2章 王宮での邂逅 2-6
通廊の先、角を曲がった場所からは小部屋が並んでいた。
やんわりと静かな光に照らされた、それぞれの部屋に続く入り口が右に幾つも並んでいる。左は白い壁面になっていて、さまざまな色合いの絵が掛けられていた。絵物語のようでもあり、風景画のようでもある。屋敷の書庫で読んだ歴史書のなかに、これと似たような挿絵を見た覚えがあった。
「いにしえの王国に聳えていたという塔でしょうか。実際に、こんなに高い建物があったのかしら」
ルレアも同じ書物のことを思い出したようだ。不思議なことではない。ふたりとも同じように勉学に励み、同じ屋敷で同じ時を過ごしてきたのだから。
「誇示されて描かれているのかも知れないよ。絵物語って、そういうものなんじゃないかな」
「魔導の統べる古代の魔法王国、グローヴァー」
ルレアが歌うように唇をすぼめ、囁くように言葉を続けた。
「弛まぬ努力と潰えぬ勇気、神々の世界を目指した五種族の代表者、ついに弥終なりし扉を越えて彼の存在らの御許へと到れり――。この世界に計り知れないほどの叡智と繁栄をもたらし、グローヴァー魔法王国を建国した最初の王たちの物語ですよね。でも、なんだか別の世界のひとが描いたみたいに思えますけれど」
「え?」
ヴァンドーナは思わず傍らの少女を見た。
「俯瞰図というか、まるで超越した視点から眺めているみたいです。……うまく言えませんけれど、見えない部分までも同時に見えているみたいだから」
言われて数歩を後戻り、全体をもう一度改めて眺め渡してみると、なるほど、山も建物もひとびとの生活も、神々が天高き場所から見下ろしているかのような、不思議な構図であることに気づいた。しかも、さまざまに見えるはずの角度もすべて同一面に描かれていたり、まるで騙し絵のようにしか思えぬ部分も多数あった。
「確かに……不思議だね。この部分なんか、ひとびとの生活や物語の顛末まで子細に描かれているみたいだ。描いたのは誰なんだろうか。神、だったりするかな」
「違う、と思いますけれど」
何気ないヴァンドーナの言葉に、驚くほどの確信を込めた声が答える。思わずまじまじと少女の顔を注視したヴァンドーナに、ルレアが気恥ずかしそうに肩を縮めた。
「あ、あの、だって神さまたちは、わたしたちとは別の思考をしていて、こんなに個々のひとたちの細かい様子までは、まるで気にされていないんだって。……おとうさまが言っていたの。わたしたちの生活に深く結びついている《癒しの神》ファシエルさまだって、どんなに傷ついて助けを求めている者がいても、神官や司祭の呼びかけにしか反応しないから。神聖魔法と呼ばれるその奇跡は誰にでも行えるものじゃない、とても限定的な力なのだと」
ルレアは息を吸い、胸に手を当てて言葉を継いだ。
「だから神々自身が自分たちの力を直接振るう代わりに、ひとびとに分け与えたのが魔導という名の叡智なんだって、そう言っていました」
ヴァンドーナは目を狭めた。神と称されし存在は、人間ひとりの想いや気持ちには無頓着であるらしい――だがそうとは言えなかった、束の間見えたことのある《名無き神》のことを思い出したのだ。
神々の住まう世界――『神界』と呼ばれる場所から、こちらの『現生界』と呼ばれる世界に影響力を及ぼすことのできる複数の存在は、それぞれの名を持っていた。
『光の神々』といわれる五神、すなわち《主神》ラートゥル、《癒しの神》ファシエル、《戦の女神》ミネルヴァ、《導きの神》アルート、《幸運の神》リマッカである。
それらの神々と対になるのが、『闇の神々』とされる《主神》ダルフォース、《破壊の神》ゴムデルア、《混沌の神》ケイオス、《無の女神》ハーデロス、そして《名無き神》。
最後の神にだけは名が無かった。この世界でも、あまり口にする者はいない。知られていないだけでなく、司っている役割が何も無いのだ。他にも存在しているという力なき神々と同じほどの知名度しかない。太陽系の主な惑星の名が知られていても、小惑星帯やエッジワース・カイパーベルト天体のひとつひとつの名にまで注意を払わないのと同じだ。冥王星は別であるが。
「そういえば、この世界での宇宙は『星界』と分類されるんだっけな……。まぁ実際、宇宙に飛び出せる手段がないから空の果てを確かめるすべがないけれど」
