霊魔編 10
水月は、中央区築地市場に出現した大海老型の霊魔を退治すべく、学校を早退し、単身で現場へ向かっていた。
ロブスターは、両手の巨大なハサミで市場中を暴れ回っていたが、駆け付けた水月によって、その魂を冥府へ堕とされることとなった。
幸いにも被害は最小限に食い止めることができ、水月はホッと一安心も束の間、耳元のピアスに装着された通信機から、早彩からの緊急連絡が入った。
『水月、聞こえる?経堂駅前に霊魔が現れたわ!現在、霊魔は浄霊寺方面へ移動中。先にローザ達が向かっているわ。水月もできるだけ急いでちょうだい!』
水月は青ざめた。現在、祖父・舟越は宗団本部へ出張中で不在である。従って、浄霊寺には圭四郎が一人で留守番をしているのだ。
水月は、圭四郎を浄霊寺から遠ざけるため、自宅へ連絡を入れようと携帯電話を探したが、鞄ごと学校に忘れてきたことを思い出した。
「こんな時に、私は何をやっている!」
水月は、自分自身を叱責した。心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。無力な自分への憤りが、全身を駆け巡った。守るべき弟が、危険に晒されているかもしれない。その事実に、水月はかつてないほどの焦燥感に駆られていた。そして、自らの白いオートバイに跨がると、フルスロットルで浄霊寺へ向かった。
十七時。浄霊寺敷地内伍代家母家。
圭四郎は、自室で宿題に励んでいた。彼の傍らには、白い仔犬のミカエルが寝息を立てている。まだ小さなミカエルは、普段は座敷犬として室内で飼われている。
ミカエルは、圭四郎に付きっ切りだ。風呂も食事も布団の中も、ミカエルは圭四郎から一時も離れようとはしない。圭四郎も、そんなミカエルを実の家族のように思っていた。
その時、それまで体を丸めて眠っていたミカエルが、ふと目を覚ましたかと思うと、突然窓の外に向かって唸り声を上げた。
「どうしたのさ、ミカエル?外に誰かいるのかい?」
圭四郎が窓の外に目を向けると、石段を駆け上がり、血相を変えてこちらへ走ってくる好子の姿が見えた。圭四郎は、すぐさま部屋を出ると、足早に玄関へ向かった。
「ハァハァ……み……水月いる!?」
「天ちゃん、どうしたのさ!?水月姉ちゃんなら、出掛けてるよ!」
天童好子は、圭四郎から『天ちゃん』と呼ばれていた。
「圭四郎、逃げるのよ!化け物がこっちへ向かって来てるのよ!」
「化け物って、霊魔の事!?」
「話は後でね!早く逃げるわよ!」
好子は、圭四郎の手を取り駆け出した。圭四郎もまた、ミカエルを片手で抱えながら好子に引きずられるように走った。
浄霊寺正面口石段前。
剣道防具に身を固めた霊魔・金剛寺は、ズシッと重みのある足音を響かせ、浄霊寺へ近づいてきた。
「やっとの御到着かい?悪いけど、ここから先には行かせられないねぇ……」
好子と共にひと足先に浄霊寺へ到着していた桜子は、石段に腰掛けながら不敵に笑った。金剛寺は桜子を見据えると、鋼鉄製の竹刀を上段に構えながら桜子へ突進してきた。金剛寺が振り下ろした竹刀は、桜子が腰掛けていた石段をいとも簡単に粉砕した。桜子は金剛寺の一振りを軽々と躱かわすと、両腕を広げた。
「出いでよ、ソメイヨシノ!アマギヨシノ!」
桜子の左右両側に円形の自在法術式紋様が浮かび上がり、桜吹雪に包まれた桜子は、両側から二本の霊刀を引き抜いた。椿二刀流免許皆伝予定の桜子は、右手に『霊刀・ソメイヨシノ』、『左手に霊刀・アマギヨシノ』を握り締めて構えた。
「アンタ、武帝高の金剛寺の成れの果てだろ?私と勝負しないかい?」
