一章
薄暗い部屋の中、一人の女がうなされていた。
女は恐ろしい夢でも見ているのか、何度も「ちがう…ちがう…」と寝言を繰り返している。そして、しばらくその寝言を繰り返した瞬間だった。
―コンナノワタシジャナイ!!
奇声に近い叫び声を上げて女は目を覚ました。自らの寝言に驚き目を覚ましたのだ。すぐに女は、今まで見ていたそれが夢だということに気付いた。が、それも束の間、その安堵よりも、もっと別の驚きが彼女の中で上回った。それは、ここが自分の家ではなかったからだ。
目覚めて最初に飛び込んだその景色は、全く身に覚えのない部屋の天井だった。
女はすぐにベッドから起き上がった。部屋の中は薄暗く、仄かに煙草の煙のような臭いが鼻を刺す。女は少しずつ慣れてきた目でゆっくりと周囲を見回した。すると、ベッドの右隣にある円卓のテーブル。そのテーブルを囲む二つのシングルソファー。壁や床。それらにある共通点があることに気付いた。部屋中にある、ありとあらゆる物が全て白で統一されているのだ。部屋の奥には、やはり白色のアンティーク調の四段重ねの本棚が壁に埋め込まれた造りになっていて、中には大量の書籍や書類のような物が、横四列にビッシリと並べられていた。この部屋を総評すると、良く云えば『シンプル』、悪く云えば『病棟』のような、清潔感はあるが、何処となく冷たさや寂しさを連想させる空間だった。
―ここって…何処?
寝ぼけ眼を擦りながら、女は前日の出来事を振り返った。確か昨日は、舞台が終わってからみんなで食事して。あれ? じゃあ今日って、千秋楽の日じゃあ…。
「やばっ…」
女は咄嗟に声を突いた。今日がとても重要な日であることを思い出したのだ。直ぐに女は、自分が所属する事務所のマネージャーに連絡をとるため携帯電話を探した。
「あー、ヤバいヤバいヤバい…。神崎さんに連絡しなきゃ…」
ところが、枕元やその周囲を見回しても自分の携帯電話が見つからなかった。それどころか、私物と思えるようなものは何一つ見当たらなかった。女は焦った。なぜ自分がこのような状況に陥っているのか全く思い出せないからだ。
その時だ。薄暗い部屋の奥の方から、突如男の声が聞こえてきた。
「その必要はないよ、りおちゃん」
その声に驚いた女は、さっきまで使っていた掛け布団で身を隠し、出来る限りの防御態勢で恐る恐る声のする方向へと目をやった。しかし、目が慣れてきたとはいえ、全体的に部屋が薄暗いため、遠くからではその人物が『細身で長身』ということ以外何も情報が分からなかった。
声の主はゆっくりと女に近付いてくる。その距離が徐々に狭まっていくにつれ、その人物が見慣れた顔であることに気付いた。
「神崎さん?」
声の正体は、女が先ほどまで連絡をとろうとしていた、マネージャーその人だった。
神崎直哉。都内にある芸能事務所『株式会社アルファビジョン』の、佐々木りおの専属マネージャー。以前はこの事務所の所属俳優だった。身長180cm。その容姿は、女性と見間違えられるほど中性的で整った顔立ちをしている。しかし今、目の前にいるこの男は、いつもの容姿とは違って見えた。伸ばしっぱなしの無精髭。所々にフケが付いているボサボサの髪の毛。目の下にはくまもあり、頬も痩けているように思えた。普段はシワ一つないジャケットを着用しているが、今着ているジャケットには幾つもシワが寄っていた。
「…なんで神崎さんが? ねぇ神崎さん。ここって何処? てか今何時ですか? 今日って舞台の千秋楽ですよね? あーだめだ。全然思い出せない…」
畳み掛けるように、りおは神崎に質問を浴びせた。その言葉を受けて神崎は何かを呟いたが、その声が小さ過ぎため、りおにはそれが聞き取れなかった。
「え? 今何て言ったの?」
りおが尋ねる。神崎は一つ咳払いをした後、さっきよりも声を張り、「本当に何も思い出せないの?」と尋ねた。
「うーん。さっきも思い出そうとしてるんですけど、昨日は朝からテレビ番組で舞台の番宣をして、マチネ(昼公演)とソワレ(夜公演)で本番があって、その後観に来てくれた事務所の人たちとご飯を食べに行って…あ、そういえば神崎さんもそこにいましたよね?」
神崎は黙って頷いた。
「えと、それから、その後一人でタクシーに乗って帰ってきて、それから、えーと、あーやばい。そっから全然覚えてない…」
「やっぱり…」
信じられないと言いたげな表情で神崎は答えた。
「え? 何? やっぱりって…まさか…私飲み過ぎちゃって、そのまま路上で寝てたとか? で、心配になった神崎さんが探しに来て…え!? …てことはここって神崎さんの家? ごめんなさい! もうお酒辞めます! 絶対! もう、ホントに命賭けますから! だからすみません! 許してください!」
そう言いながら慌てた様子で、りおは神崎に謝った。
