八章
動かした本棚を元の場所へと戻し、落ちているCDや雑誌等も全て元の状態に戻し終える。神崎はりおを抱き上げベッドの上へと寝かせた。自分の最愛の人たちを殺した殺人者を見つめながら「さぁ始めようか」と呟く。そしてあの舞台。『Baku』の舞台上での台詞をりおに向かって吐き出した。神崎の顔が見る見るうちに悪魔のような表情へと変貌する。
『あなたは自分の夢を叶えられなかった負け犬だ』
『あなたは自分の夢から逃げたんだ』
「ちがう…」
りおは小さな声で寝言を言う。
『どんな理由があっても、あなたが逃げたことには変わりはない』
「ちがう…」
『あなたは戻る場所もない。戻ってもあなたの場所なんてどこにもない』
「ちがう…」
『あなたは自分から逃げたんだ』
「ちがう…」
『これが本当のあなただ…本当のあなただ…本当のあなただ…』
「ちがう…ちがう…」
薄暗い部屋の中。りおは何度も何度もその言葉を連呼する―。
※
二〇〇九年十月二十六日。
佐々木りおが遺体で発見された当日。舞台『Baku』の千秋楽をどうするか、役者関係者を含めた会議が進められていた。神崎は関係者の一人としてその会議に参加をしていた。
「本当に申し訳ありません…こんなことになってしまって…」
神崎は関係者の前で深々と頭を下げた。
「いや。マネージャーさんのせいではないですよ。むしろこんなことになってしまって…僕らもなんて言っていいのやら…」
演出家の宇都宮が右手で髪の毛をクシャっと掴みながら答えた。
「でも…主演の一人がいないんだから、残念ながら千秋楽は中止せざるを得ないな…」
プロデューサーの青木が携帯電話を片手にそう答えた。スポンサー関係者に片っ端から電話をしているようだ。舞台監督やスタッフや出演者たちも、状況が状況だけに公演中止を覚悟していた。
「―あの…」
そこに一人の女優が耳の辺りまで手を上げ発言をした。小澤椿だ。椿は大勢の前だからなのか、これから発言する内容への反論が怖いのか、緊張した面持ちで声を震わせて答えた。
「こういう状況だから、皆さんの心境を察すれば舞台は中止するのが最善なのかもしれないけど…でも、こういう状況だからこそ…お客様のために千秋楽をやった方がいいんじゃないでしょうか…?」
椿の発言に、皆が騒つき始めた。中には『何言ってんだこいつ』と言いたげな表情で見ている者もいた。もちろん椿自身も反論されるのは覚悟していた。メインキャストじゃない、ダブルキャストの一役者が出過ぎた真似をしているのは本人も重々承知していた。でも彼女は勇気を出して発言をした。りおが殺されたという報告を聞いたときから、その覚悟はとうに出来ていたのだから。
「―でも、りおちゃんの台詞なんて誰も覚えていないだろうし、急遽代役をお願いするのも…。仮にプロンプや小道具にカンペを仕込んだとしても、芝居のクオリティーは当然下がるだろうし、ダンスだって、段取りだってあるし…」
宇都宮が弱気な口調で答える。
「―私覚えてます」
強い口調で椿が言った。
「私、りおちゃんが演じたゆうの台詞、ダンス、段取り、全部覚えてます。だから一回本番前に合わせてもらえればなんとか出来るはずです。本来の私の役はダブルキャストの河野佳子ちゃんにやってもらいます。今日が千秋楽だから、彼女今日現場に来てますよね?」
宇都宮は頷くもまだ迷いがあるのか、腕を組み、口を真一文字にして考えこんでいる。
「お願いします! 亡くなったりおちゃんだって絶対にそれを望んでるはずです。私死ぬ気で頑張りますから、どうかお願いします!」
椿は深々と皆に頭を上げた。
そんな椿を見て、共演者たちも『やりましょう』と、心はすでに本番に向かう空気になっていた。プロデューサーとしては続行してもらった方が当然ありがたいので、青木も「やりましょう」と宇都宮や舞台監督の肩をポンポンと叩く。