桜子は、右手の霊刀・ソメイヨシノの剣先を金剛寺に向け、クルクルと回しながら挑発した。金剛寺は鋼鉄製の竹刀を中段に構え、擦り足で桜子との間合いを徐々に詰めていった……。
次の瞬間、金剛寺は、外見から想像できないほどの瞬発力で桜子に『突き』を食らわせた!桜子は、咄嗟に二本の霊刀を交差させ、金剛寺が繰り出した『突き』の直撃を辛うじて受け止めたが、勢い余って吹き飛ばされてしまった。
桜子の身体が宙に舞い、石段に激突する寸前、青白い半透明の球体が桜子の身体を包み込み、クッションの役割を果たした。ローザが放った聖霊術陣の一つ、『球形防御壁陣』だ。
「椿桜子さんですね?宗方さんから連絡を受けています。お怪我はありませんか?」
実は、椿桜子は人員不足のGSTに輪光宗から派遣された補充要員であった。
「へぇ~、高等部の生徒会長さんも、GSTの隊員だとはねぇ……。面白くなりそうだねぇ」
桜子は、そう言って立ち上がると、再び二本の霊刀を構えた。ローザも妖精剣・ティンクアベルを具現化し、その剣先を金剛寺に向けた。更に、金剛寺の背後には、リュートが三叉槍・トライデントを突き出して構えている。これで、金剛寺に対する包囲網が出来上がった。
好子と圭四郎は、本堂の本尊仏裏に身を隠した。
「後は、GSTが来てくれるのを待つだけね……」
好子は、浄霊寺へ向かうタクシーの車中から警察への110番通報をしていたのだ。圭四郎は、好子の不安を察したかのように僅かに震える彼女の手の上に自らの手を重ねた。
「天ちゃん、大丈夫だよ。水月姉ちゃんやGSTのみんなが、必ず来てくれるよ!」
好子は、圭四郎の小さな手の温もりに勇気づけられた。
「……そうだね。水月は強いもんね」
その時、圭四郎に抱えられていたミカエルが唸り声を上げた。圭四郎は、ミカエルの全身の毛が逆立つのを感じた。二人は夕日に照らされ、本堂の扉に映し出される霊魔・金剛寺の姿を目にした。好子は、圭四郎の体を抱き寄せた。
その直後、本堂の扉が木っ端微塵に吹き飛ばされ、金剛寺が顔を覗かせた。
《伍代水月は、何処にいる?》
金剛寺が、本尊仏へゆっくりと近づいてくる。好子と圭四郎は、声を押し殺した。と、その時、ミカエルが圭四郎の腕の中から抜け出し、金剛寺の顔面に飛び掛かった!
「ミカエル、ダメだよ!」
好子は、その一瞬の隙をついて圭四郎の手を取り、本堂から飛び出した。金剛寺は、面に食らい付いたミカエルを鷲掴みにして強引に引き離すと、容赦なく外へ放り投げた。
「ミカエルーっ!」
圭四郎達の頭上を放物線を描くように投げ飛ばされたミカエルは、無情にも石段の外へ落下していった。
ミカエルの犠牲にがっくりと肩を落とす圭四郎の背後に、金剛寺の姿が迫る。
「……仔犬を放り投げるとは、感心しないのだがね」
フレイラがミカエルを抱き撫でながら、空中浮遊術陣に乗って現れた。
「フレイラ、来てくれたんだね!」
圭四郎は、フレイラに抱かれたミカエルの無事な姿を目にし、思わず涙が込み上げてきた。一方、空中に浮かぶ赤毛の女の子を目の当たりにした好子は、目を丸くしながら圭四郎に尋ねた。
「け……圭四郎、あの子は?」
「GSTのフレイラ。正義の味方だよ!」
圭四郎は、満面の笑みで答えた。
浄霊寺正面口石段前。
ローザ、リュート、桜子の三人は、野球帽を被った一人の男の子を取り囲んでいる。
《あのお兄ちゃんが、死んで霊魔になってまで叶えたかった夢の邪魔だけは、させないよ~》
野球帽を被った十歳くらいの男の子は、悪戯めいた笑顔をローザに向けた。ローザは男の子の発言から察して、最近、急増する霊魔犯罪は、この男の子が関与していると確信した。
