北のはずれで終わりの続きを5
まるで竜飛で暴風に曝されたのが嘘だったかのように、空はからりと晴れている。茜色に染まった空は遠くから徐々にすみれ色に侵食されつつあった。頬を撫でる優しい風は冷気を伴っていて、徐々に夜の気配を感じさせている。
「うわあ、うわあ! 太宰って本当に芥川龍之介が好きだったんだね」
「そうなの! ノートに落書きした芥川龍之介の似顔絵とか、ひたすら芥川龍之介の名前を書き続けてるページが残ってる」
「そんなものが衆目に曝されるなんて、文豪って存在が悲劇みたいなものですわね?」
「それだけ好きなら、そりゃあ芥川賞に固執するだろうな……。にしても、選考委員の川端康成に刺すだの大悪党だのと……執念がすごい」
「いっそ、清々しいほどだわね。あたし、そういうの嫌いじゃないわ」
私たちは、五所川原市金木にある斜陽館を訪れていた。
斜陽館は赤い瓦屋根の、和洋折衷、入母屋造りの建物で、米倉に至るまで青森ひばを使用した、重厚感はありつつもどこかモダンな建物だ。国の重要文化財に指定され、過ぎ去りし明治期の匂いを感じさせてくれる。
といっても、巨大な黒神と一緒に館内に入るわけにもいかない。
私たちは、黒神に人間に見えないように術をかけてもらうと、斜陽館の屋根の上に並んで座って、夕陽が沈むのを眺めながら、太宰の話に花を咲かせていた。
「太宰にとっては、芥川龍之介は本当に憧れの人だったんだよね。その人の名を冠する賞が欲しい気持ち、わかるなあ……」
しみじみ言うと、話を聞いていたみんなも頷いてくれた。
どうも私が黒神に太宰のことを話しているのを聞いているうちに、彼らまで興味を持ってくれたようだ。クロなんかは、帰ったらおすすめの本を読むと意気込んでいる。私としては嬉しいことこの上ない。黒神のためにと始めたことではあるが、私の〝好き〟が誰かに届いたような気がして、擽ったくも思えた。
「ああ! 今日は楽しかったなあ。悲しかった気持ちがどこかへ行ってしまったようだよ」
黒神も今回の件は満足してくれたようだ。晴れ晴れとした表情は、出会った時と比べるまでもない。
「それはよかったです!」
「夏織、やったね! これって任務成功って言えるんじゃないかなあ」
「そう言っていいでしょう。この晴れ渡った空をご覧なさいな。黒神の荒ぶる心は鎮まったようです。流石は東雲の娘、わたくしが見込んだ通りですわ」
「えへへ……。ありがとうございます」
目に染みるような真っ赤な夕陽を眺めながら、笑みを零す。
しかし、どうにも気持ちが晴れない。目的を達成できた安堵感と同時に、曇天のようにはっきりしない感情が渦巻いている。
「……夏織? どうかしたのか」
すると、そんな水明が声をかけてきた。すぐに私の変調に気が付いてくれたことを嬉しく思いながら、おずおずと黒神を見上げる。
「なにか聞きたいことでもあるのかい? 今日という日に知り合ったのもなにかの縁だ。遠慮なく訊ねてくれて構わない」
「そ、そうですか」
――これを言ったら、機嫌を損ねてしまうかも知れないな。
そんな予感がして、言い淀む。
実は、かの神と半日ほど一緒に過ごしてみて、どうにも腑に落ちない部分があった。
知り合って間もない相手なのだから、まだまだ私の知らない一面をかの神は持っているはずだ。イメージとのズレを感じることは、当たり前にあるだろう。しかし、この部分に関しては、絶対に私の認識とズレるはずがない。なにせそれは、かの神を語る伝説の大前提となるものだったから。なのに、そこに強烈な違和感を感じてしまって困惑していた。勘違いかも知れない。そもそも、そこに私なんかが踏み込んでいいのかも判断つかない。しかし、今このことをはっきりさせておかないと、黒神はこれからも悲しみ続けるのではないかという、根拠のない確信があった。このまま放って置けば、黒神はまた心が潰れそうなほどに追い詰められ、暴風を巻き起こすのだろうと。
――それは嫌だなあ。
知りもしなかった作家の話に、延々と付き合ってくれるような優しい神なのだ。なんとか力になりたい。なってあげたい! 心からそう思う。
だから、私は不安な気持ちを押し隠して言った。
「あの、先に謝っておきます。差し出がましいことだとは、自分でも理解しているので」
