九章
二〇〇八年秋。
磯野りお(当時 磯野笑美)は広島県に住む、ごく普通の大人しい高校一年生だった。当時、彼女は学校でイジメに遭っていた。主犯は同じクラスの、岩佐しのぶという笑美の小学校時代からの同級生だ。しのぶは高校一年の一学期までは真面目な生徒で、笑美とも非常に仲が良く、いつも連んで行動をしていたが、夏休みの期間中に両親が離婚をしたのをキッカケに同じ学年の不良たちと仲良くなり、次第に笑美とも距離を置くようになっていった。
そんなある日の休み時間。笑美が次の授業の準備をしていると、遠くの方から聞き覚えのある誰かを呼ぶ声がした。
「おい!」
―あれはしのぶの声だ。
笑美は瞬時にそう思った。たぶんあたしのことを呼んでいる。そう思ったが、わざと聞こえないフリをして準備を続けた。
「おいエビー、聞こえとんのか!? お前だよ! エービー!」
しのぶとは小学校一年生からの仲だ。同じ『い』から始まる姓で、席が前後だったこともあり仲良くなっていった。それ以降、クラスが変わっても変わらず登下校をしたり、放課後に遊ぶのもいつも一緒だった。それが中学に入ってから、しのぶとの間に徐々に差を感じるようになった。しのぶは常に男子生徒からモテていた。成績も常に上位。中学時代は陸上部で県大会で一位を取るほど運動神経も抜群で、まるで『タッチ』に出てくる南ちゃんのような非の打ち所のない生徒だった。笑美はというと、成績はどんなに頑張っても中の下クラス。運動音痴で、しのぶとはまるで対照的な生徒だった。しかし、しのぶはそんな笑美を見下すことなく仲良く接した。そんなしのぶのことを、笑美はいつしか親友以上の、憧れの存在として見るようになっていた。それが現在では、彼女から『エビ』というあだ名で呼ばれている。しのぶの口調がキツくなっていくに連れ、綺麗だった顔もだんだんとキツくなっていき(といっても美人には変わりないが)、それも笑美にとっては残念でならなかった。
「アンタ、見れば見るほど海老みたいな顔しとんなぁ」
「海老って超ウケるんじゃけどー」
しのぶの素行が悪くなってから一緒に連むようになった、同じクラスの櫻井と石川が、笑美の顔を見てニヤニヤと薄ら笑いを浮かべていた。
「アンタの笑美って名前さぁ『笑う』に『美しい』って書くんじゃろ? じゃあウチらにその美しい顔で笑ってくださいよお」
しのぶがそう言うと、櫻井がいきなり「―はい、サン、ニイ、イチ…」とカウントダウンを始めた。しのぶたちのムチャ振りにどう対処していいか分からなかった笑美は、あたふたと軽いパニック状態になりながら、無理矢理な作り笑顔をして見せた。
「うわ、きっつう」
「ブサイクっす。ブサイク警報発令っす」
たぶんあたしがどんな顔をしても結局は同じリアクションだっただろう。と笑美は思った。
笑美が顔を作る前から、まるで蛙の死骸を見るような顔で待っていたのだから。笑美は至る所から変な汗が出てきた。掛けていた眼鏡が曇るほど赤面しているのが自分でも分かった。
「アンタって、笑っても笑ってなくても普段から海老みたいな顔しとんじゃから、これからは名前も正式に磯野海老に改名せえや。そしたらサザエさんにも出られるけえ、同じ磯野じゃしー」
石川がそう言うと三人は爆笑した。笑美は思わず『サザエさんは磯野じゃなくてフグ田だよ』とツッコミを入れそうになったが、ただ火に油を注ぐ結果になると分かっていたので、それは自分の胸に留めた。周りにいた生徒たちはシカトを決め込んでいるのか、聞こえない振りをして誰一人として笑美を助けようとはしなかった。
「なにそれ、意味わかんない…」
三人に聞こえないくらいの小さな声で呟いた後、笑美は席から立ち上がりその場を離れた。しのぶたちが追いかけてくると思ったがそんな様子もなく、内心ホッとした笑美は教室のドアの手すりに手を掛けた。その時だった。
ガシャーン!!
