十章
二〇〇九年七月。
佐々木りおがメインパーソナリティーをしているラジオ番組、『ささりおのミッドナイトステーション』の放送百回を記念した公開イベントが、東京の港区という場所で行われるというニュースを自らのラジオで発表した。
―りおちゃんを生で見てみたい!
笑美は興奮を抑え切れなかった。どうしても彼女に会いたい。そして出来ることなら彼女に直接聞いてみたい質問があった。
『佐々木りおになるにはどうすればいいか?』
それをどうしても本人に聞いてみたかった。どうやらその公開イベントの参加は抽選のようだ。笑美は迷わずそのイベントに参加するため、観覧募集のハガキを迷わず500通購入し、それを全て投函した。どうしても佐々木りおに会いたい、ただその一心のために。
翌月。『ささりおのミッドナイトステーション 一〇〇回記念だよアミーゴ全員集合!』のイベントの当日。
笑美は片道四時間という長い時間を掛け、東京の地へと足を踏み入れた。初めて来た東京。高いビルの群れが新幹線の車窓から見えてくる。笑美の住んでいる地元も栄えてはいるが、東京はそれ以上にもっともっとスケールが違って見えた。東京駅を降りて何処に行けば良いのかも分からず立ち止まっていると、慌ただしい人の群れが後ろからどんどんと笑美を突き飛ばしていった。中には舌打ちをする人もいた。そんな人たちを背中を睨みながら、絶対にこの場所で夢を叶えてやる。と、笑美のその決心をさらに深いものへとさせた。なんとかイベント会場のある原宿駅へと辿り着いたが、そこには佐々木りおのファンと思われる人たちが、自作で拵えたTシャツを身に着け群れを成していた。佐々木りおの熱烈なファン。『ファンニバル』と呼ばれる人たちだ。ファンニバルたちの必死さと、体格差の違いで、笑美は幾度となく列の外へと投げ出されそうになった。が、それでもなんとか笑美は自分の席へと辿り着く。歓声と共にイベントがスタートすると、聞き覚えのある大きな声で番組タイトルを叫ぶ女の子の声が聞こえた。
りおちゃんだ。
毎日のように聞いている彼女の声だったが、直接聞く彼女の声はひときわ透き通って聞こえた。舞台上に登場した佐々木りお。プロフィール上の身長は154cmだが、舞台に立っている彼女はそれよりも大きく感じた。
「みんなーやっと会えたねー! 元気ー!?」
りおが大きな声で叫ぶと、皆も負けないような歓声でそれに応える。
「良い返事だー!」
りおもいつもの満面の笑みで返す。
「では紹介しましょう。みんなのアニキ、アッニーゴオー!」
そう言うと、舞台袖からアシスタントの男性が登場する。いつも佐々木りおと共に番組を盛り上げている、この番組にはなくてならないもう一人のパーソナリティのアニーゴと呼ばれている人物だ。公開イベントが始まると、まず記念すべき第一回の放送回のオープニングが流れてきた。りおとアニーゴがそれを見ながら当時を振り返り、その時の心境をそれぞれが話し始めた。
次に、今まで続いているコーナーや残念ながらお蔵入りになってしまったコーナーなど、裏話を交えながら当時の心境を振り返る。瞬きする時間も惜しいと思うほど、笑美の視線は佐々木りおだけに注がれていた。
「では、次のコーナーに行きましょう。次のコーナーは、『あなたのペンネームの由来を教えてちょうだいのコーナー!』毎週ハガキを書いてそれを送ってくれてる、貴重なアミーゴのみんな。…あ、今日ここに来てくれてる人たちには説明の必要はないと思うけど、付き添いで来てくれたお友達や恋人、お父さん、お母さんもいるかもしれないから一応説明をすると、この番組のリスナーやハガキ職人のみんなを、私は全てお友達だと思っているので、それを総称して『アミーゴ』と呼んでいます。なので、私の横にいるアシスタントのこのお兄さんは、みんなのアニキ分でもあるので、『アニーゴ』と呼んでるんですよ。あー長かった」
観客が一斉に笑い出す。
「そんな私の大好きなアミーゴのみんな。なんでそのペンネームにしたのか? その他にどんな候補があったのか? 一度決めたら中々変更し辛いそのペンネーム。そんなペンネームを決めた理由を今日来てもらったアミーゴの何人かに聞いてみちゃったりしたいと思いまーす!」
りおとアニーゴの二人が煽るように拍手をすると、会場のお客さんも釣られて拍手をし始めた。
―ペンネーム…。
