十一章
二〇〇九年十月二十六日午前四時過ぎ。
歌手で女優の佐々木りおが、目黒区にある自宅マンション前で遺体となって発見された。死因は全身を複数箇所刃物で刺されたことによる出血死。そして彼女の喉元には、一本の裁ち鋏が突き刺さったままの状態になっていた。
その遡ること数時間前。一人の少女は、目的地である新宿の、とある劇場へと足を運んでいた。もう一人の自分に会うために。そして過去の自分と決別をするために…。
その日、磯野笑美が劇場に到着したのは、開演時間十五分前の午後六時四十五分だった。ロビーにはすでに舞台を観ようと、多くの観客や関係者で溢れかえっていた。慣れた様子で前売りチケットを受付で見せ中へと入ると、出演者宛にたくさんの花が飾られているのが目に入った。その中に『佐々木りお様へ』と書かれた花もたくさん飾られていた。
ロビーにも舞台関連のグッズの他に、佐々木りおの個人グッズが幾つも販売されていた。しかし笑美はそれに目もくれず、真っ直ぐにチケットに書かれた自分の座席へと向かった。
十月二十五日午後七時五分。
定刻より五分押しで、舞台『Baku』が開演。
この物語は、その人が持っている夢を食べることで、願いを叶える能力を持った少年バクと、そのバクの友人六人との間で起こる奇妙な物語で、オムニバス形式の二時間の舞台だ。バクの親友の浅見優役を演じている佐々木りおは、ほとんどの時間舞台上にいるため、夏のイベントの時と同じように笑美の視線は、佐々木りおただ一人に注がれていた。
ストーリーが進み、りおが演じる優の周りを、バクの中から暴走した、たくさんの夢の精霊たちが取り囲む。この舞台の最大の見せ場だ。
あなたは自分の夢を叶えられなかった、負け犬だ―。
あなたは自分の夢から逃げたんだ―。
どんな理由があっても、あなたが逃げたことには変わりはない―。
あなたは戻る場所もない。戻ってもあなたの場所なんてどこにもない―。
あなたは自分から逃げたんだ―。
『違う…違う…』
精霊たちの声に懸命に否定する優。
―これが本当のあなただ…本当のあなただ…本当のあなただ…。
『違う…こんなの…こんなの私じゃない!!』
優の台詞をキッカケに精霊たちが皆、舞台袖へと消えていく。その直後、優は倒れ込み、そのまま舞台が暗転した。次のシーンに入る明転までの数秒間、まるで深い闇の中にいるかのように笑美は繰り返し呟いていた。
―こんなのりおじゃない…こんなのりおじゃない…。と。
笑美の手には、何度も爪で引き裂いた痛々しい傷跡が、数カ所にわたって出来ていた。
終演後。カーテンコールで拍手と共に全キャストが舞台上に現れた。
まずは主演である、奥村バクを演じた三宮素秋が、全キャストを代表して、観てくださったお客様へのお礼と、明日の千秋楽のチケットが既に完売になっていることを告げる。続いてもう一人の主演である、佐々木りおが挨拶をするために、立っている場所から一歩前進をした。
『えーみなさん。本日はご来場頂き、本当にありがとうございます…』
会場からは盛大な拍手が送られる。
『ありがとうございます。えっと…なんて言うんでしょうか…』
りおが緊張した笑みを浮かべながら後ろの共演者の方を振り返ると、浅見優のおばあちゃん役を演じた、高齢のベテラン共演者が、身振りを交えて前を向きなさい。と指示を送る。
『あ、はい。えっと…皆さん今日はどうでしたかー?』
りおのその質問に、客席からはくすくすと笑い声が起こった。後ろの共演者たちも、ズッコケるリアクションをとり、さらにその笑いを煽る。りおはそんな会場の空気を楽しむかのように、いつもの笑顔全開で話を続けた。
『えっと…皆さんのお手元にあるパンフレットにも書かせて頂いたんですが、私自身、この舞台は本当に本当にみんなと一緒に大切に創り上げていった舞台です。その舞台が、明日で、あと一回で終わるというのは…ただただ寂しい思いではあります…』
徐々にりおの声が涙で震える。その声が途切れるたびに会場からは、がんばれー!と声援が飛んだ。その度に、りおは会場に向かい会釈を繰り返す。
『―この舞台が終わりましたら、少しだけゆっくりとした時間を頂いて、それから…再び皆様の前で嬉しい報告が出来るかと思いますので…まずは明日の千秋楽も…命を懸けて頑張っていきたいと思います…今日は本当にありがとうございました…』
そう言い終わると、感極まったりおは、隣にいた共演者の女性の胸を借りて泣いた。その共演者は、優しくりおの体を客席側へと戻すと、会場から暖かい拍手に包まれた。三宮素秋は、その拍手が鳴り止む頃合いを見て『本日は誠にありがとうございました!』と大きな声で叫んだ。続けてキャスト全員で再び『ありがとうございました!』と挨拶をし終え、その舞台は無事に幕を終えた―。