こくりと唾を飲み込む。心臓が早鐘を打っている。意を決して口を開く。
「黒神は……もう、十和田湖の女神のことを好きではないのですか?」
その瞬間、ひゅう、と頬を冷風が撫でて行った。
ああ、たったひと言発しただけで、風の勢いが増した。背中に冷たいものが伝うのを感じながら、暁色の瞳をまん丸にして私を見つめている黒神に向けて、続けて言葉を放つ。
「太宰の人生を語るのに、決して外せないのが女性関係です。一緒に鎌倉で入水自殺を図った田部シメ子、内縁の妻であった小山初代、正妻の石原美知子、愛人であった太田静子、共に命を絶った山崎富栄。黒神は女神を他の神に奪われてしまったんですよね? だから、そこの部分を話す時は少しばかり緊張しました。でも……」
じっと黒神を見つめる。風に煽られたかの神の長い髪の毛が、ふわりふわりと宙に遊ぶ。その瞳にはなんの感情も浮かんでいない。私は空恐ろしく思いながらも続けた。
「太宰の恋愛に関する事柄は、あなたには特に響いていないようでした。太宰のことは作家としては好きですが、人としては……受け入れがたい部分もあります。彼の倫理観は、愛する人を奪われたあなたにとっても、赦しがたいものなんじゃないかと思うのですが、予想に反して、簡単に受け入れてしまったようでした」
そう、太宰を取り巻く女性関係のことを話した時、黒神がどう反応するかは正直わからなかった。憤慨され、もうそんな人間の話を聞きたくないと言われてしまう恐れもあったのだ。だから慎重に語った。なのに、黒神はすんなり聞き流してしまった。恋に破れて荒れ狂う神のはずなのに、まるでそのことに興味はないと言わんばかりに。
「黒神のことも色々と教えてもらいましたね。赤神との決闘の時の話も……女神と初めて出会った時のことも。私はそれにも違和感を覚えました。あなたの言葉の端々からは、まるで未練や怒りというものを感じなかった」
夕陽に染まっていた空が、徐々に雲で覆われていく。風が吹き上がり、私たちを中心に渦を巻いた。茜色の空は鈍色の雲に埋め尽くされ、みるみるうちに昏くなっていく。
「だから、私はこう思いました。黒神は、もう十和田湖の女神を想って泣いていないのではないのではないか、と。もし本当に、別の理由なのであれば……私が力になれることもあるんじゃないかと考えたんです」
遠くで雷が鳴っている。雲はあっという間に厚さを増し、気が付けばかなり低い位置で垂れ込めていた。私は、風で巻き上げられた髪を手で押さえながら、けれども黒神の瞳から視線は絶対に逸らさずに言った。
「よかったら、私に話してくれませんか。今日一日、あなたは私の好きな作家の話をたくさん聞いてくれた。本当に嬉しかったんです。だから、あなたの力になりたい」
ひゅおう、と風が唸り始めた。強風に煽られた斜陽館の窓がガタガタ揺れ、今にも割れそうな音を立てている。建物自体が細かく震え、高所にいるのだという現実に気づかされて恐怖が募る。きっと、ここから落ちたらひとたまりもないだろう。けれど、逃げ出すわけにはいかない。
「夏織」
水明に名を呼ばれた。ああ、背中に視線を感じる。きっと、みんな私を心配してくれているのだろう。すると、なにかふわふわしたものが手に触れた。
「好きにやりなさい。あたしがついているから」
背後から聞こえてきたのは、私が心から信頼している親友の声。
途端に恐怖が打ち消え、勇気が湧いてきた。
彼らが傍にいてくれるのならば、なにがあっても大丈夫な気がする。
「ふむ」
黒神は、私をじっと見つめていたが、突然こんな質問を私に投げかけた。
「ひとつ訊ねたい。君から見た僕は、どういう神だと思う?」
予想外の問いかけに面食らう。私は何度か目を瞬くと、少しだけ考えてから言った。
「とても……とても優しい神だと思います。その印象は、初めて会った時から変わりません。まるで凪いだ海のようです。暁色の瞳は、どこか朝日に似ていて澄み切っている。居心地がよくて、もっと話をしたいと思えるくらいに」
嘘偽りない気持ちを口にする。同時に、それが彼の伝承から受ける印象とはまるで真逆で肝が冷えた。お前になにがわかると、怒鳴られても仕方がない。
