2章 王宮での邂逅 2-4
「おや、おや。なんと眩しい魔力の輝きか。どうやら、待ち望んでいたお客が来たみたいだねえ」
王宮の西棟、上階にぽっかりと口を開けた薄暗い窓辺から、そんな声が響いた。口調は愉しげであるが、声音のほうは少しもそうではなかった。陰気に沈み、ねっとりとした質感を持っているかのようだ。
もし聞いている者がいたのならば、意味もなく苛々と心の琴線を掻き乱される、耳障りで不快な声であったと表現するだろう。発したものの容姿は、さぞ不気味でおどろおどろしいに違いないと。
だが、声の主の姿かたちは、陽光の下では判然としなかった。闇が凝っているかのような、濃い影が気だるげに窓辺のあたりに立ち込めているだけである。燦々と陽光が降りそそいでいるはずの窓辺に。
影は、物思わしげな溜息をついたかのごとき気配を生じた。そのとき、部屋の最奥からかけられた別の声があった。
「なにを騒いでおる。己が属性に相対する光に身を曝してまで、眺める価値があるものが……ははぁ。来たか、ルキアスが。そうだろう?」
「尋常ならざる領域までに収束された魔力の輝きは、次元を渡って燦然と輝き渡っている。みっつの美しき輝きよ。特に、振りかけられたスパイスのような魔導のかぐわしき香り、なんとも美味なる晩餐そのものではないかねえ?」
窓の外を見下ろしているらしい影の興奮ぶりに、興味を惹かれたのか、さきほどの声を発したひとりの男が奥の暗がりから窓辺へ歩み出てきた。影の口上は続いている。
「濃い魔導の気配に我らは敏感だ。あんたに魔力の流れが見えないことを至極残念に思うよ。あのような輝きを目にすることができないなんてねえ。それでもまぁ、眼には嬉しい光景かも知れないぞ、ただの外殻を見るだけであってもね」
「俺は『魔導士』ではない。実力をいかに高めたとて、生まれながらの力というものはあとで容易く手に入るものではない」
男は応えた。静かな口調だが、聞くものが敏感な耳を持っているならば、そこに凄まじいまでの嫉妬と憤怒の念が込められていたのを感じることができただろう。
「遥かいにしえの時代、魔導士が全世界を統べていた王国があったというが、すでに跡形もなく滅び去っているではないか。魔導の時代はとうに終わったのだ。新たなる世界は『魔術』なる力を欲しておる。そして――」
男は少し言葉を切った。にんまりと唇を押し広げ、煙る翡翠色の瞳を光らせて再び口を開く。
「多くの灯と命の輝きが潰え、無に帰することで、俺の望みも叶えてもらえようというもの。ただの魔術師が世界を変えられれば、これ以上の裏切りはないだろうて」
「おぉ、怖い、怖い。我らを含めたすべてを呑み込まないように気をつけてくれたまえよ。それはさておき――見ろよ、あの娘」
肩をひょいとすくめたような気配に苛立った顔をしながらも、男は視線を下げた。
眼下に広がる、王宮の正面広場。式典を行うときや演説のときに国民たちが集うための、門から王宮までの間に設けられた草の敷き詰められた空き地である。その緑の敷布の上を、三人の人間族の者たちが歩み進んでいた。ひとりは丈高い壮年の男、そして少年と少女だ。
「なんだ、年端もゆかぬ小娘ではないか。あれがどうした」
男の言葉に、影は不服そうな音を発した。
「あんたの嫌っているあの男も見目良い男なようだけれど、後ろに続く奴らも相当に整った外見じゃないのかい? 俺は人間族じゃないからどうか分からんがね、ああいうのは一般的に好まれるんじゃないかねえ」
「ふん。人間は見てくれどうこうじゃない。地位と実力、そして狡猾さよ」
「見てくれどうこうで勝負できない奴はそう言うんだろうさ」
影は容赦なく辛辣な言葉を隣に投げつけた。だが、男は取り合わず、眼下の光景に目をやったままだ。