閉演後。笑美は劇場から少し離れた場所で誰かを待っていた。秋風が冷たくなってきたが、笑美は精気を失ったような表情でその人物が来るのを待っていた。
二十分もしないうちに裏口から明かりが点灯する。そして、明かりと共に扉の中から大勢の人たちが顔を出した。その中に、押されるように出て来る小柄な女性が一人。笑美にはそれが佐々木りおだとすぐに分かった。―分からないはずがない。この一年もの間、笑美はこの女性だけを見続け、そしてこの女性だけをずっと追い続けてきたのだ。りおはそのまま数人の仲間と共に歩いて街中に消えていった。笑美はその背中を見送ると、一人タクシーを拾い、それとは違う方向へと車を走らせた。行く先は目黒区にある、とある高級マンションだった。
十月二十六午前三時。
一台のタクシーがそのマンションの前で止まる。中から出てきたのは佐々木りおだった。りおはタクシーの支払いを終えると、真っ直ぐな足取りで、自分のマンションの入り口に向かって歩いていく。
笑美はこの日が来るのをずっと待っていた。ずっと『Baku』の舞台公演の初日の幕が開けてから、一日も欠かすことなく劇場とマンションを行き来していた。今日のように帰宅時間が遅い日も、いつか見たりおのマネージャーと一緒にマンションに入っていく日も、毎日のように『この機会』を伺っていた。人通りのない、彼女だけが一人で帰宅する『この機会』を。
りおを降ろしたタクシーが完全に走り去っていくのを横目で確認しながら、笑美ははやる気持ちを抑えながら、りおの視界に入る距離へと近づいた。
―すみません。佐々木りおさん…ですよね?
細く掠れた声がりおの足を呼び止めた。りおは目を細め、声のする方へと目をやった。暗がりでその姿はよく見えなかったが、黒いコートを羽織り、眼鏡を掛けた少し小柄な女が、そこに立っているのが分かった。
「え? あ…はい…」
りおが返事を終える頃には、コートの女は既にりおのそばまで近づいてきていた。スーハーと繰り返す彼女の吐息が、まるで単調な機械音のように聞こえてくる。
「初めて…あなたの歌声を聞いたとき…まるで…雷に打たれたような衝撃だったのを…昨日のことのように覚えてます。…初めてあなたの顔を見たとき…あたしの理想の顔をした人が現実の世界にいるんだなって…思った。…とっても嬉しかった。…なのに…今…目の前にいる…あなたは…お前は…あたしの知っている佐々木りおじゃない…」
どう答えていいか分からず、りおの目が徐々に曇っていく。俯いて話しているその子のシルエットが、いつか何処かで見たことがある影だと思い始めた。
「この前…男の人とこのマンションに入っていくの…みました…あれって…マネージャーさんですよね? だったら…ここまで…マンション前まで見送るだけでいいじゃないんですか? 手を繋いで中まで入っていった…あたしがりおだったら…絶対にそんなこと…しない…」
「あなた…何処かで…」
「―りおじゃない…お前なんか…りおじゃない…」
その子の顔色は青白く、苦虫を噛み潰したような表情で苛立ちを抑えきれないでいる。さらに二人の距離が近付く。その距離感が狭まるに連れ、りおはこの子の正体を思い出していった。あの時、夏のイベントで出会った、眼鏡を掛けたおかっぱ頭の女の子が蝉の鳴き声と共に蘇る。嫌な予感がしてザワザワと胸が騒いだ。恐怖を感じたりおは、足早にマンション内へ逃げ込もうとした。それを追いかける笑美。無表情で取り出した右手には、裁縫で使う大きな裁ち鋏の刃が光っていた。
気が付くと、りおはマンションの前で横たわっていた。
着ていたりおの白いパーカーがどんどんと赤色へと染まっていく。笑美は肩で息をしながら呆然としていた。ただ、返り血を浴びた彼女の口元だけが、カタカタと腹話術の人形のように動いている。
こんなのりおじゃない…こんなのりおじゃない…こんなのりおじゃない…。
「た…助けて…わたし…わたし…いま死ぬわけにはいかないの…お願い…誰か…」
助けを呼ぶりおの震えた声が次第に弱く小さくなっていく。腹ばいになりながらりおは最後の力を振り絞り、通行人がいそうな大通りまで逃げようとした。電信柱を使い立ち上がろうとするりおに気付き、ハッとした笑美は、りおに向かって何度も何度も手に持っている裁ち鋏で、か細い体を突き刺した。
「りおはあたし一人…りおはあたし一人…りおはあたし一人…」そう呟きながら―。
誰もいない漆黒の闇の中、そこは凄惨な血の海と化していた。電信柱に横たわり、喉元に裁ち鋏が突き刺さったりおの死に顔は、嫉妬するぐらい笑美の目に美しく写った。




