霊魔編 4
21時20分。東の空から闇に紛れて、一機の赤い輸送用ヘリコプターが近付いて来た。
「こちら東京消防庁航空隊所属『かもめ』。間もなく、目標地点へ到着する」
『こちらGST本部。了解しました。目標ビル屋上のヘリポート上10メートル地点にて、空中待機願います』
「了解」
通信終了後、間もなくしてヘリコプターがビルの屋上へ到着した。そして、ヘリポートの約10メートル上空で静止飛行を行った。
「ゴンドラ降下!」
ヘリコプターの床底部から救助用ゴンドラが6本のワイヤーケーブルに吊され、ゆっくりと降下した。ゴンドラの中には、2人の救助隊員が乗っている。
「避難者は、まだ確認出来ないな……」
救助隊員が見渡す限り、屋上には人影すら見当たらない。
すると、突如階下へ通じる鉄製の扉が開き、漆黒のポニーテールの少女が飛び出して来た。少女に続いて、3人の女性社員と2人の男性社員が姿を現した。その最後尾には、赤毛の少女が、後方を伺いながら駆け現れた。
ポニーテールの少女・水月と赤毛の少女・フレイラは、5人の避難者達をゴンドラへ誘導した。
避難者達は、救助隊員に手を引かれ、ゴンドラの中へ乗り込んだ。
「後を頼んだよ!」
フレイラは避難者達の身柄を救助隊員に託した。
「君達も早く乗りなさい!」
救助隊員は、水月とフレイラにゴンドラへ乗る様にと、手を差し延べた。
「先に行ってくれ!私達には、まだ……」
その時、コンクリート製の床の一部が隆起し、轟音と共に砕け散った。そして、コンクリートの瓦礫と埃の中から大きな黒い影が現れた。
「な……何だ、あれ!?」
救助隊員と避難者達は、息を呑んだ。
彼等が目にしたモノは、体長5~6メートルはある大熊の姿であった。
「早く、ヘリコプターへ!」
水月が救助隊員に叫んだ。
救助隊員は、ゴンドラ付属のコントローラーを操作し、ウィンチでワイヤーケーブルを巻き上げた。
「皆、あの化け物に喰い殺されたんだ!」
避難者の一人が叫んだ。
「話には聞いていたが、GSTの連中は、あんな化け物を相手にしているのか?それに、あの子達、まだ子供じゃないか……」
救助隊員は呟いた。
避難者達を乗せたゴンドラは、無事にヘリコプターの中に格納された。そして、ヘリコプターは、中野区の東京警察病院へ向かって飛び去って行った。
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「……どれだけの人の血肉を喰らうと、君の様に肥え太るのかね?」
そう言ってフレイラは、細身の長剣・レイピアの剣先をグリズリーに向けて構えた。
グリズリーは、息遣いを荒々しくさせ、2人を威嚇し始めた。そして、夜空に響き渡るほどの雄叫びを上げた。
「フレイラ、気を付けろよ!」
水月は霊刀・十六夜を腰元に当て、抜刀の構えを見せた。
次の瞬間、グリズリーは歯を剥き出し、2人に向かって突進して来た!
2人は身構える!
グリズリーが、2人の目の前まで迫って来たその時、グリズリーの足下に『拘束術陣』が現れ、聖霊術陣に取り囲まれたグリズリーの動きが止まった。
「これは……!?」
水月とフレイラは息を呑んだ。
その直後、グリズリーの背後の床面から『空間跳躍術陣』が浮かび上がり、中からローザとリュートが姿を現した。
「ローザ姉様!」
ローザは周囲を見渡した。
「無事に避難は完了した様ですね?ご苦労様でした。後は、お任せ下さい」
ローザはグリズリーの真正面に立ち、妖精剣・ティンクアベルの剣先を突き出した。
「たくさんの方々の命を奪った貴方には、父と子と聖霊の御名の下に天罰を受けて頂きます」
《助けてくれ!私は、ただ上司が憎かっただけなんだ!》
グリズリーに取り込まれた魂の思念が、ローザに訴え掛けた。
「……残念ですが、これは神の意思です」
父なる神、子なるキリスト、聖霊なる内神。これら3つの神格を1つの絶対神として崇める神聖ローマ教会に属する祓魔師は、『神意の執行者』とされる。要するに、教会の意思は『神の意思』だという解釈だ。
ローザは、夜空に向かって聖霊術陣を描き始めた。
聖霊術師は、複雑な聖霊術図式を組み合わせた聖霊術陣を描く事で、より高度な聖霊術を発動させる事が出来る。しかし、高度な聖霊術陣を描くには、ある程度の時間を要する為、術者は一時的に無防備となる。
その様な時、盾となり、正聖霊術師を守護する事が守護者の役割だ。
ローザの守護者・リュートは、ローザが聖霊術陣を描いている間、グリズリーの真正面に立ち開かり、ローザの盾となった。
「ありがとうございます、リュートさん。貴方もお下がり下さい」
聖霊術陣を描き終えたローザは、両手を広げ、夜空に聖霊術陣を放った。
上昇を続ける聖霊術陣は、夜空に紛れたかと思うと、たちまち暗雲が立ち込め、雲の中でゴロゴロと鳴り始めた。
次の瞬間、天空から放たれた一筋の雷が、グリズリーに直撃した!