「何の為に、この様な事を……?」
《僕はね、この世界の人間達の夢を叶えてあげているんだよ!》
人間誰しも、心の奥底に様々な欲望を抱いている。だからと言って、誰もが欲望のままに行動することができる訳でもない。男の子は、その様な現世界の人間達が抱く欲望を『死』を代償にして後押しをしているのだと言う。彼の言葉には、邪悪な思想と、どこか退屈そうに世界を眺めているような、虚無的な響きがあった。
「……気に入らないねぇ。アンタ、霊魔の分際で神様にでもなったつもりかい?」
桜子は、二本の霊刀を構えながらジリジリと間合いを詰める。男の子は桜子に顔を向けると、ケタケタと笑い出した。
《アハハハ!二刀流のお姉ちゃん、僕をあんな奴等と一緒にしないでよ!》
男の子は、そう言って自らの霊子を最大限に解放した。男の子を中心に、解放された霊子の衝撃波がローザ達に襲い掛かった。
「何という霊子圧だ!」
リュートは、男の子が放った霊子圧に圧倒された。その時、作戦指令車の早彩から三人へ通信が入った。
『そいつは霊子圧レベル5、「霊鬼」として認識されたわ。輪光宗の退魔僧が来るまで、何とか時間を稼いで!』
一般的に、霊魔の霊子圧力を示す霊子圧レベルが『5』を超えると、それは『霊鬼(霊子集合体悪鬼)』に区分される。霊鬼は、欲望のままに行動する霊魔とは違い、高い知能と能力を持つ。彼等に対抗し得る者は、司祭以上の祓魔師、又は上位の退魔師くらいだ。
「ナメられたモンだねぇ。私だって、五の位を持つ退魔僧だよ!」
桜子は、交差した二本の霊刀を前へ突き出しながら突進した。
「無茶だ、新人!」
リュートが叫んだ。桜子は霊鬼との間合いを詰め、交差した二本の霊刀を一気に振り下ろした!しかし、渾身の力を込めた桜子の二太刀は、俊敏な身のこなしを得意とする霊鬼を捉えることはできなかった。
《アハハハ!お姉ちゃん達、遅いよ……》
その時、霊鬼の不意を突いて、ローザが斬り込んだ!霊鬼は一歩退き、首の皮一枚の所でローザの一撃を躱かわした!
《フウーッ!祓魔師のお姉ちゃん、ヤルねー!僕、びっくりしたよー!》
そして、ローザから笑みが零れた。
「坊や。びっくりするのは、これからですよぉ」
ローザは、予め霊鬼の足下に聖霊術陣を仕掛けていた。霊鬼は、リュート達との戦闘に気を取られていたせいで、ローザの施術には気が付かなかったのである。
《な……にを……した……の……?》
ローザの合図で『鎖縛拘束術陣』が発動した。『鎖縛拘束術陣』は、『拘束術陣』の上位術陣であり、その名の通り全身を鎖によって巻き付けられたように全く身動きを取ることができなくなる。
《こ……こんな……もの……!》
霊鬼は力尽くで解術を試みるが、もがけばもがくほど、締め付けがキツくなる。
「やるねぇ、生徒会長」
そう言って、桜子は霊鬼に視線を向けた。
「坊や、悪戯が過ぎた様だねぇ。困った坊やには、お仕置きをしないとねぇ……」
桜子は、二本の霊刀をクルクルと両手で回しながら、霊鬼へゆっくりと近づいていった。
《に……二刀流のお姉ちゃん、ご……ごめんなさい!》
「観念するんだねぇ!」
桜子が二本の霊刀を振り上げた時、突如彼女の頭上の空間にヒビが入り、ガラスのように割れた。頭上の異変に気付いた桜子は、咄嗟にその場を退いた。
「今度は、何だい?」
リュートは目を凝らした。
何と、割れた空間の中から、チャイナドレス姿の女性が姿を現し、飛び降りてきたのである。彼女の出現は、まるで空から降ってきたかのような、超常的な現象だった。彼女の顔は、驚くほど整っており、その瞳には、深い知性と冷たい光が宿っていた。