しかし、その予想は簡単に裏切られた。
ふわりと暖かい潮風が頬を撫でていく。金木は津軽半島のほぼ中央にあり、決して海が近いわけではない。どうして潮の匂いがと不思議に思っていると、天から一筋の光が降り注いできた。驚きのあまり天を見上げると――まるで台風の目のように、私たちの上空だけぽっかりと雲に穴が空いている。そこから茜色の夕陽が漏れているのだ。
「……ふ、ふはっ……」
ゆっくりと視線を下ろすと、そこには必死に笑いを堪えている黒神の姿があった。
かの神は、瞳に堪った涙を指で拭うと、その大きな手を伸ばし――指先で、まるで壊れやすいものを愛でるかのように、そっと私の頬を撫でた。
「それが君から見た僕か。……いいね、すごくいい。君は、伝説に因らない本当の僕を見てくれるのか」
ニッコリと黒神が笑む。
「僕の話をしよう」
すると、黒神がおもむろに口を開いた。
「君の言う通りだ。僕はもう随分前にあの女神のことは吹っ切れているんだよ。正直なところ、顔も忘れてしまったくらいだ」
「じゃあ、どうして……」
「嘆き続けているのか、かい? そうだね、何故だろうね。この胸の中に渦巻く感情を説明するのは、すごく難しいんだ」
沈みゆく夕陽を眺め、黒神はどこかしんみりした口調で言った。
「恐らく、僕が〝黒神〟だからだろうと思う。僕はなにをどうしたって、竜飛岬で嘆き続けるための存在なんだ」
そして黒神は語り始めた。女神が去ってからの長い長い時間を。
涙と葛藤と孤独に満ちた日々の記憶を。
「僕が女神に振られてからの数百年は、そりゃあもう荒れたものだよ。曖昧な態度を取って僕を散々焦らした挙げ句に、決闘に負けた神を選んだ女神を恨みもした。まんまと女神を手に入れた赤神を呪ったことすらある」
すると、黒神は小さく肩を竦めて続けた。
「でも、そんな感情もしばらくしたら枯れてしまった。激情を長く保ち続けるって、結構な努力が必要なのさ。僕にはそこまでの執念はなかった。一目惚れは熱しやすく冷めやすい。つまりはそういうことなんだろう。女神や赤神への恨みつらみが去った後に残ったのは、自分への苛立ち。どうすれば女神に選んでもらえたのだろう。自分のなにが悪かったのだろうっていう後悔の念さ」
黒神は、何年も何十年もかけてそのことについて考えたのだという。
そして、ある結論に至った。武力ばかりに頼って、相手の心に寄り添わなかったのがいけなかったのではないか、と。
「その日から、僕は自分を変えようと試みた。鳥の声に耳を傾けるようになった。水平線の向こうに沈みゆく太陽の美しさを理解しようと思った。魚たちのダンスに目を向けるようになった。赤神を見習って、口調も少しずつ矯正していったんだ。誰が聞いても、理知的なものになるようにね」
――ああ……だから、一番最初に黒神に会った時、赤神ではないかと思ったのか。
黒神の振る舞いは、かつて自分から大切なものを奪った相手を模していたのだ。
「結果、僕はこんなにも変わった。暴力で相手を従わせることもなくなり、自然を、世界を愛するようになった。恋心なんてとうの昔に忘れたよ。自分を取り巻くすべてが愛おしくて、それさえあれば心は満たされていた。これでもう僕は失恋を嘆き続ける神なんかじゃない。この心に去来し続けている悲しみも、いずれ薄れるだろうって――」
びゅうと強い風が吹く。
ぽろり、黒神の暁色の瞳から、大きな水晶のような涙が零れる。
「でも……何年経とうとも、僕の涙が止まることはなかった。竜飛岬には常に風が吹き荒れて、穏やかな日なんて一年の内でそう多くない」
大粒の涙は、風に吹かれるとすぐに砕け散った。夕陽を反射しながら、風に流れていく涙に目が奪われる。
「そこでようやく気が付いたのさ。ああ、僕がどんなに変わろうとも、僕が〝黒神〟である以上は、ずっと嘆き続けないといけない。僕自身の心なんて関係ないんだって。僕は竜飛岬に風を呼び込む役目を持つ神。伝説で語られている通りに、いつまで経っても失恋に心を痛め続ける神なんだって」
神は伝説にある姿から変われない――つまりはこういうことらしい。
人間が創り出し、長年語り継がれてきた物語に縛られ続けている。
