霊魔編 3
その男は、新宿区のとある雑居ビルの前に立っていた。
彼は、足下に転がる自分とよく似た男の死体を目の前にし、呆然としていた。
やがて、通行人や近所に住む者達が近付き始め、男の死体を取り囲んだ。
死体を携帯カメラで撮る者。顔面蒼白で吐き気を催す者。物珍しそうに、割れた頭蓋骨の中身を覗き込む者等、目の前の死体に対する反応は様々だ。
男は、それらの光景を見渡しながら、一言呟いた。
《私は、……死んだのか?》
《そうだよ。おじさんは死んだんだよ。そこに転がっているのは、おじさんの死体だよ》
男が振り返ると、そこには10才位の男の子が悪戯めいた笑顔で立っていた。
野球帽をかぶった男の子は、一見するとどこにでもいそうな普通の男の子だが、男同様にその姿は周囲の者達に見えていないのだ。
《……君は、誰だ?》
《僕は、おじさんの味方さ。おじさんて、殺したいほど憎んでる奴がいるんでしょう?》
男の子の一言で、男の記憶が甦った。
《わ……私は……》
男は、中堅商社の経理係として20年間、地道に働いた。
しかし、会社の金を遣い込んだ上司の策略により、横領の罪を着せられてしまったのである。
かくして、濡れ衣を着せられ、警察に追われる身となってしまった男は、逃走の最中に入り込んだビルの最上階から咄嗟に飛び降りたのだ。
《……私は、上司が憎い。私を陥れたあの男が憎い……!》
震える声で拳を握り締めながら訴える男に、男の子は妖しく光る小さな水晶玉を差し出した。
《これは、おじさんの願いを叶える水晶玉だよ》
男は、男の子の掌から水晶玉をそっと取り上げると、自らの胸に押し込んだ……。
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放課後。私立天司学園高等部の体育館に隣接する道場は、連日たくさんの生徒で賑わう。
普段、放課後のこの時間帯は、女子剣道部が使用している。
私立天司学園女子剣道部といえば、この数年間で力を付け、今ではインターハイの常連校として名を馳せている。
この道場を取り囲んでいる輩は、高等部の生徒だけではなく、中等部や初等部の生徒達の姿も見受けられる。
彼等のお目当ては、女子剣道部主将にしてインターハイ個人戦全国ニ連覇中の天才美少女剣士『クール・ビューティ』こと伍代水月だ。
2年前、高校女子剣道界に突如として現れた新星は、一年生ながらも全国の並み居る猛者達を尽く秒殺し、高校女子日本一 の座に輝いた。
水月が繰り出すしなやかで美しい竹刀さばきは、観客だけではなく、審判員や相手選手さえをも魅了するほどであった。
この天才美少女剣士の噂は、瞬く間に世間に知れ渡り、多くのマスメディアにも取り上げられる事となった。
水月は、今や時の人となったのだ。
水月が更衣室から道場に姿を現すと、ギャラリー達から一斉に歓声が上がった。中には、携帯カメラで水月を撮り出す者もいる。
水月の生写真は、インターネットのオークションにおいて、割と高値で取り引きされているという。
「勝手に写真を撮らないで下さい!」
後輩の女子部員達が、周囲の内窓と出入り口を全て閉じ、ギャラリー達を道場から締め出した。
「助かったよ。ありがとう!」
「い……いえ」
微笑みながら礼を言う水月に対し、後輩の女子部員達は顔を紅潮させながら恐縮した。
「はいはい、皆さ~ん!下校時間は、とっくに過ぎていますよ~!」
外からローザの声が聞こえる。生徒会執行部による校内の見回りだ。
間もなく、道場の扉が外から開けられ、ローザが顔を覗かせた。
「剣道部の皆さん、ギャラリーの方々は帰られましたので、心置きなく稽古に励んで下さいね~!」
そう言ってローザは、右耳のピアスを指で転がしながら水月に目配せをした。
その瞬間、水月の表情は一変して厳しくなった。早彩からの『出動要請』が入ったのだ。
