1章 魔導の転生 1-8
言葉とは裏腹に、ルレアはすこぶる楽しそうだ。
頬を薔薇色に染めて、乱れた呼吸で上下する胸を片手で押さえながら、それでもこみあげる笑いに抗うことができないかのように。
ゾムターク山脈から涼やかな風が吹き降りてきて、蜂蜜色に輝く彼女の髪をふわりと持ち上げ、さらさらと梳いてゆく。太陽そのものであるかのような瞳は、陽光のもとでなおいっそう煌めいてみえた。
ふれあうほどに間近にあった顔に気恥ずかしくなり、ヴァンドーナが視線を逸らす。
屋根の傾斜は、おとなでも足が竦んでしまうほどにキツいものだ。地面は遥か下にある。別の意味でも鼓動が早くなってしまうのだった。
「……無茶をする行為は、心配している相手の寿命を縮めてしまうんだぞ。そしてもちろん本人の命も。もっと大切にして欲しい」
彼女が転げ落ちなくて良かった――本音と安堵のあまり、思わず口調が強いものになってしまう。
視線を逸らしてしまったので、彼女の表情は見えない。呼吸すらも止めてしまったかのように静かになってしまったらしいルレアに、彼はひどく不安になった。
視界の端で、金色のやわらかそうな髪が揺れた。――泣いているのだろうか、それとも怒ったのだろうか?
「あ、あのさ、怒っているわけじゃないぞ。俺はただ心配をして」
言いながら顔を向け、驚きのあまり声をあげるところだった。
「心配してくれているなんて……わたし、感激してしまいました!」
ルレアは彼に向けて身を乗り出していたのである。いっぱいに見開かれた目。瞳には深い部分まで光が当たっている。息がかかるほど近い距離、こんなにも嬉しそうな無邪気な笑顔を向けられては、なにも言えなくなってしまう。
言葉を失った彼は、いま自分がどんなに間抜けな表情をしているのか心配になった。心臓の音が耳の奥で音高く響いている。空気を吸い込もうにも彼女があまりに近過ぎて、それすらも許されていないような緊張を感じていた。しかし、どきどきと鼓動を乱した胸の痛みが決して苦しいだけのものではないと――。
そのような気持ちをどう呼ぶのかまで思い至らないまま、彼はうつむき、なんとか取り繕うように問うた。
「それで、どうしたんだい?」
「あら、すっかり忘れかけていました。えぇっとですね……もうすぐ夕食ですから、呼びに来たんでした」
「そんなことだけで俺を、こんな場所まで?」
答えはなかった。てっきりいつものごとく「はい」という返事が返ってくるかと思っていたヴァンドーナは、訝しげにもう一度、彼女と視線をあわせようとした。だが、目線は彼女と入れ違いに空にぶつかってしまう。視界いっぱいに広がった空は、もう日暮れだった。
ふわりとした気配と甘い香りの風が彼に届く。膝を立てていたルレアは、目の前ではなく彼の隣に座っていた。
染まりゆく夕空と同じ、透けるようにあざやかなオレンジ色の瞳を、彼女は目の前に広がる森へと投げかけていた。ヴァンドーナのもの問いたげな視線に気づいたのか、彼のほうに顔を向けて微笑みながら口を開いた。
「お隣、いいですか?」
「もう座っているじゃないか」
「ふふっ。わたしのことじゃないんですよ」
ルレアが「ほら」という言葉とともに開いた掌には、ちいさな小石があった。親指の先ほどの、ごつごつとした固そうな黒色の――いや、小石ではなさそうだ。
「これ、種なんです。《樹擬人》のものなの」
「あの動き回ることのできる樹木の? どうしたんだ、それ」
「鳥に運ばれて、お庭に落ちてしまったみたいなんです。そのまま放っておいたら育たないでしょ? だからわたし、森に戻してあげようと思って」
「育たない? この屋敷の庭ならどこでも肥沃な土があるじゃないか。種ならば放っておけば自然に芽が出るものだろう?」
「この屋敷では育つことができないの。死んでしまうことはないけれど、ぜったいに芽は出ないわ。環境維持のために調節された《結界》によって植生の変更はできないように定められているから」
そこまで聞いて、ヴァンドーナは急ぎ視線を投げ、眼下の広大な庭を眺め渡した。
なるほど確かに、うっすらとだが光の濃淡が模様のように庭全体を覆っているようだ。涼やかな薄い、ごく薄いヴェールのようでもあり、色のついた空気のようでもある。瞳に力を籠めてみると、それらが幾重にも張られた複数の《護りの結界》らしき魔法陣が相互に干渉しあって織り成されている魔法の力場であるとわかった。
「おとうさまが安全のために張っているものだから、わたしが勝手に壊したり変更したりするわけにいかないの」
「……なるほど、本当だ。驚いたよ、ここから何度も眺めていた光景なのに……あまりに自然な感じで、庭の造形に馴染んでいて気づかなかった」
「おとうさまは景色に溶け込ませるようにこだわって配置したと言っていましたわ。王宮に使われている技術の応用らしいですよ」
「王宮……?」
「このソサリアの王都ミストーナにある、白亜の王宮のことです」
「あぁ」
ヴァンドーナは頷いた。この王国の地理と歴史、のみならずこの現生界のたどってきた歴史――伝え遺されているものすべてを知識として習っていたからだ。
「この世界には、魔法があふれているんだ。そしてそれを遣うことができるなんて。あの夢――《名無き神》と遭ったのはやっぱり現実のことなのか」
「え? 《名無き神》って――きゃッ!!」
ルレアがその名を口にしたときだ。穏やかに吹いていた風が突風となって吹きつけ、姿勢を崩した彼女の掌の種が落ちそうになった。とっさに握りこんだ彼女のからだがぐらりと傾ぐ。
急な屋根の傾斜に、ルレアの姿勢はあっけなく崩れた。
「――ルレアッ!」
しっかりと種を握りこんだまま宙を泳いでいたルレア。その細い手首に飛びつき……間一髪、掴むことができた!
