1章 魔導の転生 1-3
しゅおおぅ、しゅおおぅ、という耳障りな音は、目の前にある相手の喉から発せられている。
鋼のような光沢の鱗に覆われた表皮は、耳障りな呼吸とともに波打ち、骨格の動きは自然で無駄がない。踏みしめる足爪はガッシリと大地を掴み、悔しげに唸る牙の隙間から吐き出される息は生臭く、湿り気を含んで凄まじく熱い。
こんなに生気あふれるものが、作りものであるはずがなかった。
人間の頭ほどもある眼球がぎょろりと動き、こちらを睥睨する。圧倒的な眼力。その血走った眼球の表面に映るふたつの人影を、ただ獲物としか認識していないことがこちらまで刺さるほどに伝わってくる。
こちらを喰いそびれて、悔しがっているのだ。逃げないとまずいことになる――そう思いながらも、からだは麻痺したように動かなかった。
「さっき何と呼んでいた? まりゅう……『魔竜』か! でも莫迦な。こいつはいったい何なんだ」
あまりの恐怖にすくみあがりながらも、どこかまだ信じられないでいる。治安の良い平和な世界で暮らしてきたために、この状況が現実離れしすぎているのかもしれない。最新のアトラクションかハリウッド映画のように。
いっそ人工物であってくれたらよかった。だが、目の前のものはあまりにも生々し過ぎた。
唾だらけの巨大な口蓋とズラリと並ぶ先の尖った牙が、容赦なく迫ってくる。ばかでかい鼻面の周囲には蒸気の渦が生じたり消えたりしていた。どうやらこの恐竜もどきの吐く息は信じがたいほどに高温らしい。
「この大森林に住まう魔竜、《劣化蒸気竜》だわ」
囁くような声で彼女が言った。さきほどの独白めいた質問に、律儀に答えてくれたらしい。
「ありえない……ドラゴンだって?」
彼は己が耳を疑った――恐竜ではなく、架空上の生き物だというのか?
魔竜の鼻先から、呼吸音とともに細く蒸気の筋が吐き出された。どうやら信じなくてはならないようだ。恐竜や蜥蜴が高温の蒸気を吐くわけがない。
「……納得するしかないということか」
ドラゴンがブルッと巨大な頭部を振り、後脚を踏みかえた。ズズン、と地面が揺れ、視界がぶれる。
だがそのおかげで驚愕と恐怖による膝の硬直が解けた。少女の手を掴みなおし、つんのめるように地面を蹴って走りだした。もちろんドラゴンとかいう捕食生物とは、きっぱりと逆方向に。
「あ、あのっ、道はいけません! すぐ追いつかれちゃいます!」
少女が声をあげた。すぐ後方をズン、ズンという凄まじい衝撃が追ってくる。今にも頭上から巨大な顎がバクリと降りてきそうだ。
「確かに……そのとおりだ」
後方を確認したくなる衝動をこらえつつ、いきなり横に進路を変える。道の両脇に続くみっしりとした原生林のような緑の壁に、ねじ込むようにしてからだを突っ込ませた。途端に後悔してしまった。
「うわっ!」
たちまち剥き出しになっていた腕や顔の皮膚が枝葉に切り裂かれ、鋭い痛みが脳を貫く。心臓はバクバクと跳ね回り、横腹が引きつったような痛みを主張する。
それらを堪え、全力で走り進んでゆく。
「生きたまま昼食だかおやつだかになるよりマシだ」
後方に続く少女をできるだけ自分の真後ろにかばいながら、素手で低木や茂みをかき分け、天然の迷路の隙間を縫うように先へ先へと進んでいった。網のように絡み合った枝葉に視界を遮られ、スピードも出ず、極度の緊張と焦りに全身の筋肉が痙攣しはじめる。手足の傷の痛みは耐えがたいほどだ。自分の呼吸の音がいやに大きく感じられる。
「振り切れるかしら」