彼女達がGST隊員である事を知っている者は、この学園には誰もいない。それ故に、2人にはこの様な秘密のやり取りが成されるのだ。
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御影、圭四郎、留奈、そしてフレイラの4人は、放課後の帰り道に隣町の公園へ足を運んだ。
この町には、御影の自宅がある。
今朝、御影が通学途中に、たまたま通り抜けた公園の隅で『捨て仔犬』を見つけたのだ。
そして、放課後の帰りに皆で仔犬の様子を見に来たのである。
「何だよ、留奈。結局、付いて来てんじゃん!」
「……だって、圭ちゃんも……行くって言うから……」
留奈は、チラッと圭四郎に目を向けた。
「せっかくだし、みんなで行こうよ!」
そう言って圭四郎は、御影と留奈に微笑み掛けた。
フレイラは、そんな圭四郎の姿を背後から眺めていた。
「おっ、いたいた!」
御影は、公園の片隅に放置された段ボール箱へ駆け寄った。くたびれた毛布が敷かれた段ボール箱の中には、生後間もない薄汚れた白い仔犬が、か細く鳴いていた。
「わぁ、可愛いなぁ!」
留奈が仔犬を拾い上げると、小刻みに震える感触が両手に伝わった。
「どうだ、可愛いだろ?」
御影は自慢げだ。
「はい、フレイラ。そっとだよ」
留奈は、フレイラに仔犬を手渡した。
「よしよし、コイツは可愛いなぁ!」
フレイラは、仔犬を抱き抱えながら無邪気に笑った。普段の仏頂面からは想像出来ないほどの可愛らしいフレイラの笑顔に、御影と圭四郎は思わず頬を赤らめた。
『フレイラ、聞こえる?霊魔が現れたわ!』
突如、フレイラのピアスに早彩から出動要請の通信が入った。
『今、あなたの所へリュートを向かわせたから、もうじき到着すると思うわ』
GST隊員に支給されるピアスは、通信器と発信器を内蔵した優れ物だ。隊員個々の現在地をピンポイントで特定する事が出来る。
早彩の通信が途切れると同時に、公園の外からクラクションが2度響いた。
「フレイラ様ー!お迎えに上がりましたー!」
白い高級外車の中からリュートが顔を出し、フレイラを大声で呼んだ。
「……フレイラ、呼んでるよ」
圭四郎達は、フレイラに目を向けた。
フレイラは、急に寂しそうな表情に変わり、仔犬を抱き締めたまま視線を下に向けた。
「す……済まないな。急用が入ったらしい。私は、先に失礼するよ……」
そう言ってフレイラは、圭四郎に仔犬を手渡すと、俯きながら皆の前から立ち去って行った。
圭四郎達は、その寂しげなフレイラの後ろ姿を黙って見送った。
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「新宿区西新宿のオフィスビル内に霊魔が出現し、多数の死傷者が出た。ローザとリュート、水月とフレイラの2組に分かれ、各フロアを探索し、目標を殲滅せよ!」
午後3時過ぎ。新宿区西新宿のとあるオフィスビルの20階フロアに、突如男の悲鳴が轟いた。
被害者は経理課長の男で、全身を無残に切り裂かれていた。更に、その遺体の傍には、全長3メートルはある大熊型の霊魔が居座っていたのだ。
その後、グリズリーはオフィスの関係者達を無差別に襲った。ビル内には、未だ逃げ遅れた者達が数十人いるというのだ。
「今回は、空からの救援部隊と連携しながらの任務となる。各員の健闘を祈る!」
宗方は、ローザ達に簡単な作戦を説明した後、作戦指令車へ乗り込んだ。
「私達も行きましょう。水月さん、フレイラさん、ご健闘をお祈り致します」
ローザは2人に一礼すると、リュートと共に正面入口へ走り出した。
一方、水月とフレイラは互いに頷き合うと、裏口へ向かって走り出した。
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ローザとリュートは、空間跳躍術を使い、一気に20階へ跳んだ。
