2章 王宮での邂逅 2-10
扉から足音高く入ってきた男は、煙る翡翠色の眼差しを鋭く狭めた。吹雪のような魔法の気配を纏ったまま、ルキアスを睨めつける表情には敵意を隠そうともしていない。
「バドレアード、それは出過ぎた真似というものだ。控えておれ! すぐに話は済――」
王は憤然と言葉を紡ぎかけた。だが、最後まで言い終わることはできなかった。膝が折れ、首が支えを失ったかのようにガクリと仰け反る。
「陛下ッ? ドールダルスさま!」
くずおれかけた体を支え、ルキアスが王に呼びかける。ドールダルス王の震える瞳が上がり、刹那、ルキアスの視線と交じり合った。だが、王は死者の吐息にも似た幽かな声を最後に、その目蓋を閉じた。
ぞくりとするほどに冷える体温。思わず握った手首には鼓動を感じることが出来なかった。
《生命》の魔導士は驚愕の呻きを喉奥に押し留め、《治癒》を行使するべく魔導の瞳を凝らしかけた。
そのとき、王が突然顔を上げた。意識を取り戻したかのごとく背筋を伸ばし、己の意思で真っ直ぐに立つ。だがその眼光は異常で、作り物めいていた。その奥に隠された尋常ならざる魔法の気配――。
「違う、陛下ではないッ!」
ソサリアの現国王ドールダルスの肉体がルキアスの胸倉を掴み、凄まじい力でねじりあげた。魔導士であるルキアスは瞳を凝らし……完全に状況を理解した。
「魔法か。魂を打ち砕き、肉体を操るおぞましき手段!」
古代より伝えられし魔法に通暁しているはずのルキアスにも、術の真髄まで見極めることはできなかった。おそらくは《死霊使い》に連なる系列の魔法だろうと見当はつく。だが闇の魔術のなかでも高等な領域に属するその忌術は、その道に通じている悪しき魔導士でもない限り知り得ることのできぬ魔法であった。ましてや、並大抵の魔術師にこうも易々と行使できるものではなかったはずだ。
おそらくは周到に計画されていた罠なのだろう。幾日もかけて用意され、他でもないルキアスを陥れるために巧妙かつ注意深く仕掛けられ、発動の瞬間まで隠されていたのだ。そして魔法そのものの行使は……考えるだけでもゾッとすることだが、おそらくは裏に並ならぬ力を持った存在がいるに違いない。
「おぬしに力を与えた黒幕が別にいるのだな。何千年もの昔、はじめの魔導の力をひとに与えたのは神であった。……む。まさかこの力を授けた相手というのは――ぐッ!」
ルキアスの言葉にバドレアードが顔をしかめ、魔術師の機嫌に応えるかのように王であったものの腕が動き、ルキアスの体を宙高く吊り上げた。彼の足が完全に床を離れる。
気道を潰されまいとルキアスが抗い、腕先で魔導を行使しようとした瞬間、周囲の空間を圧するほど凄まじい衝撃が彼を襲った。
「ぐぁおおおッ!!」
ルキアスの背筋が折れんばかりに仰け反り、苦悶に歪む顔の表面を百足のような紋様が駆け巡る。息が詰まり、鼓動が幾度も停止した。まるで雷に打たれでもしたかのように体が激しく揺さぶられ、目に見えぬ衝撃に貫かれ、幾度も背筋が撥ねた。
ようやく破滅の波動から開放され、糸の切れた人形さながら床にドサリと投げ出されながらも、ルキアスはすぐに顎を引き膝に手を置いて立ち上がった。命があったのは、己が内を満たしている魔導を強めて魔術に抵抗し、体内の損傷を可能な限り減じたおかげである。強靭な精神力にも自負があった。だが――。
「……ぐ……ゴボッ! なんたる……不覚か」
口に当てた掌に、赤黒いものが吐き出される。胸と腹を襲う激痛に、内臓をやられたことをルキアスは知った。
血塗れたこぶしを握り締め、ルキアスは己の未熟さに突き上げるような憤りを感じた。だが、感情に流され己を見失っている場合ではない。呼吸を整え、なんとか落ち着いて周囲を眺め渡したとき、奇怪な力場の数々が巧妙かつ幾重にも部屋全体に生じているのに気づいた。
この現生界には存在しないはずの、異質な力によって生じた空間の亀裂、歪み。ルキアスは舌打ちした。永き平和の世に暮らし、鈍感になってしまった己が警戒心の衰えを痛感せずにはいられなかった。
「なるほど。邪神の下僕と成り果てたのだな……!」
「ふん、今さらだな。禍の兆しに気づいていても止めることができなかったのだから、意味がなかろう。国王も残念だったろうよ」
まるで傀儡人形のように動きを止め、突っ立ったままの王の肉体。その光景を視界の隅に留めたまま、ルキアスはバドレアードという名の宮廷魔術師と正面から睨み合った。
「目的は、何だ」
ルキアスは両の足を僅かに開いて真っ直ぐに立ち、腕を下げて自然に流した。いつでも魔導を行使できるよう、精神を集中し高めながら。だが、その手に杖はない。
本来、魔導のみならず魔法を行使する者たちは、その力を滞りなく発現させるための補助として、自分の力の『名』と呼応する色の魔石を嵌めた杖を携えているものだ。