激しい音がした。思わず後ろを振り返ると笑美の机が倒れていた。その音と共に、今まで騒々しかった教室が嘘のように静まり返る。皆が一斉にしのぶたちの方を向いていた。
「お前調子に乗っとったらシバくでブサイク!」
しのぶの凄んだ声に反抗することなく、笑美はそのまま逃げるように教室を飛び出した。そのまま校内を走り続け、気が付けば体育館横にあるプレハブの仮設トイレの中に入っていた。そして、そこで笑美は泣いた。次の授業を知らせるチャイムが鳴っても、笑美はずっと泣き続けていた。
ちくしょう…ちくしょう…。
しのぶたちにも腹が立ったが、それを見て見ぬ振りだったクラスの皆に対しても、笑美は怒りを覚えた。
―どうしてなんじゃろう…どうしてあたしがこんな目に遭わんといけんのじゃろう…。
悔しかった。悔し過ぎて涙が止まらなかった。悔しくって悔しくって、一時間、泣きながらずっとこの酷い仕打ちを受けた原因を考えた。そして笑美は、一つの結論に辿り着いた。
この顔だ。
一重瞼で目つきの悪い目。そばかすとニキビの跡が至る箇所にある汚い肌。苺のようにポツポツと毛穴の黒ずみが目立つ低い団子鼻。ガチャガチャな不揃いの歯並び。ほぼ無いに等しい眉毛を、隠す様に伸ばし続けている横一線な前髪。エビと呼ばれる顔を隠すためフィルター代わりに掛けている黒縁の大きな眼鏡。昔から笑美は自分の顔のパーツが全て大嫌いだった。
あたしの顔がアイドルのように可愛いければ、もっと明るくて弾けた性格になれたのに。もっと友達だっていっぱい作ることも出来たのに。眼鏡じゃなくてコンタクトにすることだって出来るのに。前髪だって全開に上げることが出来るのに。そしたら…イジメだって遭わなくてすむのに…。
しかし、それが分かったところで事態が解決されるわけもなく、それどころか、日増しにイジメはエスカレートしていった。
自分の机いっぱいにチョークで『マジキモい!! 死ね!!』と書かれたり、体育の授業で整列をしていると、突然後ろから背中を思いっ切り蹴られたり、給食衣を入れる白い袋を机の横に掛けていると、そこにジャムやチョコクリームをわざと付けられたりと、毎日に渡って笑美へのイジメが続いた。そのことを担任の難波先生に相談してみたが、「ただのイタズラじゃろ。みんな磯野のことが好きじゃからそんなことをするんよ。じゃから気にすんな」と、イジメがある事実すら認めない始末。情けないやら恥ずかしいやらで親にも相談も出来ず、笑美のストレスはどんどんと溜まっていく一方だった。
それから一ヶ月が経ったある日の放課後。
しのぶはいつものように櫻井と石川を従え、笑美を体育館裏に呼び出した。
「エビ、ウチらのナップサックよう見てみい」
そう言うと、しのぶたちはボロボロのナップサップを笑美の前へと差し出した。
「ウチらのナップサック、もうこんなにボロじゃけぇ新しいのが欲しいんよ。明日までに売店でこれと同じナップサップを三つ買うてけぇや。もし出来んかったら、ウチらアンタに暴行を加えるけえ…」