「だがしかし、あの少年のほうは実の息子ではなかろう。ルキアスに子はひとりのはず。どう見ても実の娘より年上だ。隠し子というのも、あの男には在り得ぬだろうに……。おい、ムアゼ。あの小僧も魔導士なのだろう?」
「間違いなく」
「解せぬ。魔導の力は血によって継がれていくはず。新たな魔導士の存在など報告にはなかった」
「巧みに隠された秘蔵っ子かもよ。しかし我には関係ないねえ、あの娘ならともかく。甘そうだなあ。まだ幼いというならば、熟す頃合はいつだろうねえ。我は今のまま摘み取って構わないと思うけどねえ」
「呆れたな。この現生界で実体をもたぬおまえが、肉欲ばかりに走りおって……。また女を攫って愉しみ、挙句にその辺りに捨て置かれては後処理に困る。俺に面倒をかけるならば、否応なしに幻精界に送り還してやるぞ」
「いいじゃないか、そのくらい契約のうちに含めても」
「よいか」
男は腰に手挟んでいた短い杖を素早く引き抜き、影に向けて突き出した。空気が刹那に冷え、ぴきぴきと窓枠が音を立てる。杖からはひんやりとした冷気が発散されていた。男は囁くように、だが低く響き渡る声で言った。
「二度は言わぬ。面倒は起こすな……! これは忠告ではない、警告だ。おまえのように次元を渡ることもできない《地這いなる定着の民》をこちらに召喚し、チャンスを与えようというのであるぞ。嫌だというならあっちで辟易するほどに変わり栄えのない、単調な永遠を暮らすがよい」
影は慌てたように打ち震え、それからうやうやしげに床に這いつくばった。
「はい、はい。仰せのままに、バドレアードさま。我が契約の主、世界を《無》に帰する担い手さま――」
「さえずりすぎる鳥をくびり殺すのは、俺の愉しみだ」
影の口上がぴたりと止んだ。男は声を立てずに嗤い、再び窓の下へと視線を投じた。下を通る魔導士のうちのひとり――少年が瞳のみを上げてちらりとこちらを見たようであったが、それだけであった。三人の姿はそのまま王宮の正面ホールに消えたのを見て、男は杖を再び腰に戻した。
「さて、行かねばならぬ。ムアゼ、おとなしく待っていろよ」
窓の傍から身を翻し、男は去った。その場に這いつくばっていた影は再び伸び上がり、どこへともなく消え失せた。ひとを嘲笑うかのような気配のみを残して。
正面から王宮に入ったところで、ルキアスがヴァンドーナに声をかけた。
「さきほど、なにかを感じたようであったが、どうした」
「いえ、不穏な気配があったと思ったのですが、気のせいかも知れません。でも、もしかしたら――」
ヴァンドーナがそこまで言いかけたとき、奥から駆け走ってきた兵が声を響かせた。
「お待ちしておりました、ルキアス卿。さっそくで申し訳ないのですが、急ぎ王へ取り次ぐようにと仰せつかっているので、どうぞこちらへ」
兵は有無を言わさぬ口調で告げ、先に立って歩き出した。
「……切羽詰っておるようだな」
兵の後ろ姿にルキアスは眉根を寄せたが、すぐに子どもたちを振り返った。
「この先が大広間になっておる。そこから、わたしはすぐにも広間の螺旋階段から最上階にあがり、王の執務室にゆかねばならぬ」
初めての場所だからであろう、ふたりが緊張気味に頷くのを見て、ルキアスは微笑んだ。
「この王宮には、見ての通りさまざまな魔法の守りが働いておる。この中にいれば、そなたらに危険なことは起こらないはずだ。許可は得ておるから、好きに見て回っておいで。ただし、いかなるときもふたり一緒にいるように。ヴァンドーナ、ルレア、いいね?」
「わかりました」
「わかっています、おとうさま。こちらのことは気にせず、行ってきてくださいね」
ルレアの無邪気な笑顔に、ほんの刹那、ルキアスは痛みを伴っているかのような表情になった。さらなる言葉を継ごうと口を開きかける。だがそのとき、「ルキアス卿」と兵から声がかかり、ルキアスは顔を戻し背筋を伸ばした。
「では、あとでな」