ヴァンドーナは足を突っ張り、自分までもが滑り落ちそうになるのをなんとか堪えようとした。
ルレアの体重は驚くほど軽い。これがおとなならなんの問題もなかっただろう。だが、筋力の未発達な少年の力では、支えきれない。落ちないようにその場に留まるのが精一杯だ。
地面はあまりにも遠かった。叩きつけられれば骨折程度ではすまないだろう。
「ヴァン……!」
さすがの彼女も、焦ったようにオレンジ色の目を見開いている。手を掴んだときすでにかなり滑り落ちてしまっていたらしい。彼女のからだは完全に屋根の端から宙へと投げ出され、不安定に揺れていた。ヴァンドーナの背筋を冷たいものが駆け抜けた。
どうすればいいのか――このままではすぐに自分の腕が力尽きてしまい、ふたり一緒に落ちるだけだ。緊張のあまり掌にかいてしまった汗で、掴んでいる彼女の手首がずるりと滑りそうになった。
焦る頭脳がヒヤリと冷え、そのはずみで彼は肝心なことをようやく思い出した。
「魔導を! このままではふたりとも落ちてしまう」
ルレアの瞳がハッとあがる。今にも泣き出しそうな表情になって首を振り――僅かなためらいのあと、巻き込みたくないとでもいうかのように、あろうことか彼の手を解こうとしたのだ!
「……ルレ……くそっ!」
ヴァンドーナは叫び、屋根の割れ目に突っ込んでいた指先を躊躇なく離した。空中へとみずから飛び出しながら、すばやく腕を振り上げる。教わったとおりの然るべき動作を、寸分違わぬように忠実に再現し――。
その瞬間、見事な魔法陣が具現化した。
まばゆいほどの光の紋様が空中に輝き、同時に落下の勢いが弱まった。手と手とを繋げたまま、ふたりのからだは羽根が地面に落ちるよりゆるやかに、穏やかに庭の草のやわらかな場所目指して降下していく。
ヴァンドーナはホッと安堵の息を吐き、思わず腕のなかの少女のからだを抱きしめた。びっくりするほどしなやかで細やかな感触が伝わってくる。そのからだがはっきりと震えているのが分かった。
ヴァンドーナは驚き、そのはずみで魔導の技に対する集中が緩んだ。一気に落下したが、そこはもう地面の上だった。
「あ、ありがとう」
まろやかな響きをもつ声が、弱々しげに発せられた。抱きしめられたままのルレアの頬がぴったりと、彼の決して厚くはない胸に押し付けられている。無意識に彼女を抱きしめてしまったようだ、とようやく気づく。
ヴァンドーナは慌ててルレアのからだを開放した。
「良かった、無事で。……ごめん」
言葉の後半部分は抱きしめてしまったことに対する謝罪であったが、正しく相手に伝わったのかどうか彼には分からなかった。ルレアは耳まで真っ赤に染まっていたからだ。
「ううん、ありがとう。本当にごめんなさい……」
ルレアはうつむき、小さな声で礼を言った。
「あ、いや、その――あ、種はどうした?」
「あ、うん、だいじょうぶ。ここにあるわ」
ルレアは握りこんだままであった掌を胸の高さまで上げ、開いてみせた。種は無事だったが、掌にくっきりと種の表面の模様が残ってしまっている。
「……あっ、必死だったから。ついぎゅっとしてしまって、大丈夫かしら」
「これからその種、さっそく森に植えに行かないか」
「本当っ? 行きたい、行きます!」
ルレアが一生懸命に伸び上がるようにして返事をした。その様子に、ヴァンドーナはホッと安堵の息を吐いた。
ふたりはそのまま庭を横切り、門を抜け、森の中を歩いていった。
あたたかな陽光の輪と葉陰の斑模様をすべらかな肌に躍らせて、ルレアは弾むような足取りで歩いていた。やがて立ち止まった場所は、大樹に囲まれながらも太陽の恵みを充分に享受することのできそうな、とても気持ちのよい空間である。
蜂蜜色の髪に陽の光を飾りながら、彼女が嬉しそうな表情で振り返る。
「このあたりでいいかなって思います。屋敷から近いし、すぐに様子を見に来れますもの」
いまだに屋敷の外は、危険な魔獣の闊歩する森であることに変わりはなかった。それは、この世界での当たり前の光景らしい。
けれどたった三ヶ月経っただけであったが、魔導の技を手に入れたヴァンドーナにとって、森はもはや恐れる領域ではなくなっていることも事実であった。
魔導の力は素晴らしい。その成長ぶりは、肩を並べて同じように勉強に励んできたルレアも同じであるはずなのだが――。
ヴァンドーナは屈み込んで土を掘るのを手伝いながら、無邪気に微笑む彼女の顔をそっと見つめた。
さっき落ちかけていたとき、魔導を使うように言われたときの反応。そして表情。
気のせいでなければ――それは、のほほんとして快活な普段のルレアからは想像すらできなかった、胸を締めつけられるほどに悲しげな表情だったのである。