1章 魔導の転生 1-4
足もとから突き上げる、強烈な縦揺れ。鼻先をかすめ、大地を割り天高く突きあがった影がいくつも現れた。
粉砕された岩のかけらや小石が巻き上げられ、もうもうと立ち込める土煙が視界を閉ざした。
「なっ……」
唖然として上空を振り仰ぐ。地面から現れれたものの動きは凄まじく速かった。自分の今の背丈より遥か上に伸びあがった影は、ビュンとうなりをあげて宙を薙いだのだ。
魔竜が危ういところで後ろに下がった。その鼻先を削るように掠めたのは、見紛いようのない、生きた木の根だ。
黒い土にまみれた根が、使い込まれた鞭さながらのしなやかな動きで幾筋も宙を切り裂いている。見える範囲の大地はボコボコと穴を生じ、あるいは巨大な蟲が地中を這い進んだ跡のように盛り上がっている。
ガアアアァゥオオォォッ!!
突然の猛攻を受け、魔竜が怒りに瞳を血走らせて後脚で立ち上がった。深く息を吸い込み、周囲に向かって憤然と蒸気を吐き出す。
「うわッ」
程近くにいたこちらは後方へ下がることを余儀なくされた。蒸気をまともに食らった根が二本、苦しみに身をよじるように震え、白く変色して動きを止める。だがその仕返しとばかりに、地中から四本の根が飛び出した。
打たれ、引き裂かれ、魔竜の全身はあっという間に傷だらけとなった。けれどもともと頑丈な鱗に覆われた巨躯である。傷はどれも致命的なものではなかった。しかしその苛立ちは、他種族である人間の目にも明らかであった。
「これは……いったいなにが起こっているんだ。あれは本当に木の根なのかッ?」
問われた少女は、動揺しているこちらとは対照的な、とても落ち着いた声で答えた。
「このあたりの森には、木々に混じって《樹擬人》が棲んでいるんです。普段はとてもおとなしいので普通の樹木と見分けがつかないんですけれど、仲間を傷つけられたときの悲しみと怒りは敵にとって恐るべき脅威となるの。それで壊滅させられた人間の町もあるんだって、おとうさまから聞いたことがあります」
さきほどから気になっている、噎せ返るような緑の香りはフィトンチッドなのかもしれない、と今さらながらに気づく。天然物化合物テルペノイドを本体とするその芳香は、森林浴などの効能でも知られるが、実は殺菌力を持つ揮発性の物質だ。傷つけられた植物が、悲鳴のように発したのだろうか。
「木々も痛みを感じ、仕返しとして戦っているというのか」
ここが異世界ならば、そのような意思の伝達をして動き回る植物という進化の形があってもおかしくない……かもしれない。
自分がもと居た世界でも、断絶された島や絶壁に囲まれた台地で独自の進化を遂げている動植物は存在するのだ。もっとも、これほどまでに驚異的な生物は聞いたこともなかったが。敏捷な肉食動物並みに動いているのだ。
「……もと居た世界、だと?」
自分の思考に疑問が生じたが、今はそれどころではない。このままでは巻き添えを食ってしまいそうだった。
崖の端ぎりぎりで身を伏せているふたりのすぐ近くで、無数の大蛇のごとき根や蔓が《劣化蒸気竜》とやらを激しく打ち据えているのだ。ビュンビュンと凄まじい音が大気を切り裂き続けている。
不思議なことに、ふたりには蔓の先ひとつ掠めてすらいない。
だが、その竜巻さながらの攻撃を避けてこの場から逃げることもできず、ふたりはただじっと待つしかなかった。地面は激しく波打ち、震えている。まともに立ち上がることすらできなかった。
「植物はこちらを襲ってくることはないのか?」
眼前で繰り広げられている恐ろしい光景に不安を隠せず、彼は少女に問いかけた。
少女はまるで意外なことでも訊かれたかのように目を瞬かせて彼を見つめたあと、落ち着いた口調で答えた。
「大丈夫よ、襲われないわ。だって、あなたは彼らを傷つけていないもの。むしろ彼らに――」
少女が言葉を続けようとしたとき、魔竜の首が土埃を割ってふたりの眼前に現れた。蔓に打たれてよろけ、偶然にもこちらに顔が向いたのだ。
相手の眼球がぎょろりと動き、傍観者に気づいた。怒りの形相に変わり、その喉の奥から凄まじい熱があがってくるのがわかった。
「蒸気か――やばいぞ!」
彼が叫んだとき、すでに少女は立ち上がっていた。魔竜の鼻先で真っ直ぐに背を伸ばしている。巨大な頭部の前で、彼女の姿はひどくちいさく頼りなげに見えた。危険を感じた彼がその手を引くより早く、少女が叫んだ。
「おやめなさいッ!」
可愛らしい声音を懸命に大きく鋭いものにして、少女は両手を振り上げた。
「うわッ!」
まるで太陽フレアのごとく、少女の全身から炎のように輝く光が噴き出したのだ。
熱はない。少女の体を呑み込んだ真紅の篝火が、まるで本物としか思えないほどの立体映像のように、色のついた烈風をともなって周囲を圧倒したかのようだ。
魔竜が悲鳴のような高音域の咆哮を発した。驚いたようにその動きが止まり、剣呑な逆棘の並ぶ背がビクリと跳ねる。その爬虫類めいた瞳がいっぱいに見開かれた。
そこに浮かんだ光は恐怖のいろだ。
魔竜は仰け反るようにして慌てて向きを変え、蔓と根を必死に振りほどき、凄まじい勢いで崖とは反対方向へと突進していった。
……驚きのあまり言葉を紡ぐことすらできなかった。
魔竜が木々を倒してゆく騒音と振動が遠ざかると、少女の周囲に吹き荒れていた炎のような光は瞬時に掻き消えた。少女のからだが、そのままゆっくりと倒れかかる。
慌てて腕を伸ばしながら彼女に飛びつき、全身で受け止めた。崖の縁ぎりぎりの位置だ。幸いなことに、少女の体は熱くなかった。すべらかな肌はひんやりと冷たいくらいで、炎のようにみえた光はすっかり消え失せている。
「い、今のは……? あのドラゴンはなぜあんなにも怯えて逃げていったんだろう。それに……さっきの光はいったい」
「やはり、あなたには……見えたのですね」
ぐったりと弛緩したように身を預けたまま、少女がつぶやくように言った。
「ああ。まるで太陽フレアか燃え盛る炎のように見えた。あれは……いったい何だったんだ?」
「わたしのなかにある魔力を限界まで強めて、一気に放出したんです。それであの子に圧力をかけ、退いてもらったの。魔獣は――彼らはあまり賢くないの。本能に従う傾向が強いから、わたしのことを侮りがたい、危険な存在だと思ったのでしょうね。《樹擬人》たちの攻撃で、すっかり気が動転していたみたいですし」
「ま……な?」
「魔力というのは――」
彼の反芻した言葉に少女が答えようとしたとき、ビシリ、と不穏な音がいくつも響き渡った。足元の地面だ。
「く……まさか。やばいぞッ!」
怖ろしい予感に思わず叫んだ。だが、この場から少女を抱えて移動するには無理がある。どのみち、そんな時間はすでになかった。
「わあぁッ!」
「え――きゃぁああっ!」
なすすべもなく、砕け割れた足もとの岩とともにふたりは落下した。彼が少女をなんとか腕の中に抱え込んだとき、後頭部に凄まじい痛みが爆発した。どこかにぶつけたに違いない。世界が暗転し、青い空が回転する。
それらは全て、急速に覆いかぶさってきた闇の向こうに見えなくなった。