ルキアスは《生命》の名をもつ魔導士。白の魔石を嵌め込んだ長い杖を所有しているが、ひとびとの崇拝と畏れの対象とされる『魔導士』であると喧伝するのは無益な争いを招くと予見して、実際に持ち歩くことはなかった。杖がなくとも魔力においては国内の誰にも負けぬ自信があったということも理由であった。だが今日は――。
「……ただの魔術師に、こうまで遅れを取るとはな」
「ただの?」
南国の出身であるために濃い肌色であった魔術師バドレアード。ルキアスのつぶやきを耳にしたその顔色が、はっきりと赤に変わった。
「そうとも、魔導士ルキアス。『ただの魔術師』が、かつて世界に君臨していた魔導の王国の末裔を凌駕しようとしているのだよ。悔しいか? 己が無力に打ちひしがれ、どこぞに幽閉されて指でも咥え、朽ち果ててるまで泣き暮らしてみるか。それともひとおもいにここで消し去ってくれようか?」
「寝惚けたことを。朽ち果てるのはおまえかも知れぬぞ。魔術師風情が神の領域に手を出せば、身の破滅を招くだけだ! それが邪神に連なるものであるならなおさらのこと。自身の破滅のみならず、果てはこの国――やがては全世界をも転覆させることになろうぞ。……よく考えろ!」
ルキアスに恫喝され、バドレアードは薄い唇を歪めて短い杖を握るこぶしをぶるぶると震わせた。ギリッと奥歯を鳴らしたあと、ひと続きの呪文を唱えはじめる。
「させぬ!」
ルキアスは腕を振り上げ、宙に素早く魔導の印を描き出した。なにもない空間を光が駆け奔り、ルキアスの頭上に魔法陣を具現化すると同時に、バドレアードの足もとから光の茨が出現した。伸び上がった蔓は魔術師を絡め取り、縛り上げた。
「詠唱中断されては魔法を行使できまい」
ルキアスは低い声で言い、ゆっくりと背筋を伸ばした。拘束した敵に一歩近づこうとした瞬間。
横殴りに殴られたような衝撃を受け、ルキアスは壁まで吹き飛ばされた。ソファーが倒れ、装飾の瓶や燭台が割れ、あるいは粉々に散り飛んだ。
「……な……」
ルキアスは赤く濡れる顔を上げ、王を見た。それまで微動だにしなかった王の肉体が、ルキアスに向けて腕を突き出している。この世のものならざる気配、それはルキアスの記憶に間違いがなければ、幻精界に住まうものの放つ魔力の気配であった。
「やあれ、やれ、やっと入れてもらえた。あんまり遅いから待ちくたびれて遊んでたとしても、怒らないでおくれよ」
ルキアスは厳しい面差しのまま、魂消えたはずの王を見ていた。いつ如何なるときも穏やかな物言いを崩さず、低音でよく響く発声をしていた王の口から出たとは思えない砕けた口調。
「さては……召喚術で門を開き従えていたものを、今ここで憑依させたのだな。何を企んでいる」
言葉を向けられたバドレアードは顔をしかめ、舌打ちをして王であったものに鋭い口調で言った。
「これからは言葉に気をつけろ、愚か者が。それでは腑抜けた兵さえも騙せぬぞ」
「へい、へい、気をつけますよ、我が契約主殿。それで、どしたのさ。もしかして手こずっているのかな? あんたの言う狡猾さとやらが役に立たないならば、次は実力に物を言わせるんだろ。かりそめの虚勢を張ってさ」
「……その輝かしくも闇と同位の魔力の気配。幻精界に住むそなたら高等種が、この現生界のけちな人間族の陰謀なぞに加担するつもりではあるまい。そちらの目的は何だ」
「おや、おや。言われちゃった。仕方ない、俺たちの壮大な計画を説明してやったら? 名高くも美しい魔導士さまが戦きながら地面に伏し、あんたを敬ってくれるようになるかもよん」
「黙れぬなら、そちらから滅してやろうか」
食い縛った歯から低めた声を押し出し、魔術師は王に向けて短い杖を振りかざした。王であった肉体は慌てたようにぷるぷると首を横に振り、コホンとわざとらしく咳払いすると、右腕を振り上げた。パチパチン、と独特な音で指を鳴らす。
途端に、国王に仕えている近衛兵たちが扉の外から執務室になだれ込んできた。
「この者を捕らえろっ。私腹を肥やすために予を脅し、襲いかかってきたのだ! バドレアードさ……宮廷魔術師殿が駆けつけてくれなければどうなっていたか!」
「その王は偽者だ。肉体は陛下のものだが中身はそうではない!」
兵たちは各々の剣を抜き、言葉を続けるルキアスの喉元にぴたりとつけた。中でも真っ先に動いた剣の主は、目にも留まらぬ速さと正確さからして相当な腕の持ち主だと思われた。その者が口を開いた。
「動くな! 謀反とあらばルキアス卿――たとえ民に敬愛されているそなたであろうとも、捕らえて牢に繋がねばなりませぬ」
「近衛兵隊長バルバ殿よ。そなたほどの眼力があるのならば気づけぬはずがなかろう。心眼で相手をしかと見極めよ!」
バルバと呼ばれた兵はルキアスの喝にたじろいだ。だがそれも一瞬のこと。唇を引き結び、揺るぎない剣先をルキアスの喉に押し当てたまま、主君の次の指示を待つ。