2章 王宮での邂逅 2-8
ヴァンドーナは頬に流れる生ぬるい感触を、手の甲で拭った。鼻をついたのは鉄錆の匂い、赤い筋を引いたのは、まぎれもない血だ。
「そいつが、召喚で現れた嫌な奴だ! 気をつけろ!」
ロレイアルバーサが叫んだ。
召喚されたということは、この現生界に生を享けた存在ではないことを意味する。それならば頷ける気がした。普通の生き物ならば魔法陣も詠唱もなしで真空状態を作り上げることなど容易く出来はしない。
「――これは、これは。どこの溝鼠かと思えば、魔力要員の拾われっ子じゃんか。よくもまあ、ここに無断で入り込もうだなんて、いけない子だねえ」
「なにおお!」
ロレイアルバーサが吼える。だが、怒りのままに突っ込んでゆこうとはしない。いかにも血の気の多そうな少年であったのに、突っ掛かっても太刀打ちできない相手だと承知しているのか、ひどく悔しそうに歯を食い縛り、燃えるような黄金のきつい眼差しを向けているだけである。
「あんまり台に近づいてるものだから、せっかくの玩具を台無しにするところだったじゃないか」
訝しげに狭められていたヴァンドーナの視界の隅に、赤い血に染まる自分の手が見えた。
浅からぬ頬の傷――もし自分たちが後方へのがれていなければ今頃、周囲の床土はおびただしい量の血によって、真っ赤に染められていただろう。打ち倒されたみっつの骸。それほどに容赦のない襲撃であった。
「俺たちを殺すことになっても、気にも留めていないということか……!」
それに思い至ったヴァンドーナは激しい怒りに衝かれ、気圧されまいと立ち上がった。一方的で理不尽な暴力は、彼にとって絶対に許せないものであったのだ。
捕食者ゆえの殺気をもつ魔獣などとは違う、知性をもつものの放つ悪意を孕んだ純然たる殺気。
怒りと同時に胸を満たしたのは、押し潰されるほどの緊張と懼れ――平和な世界に暮らしている限り感じることのなかったものだ。懼れというのは恐怖ではない、大切なものを奪われるかもしれないという強い不安と焦燥だ。それほどまでに、目の前の相手から侮れぬ気配を感じていた。
ヴァンドーナは後ろ手に腕を伸ばし、ルレアの手を握った。
「ほお、ほお。近くで見るとさらに美しいねえ。眼福、眼福。特にそっちの娘は、なんともきれいな輝きを放っているよねえ。まるで光に透ける蜜さながら、本物の甘露のようだ」
影の表情はまったく見えず、顔というものがあるのかどうかさえ見極めることができない。けれどその陰気な声音にははっきりと、舌なめずりでもしているかのような不快な気配が感じられた。
ルレアの姿を自分の背後に回し隠し、ヴァンドーナは自身の体で立ち塞がった。
「輝きというのは、魔導の光のことか? ならばおまえも魔導士なのか」
相手の動向から目を離さぬようにして考えを巡らせながら、腰を僅かに落とす。そろりと腰帯に手を伸ばしかけたところで、はっと気づいた。剣を腰に提げていない。王宮の入り口をくぐる際に、警備の兵に預けてしまったのだ。
「魔導の瞳と力を持てるのは現生界の生き物ならではのはず。目の前の相手はそうではない。ならば剣があったとしても……」
明るい陽光の届く昼間の中庭だというのに、影の姿かたちははっきりと見えず、漆黒の魔力そのものでできているかのようであった。
万物の根源である魔力。その色や輝き、流動は生命や物質によって様々である。そのなかでも生命を形成している魔力というものは、個々の色味は違っていてもあふれるように光り輝いて魔導の瞳に映るものなのだ。
けれど目の前の影は、光そのものが反転でもしたかのようにどこまでも空虚で、その容れ物ともいえる肉体すらもっていなかった。魔力そのものが剥き出しの状態で凝っているかのような状態である。そのような形容をもつ相手は、ヴァンドーナにとって初めて対峙するものであった。魔法的な存在には、直接的な物理攻撃が無意味であることが多い。
影はヴァンドーナの探るような眼差しをユラユラとかわしながら、奇怪な爪の生えた黒い手を差し伸ばしてきた。その部分だけが質量を持ったかのように、いやに生々しく瞳に映る。
「おいで、おいで? 遊ぼうよ、いいことしてあげるからさ」
あからさまな言葉と視線を向けられたルレアは、すがりつくようにヴァンドーナの背の衣を握りしめた。衣服を通し、彼女の震えと恐怖が伝わってくる。
