかさとは違い、彼はどちらかというと寒空に花開くハクモクレンのような凜とした趣があった。やや持ち上がった口もとには、上品で成熟された大人の男の色気を滲ませている。
「こんな早朝から捜し物かね。君も、ぬらりひょんにいいように使われているようだ」
「いえ、今日は違うんですよ。貸本の代金を踏み倒そうという輩がいまして。それを追いかけていたんです」
「へえ……それで、相手を見失ったと?」
「お察しの通りです」
「ハッハ! それは大変だったね」
――誰だろう? 見慣れないあやかしだ。
キョトンとしてふたりの話を聞いている私に、金目がその人を紹介してくれた。
「うちの爺さん……僧正坊の知り合いなんだよ。名前は清玄」
「私はしがない化け狐さ。鞍馬山の大天狗に比べれば、取るに足らない存在だがね」
清玄さんはクツクツと笑うと、私の周囲に舞い飛ぶ幻光蝶を眺めながら言った。
「君は貸本屋の娘さんかな? 金目から噂はかねがね聞いている」
「あ、は、はい。夏織です。金目がお世話になっているようで……」
私の言葉に清玄さんは鷹揚に頷くと、突然、こんなことを言い出した。
「私ね、君たちが捜しているあやかしを見たかも知れない」
「えっ……!」
思わず食い気味に清玄さんを見つめる。
「先ほど、浴衣姿のあやかしが黒縄地獄への門を慌てて潜っていったんだ。こんな早朝に珍しいな、と思っていたんだ。もしかして……」
「そ、ソレです! 黒縄地獄……って金目、北陸方面で合ってる?」
「そうだねえ。北陸に飴買い幽霊の伝承があれば、棲み家が特定できるかも」
「おお、それなら知っているよ。金沢辺りには飴買い幽霊の話が遺っている」
「……」
私は金目と視線を交わすと、清玄さんの手を取った。
驚いたのか、彼はびくりと体を硬くしている。私は興奮を抑え切れぬまま言った。
「よかったら、それを詳しく教えてください!」
「あ、ああ。構わないよ。そうだ、それなら案内がてら一緒に金沢に行こうじゃないか」
「え?」
「金沢の飴買い幽霊の伝承は、複数の寺院に跨がっていてね。口で説明するよりは直接行った方が断然わかりやすい。どうだろう?」
「いや、でも……今日はアルバイトがあって」
嬉しい申し出ではあるが、流石に仕事をサボるわけにはいかない。
すると金目が笑って言った。
「いいんじゃない? 僕が遠近に言っておくからさ。最近、家に籠もりっきりだったから、気晴らしも兼ねて行ってくれば?」
「ええと、いいのかな……。水明が怒るんじゃ」
「水明?」
私の言葉に、清玄さんは軽く片眉を上げると、にこりと優しげな笑みを浮かべた。
「君のボーイフレンドかな。随分と心配性なことだ」
「いっ……いいえ、そういうわけじゃないんですが」
「なら、構わないんじゃないか? 元々出かける予定だったんだろう? そこの金目君が黙っていてくれさえいれば、誰にもバレることはないさ」
「そうでしょうか……」
――あれだけ私のことを心配してくれているのに、なんだか申し訳ないな……。
でも、金沢にも行ってみたい気もする。北陸新幹線開業に合わせてリニューアルした駅舎を、一度くらいは見てみたいと思っていたのだ。
ちら、と上目遣いで清玄さんを見つめる。彼は小首を傾げると、砂糖を煮詰めたような甘い色をした瞳を細めた。
――金目が懐いている人だもん。大丈夫だよね。
私は覚悟を決めると、清玄さんに案内を頼んだ。朝食後に落ち合う約束をする。
「よかった。君との旅路を楽しみにしているよ」
こうして――私は清玄さんと一緒に金沢へと行くことになったのである。




