2章 王宮での邂逅 2-9
ヴァンドーナは弾かれたように顔を上げ、背後を振り返った。
呼ばれたような気がしたのだ。
「ルレア……? ルレア!」
急ぎ戻った通路には、その先がなかった。中庭から回廊へと必死に駆け走っていった少女の背を目撃し、数呼吸遅れたタイミングで自らも回廊へと戻ったのであったが、すでに少女を見失っていたのである。すぐ傍にあった角を曲がったとしか思えなかったが、そこは行き止まりであったために先へ進もうと回廊へと戻り、駆け出した矢先であった。
耳の鼓膜を震わせたというよりは、心の深い部分に直接飛び込んできたような彼女の悲鳴。心臓をギュッと掴まれたかのように、切実な助けを求める声であったように感じられたのだ。
けれどやはり、もう一度覗いた通路は間違いなく行き止まりであった。
「ここには何もない。だが確かに、ルレアが呼んでいた……!」
ヴァンドーナは白い石床に膝をつけた。なりふり構わず掌や指を床や壁に沿って滑らせ、行き止まりになっている浅い通路を丹念に調べはじめる。どんなに微かな痕跡をも見落とすまいと、魔導の瞳を必死に凝らしながら。
遅れて到着したロレイアルバーサが、床に手をついて動き回っているヴァンドーナを発見し、怪訝に眉を寄せ口をぽかんと開いた。だが、それも一瞬のこと。友人の奇妙な行動を理解できず、彼はこぶしを握りしめて怒鳴り声をあげた。
「おい、なにやってんだよヴァン! もしかして見失っちまったのか?」
「いま調べている!」
穏やかな物言いをかなぐり捨て、必死の形相で壁に張り付き床を撫で回しているヴァンドーナの姿に、ロレイアルバーサがようやっと理解する。すぐに彼も膝をつき、手でも爪でもひっかかる場所や僅かな段差を探りはじめた。
「ここになにかあるんだな!」
「ああ。隠し通路か秘密の扉があるに違いないんだ。ルレアは必ずこの先にいる!」
ヴァンドーナは焦っていた。ルレアの感情が喩えようもなく乱され、恐怖と嫌悪に満たされていたように感じたのだ。いますぐに助け出すことが出来なければ、おそらく一生悔やんでも悔やみきれないことになる。そんな想いに衝き動かされていた。
「畜生ッ! いや落ち着け、絶対にあるはずなんだ! ……この王宮は魔法干渉の波紋が重なり合い、強め合っている。それをたどっていけば必ず周囲との差異に突き当たるはずだ。巧妙に隠されているか、もしくは……はっきりとしすぎていて、逆に気づかなかいほどに大きく目の前に存在しているか、だ」
ヴァンドーナは頭を振り、顔をあげた。立ち上がって通路ぎりぎりまで戻り、全体を見渡してみる――。
「あった!」
ヴァンドーナの瞳にはっきりと、門を示す魔導の封印と、鍵たらんと綴られし《真言語》が見えた。行き止まりの通路に飛び込んでしまうと、それらのすべてが他の魔法によって覆い隠されてしまう仕掛けになっていたのだ。
「ロレイ、通路まで下がってくれ!」
急ぎ駆け戻ってきた彼が脇を過ぎると同時に、ヴァンドーナは『開錠』の意味の《真言語》を唇にのぼらせた。時空のあわいを渡るかのごとき不思議な抑揚をもつ言語が発せられると、すぐに変化が生じた。魔導特有の緑と青の光が駆け奔り、呼応するかのように行き止まり奥の壁いっぱいに新たな魔法陣が現れる。壁そのものがぽっかりと消え失せ、かわりに別の空間が抜けるように目の前に出現した。
下へと続く階である。
「ここは行き止まりじゃない。この階段のために設けられていた入り口なんだ」
「すげえ……おまえ、いったいなんなんだ。どうやったんだ? 呪文の詠唱もナシで!」
「これが『魔導』なんだ」
答えるが早いか、ヴァンドーナはすでに駆け出していた。
横幅は広く確保されており、高くもなく低くもない段が延々と下方へ向けて続いている。降り口付近は王宮の回廊の光が届いていたが、奥に進むに従って塗り込めたような闇にべったりと沈みはじめた。
戸惑う余裕はなかった。この先にルレアがいるという確信がヴァンドーナにはあった。彼は腕先を虚空へと滑らせ、魔導の技で空中に光の球を作り出すと、それを従えるようにして全力で駆け降り続けた。
階の続く通路は、造りそのものが王宮のものとは明らかに異なっている。けれどもちろん、それを詳しく分析などしているつもりはいまの彼にはなかった。
転がり落ちるよりなお凄まじい勢いそのままに、ヴァンドーナは闇奥へと延びる階段を下っていった。
「……む!」
永遠に続くと思われた先は、予想より早く終わりを迎えていた。下に広い空間がある。そう気づいたときには、平らであり、かつ広大である広間へ走り出ていたのである。ひと呼吸遅れて到着した光球が、遮るもののない広い空間を照らし出した。
「ルレア!」
ヴァンドーナは己が目を疑った。
不可思議な紋様を織り成した巨大な魔法陣、その中央に描かれた五芒星。広間とも呼べるほどの規模をもつその空間の端に、蠢く影があった。
色鮮やかな石の敷かれた床と、影の肉体である闇のヴェールに覆われるようにして、ルレアの白い肢体が言葉にできぬ姿で打ち広げられていたのである。
ヴァンドーナは蒼くなった。次いで、憤然と湧き上がってきた怒りのために赤を通り越し、顔色を紙よりなお白くして腕を振り上げ、凄まじい形相と勢いで虚空を薙いだ。
「うおぉぉぉおおッ!」
瞳にギラリと現れたのは銀の光。魔導が具現化した魔法の切っ先は、まるで焔か薄く延ばされた太陽の紅炎であるかのごとくめらめらと燃え立った。鞭さながらに唸りをあげる凄まじさで影を真横から打ち据え、吹き飛ばした!