伝説がある限りは、無慈悲で残酷な神が、ある日突然、穏やかで恵みをもたらす神に成り代わることはない。人は神を伝え遺された物語で認識する。その認識がひっくり返ることなんて、そうそうあることではないからだ。
黒神自身だってこう言ったではないか。
『神というものは往々にして理不尽で身勝手極まりないものだ』
それだって、神につきまとうイメージ、つまり伝説のようなものだ。
人よりも上位の存在である神は、人間が考えつかないことを、予想もできないスケールで好き勝手やらかすのだと、誰かが考えたものが周知された結果だ。
事実、私も神とはそういうものなのだと認識している。
逆に言えば、自由奔放に思える神もその印象からはみ出る行動はしない。夜万加加智だってそうだ。山の神である彼女は、伝説の通りに女性を〝嫌って〟いる。
「どんなに僕自身が変わっても、津軽海峡を作り出した神であるという事実からは逃げられない。〝今〟の僕は関係ないんだ。竜飛岬の神は、ため息で海峡を作り出し、涙を流しては風を吹かせる……そういうものと伝説に〝定められている〟んだから」
それが悲しいんだ、と黒神は泣き笑いを浮かべた。
「悲しくもないのに、泣き続けるというのは精神的にくるものがあってね。十年くらいは我慢できるんだけれど。定期的に心の中に堪った感情を抑えきれなくなって、必要以上に風を吹かせてしまう。その度に誰かに慰められる。アハハ。僕という存在は、本当に迷惑極まりない。……これも〝神〟らしいと言えるのかも知れないね」
涙を零しながら、どこか諦めたような口調で語る黒神に胸が苦しくなる。
『そうだ、ついでと言ってはなんだが、僕のことも知っておくれよ。伝説に因らない、ありのままの僕を。ねえ、いいだろう?』
『大勢が思う太宰と、君が思う太宰とは違っているのだね』
黒神は伝説上の自分と、現実の自分の差違、そして神であることに悩んでいた。
思い返して見れば、かの神の言葉の端々にその想いや感情が滲んでいるのがわかる。
――ああ。この苦しそうな神様を助けてあげたい。もう少しで、どうすれば本当の意味で慰めることができるか、わかるような気がしてるんだけど……。
私は、悲しげに瞼を伏せてしまった黒神に、重ねて訊ねた。
「ひとつ訊かせてください。どうしてあなたは竜飛岬に居続けているんです?」
「…………」
「今日、あなたは私たちと色んな場所に行きました。別に、あなたそのものは竜飛岬に縛られているわけじゃない。どこにでも行けるのに、どこへも行かないのには理由があるんじゃないですか。心をすり減らしてまで、竜飛岬に留まっているのは何故ですか?」
その瞬間、また黒神の瞳に涙が滲んだ。なにかを堪えるように眉を寄せると、僅かに唇を震わせて……ぽつりと呟く。
「鳥が……」
「鳥?」
「鳥が、僕の起こした風に乗って海を渡るんだ」
初めは気が付かなかったのだ、と黒神は語る。
竜飛岬が、渡り鳥の観察に適した場所であることは、愛鳥家の間では有名な話だ。
本州から北海道、逆に北海道から本州へ渡る鳥たち。特に今の時期は、春の渡りで多くの鳥が行き来する。同時に、それを狙った猛禽類も寄ってくるので、竜飛岬の上空は行き交う鳥たちでとても賑やかだ。
「そんなつもりはなかった。僕が激情に駆られて自分勝手に巻き起こした風だよ? まさか、それを利用するものが現れるなんて、誰が予想するって言うんだい」
黒神の感情の昂ぶりが起こした現象は、いつの間にやら小さな命を運び、それを目当てに集まってくる人々の笑顔を誘った。
「仕舞いには、風力発電までできちゃったんだ。びっくりだよ。ハハ……僕の風が色んなものの営みに組み込まれてしまった。……ああ、生き物って本当に強かだねえ」
だから、どんなに苦しくても、どんなに嘆き続けなければいけないことに絶望したとしても、竜飛岬にいるのだと黒神は語った。
「僕の風はみんなに必要とされている。だから、動けなくなってしまった」
――ああ、やっぱりこの神様はどこまでも優しい。
胸の辺りがじんわりと温かくなる。同時に、目の前にチカチカと火花が散ったような感覚がして、まるでパズルのピースが嵌まったかのように、脳内にあるアイディアが浮かんだ。これならば――伝説に縛られている黒神を解放できるかも知れない!