「おまえら、逃げたほうがいい。一度あいつに殴りかかったことがあったけど、こぶしが突き抜けちまうんだ……くそっ」
ロレイアルバーサが、心底悔しそうに声をあげた。
退くことには同感だ――そう思いつつも、ヴァンドーナは彼に応えなかった。否、応えられなかったのだ。片足を引きつつ姿勢を整え、魔法行使のための精神集中をはじめていた。
魔導の技を遣うには精神集中のほかに、準備動作という、一連の定められた体の動きが必要となる。その然るべき動作が魔導を操る魔法陣を完成させるのだ。魔法陣さえ完成できれば、魔法効果が現れるまでに要する時間はほんの刹那。
ヴァンドーナは精神集中を維持しながら、この場から逃れるための魔法を行使する機会を窺った。
闇布のごとき得体の知れぬ影は揺らめき、嗤うような声をたてた。こちらの動向を愉しんでいるかのように。
おぞましい爪指と奇妙なかたちの腕以外に、影には実体があるようには思えなかった。そも、なにもない空中に凝っている不気味な影である。その正体の掴めない敵に背中を向けて走って逃げるという行為は、無防備な生命を相手に差し出すようなもの。この場から確実に逃れるというのならば、なにか相手の注意を逸らすきっかけがないと逆に危ない――ヴァンドーナは半ば本能的に、それを察していたのだ。
「だが、このまま膠着状態であるわけには――」
瞳に力を篭めたヴァンドーナが、魔法を遣う意を決して腕を振り上げようとしたとき――ズドオォォン! という凄まじい衝撃音が王宮内に轟き渡った。
「あああッ!」
たまらずルレアが悲鳴をあげる。
腹にズシリと響くような大気の揺れと鼓膜を打たれたような痛みに襲われ、ヴァンドーナも呻いた。地面そのものがユサユサと揺れている。只事ではない。
「な、なんだ!?」
ロレイアルバーサも驚愕の表情で目を見開き、周囲に怯えるような視線を走らせている。
「おや、おや。ついに始まったようだねえ」
影がクスリと笑ったような気配を生じ、すぅっと縦に長く伸びた。からかうように揺れながら言葉を続ける。
「名高いルキアス卿も、いよいよ投獄か、斬首か。そうそう、おまえたちの父親のことだよ。国王ならびに直属たる宮廷魔術師に謀反を企てたとあっちゃあ、今までの地位も名誉も役には立たないだろうねえ」
影は「遺憾だねえ、至極残念」とつぶやき、クツクツと笑った。
ヴァンドーナは思わず背後を振り返った。彼の衣服の背を掴んでいる彼女の手がぶるぶると激しく震えているのを感じたのだ。
ルレアはこわばった頬をして、イヤイヤをするように首を振っていた。
「まさかそんな。おとう、さまが……おとうさまッ!」
「ルレア!」
衝動的に駆け出した彼女の背に向けてヴァンドーナが叫んだそのとき。うっかり視線を逸らしてしまった方向から、凄まじいほどの魔力と熱が膨れ上がるのを感じた。
ヴァンドーナは反射的に両腕を頭上に向けて突き上げ、その腕先を左右に開くように動かした。
眼前に唐突にまばいほどの光が現れ、閃光のごとく駆け奔って紋様と多重円陣を空中に描き出す。綴られたのは《真言語》と呼ばれる高等魔法言語――魔導特有の文字。行使したのは《完全魔法防御》だ。
ヴァンドーナは腕を真っ直ぐに突き出した。その腕先の空間に魔法陣が固定されると同時に、怖ろしい衝撃がズガンと突き当たり、散じた衝撃が空中に激しく焔の渦を巻いた。緑に囲まれた広場の床土に生えていた草々が一瞬にして燃え上がる。
ヴァンドーナは魔法陣を維持しながら、吹き荒れる熱い烈風に倒されぬよう必死に踏みとどまった。相手の力量は計り知れなかった。魔法であることには変わりないが、魔導や魔術ではない。守護されているはずの王宮内で行使された破壊魔法、そして放った術者の異質な存在――なにもかもが今の彼にとって理解の及ばぬ出来事であった。
「くッ……ルレア、無事なのか……?」
彼女はすでに広場から駆け出している。巻き添えにはなっていないはずだ。それでも心配になってしまうヴァンドーナであったが、背後を振り返りたくてもその余裕すらない。
祈るような想いでヴァンドーナは相手の攻撃を防ぎ続けた。高温で濃厚な魔力の残滓はなかなか消えてくれず、周囲の床や草花の生命を蹂躙しながら、焼き尽くす焔の渦巻きとなって暴れまわっている。背後にいる少年の「アツッ」という悲鳴を聞き、展開している防御魔法の範囲をそこまで広げるのが精一杯であった。
「イィヤァははははは、アはははハハ! 愉快、愉快だねえ!」