笑美はただただ黙って俯いていた。俯きながら、無意識に爪でギリギリと指先の皮を剥いていた。三人はそんな笑美を尻目に、そのままその場から去っていった。しのぶが要求したナップサップとは、体操着や体操シューズを入れるために学校から支給されている用具で、売店で一個五千円で売られている品だ。つまり三人分で計一万五千円。これはもはや立派な恐喝罪だった。
暴行、
暴行、
暴行…。
帰宅してからも、ずっとこの『暴行』という言葉が頭をよぎり、ギュっと笑美の胸を締め付けた。またしても笑美は無意識にギリギリと指先の皮を剥く。今度はあまりに強く引っ掻き過ぎたので指先から血が滲んでいた。でも痛みはあまり感じなかった。笑美にとっては、心の傷の方がずっとずっと痛かった。これといった解決方法が見つからない。どうしよう。夕食に食べた物は全てトイレで嘔吐した。そして、その夜は一睡も出来なかった。
嫌だよ。明日学校に行きたくないよ。
苦しいよ。
助けてよ。
助けてよ。
誰か、あたしを助けて―。
精神的に追い詰められた笑美は明くる日とうとう学校を休んだ。母は、理由も告げず学校を休むと言った笑美を叱るどころか、心配で何度も笑美の部屋まで様子を見に来た。『学校でイジメに遭っている』なんて、正直親には話したくなかったが、母の優しさと自身の心が折れていたのもあって、ようやく笑美は、今学校で起きていることの一部始終を告げた。母は「うんうん…」と最後まで話を聞いた後、笑美に向かい、「明日一緒に学校に行くよ」と言った。
翌朝、母親と一緒にタクシーで学校へと向う。事前に母親から電話で話を聞いていた担任の難波と、生活指導の原が職員室で待機していた。二人はまず今回の一件ついて謝罪をし、その後すぐにしのぶたち三人を呼び出し、イジメの事実確認を、笑美と母のいる前で行った。
「えー別に冗談のつもりでやっただけですよお」
「そうそう。ウチら、ただ磯野さんと仲良くしたかっただけじゃけえ」
櫻井と石川は笑いながらなんとかその場を取り繕っていたが、しのぶはというと、終始つんとした表情でずっと外のグラウンドを見ていた。笑美の母としのぶはお互いのことをよく知っている。小、中学時代に何度も笑美の家に遊びに来たりしていたからだ。しかし、気まずいためか二人が会話を交わすことはなかった。
―嘘だ。こいつらの言っていることは全部が嘘だ。ママ、先生、お願いだから信じないで。
笑美は抜け殻のような弱々しい声で「…あの時のナップサップは?」と三人に尋ねた。
「え? あぁ、あれも冗談じゃ。ホントに買って来いなんて言うわけないじゃろう友達に。なあ?」
「そうそう」
三人は示し合わせたように同調した。
「でもそれで磯野さんを傷付けてしまったんなら謝るわ。本当にごめんな。磯野さん、これらもずっと友達じゃけぇ仲直りしよ?」
しのぶは何度も友達という言葉を強調した。先生の前で反省している様見せかけるため、三人は深々と笑美に頭を下げた。
「―そしたらこれで喧嘩は仲直りじゃな? 三人共反省してるし、磯野、どうじゃろう? もう許してやったら」
「え…」
笑美は思わず声を詰まらせた。
何これ? これで終わり? これじゃあまるであたしが悪いみたいじゃない。違う。違うよ先生。あたし喧嘩なんてしてない。これは一歩的なイジメだって何で分かってくれないの?