「黒神!」
私は高鳴る胸に背を押されるように勢いよく立ち上がると、パッと両手を広げた。
「おお、おっと……」
瞬間、風に煽られて体勢を崩しそうになる。
「夏織 んもう、考えなしに動くんだから!」
すると、素っ頓狂な声を上げたにゃあさんが、私の体を支えてくれた。ホッと胸を撫で下ろして、再び視線を黒神へと向ける。かの神は、ポロポロ涙を零しながらも、私を呆然と見つめていた。
「ちょっとこっちに顔を寄せてくれますか!」
「ええ……? なんだい?」
「いいですから。ほら、私が屋根から落っこちちゃう前に早く!」
「…………?」
小首を傾げた黒神は、そろそろと顔を近づけてきた。私はニッと歯を見せて笑うと、その大きな鼻に抱きつく。
ぎゅう、と力一杯抱きしめてやれば、黒神はパチパチと目を瞬かせた。
「黒神ってとってもえらい!」
「はっ?」
更には、続いた私の言葉に面食らったらしい。ポカンと口を開けて固まる。
そんなかの神には構わずに、私は続けた。
「あなたって本当にすごい神様ですよ! 苦しいのに、ずっとずっと……誰かのために頑張ってきた。こんなにも自分を犠牲にしている神様を、私は他に知りません。私が言うことではないかも知れませんが、心からのお礼を!」
「……お礼……」
「あなたの嘆きに、人間を含めた多くの生き物が助けられています。本当にありがとう」
ぎゅう、ともう一度腕に力を籠める。
そして私は、黒神の鼻から体を離すと、暁色の瞳をまっすぐ見つめて言った。
「私、いいこと思いつきました! よかったら、伝説の続きを作りませんか!」
「続き? 一体、なんの伝説の?」
「もちろん、あなたのです! いいですか、黒神の伝説の最後に、こういう風に話を繋げるんです……」
私は両腕を開くと、身振り手振りを交えて話し始めた。
「津軽海峡を作った黒神は、長い時間を経て変わって行きました。心優しく、思慮深い神様に。彼は鳥たちがやってくると、手助けをするために風を呼び込みます。鳥たちは神様のことが大好きで、津軽海峡を渡る前に、お礼に素敵な歌をプレゼントするんです……」
それは、ひたすら悲しみに暮れるだけではない、心穏やかに過ごす「黒神」の伝説だ。
「ご存知ですか。伝説って決して不変のものではありません。言い伝えだって、民話だって……語る者が変わったり、時代が流れれば、その内容が変化していくものなんです。口伝が中心だった時代なんて、混沌としたものですよ。伝え残す媒体が増えた現代だと、時間がかかるかも知れませんが、私は伝説を変えてみせます! 私だけじゃない、あやかしのみんなにお願いして、私の死後もずっと語り続けるんです! そうしたら!」
「僕は嘆き続けなくてもすむ……?」
「そうです!」
私は破顔一笑すると、拳を硬く握って続けた。
「貸本屋の家業とは少し変わりますが、どうか私たちにお任せください。あやかしたちは寿命も長いです。長期計画を建てて、確実に進めていきましょう。どうですか!」
興奮気味な私に、黒神はしばらく黙り込んでいたかと思うと、おもむろに口を開いた。
「……どうしてそんなことまでしてくれるんだい? 僕たちは今日会ったばかりだ」
黒神の意外な返答に、私は一瞬だけ口を閉ざすと、すぐに笑みを浮かべた。
「そんなの。黒神が、今日一日で大好きになったからに決まっているじゃないですか!」
「…………!」
その瞬間、黒神を中心に、息をするのも難しいほどの風が辺りに吹き荒れた。
