1章 魔導の転生 1-6
次に目を開いたとき、彼の瞳に映っていたのは空ではなく天井だった。
豪華ではないが美しい彫刻、正確な五角形の辺を延長して繋げたかのような星の模様が大きく描かれていた。いや、それは星ではない――五芒星と呼ばれるものだろう。ぼんやりとした視界の中でも、その見事な装飾は彼の心を揺さぶった。
もっとよく見ようとして目を開いた途端、ズキリとした痛みを感じて呻いてしまう。目覚めたばかりの瞳に、周囲の光は眩しすぎた。
光量を少しでも減じようと眉を寄せて目を細めたとき、近くで生き物の動いた気配があった。シャッという小気味よい音とともに光がやわらかなものになる。
「お目覚め、ですか?」
聞いたことのある声が、耳に心地よく響く。
視線を天井から下へと移動させると、そこに蜂蜜色の髪とオレンジ色の瞳をした少女がいた。その頬にも額にも血の跡はない。怪我などしたことのないようにすべらかな肌が、弱められた光の中でも際立ってくっきりと浮かび上がるように見えた。
夢の余韻を引きずって緊張したままだった意識が、ホッとしたと同時に緩んでいく。森の中での記憶をたどり、今の状況を理解して、彼は安堵のため息をもらした。
「……無事、だったのか」
「はい。おかげさまで」
「そうか……よかった」
心底安堵したように息を吐くと、少女はまじまじと彼を見つめ、それからにっこりと微笑んだ。
「あなたのおかげなんですよ。どうもありがとう」
「……俺の?」
ふたりは崖から落ちたはずだった。満足な受身を取れたとも思えない。それがどうして助かったのか、なぜ礼を言われることになったのか、さっぱり理解できなかった。
返答に困ってしまった彼が無意識に首を巡らせたとき、そこが寝室のような広い部屋であり、寝台に寝かされていることに気づいた。着ているのは上質な布で作られた寝巻きである。機械ではなく、手で縫われたかのように丹精で丁寧な針の運び。ひどく高そうな品だ。
そう思って周囲をまじまじと見直してみれば、掛けられた寝具も家具もカーテンも、そして少女の着ているシンプルなドレスすらも、質の良い高価なものであると気づく。
いわゆるお嬢さまなのか――だとすれば、どこか浮世離れした態度も、丁寧でのんびりとした口調も頷ける。彼女の父親というのは金持ちか、貴族とか上流階級とかいうものに違いない。
彼はすこしばかり口の端を歪めてしまう。身分や階級、権力などという言葉は好きではなかった。
「俺たち、段差から下へ落ちたはずではなかったか?」
口調が冷たいものになってしまったのは、反省すべき点だろう。
「俺が下敷きになってクッションにでもなったというなら、それは自然にそうなっただけのこと。別に礼を言われることではないと思う」
少女はそんな彼の様子を不思議そうな視線で見つめたあと、ぱちぱちと大きな瞳を瞬かせ、それから彼のそばに歩み寄った。ふわりと寝台のそばの床に座り込むようにして手を掛け布の上に置き、からだを伸ばすようにして彼の顔を覗きこむ。
「でも、お礼を言いたいの」
蜂蜜色のヴェールの内で、少女はにっこりと笑った。笑うと、肌色が抜けるように白いせいか頬がほんわりと薔薇色に染まる。明るい瞳が、楽しそうな光を宿してきらきらと輝く。
その神秘的な虹彩をもつ大きな瞳に自分の姿が映っていることに、彼は気づいた。
その姿はまぶたの裏にうっすらと残っている、ここではない場所――或いは夢の中で出逢った、超然とした態度の《名無き神》と同じ面差しをしていた。ただしこちらのほうは、まるで家への帰り道を失ってすっかり途方にくれた迷い子のように、ひどく頼りなさそうな表情をしている。
「あなたは、とぉっても強そうなのに、魔法で木々を焼き払おうとか、ぜんぜんしなかったでしょう? あなたのほうがたくさん傷を負っても、木々を傷つけなかったんですもの。おかげでわたしたち、助かったの」
彼にやわらかい笑顔を向けながら、少女は唇をすぼませて言葉を続けた。まるで特別な秘密でも囁くときのように。
