信仰
雨か、朝から嫌になるがテントの中で大人しくするしかない、まぁいい、心を落ち着けるためにも瞑想で考えを纏めつつ自問自答を続けるとするか。
瞑目して心静かに雨の音を聞き流しながら明鏡止水の果て、無の境地に至る、時間がただ過ぎ去るままに任せつつ時おり浮上する思考で今の己を評価する、どこか超然とした感覚にも陥るがどうしたって俯瞰ではなく過大評価になるがそれでもカオス思考で寄り道しながらよりはマトモな判断ができるだろう。
一つ問題があるならば無と有の狭間にいるため天啓を得たと思っても忘れると言うか記憶から飛んでしまう点だろう、表層だけで思考するせいか若干以上に記憶や感覚がアヤフヤになってしまう。
しかし表層だけでも、欠片だけでも残ればそれで良いのだ、混沌とした思考以外での見地と言うのはソレなりに大きな意味を持つ、ただまぁ脱線してるな、
まるで寝入りが悪かった時の如く無と覚醒を繰り返す、その狭間で先の事とか今の事とか墨巣さんの事とか自分の事とか、色々と考えて答えはでなくとも何か無いかと模索して、そしてまた無に沈み混む。
夢現のようでもあるが或いは悟りの道の一つの段階か、はたまた誇大妄想の果てか、時間を忘れて見るでもなく目を開いてみたり、閉じてみたり、聞くでもなく耳を澄ませてみたり、まるで空間を掌握するかの如く触感を最大限に拡げてみたり、全てを無に任せてみたり。
あぁ、たぶんこれは贅沢な時間の使い方なんだろうなと思いつつもありがたみよりも睡魔にも似た無我への旅を続ける。
全ての感覚が失われて無なのか有なのか起きているのか寝ているのか腹が減ったのか減ってないのかすら解らなくなる頃には既に夕方で、その事に気付いた途端に猛烈な空腹感が体を思考を支配する。
思い返せば朝から何も食べてないからな、そりゃあ腹も減る、ついでに尿意やら色々と襲ってくるがソレを感じないくらい深く思考が無に沈んでいたらしい。
昨日とは違って雲は有るが雨は降っていないな、とりあえず朝のストレッチ済ませて飯の確保だ、ついでに消耗の激しい竹も確保しておくとするかね。
ゴンスイ少しに小魚にタコ、ウツボ、中々だな、リバウンド明けからずっと落ち着いた感じでやはり揺らぎは気にしなくて良いとようやく安堵する、なんだったんだと思いもするが答えなんて出ないし悩むだけ無駄だろう、天の采配にケチを付けられるような身分じゃないしそもそも随分と助けられている、これで神なんぞ信じていないのだから仮に空の果てにキリストか天照かブッタか、あるいはFSMが居るとするなら手を噛まれるどころじゃないよな。
我が家ほどに目を掛けて貰っている一族も居ないだろうし、仮に賽子振って決めてるだけにしても出目をかなり操作しているか、でなければかなり我々に有利な一覧表に合わせてだ、神が居るのか、居たとして賽を振るのかは誰にも解らないが彼らやその信奉者にとって残念な事に我が家の家訓と言うか考えとして神を信じず、仏も信じずだ、クリスマスは祝うし元旦に神社に行く事もある、死んだら葬式で坊主に経をお願いするし三回忌くらいまでは法事も行うが形だけなんだよな、直近ならともかくとしてご先祖様の供養とか特にしないし彼らに何かしら思う所がが有るのかと問われれば初代を凄いとは思うがその程度だ、正直に言って運が良いだけってのは実は自慢にならないからな。