ガタガタと窓が揺れる音や、なにかが転がる音がして世界が様々な音で溢れる。風は、上空に垂れ込めていた雲を吹き飛ばしてしまった。夕暮れに染まった真っ赤な空が顔を現し、薄暗くなっていた世界を茜色に染め変えていく。風が通り過ぎていくと、途端に世界が静まりかえった。どこから来たのだろう。巻き上げられた桜の花びらが、はらりはらはらとまるで雨のように降り注ぎ、私の視界を彩った。
「あ……」
怒らせてしまったかと、少しだけひやりとする。けれども、それは杞憂であったとすぐに知れた。何故ならば――。
「本当に東雲の言う通りだな。君は本当に可愛らしくて、愛らしい」
目の前の神様が、暁色の瞳に綺麗な夕陽を写して、とてもとても素敵に笑っていたから。
「ぜひともよろしく頼むよ。君の言う、穏やかな神になれる日を心待ちにしている」
ぽろり、その時流れた黒神の涙は、今までのものとは違って、どこか温かみのある涙のように思えた。
***
「……正直、ヒヤヒヤして心臓が潰れるかと思った」
「オイラも……」
「何回か夏織を連れて逃げようかと思ったわ」
「あら、わたくしは夏織さんならやってくれると信じてましたわよ?」
すべてを終え、幽世への帰り道。私たちは見送りに来てくれた唐糸御前と談笑していた。
どこかぐったりしているひとりと二匹に、私と唐糸御前はクスクス笑う。
「ごめんね。心配させちゃったね」
私の言葉に、ひとりと二匹は、それぞれ疲れ切ったように遠くを見つめた。
「夏織がひとりで突っ走るのはいつものことだからな……」
「水明にあんまり心配かけないでよね! 心労でハゲたらどうするのさ!」
「夏織が暴走するのはいつものことだし、これはツルピカになるのもそう遠くないわね」
「みんな、好き勝手言い過ぎじゃない」
思わず抗議の声を上げると、みんなに笑われてしまった。
「仲のいいことで、大変結構ですわね」
そんな私たちを、唐糸御前はコロコロと笑いながら眺めている。
「なにはともあれ、上手く収まったようでよかったですわね。これで、しばらくは黒神も心安らかにいられるでしょう。わたくしの仕事も捗るでしょうし、大変結構ですわ」
唐糸御前は私の手を握ると、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「変えられないものを変えようとする。その手腕、見事でしたわ。ああそうだ。今週末、お時間あるかしら?」
「……? 特に用事はありませんけど……。なにかご用でしょうか?」
すると唐糸御前はにんまりと目を細めると、どこか楽しげに言った。
「半日も太宰の話を聞いていたら、わたくしも興味が湧きましたの。もしかして、宣伝も含めていらっしゃったのかしら。だとしたら商売上手だわ。わたくしも本を読みたくなってしまったの! いくつか見繕って頂きたいのよ。如何かしら」
「ほ、本に興味がなかったんじゃ……」
「わたくしもあなたに変えられてしまったのよ。駄目かしら……」
――こ、これは。上手く行ったら読書友だちが増えそうな予感
なんとも嬉しい言葉に、勢いよく首を縦に振る。
「駄目なんかじゃないです!」
ぎゅう、と力一杯唐糸御前の手を握る。
「幽世の貸本屋で、お越しになるのをお待ちしております!」
その時、私の頬を優しい潮風が撫でていった。春の津軽半島を渡る風はどこまでも暖かい。風はそのまま天高く登って行くと、穏やかな花曇りの空に溶けていったのだった。