狂ったような哄笑が響き渡り、ようやく焔の渦が掻き消えた。眼前に広がる広場の床は黒焦げになっていたが、台座そのものは煤ひとつなく悠然と立っている。そして広場のどこにも敵の姿は見えず、気配の欠片すら残ってはいなかった。
ずざっという土踏む音に振り返ると、ロレイアルバーサが尻を石畳に落として呆然としていた。
「ルレアが危険だ。俺は奴を追う!」
ヴァンドーナはすぐさま走り出した。――自分たちが来た方向、王宮内へと戻る道を。
ルレアの足だ。中庭は広く、道は入り組んでいる。少なくとも彼女が王宮の回廊に戻り着いた頃には確実に追いつけるだろう。気になるのは、悪夢のような影の姿が消えていることだ。……嫌な予感がする。
「畜生! いったいなにが起こっているんだ!」
ヴァンドーナは全力で駆けながら叫んだ。
何もかもが一瞬で変わってしまった。ついさっきまでルレアと一緒に楽しくのんびりと、この美しく魅力に満ちあふれた建物の内部を探索していたはずなのに。嬉しそうな笑顔のルレア、出逢ったひとびと、そして――。
「ぐッ!?」
ヴァンドーナの脳裏に、突然、赤と黒に染まる映像が閃いた。そのあまりの衝撃に思わず倒れかけ、足が止まる。腰が砕けでもしたかのように力が抜け、たまらず膝をついた。凄まじい喪失感を伴って現れたその映像は――。
ふらつく頭を激しく振りかぶり、ヴァンドーナは震える膝を殴りつけて立ち上がった。
それどころではないのだ。心をどす黒く塗りつぶす闇に抗おうとして、衣服の胸にこぶしを突き当てる。彼は生唾を飲み下して、よろめきながらも再び走り出した。
ルレアはぼんやりと霞がかかる意識のなか、重いまぶたを押し開こうとした。
「……ん……うぅ、ここ……は」
背中に押し付けられている冷たく硬い感覚。じわじわと意識を浮上させてくれたのは、肌が粟立つような寒さ――いや、熱さかもしれなかった。吸い込む空気はひどく重く、闇の味がした。
すぐ近くで、サラサラとなにかが解かれているような音が聞こえている。衣擦れのようなささやかな音が、秘めやかに融けるように、虚空のような闇中へと吸い込まれているのだ。
彼女を包み込んでいるのは、闇、闇、闇――。あまりの暗さに、本当に目が開いているのかどうかすら訝しく思ってしまう。全身を気だるく包もうと圧し掛かってくる感覚に抗いながら、彼女は動かぬ首をめぐらせようと意識し、見開いたはずの眼を動かした。
腕は動かず、指が僅かにぴくりと動く程度。感覚はまだ戻りきっておらず、自分の脚がきちんと揃ってあるのかどうかすらわからなかった。
音は少しずつ位置を変えていた。なにかが自分の上で動いているのを感じる。そして唐突に、するり、と何かが肌の上を滑ったかのような感覚のあと、冷たい空気がすぅすぅと首から胸、腹に直接当たるのを感じた。
再び朦朧としかける意識をなんとか繋ぎとめ、ルレアは感覚を研ぎ澄ませた。自分の体になにかが――誰かが――覆いかぶさってくるのを感じ、恐怖あまり身が竦む。
ねっとりとした冷たい闇の気配が迫ってくる。その闇の向こうから、ひんやりとした爪指が伸びてくるのが感じられた。人間をはじめ五種族のものではあり得ないその怖ろしげな爪指が、外気にさらされたルレアの素肌に伸ばされる。
触れられた瞬間、身悶えするほどの嫌悪感に襲われた。この世のものならざるほどに冷たく、同時に焼けつくように熱い。
動かぬ体に、記憶が蘇った。父の身を案じて駆け走り、ようやく王宮内の回廊まで戻ったとき、なにかが彼女を突き飛ばしたのだ。転がり込んだ通路の先で、闇か影のような黒い煙に包み込まれて息が詰まった。抱き締められるかのように全身を圧迫され、声をあげるどころか身動きひとつ出来ぬまま何処かの空間まで攫われたのであった。
「いいねえ、いいねえ。なめらかで瑕ひとつない肌。成熟する前の甘やかな膨らみ、ぞくぞくするね。腰のあたりなんか、すんごく危うげだよねえ。穢れひとつない、一度も摘まれたことのないつぼみは、俺好みだぞ」
愉悦に溺れたかのような声が闇中に響き、不気味な爪指に体の線をなぞられる。鋭敏な箇所に触れられ、びくんと鼓動が跳ねた。全身を駆け抜ける悪寒に、震えが止まらない。
「……い、いやぁ……あッ」
喉の奥から搾り出すようにしてルレアは父の名を、そして少年の名を呼んだ。意識が闇に呑まれるまで、幾度も繰り返し呼び続けた。