形容することもできぬほどにおぞましい叫び声をあげ、影は最奥の壁に突き当たって床に落ちた。魔法攻撃はしっかと相手に影響を与えたとみえた。
しゅうしゅうと蒸気を上げ、影は打ち捨てられた襤褸布のように床を這いずり、ゆらりと浮きあがった。
ヴァンドーナは、凄まじい口調で罵りはじめた影を鋭く一瞥し、すぐさまぐったりと床に横たわっている少女のほうへ駆け寄った。眉を寄せた苦悶の表情、そして解き広げられた衣服の前と、レースを雪のように散らされて引き裂かれた下着――あまりの痛ましさに目を逸らしかけたが、彼は唇を引き結ぶようにして視線を戻し、少女の首を支えて助け起こした。
その細やかな体は冷え切っていた。ヴァンドーナは上着を脱ぎ、彼女の体を包み込もうとした。
「ルレア……こんなことが何故」
言いかけてヴァンドーナは気づいた。下穿きの紐が裁たれていない。布地そのものを引き裂かれかけた跡はあったが、穢れのしるしはないように思われたのだ。そのかわり、白くなめらかな胸や腹の肌には、幾筋も痛ましい血の跡が走っていた。ヴァンドーナは魔導の技でそれらすべてを癒し、傷口を元通りに塞いだ。裂かれた布までは戻せなかったが、衣服の前を合わせていたリボンは傍に落ちていたので手早く結い直すことができた。
「ちぇっ。時間切れかよ! 甘しき獲物はお預けか……畜生!」
呪いのように吐き出された言葉が幽かに聞こえた。ヴァンドーナが顔を上げると、影の気配は完全に消えていた。
そのかわりに降りてきた階段から足音が聞こえ、ようやくたどり着いたロレイアルバーサが息を弾ませながら近づいてきた。
「おい! 見つかったんだな……大丈夫か?」
「ああ。なんとか……無事だ」
ヴァンドーナは肩の力を抜き、ほぅと安堵の息を吐いた。だがすぐに表情を引き締め、ルレアを背負うように抱えて立ち上がる。
心配そうな友人に「行かなければ」と短く告げ、下ってきた階を急ぎ足で駆け戻りはじめる。
――父ルキアスの安否が、まだ確認できていない。
「なんたること……!」
ルキアスは血の味のする唇を舐め、瞳に魔導の焔を宿したまま口惜しそうにつぶやいた。
「すでに陛下の御霊は悪しきものの手に落ちておったというのか。もう少し、もう少し私が早く来ていればお救いできたものを……!」
後悔の念は計り知れなかったが、すでに後の祭りであった。思い起こせば、先ほど再会してすぐの国王の姿と言葉こそが真実として、頼みの綱であり信頼を寄せていたルキアスに託された言葉であったのだろう。
王の執務室へと入ったルキアスに、現国王ドールダルスは椅子から立ち上がって駆け寄り、友の手を強く握った。傍にいた近衛兵たちが扉から退出するなり、王は早口で心の内を明かした。
「ルキアス! 待ちかねたぞ。間に合わぬかと思うた」
「どうなされたのです、陛下!」
「説明はあとだ! とにかく急ぎ、これだけは伝えておく。予はもうすぐ消されるかも知れぬ。容れ物はそのままに、中身を抜かれるかも知れぬという意味じゃ。心配なのはこの国――民と兵と家族、そして間もなく誕生する我が世継ぎのことじゃよ」
崩折れるように床にうずくまったドールダルス王に駆け寄り、ルキアスは膝をついて主君の手を取った。剣の代わりにペンを握り、善政と民の幸福のために動かされてきた王の手は、内なる懸念と何らかの魔法の影響に蝕まれたかのようにひどく色を濁し、どうしようもなく震えていた。
ルキアスは魔導で強めた護りの言葉をつぶやき、握る手に力を籠めた。震えは徐々に鎮まり、王の揺れる瞳に少しだけ力が戻ったように思えた。落ち着いた声音を心掛けながら、ゆっくりと口を開く。
「陛下、御子のことは私や臣下たちにお任せください。后さまは安全な結界の中に匿われ、悪しき魔法は及びませぬ。けれど陛下の御身はそうではない。教えてください、何があったというのです」
「悪しくも強大な魔法の力の前では、我ら常人は無力に等しい。だが魔術を越える魔導を継いだそなたなら、予の心を乗っ取ろうとしておる悪しき魔法を討ち祓うことができるのではないかと思うた……が、どうやら間に合いそうもない。予が、予が……愚かであった」
「魔術……?」
ルキアスの脳裏に、ひとりの人物の姿が浮かんだ。
王がすがるようにルキアスの肩を掴み、必死の表情で口を開きかけたそのとき、まさに脳裏に浮かべたばかりの姿をもつ男の声が、重苦しくも殷々と執務室内に響き渡った。
「陛下! 王らしくもない振る舞い、軽はずみな発言……謹んで頂かなければ困りますな」
閉ざされていたはずの扉が開け放たれ、そこに丈の長い衣服と魔石を嵌めた短い杖を携えた人間族の男の姿があった。