「賭けたくても、その命がもうないんです」
しばらく間を置いて、神崎はそうポツリと呟いた。しかし、りお自身その言葉の意味が分からず、ただゆっくりと神崎の方へ顔を見上げている。神崎はポリポリとこめかみら辺を痒いて、説明しづらそうな表情で再び口を開いた。
「えーと、だから、僕らの命はもうないんです」
「へ? 何それ? なんの冗談です?」
「何て言うかその、非常に言いにくいんだけど…僕らはもう死んでしまっているんです」
りおは思わず、ぷっと吹き出し、その後声を上げて笑った。
「あはははは…何言ってるんですか神崎さん。あー分かった。神崎さんの方こそまだ昨日のお酒が抜けてないんでしょ? だから無精髭なんて生やしたまんまなんですかー、もう」
りおの高い笑い声が部屋全体に響いた。神崎は申し訳なさそうに黙って彼女の方を見続けている。徐々にその空気を察したりおは、恐る恐る神崎に尋ねた。
「本当に死んじゃってるんですか…私たち?」
「うん…」
「え、でもそんな感じ全然ないよ。今起きたばかりでちょっとだるいけど、体だって全然動くし。つねっても、ほら、痛いし…」
りおはそう言うと神崎に向かって自分の頬をつねって見せた。
「死んだらつねっても痛くない。って誰から聞いたの?」
呆れたような表情で神崎は答える。
「えーだって霊だったら神経とか通ってないでしょ? だから痛くないんじゃないんですか、フツー?」
「まぁ事実を受け入れられなくても無理はない。じゃあ証拠になるかどうかは分かんないけどこれを見て欲しい」
そう言うと神崎は、ふーっと小さく息を吐き、左右の指の腹をそれぞれに合わせて、小さな声で何かを唱え始めた。りおにはそれがまるで、魔法使いが呪文を唱えているように写った。
しばらくすると神崎は、指の腹を一本一本ゆっくりと外し、壁に向かって右手をまっすぐに伸ばした後、パチンと一回指を鳴らした。すると、白い壁から少しずつ何かの映像が浮かび上がってくるのが見えてきた。驚いた表情のまま、りおはベッドから飛び下りその映像が映っている方へと近付く。最初は赤いパーカーを着た女性が電信柱に横たわっている映像に見えた。しかし、映像が鮮明になるに連れ、それが間違いであることに気付いた。パーカーが赤いのではなく、白のパーカーに赤色の何かが付着していたのだ。
「あれってもしかして…血?」
何ヶ所もメッタ刺しにあって出来たような大量の血が、衣服や地面に飛び散っていた。倒れている女性の喉元には、一本の裁ち鋏が真っすぐに突き刺さっている。
「これって、私?」
震える声で尋ねると、神崎は静かに頷いた。更にりおはもう一つ、あることに気付いた。
「あのパーカーって…今私が着ている服とおんなじ…」
映像に写った自分の姿を見て体を震わせているりおに気付いた神崎は、あえて彼女の視界に入るところまでゆっくりと移動し彼女の視線を変えさせた。
「次は、僕の番だ」
神崎は先ほどと同じのポーズをとり、再び呪文を唱え始めた。すると、今度は別の映像へと切り替わっていく。場所はさっき写った映像と同じ場所のようだ。徐々に電信柱に横たわる男性の姿が見えてきた。雨が降っていたのか? 男の髪や衣類が微かに濡れているように見えた。りおはすぐにそれが神崎であることに気付いた。りおと同様に大量の血が飛び交っている。喉元にはさっきと同様に裁ち鋏が突き刺さっていた。
「神崎さんも…今と同じ格好…。あ…あれ? …あ…あ…」
「落ち着いて」
神崎はそばまで近付き声を掛けたが、動揺を隠せないりおは全身を震わせていた。神崎はりおの両肩を掴み「落ち着けー!!」と大声で叫んだ。
「…だって。これって」
りおの顔は見る見るうちに青ざめ、目には涙を浮かべている。
「先に断っておくけど、これは合成写真でもなんでもありません。こういう言い方も変だけど、れっきとした僕らの『殺害後の映像』です。凶器も同じ裁縫で使う鋏という点から考えて、たぶん僕らは同じ犯人によって殺されたようです。僕らにかなりの恨みがあったんだろう。何十カ所も鋏で切られ、そして最後は喉元を刺している」
そう言うと神崎は、再び自分の右手を天に突き立て、指をパチンと鳴らした。すると、壁の映像がフッと消え部屋全体が元の薄暗い状態に戻っていった。神崎は足元を気にしながら、りおを元いたベッドまで連れていった。
「―ねぇ神崎さん。これってテレビのドッキリか何かなんですよね?」
震える声でりおは尋ねた。
「はぁ…」と、呆れた表情で神崎は深いため息を付いた。
「りおちゃん、いい加減に現実を受け入れて。それとも、さっきの映像をもう一度見せようか?」
「いいです、いいです…。自分の死んでるところなんて何回も見たくない…」
さっきの映像がよほどトラウマになったのか、泣き出しそうな表情でりおは答えた。