「お母さん、これで仲直りが出来ましたんで安心してください」と難波が言った。家ではあれだけ威勢が良かった母も、教師の前ではペコペコして大人しかった。しのぶたちが職員室から出て行った後、難波は笑美の肩をポーンと叩き「これでもう安心じゃな」と告げた。
こいつらはみんな分かってて嘘を演じてるんだ。教師なんてみんな、自分の、学校の保身のことしか考えていない。所詮、生徒の優劣なんて容姿や成績の良い奴で決めてるんだ。あたしなんかより態度が悪くても、美人で成績の良いしのぶの方をとるんだ。生徒のことを平等に思いやる教師なんて、映画やドラマの中でしか存在しないんだ。
大人たちのとった自己満足な解決方法のせいで、笑美へのイジメは沈静化するどころか、逆に学年全体へと範囲を広げていった。
一週間後の昼休みの教室。
しのぶはクラスの皆に向かって『エビはチクリ魔』と、先日職員室で起こったことを、笑美にも聞こえるほどの大きな声で話し始めた。しかも、その内容は明らかに自分たちを正当化した内容になっていて、まるでイジメを受けた笑美の方が加害者のように扱われた。共犯である櫻井と石川も、他の教室にわざわざ出向いて同じように噂を撒き散らした。どうやらあの後、三人は用意周到にこの計画を練っていたようだ。しのぶたちの計画は見事にハマり、それ以降、学年で笑美と口を聞く生徒は誰一人としていなくなった。それでも笑美へのイジメはなくなることはなかった。気が付けば頭部には十円玉ぐらいの大きさの円形脱毛が出来ていた。
一ヶ月後。
笑美は、父親の部屋に置いてあった型の古い携帯ラジオを学校に持って来るようになり、休み時間になると、ずっとそれをイヤフォンで聞いて外部との交信を遮断した。
『とうとうエビがキチガイになった』と、学校中で気持ち悪がられる存在に認定され、それ以降、笑美のそばには誰一人として近寄らなくなった。家に帰ってもずっと部屋に引き篭るようになり、とうとう最後まで味方だった家族との接触も避けるようになった。そして、新たに始めた裁縫をしながら、夜中の三時頃まで毎日のようにラジオを聞き入っていた。
その日もいつものように深夜ラジオを聞いていると、そこに初めて聞く綺麗な歌声がスピーカーから流れてきた。裁縫をしていたその手は、いつしか手を止めてその歌声に聞き入っていた。
―これって誰が歌っとるんじゃろう?
そう思った直後だ。激しい雑音と共にその歌声がかき消された。もともとこの地域をカバーしていない放送局だったため、この手の雑音はしばしば起こる。笑美はラジオを振ったり、アンテナを動かしたり、チューニングのつまみを少しずつ微調整してみたが、聞こえてくるのは他局の落語放送や、何処の国かも分からない講座番組だけだった。
そうだ!
外に出れば少しはマシになると思った笑美は、ラジオを持って外のベランダへと出た。すると、さっきの女の人の声が微弱ながらもラジオのスピーカーから再び聞こえ始めた。
『はい。先週…ザー…になりました。佐々木りおの新曲でむ…ザーザー…でしたあ』
佐々木りお?
雑音の中だが、確かにそう言ったのが聞こえた。それが、初めて笑美が『佐々木りお』の存在を知った瞬間だった。この出会いが後の彼女の人生を大きく変えることになっていく。当時、笑美は彼女のことを一切知らなかった。
ラジオが終わって寝床に就いてからも、さっき聞いた歌声が頭から離れなかった。たまらず笑美はベッドから起き上がり、『佐々木りお』という名前をネットで検索した。そして、そこで見た彼女のプロフィール写真に絶句をした。それは、幼い頃から思い描いていた、笑美の理想とする顔そのものだった。幼稚園の頃に『しょうらいのじぶん』というタイトルで絵を描いた時のことだ。周りのみんなは『サッカー選手』や『ケーキ屋さん』といった、なりたい職業を描いている中、笑美だけが何かに取り憑かれたように、自分の理想の顔を描き続け、それに納得がいかず、何度も何度もスケッチブックをグシャグシャに破り捨て書き直していた。そんな幼少期の頃から、ずっと頭の中で思い描いていた理想の顔が、今、自分の目の前で微笑んでいるのだ。
