1章 魔導の転生 1-2
「これは……どういうことなんだ」
少年は――そう、まさに『少年』と定義できる年齢だ――驚きのあまり呆然としたまま、自分の腕を見下ろしていた。
そんな様子を、傍らの地面にちょこんと座り込んだ幼い少女が首を傾げ、ゆっくりと瞬きを繰り返しながら見守っている。
「夢、にしては奇妙だが。まさか……」
『転生』という言葉を、彼はなんとか呑み下した。いくらなんでもそんなことが――そう思ったのだ。
だが自分で発した声にも違和感があり、この見知らぬ世界に倒れていたという状況すら説明できない。それに夢でもないようだ。さきほど倒れかけたときに腕が地面をかすり、血が滲んだ箇所がある。痛い。夢ではない。
「とても信じられない。ありえないぞ」
ぶつぶつとつぶやきながら思考をめぐらせたが、混乱するばかりでなにも意識の底から浮上するものはなかった。
視界の中で動いている腕は、ため息が出るほどに頼りないものだ。まるで背が伸びている最中の子どものような棒状の手足……ひょろひょろと長いばかりで、健康的なしなやかさはあるが筋力はいかにも貧弱そうだ。
おそるおそる自分の顔や肩に手を伸ばしてみると、その手触りの良さと細さに驚く。すべらかな少年の肌。太陽に焼かれようとも決して色濃くはならないだろうと思われる、白い象牙のような肌だ。とてもではないが本来の自分と同一とは思えなかった。
「ちょっと待て……『本来の自分』とはなんのことだ」
自問してみて、今さらながらに気づいた。記憶がほぼ完全に失われていることに。
名前も、本来の自分の年齢も、住んでいた場所や親の顔すら、まったく思い出せなかった。意識して頭のなかを探ってみても、自分に関する記憶だけがごっそりと抜け落ちているのである。
だが、今のこの周囲を取り巻く光景を言葉で表現することはできる。試しにざっと頭の中に並べてみた方程式や暗算、百十二元素の周期表、ヒッグス粒子と標準理論、クォークやビッグバン、スーパーストリング理論すら抜けたところもないようだ。つまり、知識などは残っているということになる。
だが、自分自身の出生や人生にまつわる記憶というものに関してはきれいさっぱり失われていた。まるで人生という額縁が消えてしまったことで、収められていた知識のピースがごっそりと床の上に崩れ落ち、整理されないまま放置されているような状態なのかもしれない。
「そうだ、自分の顔を見ればなにか思い出すかも……。鏡でもあればいいんだけど――」
言葉と視線を向けられた少女は、すぐに首を横に振った。
「ごめんなさい。屋敷から抜け出してきたから、鏡は持っていないの。荷物もなにもないわ。もし必要なら《風の障壁》でも作ってみたらどうかしら? あの魔法陣なら、表面に平らな空気の膜が張るから鏡がわりに使えそうよ」
「まほう……じん?」
「え……あ、あら?」
驚いて訊き返したら、今度は少女のほうがポカンと口を開けた。
「あなたのからだにある魔力の強さ、すごいものだけれど。あなたは魔導士なんでしょう? だって、わたしの部屋の窓から見えたくらいに強い輝きなんだもの」
「い、いや、ちょっと待ってくれないか」
彼は慌てて少女の言葉を遮った。
「まほう……『魔法』だって? この科学の世の中で魔法だなんて、君はいったい――」
だが、続く言葉を呑み込むことなったのは自分のほうだった。その視線の先に、とうてい信じられないモノを見たからだ。
あまりの恐ろしさに、目を逸らすこともできなくなってしまった。
けれど少女は背後の脅威に気づいていない。ポンと両手を打ち合わせるようにして、のんびりと話を続けていた。
「そういえば、忘れてしまうところでした。この辺りは危険がいっぱいなの。もし魔獣に出遭ってしまったら、たとえおとうさまが急いで屋敷から駆けつけてくれても間に合わないわ。だからお話するより、今はここから――」
「ま……じゅう、っていうのは、もしかして剣呑な牙が並ぶ巨大な口と、鱗でびっしりの鼻づらを持っていて、フルトレーラー並にデカい巨体に、鋼のような鉤爪をくっつけた肉食恐竜みたいなもの……?」
「はい、それはきっと《魔竜》のことです。でもよくご存知なのですね。もしかしてあなたのご家族のかたが自警団とか、冒険者だったりするの?」
聞き慣れない言葉に首を傾げつつも、少女は頷いた。陽光の中で蜂蜜色の髪が揺れ、まばゆい金色に煌めく。まるで猛牛の前で赤布を振っているのも同然の、挑発的な行為だろう――彼女の背後に立つものにとっては。
今なお、なにも気づいていない少女の背後で、その恐るべき巨影がのっそりと動いた。
現実だとか、ありえるとかありえないとか、そんなものはすでに問題ではない。少女の背後に現れたそいつは、間違いなく『捕食者の目』で自分たちを見ている。背筋に這い上がってくる冷たい感触、逆立つ首筋の毛……震えはじめる膝。本能的に、命の危険を感じたのだ。
巨大な口蓋はぬれぬれとした血色の闇。それを縁取る乳白色の牙の列の隙間からは、温泉のように密度のある湯気を放つ液体がじゅるじゅると滲み出ている。まるで爬虫類のように巨大な眼球は金色で、底知れぬ穴のような瞳孔が中央にあった。
その恐ろしい瞳孔が、黄金さながらに輝く彼女の髪を見てグッと開かれた。まるで歓喜に跳ねるようにそいつは足を踏み出し――確かに舌なめずりをした。
不気味に響いた、ベシャリという水音。
少女はようやく、目の前の少年の視線が自分の後方に向けられていることに気づいたらしい。地面から伝わってくる振動に背後を振り返ろうとした。だがそれではもう彼女にとっては手遅れだった。
「危ないッ!」
叫ぶと同時に彼女の手を掴み、力任せにグイと自分の後方へ引っ張った。
少女と同じ背丈であるがゆえに細いからだをも満足に支えきれず、そのまま少女もろとも勢い良く後ろに転がってしまう。
だが、それがかえって幸運となった。
今まで自分たちが立っていた地面に、爬虫類めいた巨大な頭部が衝突したのだ。凄まじい衝撃と土埃が渦巻き、岩土を含んだ地面がバリバリと噛み砕かれる。
そんな光景を間近に見せられ、首筋がぞわりと冷たくなる。
「何かの悪い冗談なのか、これは」
眼前で唸るような声を低く響かせている、この化け物じみた巨大な生き物。
これが『竜』と呼ばれるものでなければ、なんだというのだ……!