「落ちるわたしたちを、《樹擬人》たちが救ってくれたの。森のみんな、あなたを好きになったみたい。すごかったのよ、崖の途中から一気にぼこぼこぼこぼこって根が出てきて。まるで広げられたネットみたいに絡み合って広がってね、わたしたち、それに包まれて助かったんです」
「へぇ……?」
彼はぽかんとした。一瞬、空中に伸び上がった根と凄まじい形相をした生き物の姿が脳裏に閃く――あれは、やはり夢ではなかったのだ。魔竜と呼ばれる捕食恐竜から必死に逃げたことも、植物とは思えない動きをしていた木々たちも。彼女から噴き出した不可思議な炎のオーラも、無数に負った傷の痛みも、すべて。
そしてハッとしたように、彼は自分の腕を目の前まで動かして眺めてみた。傷はきれいに消えていた。痕跡すらない。
「あ、怪我はおとうさまが治してくださったの。《完全治癒》を使ったから傷の跡は残りませんでした。おとうさまは《生命》の――」
そのとき、部屋の扉が開いた。少女は言葉を切った。
重々しい木製の大きな扉は、軋みひとつ上げることがなかった。ふいを突かれて彼は驚いたが、少女は焦ることなくゆっくりとからだを起こして真っ直ぐに立った。
入ってきた男は、いかめしい顔と堂々とした物腰、丈高い学者然とした偉丈夫だった。思わず対峙する者の背筋が伸びてしまうほどの佇まいであったが、同時に親しみやすいあたたかな雰囲気も併せ持っている。
しかも、全身から輝く気配のようなものを放っていて、それ自体が細やかな文様を描くような流れをもっていた。まるで血液か体液のようだが、それほど視界を塞ぐようなものでもない。色のついた涼やかな空気を、音楽の旋律のように体内に巡らせているかのようだ。
命の輝きが目に見えたらこんなふうであろうか、と彼は思った。
そういえば、彼のそばに立っている少女も、からだの内にそのような流れを持っている。だからこそ彼女は、まるで光り輝いているように見えるのかもしれなかった。
そうか、と彼は今さらながらに悟った。これが彼女の語っていた『魔力』なのだと――。
「そろそろ目覚める頃合かと思い、来てみたのだ」
部屋に入ってきた男は、慈愛に満ちたよく通る低い声で少女に語りかけた。
少女に向けられた信頼と愛情に満ちた視線に、この者が父親なのだろうと彼は悟った。目の前に立ったその男は、まだ四十にも満たない年齢だろうに、すでにひとの世の様々を見てみがきぬかれたかのような眼差しをしていた。
寝台の上で上体を起こしている彼に、娘に対するものと同様の優しげな視線を向け、男はゆっくりと言葉を紡いだ。
「――どうやら大変な目に遭ったらしいな、少年よ。だがもう心配はいらぬ、ゆっくりと休んでからだを癒しなさい。わたしの名はルキアス・リム・メローニ。古きメロニアの都があった場所をこの地から代々見守り続けている魔導士の子孫であり、このソサリア王国の南東地方にあるラウスミルトという都市の領主としてこの屋敷に住んでいる」
その深い眼差しに見つめられた瞬間、彼は全身に電気でも通ったかのような衝撃を受けた。
不快なものではない。むしろ心地よいものだった。まるで歴史に名を残した憧れの有名人に、現実に対面できたときと同じ戦慄が奔ったかのように。
ルキアスと名乗った男は言葉を続けた。
「自身の記憶がないことは、娘から聞いている。そして、そなたのからだの内に流れるは、このわたしでも及ばぬほどに濃い魔導の血と膨大な魔力であることも。驚嘆すべきことだ。それほどまでの力を秘めた魔導士が我が領内を訪れていようとは」
ルキアスは目を細め、息を吐いた。
「このわたしでも察知することができなかった。驚きではあるが、興味もある。それにそなたが魔導士だというのならば、この現生界に数少ない我らの貴重な同胞ともいえるのだ。世界は広い。故に、この出逢いは大変に喜ばしいことだと、わたしは思っている」
彼はぽかんとした表情で動きを止め、それからようやく口を開いた。
「俺のなかに……何があるのだと今おっしゃいましたか? 『まどう』とはいったい……『マナ』という言葉も俺には聞き覚えがありません。この世界についてさえ、俺は何も知りません」
「何と……」
ルキアスと名乗った男は表情を消し、穴が開くほどに彼を見つめた。