ヴァンドーナは、いまの年齢とは不相応な表情を浮かべ、顎に手を当てた。己自身の人生の記憶は消え去っていたが、生まれ育った世界で得た知識はすべて残っているのだ。
「うちゅ……て、なぁに?」
少年の小さな独白を聞き取ったルレアが、訊き返してきた。
「空の果てを確かめる――だなんて、とても魅力的な提案ですね」
のんびりとした声が掛かり、ふたりは弾かれたように背後を振り返った。ひょろりと細い胴と脚が目の前にある。
ふたりが視線をあげると、その胴の上には温和そうな男の笑顔が乗っかっていた。
「おっとと。そんなに驚かないでくださいな。すごく熱心に絵を眺めているから気になってしまって。ふむ、どうやら街から入り込んできた迷子じゃないみたいなんで、ホッとしました」
ひとなつっこそうな笑顔。相手が無害であると感じたヴァンドーナは緊張を解き、相手を真っ直ぐに見上げた。丈高いルキアスに比べると相手の背は低いが、成人男性のなかでは高い部類に入るであろうと思われた。三十になるかならないかの年齢だろう。
「わたしはルレアといいます。迷子じゃありません。待っている間に、王宮のなかを見て回ってもいいと許可を受けていたので、見学させていただいていたんです」
ルレアが片足を後ろに引いて膝を僅かに折り、流れるように優雅な動きで挨拶をした。その典雅なしぐさは、彼女の生まれ育った環境と身分を存分に語っている。おそらく本人は、そのような自覚を持ってはいないだろうが。
「あぁ、君がルキアス卿のご息女なのですね。面差しがとてもよく似ています」
その言葉にヴァンドーナは心の内で苦笑した。女性にとって父親に似ているというのは、複雑な褒め言葉なのだ。けれどその無骨な挨拶も、ルキアスのことを好いているルレアにとっては最高の褒め言葉なのだろうけれど。
目の前の男は、にこにこと笑ったまま自分も名乗った。
「僕は文官をやっています、ダルメス・トルエランといいます。歴史と魔術が得意分野なのですが、世界の成り立ちについても興味がありますから」
「もしかして、図書館棟で働いているかたですか?」
「そうですよ。もし《図書館棟》に興味があるなら、僕が責任をもって案内します」
ルレアが嬉々とした表情で、勢いよくヴァンドーナを振り返った。彼は肩をそびやかしてみせ、君の思うままにしていいよ、と目で伝えた。
ルレアがにっこりと笑って返答を口にしようとしたとき、通りがかった女性が声をあげた。
「あら、ダルメス! またサボってるのね。ソリテアルス文官長にまた怒鳴られても知らないわよ」
「え、わわわわわわ、め、メルエッタ!? いえそんな、僕がさぼっているわけないじゃないですか! ほ、ほら、王立図書館へ貸し出していた魔術書を引き取りに行っていただけですから。しかももう戻るところだったんですよ!」
「なぁに慌てているのよ、アヤシイったらないわ。どうせ受付のマリエンと仲良くお喋りしてたに違いないもの」
メルエッタと呼ばれた女性は、ふんっ、と息を吐いて豊かな胸をそらせ、ダルメスと名乗った男を見下ろした。どう見ても、女性のほうが歳若くて背が低いのに。実に器用である。
「さっさと戻りなさいよ、ダルメスってば。これ以上怒鳴られたら今度こそ、あなたの耳がどっか遠くへ飛んでっちゃうわよっ?」
「わぁっ! もう、分かりましたってば。あ、じゃあ君たち、図書館棟へ着いたら僕を探してよ。きちんと案内するから。そうそう、メルエッタも、侍女頭さまに怒鳴られないようにね」
「余計なお世話よ、このすっとこどっこい! さっさと行っちゃいなさいっ!」
目の前で切られた見事な啖呵。ふたりの遣り取りにポカンとしていたルレアが、思わず笑い出すほどに仲の良さそうなふたりであった。
「あ、あら。えっと、あのね、普段はあんな言い方しないんだけど」
メルエッタはふたりの子どもを振り返って舌を出し、てへへと笑った。ここぞとばかりに語り始める。
「だってさぁ、トルエラン家のご子息さまなのに、ダルメスってば。三男坊だからってこんなパシリみたいに使われちゃって。もう不憫というか、見ていらんないのよ。こんな小娘に怒鳴られても嫌な顔ひとつせずに。ずぅっと歳上なのに。本当はもっときちんとお話したいんだけど、いつもこんなふうにしか伝えられなくて」
