接近
このままだと向こうが顔を上げた瞬間に目が合うと、すぐさま視線を外してそのまま後退していく、そのまま動く気配が有って視線を戻せばノソノソと川沿いを下る方向に進んでいく、とりあえず一安心だな、少なくともこの川で渡れそうなポイントなんてないし池を迂回するしかない。
そんな風に安心してみれば張り出した岩をノソノソと進み、そのまま躊躇を見せずに川に入っていく、ああそう言えば海を泳いだんだったかと今更ながらに思い出してゆっくり後退を進めるが深いとはいえギリギリ脚が付く程度、流れもそこまで強くない。
立ち上がれば俺より遥かに背の高いスマイリーが二足歩行すれば余裕で脚が付く、後は流されないだけのパワーがあればかなり危険というだけで渡れなくはない、何よりここはまだ川幅はそれほど広くないから流されながらでも少し下流に流れ着く形でなら渡る事はできるだろう。
足元に注意しつつ後退する間に体を揺らして水を弾き飛ばしている気配にゾッとする、もう距離としてはほんの僅か急ぎ足なら一分と掛からないが踵を返して走り出す訳にもいかないし、こんな根やら下草やらで悪い足元の中でバック走なんでできる筈もない。
ほんの十五歩、時間にすると30 秒を俺は前進してスマイリーと対峙する。
とりあえず僅か十五歩だが墨巣さんからは離したが焼け石に水と言うか、距離にすると数メートルだ。
互いの息遣いが解る距離と言うか、顔がすぐそこにある、まるで額を付き合わせてガンを飛ばし合うヤンキーの如く数センチの隙間を残してそこに。
こうなればもはや視線を合わせないなんて事はできないが、顔全体に視線を散らすようにという涙ぐましい努力はさせてもらう。
腰に手斧はあるがなんとも頼りなく、頑張っても手傷を与えて終わりで墨巣さんを危険にするだけだ、対してスマイリーはただ腕を振るだけ、頭を掴むだけで俺を戦闘不能にできるんだ、あまりにも分は悪い。
そのままクルリと俺の周りを一周して、なんというかものすごく観察されているな、目で見て鼻で嗅いでおそらく息遣いを聞かれている、体は強張り脚がガクガク震え出さないように必死で、それこそ失禁していないのが不思議なくらいだ。
おそらく飼育員とか研究者とか以外でここまで大人のゴリラに接近した人間って居ないんじゃないかと思うくらいに近く、好事家なら垂涎の大歓喜なんだろうが代わってくれというなら幾らでも代わってやりたい、それこそこの立場になってくれるというなら大金を注ぎ込むぞ。
神とか仏とか悪魔から邪神に至るまで知る限りの古今東西の存在に祈りを捧げていると、ニヤッと左の広角が持ち上がりそのあだ名の由来足るニヒルな笑みを見せた後、満足したとでも言うように川を遡上して池に向かう方角に歩き出す、それでもホッと一息とは言わず、全くもって言うことを聞かずに大爆笑中の膝を鼓舞してゆっくりと後退する。