まるで自分が裸のままに曝け出されているかのような心もとなさを感じ、彼は思わず目を逸らしそうになった。だがすぐに瞳に力を込め、黙ったまま静かに男を見返した。
男は彼の瞳を見つめたあと、ゆっくりと気遣うような微笑を浮かべて言った。
「なるほど……それほどまでの可能性を秘めていても、そなたはまったく書き込まれておらぬ書物の白紙のような状態であるというわけか。それは由々しい事態だ。そのままではいずれ自分の力に戸惑い、内外問わず破滅を引き起こすことになるやもしれぬ」
ルキアスは言葉を切り、しばし沈黙して天井を見つめた。何かを深く考えているようだった。
彼は待った。少女も何かを言いかけて口を開いたが、すぐに思い直したのか口を閉じた。
やがて心が決まったのか、ルキアスは視線を戻し、穏やかな微笑とともに口を開いた。
「事情は分からぬが、状況は理解した。安心しなさい。学ぶ気があるのなら、わたしがそなたに魔導と世界の理と知識、そのすべてを伝授しよう。わたしが後継人となってそなたを支え、標となってそなたを教え導けば、魔法の遣い手として道を踏み外すことも迷ってしまうこともあるまい。……どうだ?」
「え」
突然の言葉に戸惑い、彼は再び言葉を失ってしまった。だがその横で、少女が心の底から嬉しそうに歓声をあげて手を叩き、ぴょんと跳びあがった。
「つまり、この屋敷にわたしたちと一緒に暮らし、ゆっくりと学ぶべきことを学びなさいという意味ですよね!」
「そのとおりだ。娘も、ともに学ぶ友だちができて嬉しいようだし」
父親は娘に視線を向けた。少女はにっこりと笑って大きく頷き、少年のほうに向き直った。
少女の懇願するような熱い視線に、彼はぽかんとしたまま硬直していたが、やがてゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます。正直、右も左もわからないこの状況で、どうしたら良いのか途方に暮れていました。なにもかもが失われ、変化して……おそらく家族も知人も見い出せない場所だと思いますし。そもそもこの世界は俺の――」
「よい、よい。それ以上は語らずともよいではないか。重要なのは、そなたが今この瞬間から、わたしたちの家族になったということだ。そなたのように性根の真っ直ぐな、優しさを兼ね備えた者ならば安心だ。抱えている事情や生まれは問題ではない」
「すてき! これからよろしくね、えぇっと……」
「そうさな、名前がないと不便だな。そなたに呼び名の希望はあるか?」
「え、いえ……特に」
「ならば、ヴァンドーナという名はどうだ。魔法王国期より前から伝わる古き言葉で、《尊ばれるもの》という意味がある」
ルキアスは微笑んだ。
「ちなみに娘はルレアという。《優しきもの》という意味だ」
「お父さまは、言葉をとても大切にしているんですよ。それこそ古今東西、たしゅた――んっと、多種多様な言葉の数々を、です。教わるほうはいっぱいありすぎて大変なんだけど! これからあなたもあたしと同じく、勉強ばかりで忙しくなると思うわ。でも一緒にがんばれば、勉強もうんと楽しいと思います!」
「魔導の遣い手は、歴史や言葉をはじめとする知識の継承者でもあるからな」
「ねぇヴァンドーナ。おなかすいてないですか? それとも屋敷を案内します? あぁ、すっごく嬉しいです、ヴァンドーナ!」
「これこれ、ルレア。一度に誘ったら困ってしまうだろう。落ち着きなさい。まずは彼に着替えをもってきてあげなさい」
「はぁい!」
少女は弾けるような笑顔で返事をして、からだをくるりと回してスカートの裾をひらめかせたあと、すぐに続き部屋の奥から着替えを持って軽やかな足取りで戻ってきた。
「ヴァンドーナ……俺の名前……」
少年は試すようにその言葉をつぶやいてみた。耳慣れない響きだったが、悪くない、とも思った。
なによりあたたかな陽射しにあふれる室内で、屈託なく笑う少女と父親――そのふたりの家族になって異世界での新たな生活がはじまることに、彼は妙にワクワクするような、胸の高鳴りを感じていたのである。