キレイ…。
思わず笑美は口をこぼした。そういえば、これに似た衝撃が前にも一度だけあった。それはしのぶと初めて出会った小学校の時のことだ。
なんてこの子は可愛いんじゃろう―。
しのぶのことは今では大嫌いだが、あの時の笑美は間違いなくそう思った。でも今回はその何十倍、いや何百倍もの衝撃だった。
翌日の日曜日。笑美は起床して直ぐに自転車で近くのCDショップへと駆け込んだ。
昨夜はずっと、あの後朝方まで佐々木りおについて調べ倒し、彼女が出ていた全ての動画を見漁った。ウィキペディアに書かれていた情報では、彼女は歌手の他に女優としても活動をしており、過去にはNHKの朝の連続テレビ小説『ピカピカ』の主演や、観たことはなかったが、名前だけは聞いたことのある有名な映画やドラマにも多数出演をしていた。子供の頃からピアノやダンスを習っていたことから、CDもリリースしていて、昨日ラジオで流れた曲は、先週発売されたばかりの『結』という新曲だということが分かった。CDの中に入ると、店頭のすぐ目に止まる場所に佐々木りおのCDが平積みになって置かれていた。手にしたジャケットの写真を眺め、やはりキレイだと笑美は改めて思った。笑美は、今まで貯めていた貯金を叩き、過去に発売されたアルバム一枚、新曲の『結』を含むシングル五枚をまとめて購入した。
家に帰るとすぐに笑美は買ったCDを全て開封し、歌詞カードの中に写った佐々木りおの写真をまじまじと眺めては何度もため息をついた。顔の全てのパーツが完璧に整い過ぎていて非の打ち所がなかったからだ。ラジカセから流れてくる彼女の歌声も、ラジオで聞いた時よりもさらに透き通って聞こえ、そして何よりも上手かった。
同じ女性のはずなのに、あたしとは全然違う。『天は二物を与えず』って言葉があるけど、あたしの良い物を全て彼女に持っていかれてるんじゃないだろうか…。笑美は人生の不公平さを恨んだ。それと同時に、彼女の中で『死』という選択が頭をよぎった。前に担任の難波が、クラスの皆に向かって『死ぬ気で頑張ればなんでも出来る』って言ってたけど、死んで生まれ変わるぐらいのことをしないと、到底佐々木りおみたいにはなれない。そう思った。
でも実際に、死ねない。
死ぬのは怖い。恐ろしい。
でも彼女のようになりたい。
少しでも彼女に近付きたい。
佐々木りおになりたい。
笑美はその日、悶々とそのことばかりを考えた。
そして夜が明けた―。
次の日から笑美は、インターネットの動画や、ドラマや映画に出ている佐々木りおを全て観察し、彼女の喋り方や仕草や癖などを全て真似るようになった。更に、彼女がパーソナリティをしているラジオ番組にも毎週数十通とハガキを投稿した。高校生活も二学期が終わると同時に中退し、その後はカラオケ店のホールスタッフのアルバイトをしながらお金を貯め、過去に発売していた、佐々木りおに関連する全ての雑誌、写真集、ドラマや映画のDVDをネット通販を使って購入をした。
学校で起きたイジメから、一切人との関わりを絶っていた笑美にとって、接客業は苦痛以外の何者でもなかった。しかし、笑美は目的遂行のために働いた。常にマスクをしたまま仕事をしていたが、三ヶ月が経った頃には少しずつ店長や他のアルバイト従業員に心を開くようになり、たわいもない会話くらいはするようになった。しかし、相変わらず両親との会話は全くなく、家に帰るとずっと部屋に引き籠り、佐々木りおに囲まれた生活を送り日々を過ごした。
そして、それに関連するアイテムが徐々に部屋を占領するようになってくると、次第に笑美はこう思うようになっていった。