ボソっとそう呟くと、笑美は自分が付けたペンネームの理由を振り返った。『エビ』というペンネームは、高校時代に笑美をイジメていた岩佐しのぶが名付けたものだ。彼女が敢えてその名前をペンネームにしたのには理由があった。それは、初めて笑美がこのラジオにハガキを投稿した時のことだ。『りおの深夜のお悩み相談』というコーナーの中で、エビという名前でみんなからイジメの被害に遭っている。という内容が採用され、初めてハガキを読まれた。その時に言ったりおの一言。
『私はこのあだ名好きだけどなー。エビちゃんって呼ばれてるんでしょ。すっごいカワイイと思うよー』
笑美はりおにそう言ってもらえたことが凄く嬉しかったのと、それをペンネームにすることで、ずっと彼女に自分の存在を覚えていてもらえるのではないか。と思い、それ以来ずっとこの『エビ』というペンネームを使用していたのだ。
りおはアニーゴが差し出したボックスの中に右手を深く入れ、回しながら中に入ったボールを取り出した。そのボールには小さな文字が書かれていた。
「じゃあまずは、いつもハガキを送ってくれる、常連アミーゴのレンゲさんです。レンゲさーん。良かったら手を上げてもらえますかー!」
すると、痩せ型のメガネを掛けた二十歳ぐらいの男性が、ゆっくりと手を上げた。
「よかったら会場に上がって来て下さーい」
これで名前を呼ばれたらあたしもあのステージに上がるのか…。
笑美は思った。自分の名前が呼ばれたらどうしようと。まだ佐々木りおになりきれていない今の未完成のあたしが、本物と顔を合わせるわけにはいかない。現在の自分の存在を彼女に知ってもらいたくない。出来ればいつか自分が成長をしてから、彼女に認めてもらってから、あの時ラジオでハガキを投稿した『エビ』は実はあたしだったんです。と伝えたい。でも、『どうやったら佐々木りおになれるのか?』この質問だけは、どうしても本人に聞いてみたかった。
そうこうと葛藤しているうちに、レンゲさんの話しがあっという間に終わってしまった。再びりおはアニーゴが差し出すボックスに右手を入れる。
「―じゃあ続いては…この人。エビさん。エビさーん、いますかー?」
あたしだ…。
瞬時に自分だと分かった瞬間、笑美の鼓動はさらに早くなる。笑美は、このままスルーしてその場をやり過ごそうかと考えた。しばらくりおの呼びかけに誰も反応がないことで、会場全体が俄にざわめき始めた。
もうどうにでもなれ!
覚悟を決めた笑美は、思いっきり右手を高く突き上げた。
「エビさーん。いないのかなー。もし今日遊びに来てくれてたら手を上げてもらってもいいですかー」
再びりおが呼び掛けるが、笑美が手を上げているのをステージ上の二人は気付いていない。すると、そんな笑美に気付いた一人の男性が同じように右手を突き上げ、声を上げた。
「すみませーん! ここに手を上げてる子がいまーす!」
それに気付いたスタッフが笑美のそばまで駆け寄る。声を上げて教えてくれたお兄さんが「頑張って」と笑美の小さな背中を押した。が、極度の緊張からか、笑美の足取りは重かった。ギシギシとまるで錆び付いたブリキのおもちゃのように、ゆっくりとステージ上へと足を運んだ笑美に、りおは優しく右手を差し出し握手を求めた。その手はとても小さくて柔らかく、香水を付けているのか大人の香りがした。
「こんな小さな女の子が勇気を出してステージに上がって来てくれましたー。みんな拍手で迎えてあげましょー!」
そう言うと、笑美に向かってこの日一番の歓声が飛んだ。
「はじめましてエビちゃん。もしよかったらだけど、年齢は今幾つなの?」
りおが尋ねる。口の中に装着された歯列矯正があることをりおに見られたくなかった笑美は、わざと口を窄め質問に答えたが、りおにはその声が聞き取れなかった。
「ごめん。もう一度教えてくれる?」
りおが再び尋ねる。
「…十六歳です」
さっきよりも声を少し張り上げ、笑美が答えた。
「え? ごめんなさい。私てっきり、小学校の高学年ぐらいかと思っちゃった」
りおのその答えにアニーゴも同調する。笑美にとってはショックだったが、自分の憧れる人が、自分の印象を述べてくれているという事実は、彼女にとって最良の喜びだった。
「じゃあ早速エビちゃんに質問するね。エビちゃんは何でそのペンネームを付けたのかなぁ。この会場にいるアミーゴのみんなに教えてあげてください」
再びりおは笑美にマイクを向ける。ひょっとしたら、初めてラジオにハガキを投稿した時のことを彼女は覚えてくれているのではないか? 笑美は密かにそれを期待したが、残念ながら彼女が覚えている気配はなかった。