『裁きの雷』が下されたのだ。
グリズリーの魂は、それを覆っていた水晶玉もろとも粉々に砕け散り、身体を構成していた霊子も砂塵の如く消滅した。
霊魔となり、咎を犯した者の魂は、冥界の最下層へ堕とされ、無限地獄の苦しみを延々と繰り返すのだ……。
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ある晩、圭四郎は夢を見た。彼がまだ幼かった頃の記憶だ。
祭壇には、たくさんの花が添えられている。
壇上には、遺影が置かれている。儚げな美しい女性だ。
その女性は、圭四郎の記憶に残っている母親の面影そのままである。
圭四郎の周りには、伍代家の親族なのか、圭四郎にとって見覚えの無い大人達が囲んでいる。
圭四郎は、目の前の柩に向かって、泣きじゃくりながら両手を伸ばした。そんな圭四郎を7才年上の姉が背後から必死に抱き留めている。その細い腕から小刻みな震えが伝わる。
「……圭四郎。これからは、私がお前を守ってあげるからな。だから、何も心配するな!」
姉は、圭四郎を力一杯に抱き締めた。
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圭四郎の枕元で目覚まし時計が鳴り響いている。
時刻は、午前4時を指している。
「また、あの夢……」
圭四郎の母親がこの世を去ってから7年が経つ。圭四郎が4才の時だ。
まだ幼かった圭四郎にとって、母親と過ごした時間は、あまりにも短すぎた。
その為、圭四郎には母親に関する記憶がほとんど無いに等しい。圭四郎の心の隅には、優しく微笑んでくれた母親の面影だけが、微かに残っているだけだ。
それだからこそ、圭四郎の母親に対する無意識下での執着心が、時々母親の夢を見させているのかも知れない。
「ヤバッ、早く支度をしないと、姉ちゃんに叱られるよ!」
圭四郎は布団から飛び起きると、小走りで洗面所へ向かい、支度を始めた。
「遅いぞ、圭四郎!」
本堂では、姉の水月がバケツと雑巾を床に置き、仁王立ちしていた。
「圭四郎、10分の遅刻だ!罰として、境内と本堂の周りの掃き掃除だ!」
「えーーー!?水月姉ちゃん、勘弁してよ~」
富士御霊山輪光宗浄霊寺。
伍代家は、先祖代々浄霊寺の住職として仏門に従じて来た。
浄霊寺は、世田谷区内の住宅街から離れた所にあり、敷地面積は1万平方メートルとそこそこ広く、敷地内には本堂と鐘楼堂、母家と道場が建っている。
現在、浄霊寺には祖父の舟越と長女の水月、そして長男の圭四郎が暮らしている。つまり、3人で寺を切り盛りしているのだ。
長男・圭四郎に至っては、まだ出家をしていない為、体面上は『家業の手伝い』という形を取っている。
「水月姉ちゃんは、人使いが荒いよ~」
圭四郎は、愚痴をこぼしながら境内の掃き掃除を始めた。
「コラッ、ダラダラしない!それが終わったら、周りもだぞ!」
「水月姉ちゃんの鬼ぃ~」
それから約1時間、圭四郎は黙々と本堂周辺の掃き掃除を続けた。
「ハァハァ……。水月姉ちゃん、終わったよ~」
掃き掃除を終えた圭四郎は、本堂で舟越と共に『朝の勤業』の真っ最中であった水月の所へ戻った。
「先に道場へ行っていろ。私もすぐに行く」
「うん……」
圭四郎は、背中を丸めて渋々道場へ向かった。
「……やれやれだな」
「……ちと、厳し過ぎやせんか?」
溜め息を吐く水月の隣で舟越が言った。
「お爺様、圭四郎は伍代家嫡男としての自覚が足りないのです!いずれは、浄霊寺を継ぐ事になるのですよ!」
母親の死後、水月が母親代わりとして圭四郎を育てて来た。それだからこそ、水月の圭四郎に対する思い入れは姉として以上に強いのだ。
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剣道着に着替えた圭四郎は、木刀を携え、道場へ足を踏み入れた。静寂の中で、板敷き床とワックスの匂いが漂う。
そこで、圭四郎は素振りを始めた。左腰に木刀を当て、腰を低く落とし、一気に払い斬る!
圭四郎は、この動作を何度も繰り返した。
「ハァハァハァ……」
50回ほど繰り返すと、圭四郎も息が上がってきた。
「おいおい、もうバテたのか?」
水月も剣道着に着替えて道場に現れた。
「圭四郎。私について来い!」
水月は、圭四郎を道場から連れ出し、裏の竹林へ向かった。幾本もの竹に囲まれた空間は、まるで時が止まった別世界だ。
竹林の中心辺りにまで来ると、薄暗く肌寒い。
水月は、圭四郎から受け取った木刀を左腰に当て、ゆっくりと腰を落とした。そして、目を瞑り、呼吸を調えた。
静寂の中で空気が止まった。
スッ……!
水月は、瞬きほどの速さで木刀を振り抜いた。
「夢幻流抜刀術一ノ奥義『風刃』」
真横に切断された竹は、ゆっくりと倒れ落ちた。
「……すごい」
圭四郎の額から汗が流れ落ちた。
「圭四郎。これは初歩中の初歩だ。伍代家の嫡男なら、これくらいは当たり前だ!」
夢幻流抜刀術。平安時代から一千年以上もの間、伍代家に受け継がれて来た一撃必殺の暗殺剣である。
古の時代から、多くの退魔師を世に輩出してきた輪光宗に属する浄霊寺の伍代家は、夢幻流抜刀術を武器に、先祖代々退魔師として活躍してきた。
圭四郎は、夢幻流抜刀術後継者として、普段から水月に鍛えられていた。
「僕は、水月姉ちゃんみたいに出来ないよ~」
「つべこべ言わずに練習あるのみだ!」
「ひぇぇ~……」
こうして、伍代家の一日は始まる。