この顔も…りおちゃんのようになりたい―。
どんなに声や仕草が似てても、肝心の容姿が佐々木りおでなければ意味がない。でも笑美自身、美容整形には正直抵抗があった。整形手術が当たり前のようになっている今日だが、やはり自分自身の顔に針(注射)や刃物を入れるのはとても怖かったのだ。しかし、彼女はこう解釈するようにした。
これは整形ではなく『変身』なんだ。
整形は、ただ純粋に綺麗になるため部位を整える行為であって、あたしの場合とは違う。あたしは身も心も全てりおちゃんのようになりたい。変身をして、りおちゃんみたいに生まれ変わりたい。だからこれは変身をするための儀式みたいなものなんだ。磯野笑美は死んで、それから佐々木りおに変身をするんだ。と。
さっそく笑美は、歯列矯正を試みた。りおちゃんみたいな笑ったときに見せる、綺麗な歯並びにするためには、今の歯並びを綺麗に整えなければならない。ただそれには長い時間がかかる。そう考えた笑美は、今のうち悪い歯並びを整えようと考えたのだ。幸い、常にマスクをして生活しているので、歯列矯正を行っても周囲にバレることはなかった。そしてその頃には、話し方や立ち振る舞いなど。容姿と歌と演技以外は全て佐々木りおの完コピが出来るようになっていた。迷いがなくなった笑美は目標に向かい一心不乱に働いた。笑美が不満を言わないのを良いことに、バイト先の店長は、病欠等で休んだ他の人の穴をどんどん笑美で埋めていった。それでも愚痴一つ言うことなく、笑美は無我夢中で働いた。
『佐々木りおになる』
ただその目的のために。
そんなある日のこと。バイト先に男子が入ってきた。私立大学の二年生で名前は高瀬羊吾。茶髪のサラサラヘヤーが特徴的な好青年だ。誰に対しても気さくな性格で、すぐに他のアルバイト仲間たちとも打ち解けていった。もちろん笑美に対してもその態度は変わらず、いつも高瀬の方から優しく話し掛けてきてくれた。働く時間帯が同じで顔を合わす機会も多く、今まで男の人に優しくされたことのなかった笑美は、どんどんこの青年に惹かれていった。
―でもどうせあたしなんてブス相手にされるわけがない。
そう思って、どんなに笑美が壁を作っても「今日も忙しかったな」なんて、まるでアニメの主人公のような爽やかな声で話しかけられると、いとも簡単にその壁は崩壊した。今まで稼いだお金は、佐々木りおに変身をするための貯金と、彼女に関するアイテムにしか使わなかったが、高瀬が現れてからは化粧品や洋服にもお金を使うようになった。しかし、高瀬のことを考えれば考えるほど一つの悩みが笑美を襲った。
もしこのまま高瀬さんを好きになっていって、この先、万が一にも彼とお付き合いをすることになったなら、『佐々木りおに変身をする』という目的が薄れてしまうかもしれない。
まだ付き合えたわけでもないのに、笑美の妄想は日増しに膨れ上がっていった。
平日、日中時間のホールでの仕事は基本三名体制で行う。初めは客室の清掃や、ドリンク、フード等を運び、慣れてくると簡単な調理やカクテルを作ったりもする。その日のメンバーは、笑美と高瀬、そして笑美と同い年のフリーター瓜生華子の三人だった。この中で一番バイト歴の長い瓜生が、経験の浅い高瀬とペアになって行動をとる。残った笑美は二階のパントリーで一人待機をして、オーダーされたドリンクやフードが二階へと上がって来たら、それを客室まで運ぶ。という役回りだった。
まだ調理をしたことがないという高瀬に、瓜生が自ら作り方を実践しながらそれを繰り返した。ここのカラオケ店は、午後二時の開店時間直後はオーダーが引っ切りなしに来るが、三十分を過ぎると、ほぼスローペースで十分に一度くらいしかオーダーが入らなくなる。そしてまた四時を過ぎると、今度は学校を終えた学生が来て、また忙しくなるというのがいつものペースだ。