ローザは、神聖ローマ教会において『司祭』の位を持つ聖霊術師だ。
聖霊術師は、よく魔術師と混同されがちだが、全くの別物だ。
魔界との契約に基づいて術を発動させる魔術師に対し、天使の加護を受け、聖霊(内神=人の心に住む神)の力を引き出し、奇跡を起こすというのが聖霊術師だ。
「これは、酷い有様ですねぇ……」
ローザ達の目の前には、霊魔の犠牲となった人々の死体がフロア中に転がっていた。
「ローザ様。このフロアは、悪意に満ち溢れています」
リュートは顔をしかめた。
霊魔によって犠牲となった者達の魂は、恐怖と苦しみの中で絶命した事により霊魔化する恐れがある。それは、第2、第3の霊魔を出現させてしまう可能性があるという事だ。
「仕方がありませんね。念のために浄化しましょう」
ローザは20階フロアのほぼ中心点に立ち、右手の人差し指から霊子を解放し、『浄化』の聖霊術陣を描いた。霊子で描かれた聖霊術陣は具現化し、床一面に広がった。
「父と子と聖霊の御名の下、迷える魂を救い給え。彼の地、冥界へ誘い給え」
聖霊術陣の中心部から光の柱が立ち上り、ビル全体を包み込んだ。そして、ビルを包んだ光の柱は、ビル内とその周囲の彷徨える魂を吸い寄せた。
やがて、彼等は冥界を目指し、無に帰す事となる。
「浄化!」
光の柱は、彷徨える魂達を取り込みながら雲を突き抜け、昇天した。
ローザが『浄化』を施術したお陰で、ビル内の霊子ノイズがクリアになった。
『霊魔の現在地を特定しました。霊子レベル2。現在25階東側ホールにて確認。各自、避難者を発見次第、霊魔を牽制しつつ、屋上へ誘導して下さい。間もなく、救援部隊が到着します』
作戦指令車内の早彩からの通信だ。
「聞いての通りです、水月さん。私達は、ひと足お先に25階へ跳びます。水月さん達は、取り残された方々を捜索しながら上って来て下さい」
『分かったよ、ローザ。君達も気を付けなよ』
ローザは再び空間跳躍術の聖霊術陣を描き、リュートと共に25階へ跳んだ。
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「フレイラ、大丈夫かい?少し休もうか?」
「気遣いは無用だよ、水月。これくらい、何でもないさ」
水月とフレイラは、非常階段を使って20階へ上り着いた。
「済まないね、水月。私がローザ姉様の様に空間跳躍術が使えたならば、もっと効率良く任務に徹していただろうにね……」
「そんな事は気にしなくても良いさ、フレイラ。お前だって正聖霊術師になれば、高等聖霊術を使える様になるのだろう?」
フレイラは聖霊術師として半人前だ。言わば、仮免許の状態である。現在のフレイラでは、簡単な聖霊術図式に霊子を注ぎ込んだだけの小手先の術しか使えない。
「しかし、正聖霊術師になるには、守護者との契約が必須条件なのだよ」
リュートがローザの守護者である様に、正聖霊術師には運命を共にする守護者の存在が必要不可欠なのである。
高等な聖霊術ともなれば、聖霊図式は複雑化し、発動にも時間を要する。そんな術者の盾となり、時には矛となる守護者は、正聖霊術師にとって重要な存在なのだ。
「何だか、恋人探しの様だな?」
「ここここ恋人ぉ~!?」
フレイラは赤面した。
「そうだ!私の弟とではどうだろうか?たしか、君と同い年のはずだが……」
「水月に弟がいるなんて初耳だよ!……強いのかね?」
GST切っての剣の達人・水月の弟ならば、期待が出来そうだ。
「それが、全然ダメダメだな。丸っきりセンスがないというか……。朝晩と、私が稽古を付けてあげているのだが、全く進歩が見られないのだ……」
守護者には、誰でも良いという訳ではない。その役目には、施術中の間、術者を外敵から護り切る事が出来るほどの強靭な肉体が必要とされるのだ。