背後の少女の声。息を弾ませてはいるが、取り乱してはいない。彼に遅れることなく、掴んだ腕を逆方向に引っ張られることもなかったのがありがたかった。
後方の魔竜とやらは、大樹の幹をベキベキと折りながら、力任せに巨躯を突っ込ませているらしい。まるで巨大な戦車が森を驀進しているかのような凄まじい振動だ。たくさんの悲鳴が束ねられているかのような破壊音。相手が踏みしだいている大地が受ける衝撃で転んでしまいそうだ。
このままでは追いつかれる――そう思ったとき、緑の壁が唐突に切れた。
目の前に地面がない。慌てて脚を突っ張り、制動をかける。
「崖か!」
断層だ。落差は十メートルほど。そのまま飛び降りて無事で済む高さではない。足場はなかった。あまりの窮地に意識が錯乱しかけてしまう――充分に混乱しているというのに。
「大変なことになったみたいね」
妙に落ち着いた涼やかな声が響き、我に返った。ふいに押し寄せた濃厚な緑の香りに喉が刺激され、噎せ返りそうになってしまう。
「木々が悲鳴を上げているわ。このあたりの森は半分くらい意思をもっているから」
少年は思わずまじまじと少女の顔を見つめた。少女は肩や腕に血を滲ませ、蜂蜜色の髪を汗ばんだ白い額に張り付かせている。上気した頬を強張らせてはいるが、錯乱しているふうには見えなかった。なにか別のことを心配しているような、思慮深く気遣わしげな表情だ。
「意思をもっているって……森が?」
そう訊き返したときだ。ズン、と激しく大地が揺れた。同時にベキベキと凄まじい音も響いた。すぐ近くだ。
だが彼は、目の前の澄み渡ったオレンジ色の瞳から目が離せなかった。彼女はなにか重要なことを説明しようとしている。
「どういう――」
「シッ!」
少女はちいさな唇に指を当てて彼をたしなめると、手振りで「静かに」と伝えてきた。そろりと地面に身をかがめる姿勢になったので、それに倣う。
「こんな開けた場所で伏せたって、あいつにすぐ見つかってしまうぞ」
「いいえ、そうはならないと思うわ」
少女は確信に満ちた瞳で、ゆるゆると首を振った。
彼は黙った。なにもかもが現実離れしている状況、しかもどうせ数歩後ろは崖なのだ。目の前の森には、ドラゴンという名の捕食竜――まさに絶体絶命という名の状況だ。
なにか良い知恵はないかと、必死に考えを巡らせる。あの巨大な眼球に木切れでも刺してやれば、隙が生じるかもしれない。それとも相手がひるんだときに横をすり抜け、森に再び走り込んで身を隠すか。痛みに気をとられて、ちっぽけなご馳走のことなど忘れてしまうかも……。
ひときわ鋭い、生木の折れる凄まじい音が響き渡った。自分たちと魔竜を隔てていた最後の木が踏み砕かれたのだ。
恐ろしい予見に、彼は奮起した――喰われてたまるかと!
自分は今ひとりではない、少女が一緒なのだ。自分と出逢ったせいで死なせていいのか。否、死なせたくない。護らなければならない!
手近にごろごろと転がってきた枝の破片を、両手で掴む。魔竜にへし折られた太い木の先端は、まるで剣先のように鋭く尖っている。
「……うわあぁぁぁああッ!」
怒声を上げて突っ込んだ。首をもたげた凄まじい形相の顎から蒸気が吐き出され、まだ残っている低木の茂みを包み込む。じゅわっ、という胸の悪くなるような音ともに、緑の葉が一斉に萎れてしまう。
その幹が一瞬、身震いしたようにみえた。突撃をかけようとしていた足が思わず止まる。
次の瞬間、両手で抱え込んでいた太い木の枝がブルッと震えた。
思わず手の中から取り落としてしまう。同時に信じられない光景が繰り広げられた。