十二章
二〇一六年二月。
シンと静まり返った薄暗い部屋の中。
全身鏡が二つに分かれた扉の中から、黒い医療鞄を持ち白衣を纏った女性が現れた。神崎律子だ。その部屋は先ほどまでとは一転、争った末による凄惨な現場と化していた。その中で、磯野りおと神崎が倒れている。両者共にたくさんの血で覆われていたが、唯一違っていたのは、女の方の喉元には裁ち鋏が一本、真っ直ぐに突き刺さっていた。
「同じ行動を何百回と繰り返すと、必ず何処かでボロが出たり、流れ作業になって隙が出来る。彼が凶器をしまい忘れたのはそんな綻びから出た僅かながらの隙。女は『あの時』と同じように、そんな好機をずっと待っていたのかもしれない。そして、いよいよその好機が生まれ男を殺そうとしたけど、彼の執念は彼女のそれを上回った。そんなところかしら…」
律子は倒れている神崎のそばまで近付くと、うつ伏せになっている背中を軽く蹴り上げた。
「―ほら。起きなさい。ア、ナ、タ…」
「うぅ…」
神崎は小さな声で喘いだ。
「あなたのこの一連の行動が流れ作業になった瞬間に、あなたの断罪はとっくに終わっていたのよ」
神崎は残っている力でゆっくりとその声のする方へと目をやった。
「可哀想な人。解離性同一性障害の女に復讐しようとしているうちに、いつしか自分も同じ穴の狢になっているとは気付かずに…優秀な兄にずっと劣等感を抱いていた無能な弟…最初はとっさの判断で兄とすり替わったけど、次第に兄の人格が居心地の良いものへと変わっていった。…ずっと私のことを騙し続けようと思っていたわけ?」
再び律子は神崎の背中を今度は強めに蹴り上げると、片膝を折って床へとついた。神崎は激しい痛みと出血で意識がもうろうとしている。
「馬鹿な男。そんな嘘、ずっと騙し通せるとでも思った? とは言っても、最初の方は私もすっかり騙されていたけど。可愛い弟が殺されて、ショックで記憶の一部が抜け落ちてしまったんじゃないかって…。でもあなたの正体に気付き始めてからは、私の中で、上質なモルモットが出来たと思い、まんまと騙されたフリをしてあげてたわけだけど…」
律子は持っていた鞄の中から、注射器を一本取り出した。
「身勝手でつまらない争い事のために、有能な男をこの世から消してしまったあなたたちの罪は重いわ。さぁ、始めましょう。これであなたの記憶の一部を、あの子と同じように削除することが出来る…」
「や…やめろ…」
「言っとくけど、私は流れ作業なんかには絶対にしないから…」
律子はそう言うと、神崎の右耳の後ろ部分に持っていた注射針を刺した。神崎の頭の中でゆっくりと薬が注入される音が聞こえてくる。
※
薄れていく意識の中で神崎は夢をみた。それは以前、律子と部屋のソファーで寝そべりながら話しをしていた夢だった。
『―それで私がその上司に言ってやったの。あなたの言ってることは机上の空論に過ぎません。って…』
『正解』
律子の言葉に微笑みながら神崎はそう答えた。
『ねぇ、近頃あなたよくこの言葉使うよね? 「正解」って』
そう言いながら、律子は神崎のいるそばへ甘えたように身を乗り出す。
『あぁ…昔からの口癖なんだ…』
照れ隠しに目線を逸らしながら神崎はそう答えた。
『ふぅんそうなんだ。なーんか上からだね』
律子は意地悪く笑う。
『そうか? ごめん…』
『別に謝らなくてもいいわよ。あ、そうだ。そろそろお茶にしましょうか? 昨日実家からいっぱいさくらんぼが送られて来たからチェリーパイを作ったの…正解…でしょ?』
律子がそう答えると、二人はお互いを見合わせて笑った。
『正解、』
『正解、』
『正解…』
ゆっくりと女のささやく声が聞こえる。その声は、だんだんと頭の中で激しく強いものへと変わっていった―。
※
「ヤメローーーー!!」
奇声に近い叫び声を上げ男は目を覚ました。
―ここは何処だ…。
自分の叫び声で目覚めた男は辺りを見回した。その部屋は薄暗く、テーブルや椅子やソファー、その全てが白を基調にした飾り気のない部屋だった。
しばらくすると、仄かに甘い香りが部屋中を包んだ。ノックの音と共に、銀色のトレーに紅茶とパイを乗せた一人の女性が入って来た。
「律子…」
それは、妻の律子であった。律子はさっき見た夢と同じ白いニットを着ていた。
「あら? やだ。あなた寝ちゃってたの? ほらお茶にしましょう。さっき言ってたチェリーパイよ。ほら起きて…」
「なぁ? 俺は…どうしたんだ?」
「え、なに? 悪い夢でもみてたの? ふふふ…」
上目遣いで微笑みながら律子は紅茶の入ったカップをゆっくり口へと運び、その後そばに置いてあった途中までのマフラーを編み始めた。男は女の言われるままにベッドから下りた。がその直後、体中から激しい痛みが男を襲った。よく見ると男の体には、まだ完治していないたくさんの切り傷や刺し傷があった。ただそれが、何故出来た傷なのか男は全く思い出せなかった。女はその様子を見ながらチェリーパイを口にする。そのパイの横に添えられたさくらんぼの果肉は、何かを思い出させるような、赤黒い色をしていた―。
(完)