そう話す間にも、メルエッタの顔が心配に曇っていた。先ほどの文官のことを本当に好いているのだろう。
「でしたら、心配されているそのお気持ちを素直に伝えたら良いのでは。自分の気持ちには忠実でいなさい、って、いつもおとうさまが言っていますもの」
「そうかもね。あなたってば、小さいのにえらいわねぇ。どこから来たの? ――あら、マルム。それって今夜の食材なの?」
「違うよ、メルエッタ。だとしたら、こちら側を通るわけないだろ。さっき正面の門に届いた薬膳に使う特別な野菜なんだ」
次に通りがかったのは、エプロンのようなものを身に巻いた青年であった。両腕に抱えるほどの籠を持ち、足早に通り過ぎようとしていた。
「薬膳?」
「お后さまが、もうすぐ出産なのよ。今夜あたりじゃないかなぁってみんな言ってるの」
「出産? 赤ちゃんが生まれるの?」
「お世継ぎですよ。第一王子となられるお方です。お后さまにはたんと栄養を摂っておいてもらわないといけないので、食は進まないようですけれどなんとか美味しいものを、と思いましてね」
エプロンの青年は、王宮の厨房で働いているのだという。いまはまだ皮剥きや洗い物などに奔走する下っ端だが、いずれは調理を任される料理人になりたいのだと語った。
「近隣諸国は戦乱が続いているところも多く、薬に使われるような食材が手に入りにくくなっているのも否めませんからね。嫌なご時勢ですよ」
「未来を夢みる子どもたちの前で、なんてこと言うのよ。この国にもいつ火の粉が降ってくるか怖いくらいなのに――」
咎めるようにメルエッタが口を挟む。そして喋り過ぎたことに気付いたらしく、慌てて蓋をするのように自身の唇を手で覆った。抱えていたシーツのような布がグシャリと乱れてしまったが、当人は気づいていないようだ。
「あの……」
ルレアが口を開きかけた。
「あ、あら。退屈させちゃってごめんなさいね。じゃあ私、仕事があるから」
メルエッタは早口にそう言って取り繕うように微笑むと、腕の中のものを抱えなおして足早に歩み去ってしまう。
取り残されたルレアが途方に暮れたような顔をして視線を向けてきたので、ヴァンドーナは思わず口もとを緩め、彼女に向けて安心させるように微笑んでみせた。
「じゃあね、僕もこれで。急いでいるからね。あぁ、この先の中庭には、不思議な植物がたくさんあるよ。新しく就任した魔術師さまがご自分の故郷の植生を再現したいと仰ってね。そこだけ妙な風が吹き込むようになって、僕たちはあまり好きじゃないけど……っと、この話は内緒にしてておくれよ。気難しそうな方だから」
「中庭って、そこから出るのでしょうか」
通廊は、ぐるりと王宮を繋いでいる回廊の一部だったようだ。すなわち、奥へ向かって進んでゆけば、自然に中庭に面した場所を通るという造りなのだ。
《図書館棟》のある東区域へ向かう手前から、自然ならざる熱気による、ねっとりとした濃い空気が漂いはじめていた。ヴァンドーナの魔導の瞳に、内部環境を整えていた王宮本来の魔法陣の連携が乱されているのが見えている。
「無理やり新たな魔法陣を配置したみたいですね。魔術の技によるものみたい」
ルレアのほうが魔法の影響を理解することに敏感なようだ。
正確無比な魔導の魔法陣に比べ、ひとの手で物理的に描かれる魔術の魔法陣は歪んでいることが多い。ほんの微細なほころびではあるが、魔導士の目には明らかであった。
「本当だ。見ていて気持ちのよいものじゃないけど……植物そのものは面白いね」
極彩色の花びらや如雨露のような花弁、奇妙なほどに幅広く厚い葉や、ギザギザ模様のついた茎など、ヴァンドーナの知識にもない植物たちが、まるで別世界のように中庭を飾り立てているのであった。
「すごい……けれど、なんだか息が詰まりそう」
ルレアが素直な感想を洩らしたとき。
「誰だ、おまえたち!」
誰何の声を投げられ、その傲慢ともいえる声音に顔を向けたヴァンドーナとルレアは、驚きのあまり息を呑んで動きを止めた。
浅黒い肌と黄金色の瞳をした、同じほどの年齢の少年が立っていたのだ。偉そうなしぐさで腰に手を当て、たてがみのように豊かな白い髪を振り、こちらを睨みつけている。
だがふたりは、その少年の容姿態度に驚いたのではなかった。
少年の体の内より発せられていた気配は、間違いなく魔導の輝きであったのだ――。