普段はそのスロー時間を利用してまかないが出てくるはずなのだが、この日はいつまで経ってもその連絡が来ない。時間はすでに三時を過ぎている。心配になった笑美は一階のキッチンに様子を見に行った。
そこで目にした光景に笑美は言葉を失った。高瀬の膝の上に瓜生が乗り、それぞれ自分の携帯電話を弄っていたのだ。笑美の存在に気付いた瓜生は、悪びれることなく逆に「磯野さんも上に乗る?」と聞いてきた。笑美は頬を真っ赤にさせ、俯きながら奥のトイレの方へと駆けた。しばらくトイレの中で気持ちを落ち着かせ、キッチンをスルーして再び二階のパントリーへと戻ると、さっきまで一階の厨房にいた高瀬が座っていた。
「なんか今度は、磯野さんにお酒の作り方を教わって来いって、店長に言われちゃって…」
高瀬はそう言うと、さっきのことについては何も触れず、ポケットからメモとペンを取り出した。とはいっても、この時間帯にお酒なんて飲むお客さんなんて滅多に来ないし―。多分これはきっと、遊んでいた二人を引き離すために作った店長の口実なんだろう。と笑美は察した。とりあえずお酒のオーダーが来るまでは、それぞれ別々に業務を行った。しかし、またオーダーが止まって暇になっても、二人は同じ室内にいても何も話さず、ただ沈黙の時間だけが流れた。
「―磯野さんって今年齢幾つなんですか?」
先に沈黙を破ったのは高瀬だった。高瀬は携帯電話を弄りながら笑美に尋ねた。
「…十六です」
笑美が答える。
「じゃろうなあ…最初、アルバイトしてるから二十歳くらいかなぁって思ったけど、磯野さん、全然そんな年齢に見えんから…」
高瀬は笑いながらそう言ったが、ずっと目線は携帯電話の方を向いたままだ。一方笑美の方はというと、チラチラと横目で何度も高瀬のことを繰り返し見つめていた。
「あ、ということは高校行きながら働いとるん?」
そう言いながら、高瀬は笑美の方へと顔を向けた。何度も高瀬を見つめていて思わず目が合ってしまった笑美は、咄嗟に下を向き答えた。
「…高校はこの間辞めました」
「あ、ごめん。そうなんじゃ…。でも理由とか聞かないから安心して。―でも、磯野さんも年下かぁ…。ウリちゃんといい、ここでの仕事、今んトコ年下にしか教わってないわあ俺…」
「やっぱり…嫌ですか?」
「いや、そうじゃないんじゃけど…。やっぱり俺が教える側にならんと格好悪いからなあ」
高瀬はポリポリと眉間を掻き答えた。その直後、ガガガガ…と音を立て機械から注文を告げ紙が出てきた。そこには『カルーアミルク×1』と『カンパリオレンジ×1』と記載されている。
「おっ、やっと酒の注文が来たわ。じゃあ磯野ちゃん、作り方教えてえや」
いつの間にか笑美への呼び方が『磯野さん』から『磯野ちゃん』に変わっていた。ただそれだけのことだが、なんだか少しだけ二人の距離が縮まったように笑美は思えた。
それから数時間が経つ頃には、高瀬はすっかりカクテル作りに慣れ、今日一日で何も見なくても数種類のお酒を作れるようになっていた。
「お疲れ様でしたぁ!」
遅番と呼ばれる、夜八時からクローズまで働く人たちが出勤してくると、笑美も高瀬もタイムカードを切り仕事を終えた。お店の裏口にある自転車置き場まで二人で一緒に帰る途中、外からはパトカーのサイレン音が聞こえてきた。ドップラー効果でサイレンの音が低くなり、やがて音が過ぎ去った後、高瀬の方から口を開いた。
「磯野ちゃん、今日はありがとう。磯野ちゃんのおかげで、楽しくお酒を作ることができたわ」
「…高瀬さんの物覚えがいいだけですよ、きっと」
「もちろんそれもあるだろうけど」
そういうと、高瀬はまた爽やかに微笑んだ。
「じゃあ…また明日」
高瀬はそう言うと、停めてあったマウンテンバイクに跨り、去り際笑美に向かってこう告げた。