「―分かりました。よし、やりましょう!」
まるでお祭り騒ぎのような雰囲気で皆各々の仕事場に散る。青木は舞台決行をスポンサー関係者に連絡をとり、役者は本番まで椿と合わせ稽古をしていた。
誰かが言った言葉が聞こえた。これはりおの『追悼公演』だ。と―。
りおは事故や病気で死んだんじゃない。殺されたんだ。そのことを忘れ、追悼公演と銘打って舞台を決行しようとしている奴らのご都合主義。身勝手な判断を、神崎は心の底から許せなかった。
その後、この『追悼公演』を無事成功させた小澤椿は、翌日佐々木りおの事件と併せて各局のテレビで取り上げられ、一躍『時の人』となった。そして、年老いて他界するまで数々の賞を受賞する大女優となっていくのだが、それはまた、別の話―。
※
二〇一三年十月。
その日は朝から小雨が降っていた。駅前で傘をさし足早に歩きながら、神崎は背広のポケットから携帯電話を取り出し電話を掛けた。『もしもし?』男がその電話に出た。
「兄貴、どう? チラシ配りの調子は?」
電話の相手は、兄の神崎正哉だった。
『あぁ、今日のこの雨じゃあ通行人も少ないからあんまり成果はないなぁ。チラシもらってくれる人も少ないし…』
「今駅に到着した。ごめんな、前の現場が長引いちゃって」
『大丈夫だよ。俺、今日非番だから』
「本当に悪い。もうすぐそっちに着くからあと少し頑張ってくれ」
『あぁ分かった。じゃあ、終わったらなんかご馳走してもらわないとな…』
その直後、突然通話の音声が途切れた。
「ん? もしもし? もしもし?」
直哉が何度も呼びかけるが一向に返事がない。
「おい兄貴? どうしたんだよ? おい…兄貴?」
最初は電波の問題かと思ったが、徐々に心配になった直哉は語気を強めた。しかし、相変わらず返事はない。しばらくすると、そのまま通話が途切れてしまった。直哉は正哉がチラシ配りをしている現場へと走った。
五分後。
現場に辿り着いた直哉はその場に立ちすくんだ。あの場所で、りおが殺された全く同じ場所で、同じように血だらけの状態で正哉は倒れていた。喉元にはあの時と同じように裁ち鋏が真っすぐに突き刺さっている。犯人はすでに逃走をしており、辺りには誰もいなかった。直哉は必死で正哉に呼びかけるが反応はない。気が付くと、正哉の足元にはさっき通話で使った携帯電話が落ちていた。
『殺害現場は現状維持のまま絶対に触れてはいけない』そんな鉄則を思い出したが、実際にその当事者になると、そんなことなどどうでもよかった。
直哉は落ちていた携帯電話を拾い上げると、あることを閃いた。それは自分の人生を転換しなければならない重大な選択だった。だが直哉に迷いはなかった。持っていた自分の携帯電話をわざと雨に濡れた地面に落とし、その後正哉の内ポケットに入っていた財布を自らの財布と交換した。神崎直也はこの日から、神崎正哉として人生を生きることを決めた。その方が警察官として行動が出来るので、犯人探しがし易いと考えたのだ。幸い、正哉の妻の律子も警察関係者で、直哉とも仲が良かったので、彼女を騙すのは容易だった。警察内部の事情も律子からさりげなく聞くことが出来た。直哉(正しくは正哉)が殺されたショックで軽度の記憶喪失になってしまったと話しをしたら、律子は快く全てを教えてくれたのだ。
一つだけ約束して。
例え私が死んでも、好きな人は出来てもいいから、その時計は絶対に外さないで。そうすれば私ずっと、あなたの中で生き続けるから―
誕生日プレゼントにりおから貰った腕時計。そこで言われたいつもの彼女のワガママ。でも今は本当に、彼女が自分の中で生きているような感覚にさえなる。りおと兄貴ともう一人…三人目の犠牲者も自分の中で…。
※
これが本当のあなただ―。
―コンナノワタシジャナイ!!