「それじゃあ信じてくれる?」
その質問にりおは否定も肯定も出来なかった。ただ黙ってその場で俯いていた。
「僕もりおちゃんも、おそらくまだこの世に未練があるため、成仏出来ずに現世を彷徨っているようです。そりゃあそうだ。あんなに全身メッタ刺しにされて殺されてるんだから…」
「じゃあ、私たちってまだ成仏出来てないんですか?」
黙ったまま神崎は頷く。
「じゃあ、もし仮に、もし私たちが本当に死んでたとして…これから成仏って出来るんですか?」
りおはためらいながら尋ねた。
「これから僕たちが成仏が出来るかどうかは分からないが…僕とりおちゃんで犯人を見つけ出し、そいつへの復讐が完成すれば…もしかしたらもしかするかも…」
「復讐? え? ちょっと待って。例えその犯人を見つけ出せたとしても、私たちもう死んでるんでしょ? どうやってその犯人に復讐するんですか?」
「僕たちがその犯人を見つけだした後、そいつに断罪を下すんだ」
「…断罪?」
「断罪というのは罪を裁くという意味というのは分かるよね? 僕たちのように現世にまだ未練があったり、恨みのある霊たちが、その特定の人物の罪を裁く、つまりは呪いをかける。そうすることによって、その人の、生きていることへの不安を増幅させ、それが、死にたいという気持ちにさせることが出来るんだ。そして、そのあとは勝手に死んでくれます」
「呪い…」
「ただし、この呪いは本来、死後の世界では禁止されている行為なんだ。本来の寿命を全うせずにその呪いをかけられた人物が死んでしまった場合、あの世とこの世のバランスが崩れてしまうから…。なので、そのルールを犯した者は、罰を受けなければならない」
「罰って何ですか?」
「それはやってみないと分からない。でも仮に成仏が出来ないにしても、それ以上に僕はその犯人を許さない。許すことは出来ない。絶対に…」
普段の温厚な神崎からは想像が出来ないほど怒りに満ちた険しい表情に、りおは一瞬たじろいだ。
「…あぁごめん。りおちゃんも犯人探しに協力してないかな? 例え犯人が見つかったとしても呪いをかけるのは僕だけでいいから。そうすればりおちゃんだけは少なくとも何の罰も受けずにその後成仏出来るでしょ?」
神崎は慌ててその場を取り繕った。さっきの怒りに満ちた表情は一変、すっかりと消え失せていた。
「ねぇ神崎さん。なんでそんなに死後の世界について詳しいんですか?」
りおが尋ねた。
「僕が死んでから、僕と同じように成仏が出来ない先輩の霊たちにたくさんの話しを聞いたんだ。呪いをかける方法もそこで教えてもらったんだ」
「そうなんだ。でもやるなら私も協力しますよ。第一、自分だけ成仏しても神崎さんを見捨てた罪で結局天国なんて行けないもん」
「はは…。でも僕はりおちゃんのマネージャーだから。タレントを守るのはマネージャーの務めです」
「死んでもマネージャーなんですか?」
りおと神崎から自然と笑みがこぼれた。お互いさっきまでの殺伐とした空気が少しだけ軽くなったように感じた。
「でも協力って言ったって、私、犯人の顔なんて覚えてないからなぁ…」
「それは僕も同じだよ。大丈夫。りおちゃんは僕と初めて会った時からのことをゆっくり回想してくれるだけでいい。りおちゃんと僕を殺した犯人が同一人物なら、二人の共通の知り合いの可能性が高いはず。まずは普通に僕の質問に答えてくれるだけでいいんだ」
ソファーに腰を掛け神崎はそう答えた。
「それで犯人見つかるかなぁ?」
りおの質問に神崎は首を横に振った。
「見つかるかなぁ…じゃなくって、見つけるんです。僕たち二人で。僕らはその犯人に断罪をするための使者なんだ」
「断罪者ってことですね…うん、分かった。神崎さん、絶対犯人見つけましょうね」
りおの決意の表情を見て、神崎は思わず笑みを浮かべた。
「どうかしたんですか?」
大きな瞳を見開きりおは尋ねた。
「いえ、さっきりおちゃんが寝言で叫んでた『こんなの私じゃない』って。あれってひょっとして『Baku』のクライマックスの台詞でしょ?」
神崎の問いに、りおは思わず頬を赤らめた。
「え? 私寝言でそんなこと言ってました?」
「うん。結構ハッキリとした口調で言ってたよ」
「やだ、超恥ずかしい。いや、だって私にとって『Baku』は、もの凄く特別な舞台だったから。だから思い入れも強くって夢にも出てきて…ん? あれ? なんでこの舞台が特別なんだっけ? あーもう神崎さん! 今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょ。早く犯人探しますよー!」
そう言いながらりおは話題を避けるように、ベッドから立ち上がりその場を離れた。神崎は左手にはめている腕時計を触りながら、りおの背中をじっと見つめていた。