「エミという名前だから…」
笑美はそう答えた。
再び笑美の声が聞き取れなかったのか、会場のアミーゴたちに向かい、人差し指を立て、『静かに』というポーズをとった後「もう一度答えてもらっていい?」と再び質問をした。笑美は大きく深呼吸をし、今度はゆっくりとした口調で答えた。りおの質問はこの後何回か続いたが、笑美はそれよりも早く『あの質問』をりおに尋ねてみたかった。
「じゃあエビちゃん。他にペンネームの候補ってあったかな?」
さっきのレンゲさんに尋ねた質問と同じ質問を笑美に尋ねた。しばらく間を置いた後、笑美はりおの目をじっと見つめて答えた。
…りおです。
驚いたりおは思わず「え?」っと口にした。
「りおという名前になりたかったです」
磯野りお。なかなか悪くない名前だ。笑美はそう心の中で呟いた。
「えー、私と同じ名前になりたかったんだー。ありがとう。でも笑美ちゃんもとっても素敵な名前だよ。今日はその素敵な名前を付けてくれたお父さんお母さんと来たのかなぁ?」
―この名前のどこが素敵なんだ。そりゃあ、りおちゃんみたいな顔のかわいい子はそう思うんだろうけど、『笑顔がキモい』、『海老みたいな顔だ』と、散々揶揄され続けた笑美にとっては、この笑美という名前が大嫌いだった。一刻も早く改名しよう。笑美は高校を中退した辺りからそう思うようになっていた。
「じゃあエビちゃんありがとうー。みんなエビちゃんにもう一度大きな拍手をしまーす」
会場は再び大きな拍手に包まれた。ここで会場の前列にいるADから『次は曲紹介お願いします』とスケッチブックで書かれたカンペがりおの目に入った。
「あ、じゃあここで一曲聞いて頂きましょう。来月九月の二十五日に発売されます、あたしの新曲で『誓い』です」
りおちゃん、新曲出るんだ…。
そう思った矢先だ。りおが笑美のそばまで近づくと、そのまま笑美の手を取りステージ袖の階段まで誘導をした。
「エビちゃん、今日は本当にありがとうね」
本当にりおちゃんはかわいくて綺麗だ。
間近でじっくりと佐々木りおの顔を眺めながら笑美は改めてそう思った。というかこの状況ってなに? これってもうお別れな雰囲気? このままりおちゃんに『あの質問』を聞くことが出来ずにお別れをするのか。でも本番中のこの状況でそんな質問をするのはどうだろう。笑美は頭の中でずっと葛藤をしていた。
「ん? どうしたの?」
笑美のそんな状況を察してか、りおが優しい口調で尋ねた。
「…りおちゃん…みたいになるにはどうしたらいいですか?」
思い切って笑美は『あの質問』をりおにぶつけた。何て言ってりおちゃんはあたしを導いてくれるんだろう。しかし、りおの口から出た言葉は、笑美が期待していたものとは大きく違っていた。
「え? 私みたいに。うーんそうだなぁ…いや無理だと思うよ」
りおの答えにエビちゃんは驚き、眼鏡の奥の小さな瞳が少しだけ大きくなった。
「私は私。エビちゃんはエビちゃん。この世界に私もエビちゃんもたった一人しか存在しないんだから、エビちゃんにしかない魅力を早く見つけて、そこを伸ばして頑張ればきっとやりたい夢が叶うと思うよ」
そう言い終わったタイミングで袖口から神崎が、息を切らしながら慌てた様子で現れた。
「僕がエビちゃんを客席まで連れて行くから、早く次の準備をして!」
「はーい。じゃあエビちゃんこの後も楽しんでね。あと気をつけて帰るんだよ」
イベント本番中のバタバタとした現場。笑美に大きく手を振り、りおはステージに戻っていった。
「じゃあ席まで案内するよ」
神崎が言葉を掛けるが、その言葉は笑美には届いていなかった。
『私みたいに。うーんそうだなぁ…いや無理だと思うよ、』
『私みたいに。うーんそうだなぁ…いや無理だと思うよ、』
『私みたいに。うーんそうだなぁ…いや無理だと思うよ、』
『私みたいに。うーんそうだなぁ…いや無理だと思うよ、』
『私みたいに…無理だと思うよ、』
『私みたいに…無理だと思うよ、』
『私みたいに…無理だと思うよ、』
『…無理だと思うよ、』
『…無理だと思うよ、』
―お前には…無理だよ。
この瞬間、笑美の中で何かが壊れた。
家に帰ると笑美は、狂ったように佐々木りおに関する全ての物を、ズタズタに切り裂き、グシャグシャに破り、そして、捨て去った―。
佐々木りおが殺害されるまで、残りあと三ヶ月。