奇声に近い叫び声を上げたと同時にりおは目を覚ました。
すぐにベッドから起き上がったりおは、少しずつ慣れてきた目でゆっくりと周りを見回した。
―ここって何処?
寝ぼけ眼を擦りながら、りおは前日のことを振り返ってみた。確か昨日は、舞台が終わってからみんなで食事して…あれ? じゃあ今日って千秋楽の日じゃあ…。
「やばっ…」
りおは今日がとても重要な日であることを思い出した。直ぐにりおは自分の所属する事務所のマネージャーに連絡をとるため携帯電話を探した。
「あー、ヤバいヤバいヤバい…。神崎さんに連絡しなきゃ…」
その時だ。薄暗い部屋の奥の方から、突如男の声が聞こえてきた。
「その必要はないですよ、りおちゃん」
その声に驚いたりおは、さっきまで使っていた掛け布団で身を隠し、出来る限りの防御態勢で、恐る恐るその声のする方向に目をやった。声の主は少しずつりおの方へと近づいてくる。
「神崎さん? …なんで神崎さんが? あ、それよりここって何処? てか今何時ですか? 今日って舞台の千秋楽ですよね? …あーだめだ…全然思い出せない…」
―俺はお前のマネージャーなんかじゃねーよ。
神崎はりおから視線を反らし、聞こえないぐらいの小さな声で呟いた。
「え? 今何か言った?」
りおが尋ねる。神崎は一度咳払いをした後、さっきよりも声を張り、「本当に何も思い出せないんですか?」と尋ねた。
「うーん。さっきも思い出そうとしてるんですけど。昨日は朝からテレビ番組で舞台の番宣をして、マチネとソワレで本番があって、その後観に来てくれた事務所の人たちと晩ご飯を食べに行って…あーそういえば神崎さんもそこにいましたよね?」
神崎は黙って頷いた。
「えと、それから、一人でタクシーに乗って帰ってきて、それから、えーと、あれ…私…誰のこと話してんだっけ?」
神崎は一瞬驚いた表情を浮かべた。
「―ねぇ神崎さん?」
そんな神崎の様子を伺うようにりおが尋ねた。そして、その後発した言葉に神崎は言葉を失った。
「煙草持ってますか?」
さっきまでのやりとりを覚えているのか?神崎は動揺した。何百回とやっているこのやりとりの中で、初めて経験する展開に彼の口元は震えていた。
「だってこの部屋、煙草臭いんだもん」
りおのその一言に神崎は思わず安堵した。が、それも束の間。りおの表情を見て確信した。
―こいつは全てを知っている。
と。赤い唇を左右に釣り上げ、じっと神崎の方を凝視しているりお。顔には元の顔に戻した際の手術の跡がまだくっきりと残っている。神崎は感情を押し殺し、確認するようにゆっくりと尋ねた。
「…お前は誰だ?」
「お前って…。ちょっとどうしたんですか神崎さん? 顔が怖いですよー」
そう言いながら、りおはうっすらと笑みを浮かべている。
「いいから答えろ!!」
神崎は声を荒げた。
「―誰だと思います?」
表情を変えずりおは笑顔のまま尋ねた。神崎は口元を震わせながら恐る恐るその質問に答える。もう後戻りは出来ない。
「磯野…りおか?」
―正解。
りおのその言葉を聞いて神崎は体を震わせた。それは恐怖なのか喜びなのかも分からない。ただ震えている自分がいた。神崎は真っ白な天井を見上げ思った。
―やっと、こいつに本当の呪いをかけられる。兄貴と、りおと、そして彼女のお腹の中にいた子供、三人の呪いを…。
再び目の前にいる殺人者の方へと視線を戻す神崎。大きく目を見開き、瞬きもせずに彼女にこう告げた。
「―俺はお前の断罪者だ」
しかし、彼は気付いていなかった。さっき回収し忘れた裁ち鋏が、テーブルの上からいつの間にか消えていたのを…。




