無駄の極み
明日の予定を決めただけだが心なしか腰とかの悲鳴が収まるのはやはり現金なのかね、天候で簡単に崩れる予定だと心底理解していてこれとか自分が情けないなら恥ずかしいやら温泉だけでここまで心が浮き沈みするとか子供かと言いたくなる。
夏休みだヤッター、宿題だゲンナリみたいな上がり下がりだ、そもそも夏休みなんぞ御中元素麺爆撃を消費するだけで終わるから嬉しくもなんともだ、大食漢の親父でもあの量はどうにもならず最終的に飽きる、めんつゆとか薬味とか手を変え品を変え、焼いたりしても何時かは飽きるし面倒になってめんつゆにネギと生姜かワサビに落ち着く、もはや昼飯に素麺以外が並んだ瞬間に小躍りだ、例え夕飯の残りの煮物とご飯と味噌汁とかでもガッツポーズ物で夏場の地獄は暑さでは無いと言うのが我が家の基本だ、だから普通の弁当だったりした親父が羨ましくてならなかったな、下手をすると夏休み終わっても土日は素麺とか珍しくもなく御中元でビールとか缶詰とか送ってくれた人にはマジで感謝しかなかった。
逆に三つ四つ素麺だった日には家族揃って死んだ目になる、それも一番大きいサイズとなると乾いた笑いすらでない、そりゃあ、ありがたいはありがたいし返礼もちゃんとするが叶うなら送って来る人で話し合って全て別のにして欲しいがそういう訳にも行かないんだよな、だからという訳ではないが我が家が御中元を送る時は素麺以外だ呑めるなら酒関係、飲めないならフルーツゼリーか缶詰め辺りを基本にしていた。
まぁ喜ばれるかどうかとか二の次三の次で基本的に毎年の慣例として送ると言うのか御中元御歳暮年賀状だ、祖父曰く無駄の極みだが体面を整えるために送るしかない、消えて無くなる文化と叫ばれて長いがまだ百年くらいは安泰なんじゃ無かろうかと言っていたが挨拶がてらと言うかやはり体裁とかを気にするとな。
無駄に旧家で無駄にコネが広いと変な弊害も多い、煩わしさとも付き合わないとやっていけないのは幸運だろうが関係無いのかね、本当に幸運ならばそんなもの吹き飛ばしても平穏無事なのだから幸運一族なんて呼び名は間違ってると心底思うが他より幸運なのは間違いないからな、突出していないだけで逸脱しているならそれはもう特性の一つなのだろう。
それに否定しようにも否定できないからな、頼っているのは確かだし感謝した事も両手じゃ足りない、それで嘆くのはどうかとも思うがしかし幸運だからの不幸が付いて回るのだから嘆きたくもボヤキたくも愚痴りたくもなる。それらを駆逐できないなら幸運なんて言ってもたかが知れていて小銭を稼ぐ程度にしか有用に使えない、マジに幸運、数値化するならカンストすら越えて無限マークの奴なら憂いなんぞ無い筈で幸運で虚しいなんて感情すら無い筈だ、我が家なんぞ祖父でたぶん四桁かそこら初代で六桁とかとしてその程度、平均を50とか60辺りとするなら馬鹿げているくらい開きが有るが千も万も恒河紗とかに比べれば無いに等しいし恒河紗も無量大数と比べればやはり劣る、そして無限と比べれば一の後に零を幾つ着けても限り無いに勝る筈もない、例えば買ったばかりのノートに可能な限り細かい文字で桁の存在しない数値を書き込んでも無限はもっと上だからな。