「あ、俺のこと、高瀬さんじゃなくって、羊吾でええよ」
「…羊吾…さん」
「ほんじゃ、お疲れー」
そう言うと、高瀬はそのまま去っていった。
―お疲れ様でした…。
もういない高瀬に向かって笑美はそう呟いた。そしてしばらく、その自転車の去った方向を何かを思いながらじっと眺めていた。
二〇〇九年四月。
アルバイト先でクローズ後、今月の目標達成と親睦会を兼ねた飲み会が行われた。普段はそういうイベントに誘われてもいつも断っていたが、高瀬羊吾がその飲み会に参加するという情報をキャッチした笑美は、初めて飲み会というものに参加することにした。店長の乾杯の音頭で会が始まると、皆各々自由に席を行き来していた。が、笑美はずっと同じ席でアイスウーロン茶を口にしていた。するとしばらくして「隣ええかな?」という爽やかな声が聞こえてきた。声の主は高瀬羊吾だった。笑美は何も言わずコクリとだけ頷くと、視線を再びウーロン茶へと戻した。
「さっきから磯野ちゃん、全然誰とも話しとらんけど楽しくないの?」
高瀬が尋ねると、笑美は無言で首を横に振った。
「…何飲んどるん? ウーロンハイ?」
高瀬の新たな質問に、またしても笑美は無言で首を横に振る。
「もしかして普通のウーロン茶? ウッソ? 磯野ちゃんってお酒飲めないんだ?」
「―まだ未成年だから…」
しばらく間があってから笑美はそう答えた。
「いや、でもちょっとぐらい飲んでも分から…ん? あれ? もしかして磯野ちゃんって歯、矯正しとるん?」
高瀬が上着のポケットから煙草を取り出しながら尋ねた。
―しまった。ウーロン茶を飲んでいたことでマスクを外したとこまでは良いとしても、突然そのタイミングで話しかけられ、それに驚いたこともあって思わず口を開いてしまった。しかもよりによって、一番見られたくない人に見られてしまうとは。
笑美はこの飲み会に来たことを本気で悔やんだ。そして、矯正していることへの恥ずかしさから、大きく体を震わせた。
「おい? ちょっと磯野ちゃん、大丈夫?」
高瀬が慌てた様子で尋ねたが、笑美の震えは止まらない。そこに一人の女の子が現れ高瀬に声を掛けた。
「ねぇ羊吾ー、どこ行っとんの? なぁ、向こうの席に戻って飲もうよお」
その声は瓜生だ。笑美は思った。
「ん? どしたん? なんかあったん?」
瓜生が笑美をチラリと見ながら高瀬に尋ねた。
「いや…俺が、磯野ちゃんって矯正してるん? って聞いた後からずっとこんな感じになっちゃって…ごめん。俺なんか磯野ちゃんに気の障ること言った?」
「羊吾ーもう放っときなや。この子すげぇ性格暗いし…『ていうか、歯並び良くする前に直すトコもっとあるっしょ』」
瓜生が高瀬に耳打ちをしてヒソヒソ声でそう言った後、震えている笑美を見てクスクスと笑った。しかし、瓜生のもともとの地声が大きいため、笑美には瓜生が何て言ったのか一部始終聞こえていた。それは、ブスだと分かっている人間が歯を矯正をした際に絶対に言われたくない一言だった。瓜生はギャル系の容姿でずっと高瀬を狙っていて、この飲み会を機に一気に高瀬との距離を縮めようと計画していたようだ。実際に瓜生はこの日、胸を大きく開いた服を着て来て、その後もずっと高瀬の隣の席を占領していた。そして飲み会後には、二人して同じ自転車に乗って帰って行くのを見たという証言がバイト内で噂になり、それが原因で高瀬は程なくして店を辞めた。彼の連絡先も知らない笑美は、その後彼と連絡を取ることも出来なかった。
―こうして笑美の初恋は、瓜生によってあっけなく幕を下ろした。
それからしばらくして瓜生は、仕事中に揚げ物をするフライヤーの油から炎が燃え上がり、顔半分に大やけどの重症を負う。それが事故なのか、事件性によるものなのかは最後まで分からなかった―。
佐々木りおが殺害されるまで、残りあと、六ヶ月。




