2章 王宮での邂逅 2-2
天空は高く遠く、見上げていると吸い込まれてしまいそうなほどに深奥なる魅力をもっていた。
屹立する《大陸中央》フェンリル山脈北壁の銀の岩肌とゾムターク山脈の急峻なる茶褐色の西壁、その上にかかる蒼玉から天頂の青金石までのグラデーションは、まるでこの世界を覆う果てのない天蓋のようだ。
屋敷を出発してからしばらくは、行けども行けども両側に続く色濃い森が途切れることがなかった。大森林アルベルトは、その名の通り広大な森の領域であるらしい。
大森林の内部に踏み入れば、そこは濃い緑闇に埋没する魔の統べる領域。見慣れぬ獰猛な獣が跋扈し、みずからの意思で徘徊する植物が生息している環境だ。屋敷の書庫にある膨大な書物を読み漁っただけでも、この世界は相当な不思議と脅威に満ちあふれたものであるらしかった。
けれど、ひとびとの住まう都市をつなぐ街道は、驚くほどに整備されたものであった。なだらかに削られ、丁寧に固められて中央が盛り上げられており、雨が降ったときにぬかるまないよう工夫されている。
屋敷のあるラウスミルトの近郊から王都までは、馬車を飛ばしておよそ三日。
「……ほんとうに森ばかりなんだ」
街道の両側に広がる森の景色は、平穏そのものにみえた。ヴァンドーナが感心しながら口を開くと、斜め向かいの席に座っているルキアスが穏やかに笑った。
「まさにそうだな。だが、ここから大河ラテーナの本流と支流とを渡り越えて、国土の北部を覆うカクストア大森林に入ったところから、景色が一変するぞ。王都は海へと続く広大な三角州にあるのだ」
ゾムターク山脈の麓をぐるりと西側から回り込んでゆくと、街道は幅の広い大河を渡った。その渡り橋は白亜に輝く石で造られており、見た目にも強固なものであった。優美なアーチを描く巨大な支柱に支えられ、水面からかなりの高さにかかっている。その建築様式は、三人が向かっているソサリア王宮の外壁をヒントに考えられたものだという。
馬車が四台横並びに渡ってもなお余裕のある強固な橋は、ただ漠然とファンタジーとは中世かそのあたりのものであろうと思い込んでいた少年の心を激しく揺さぶり、高揚させるに充分であった。それは科学技術に支えられた現代に勝るとも劣らない、見事な建築技術だったのである。
ふたつめの橋を越えたところから、ルキアスの言葉通り、周囲の景色は色鮮やかにその様相を変えた。街道は森中ではなく、大河の流れに寄り添うようにして敷かれていたのである。
進行方向へ向かって右側に広がっているのは、大森林の翡翠色と、うっそうと茂る秘密めいた木々の孔雀石の暗がりだ。伏流や支流を含めそれらの森を潤している大河ラテーナが、広大なる白の煌めきとなって左側を彩っている。
きらきらとして流れ穏やかな鏡さながらの水面は、空のいろを映しこんで青からオレンジ、そして赤へと変わっていく。夕闇が近づくにつれ向こう岸が霞んでいき、大河の流れはもうひとつの夜空のように濃い闇を映し出した水鏡となるのである。
世界の輝きと広大さ、そして夕日にかかる雲空の美しさは、外の世界をはじめて目にした幼き魔導士たちを感動で包み込んだのであった。
「すごぉぉぉぉい、とっても美しいんですね!」
向かいの席から上がった歓声がなければ、そのような言葉を彼自身が叫んでいたに違いなかった。
二頭立ての馬車めいた乗り物の窓から身を乗り出すようにして、ルレアが瞳をきらきらさせて外の景色を眺めていた。蜂蜜色の髪を気持ちのよい風にひるがえし、ラテーナの上を吹き渡ってきた涼やかな空気を胸いっぱいに吸い込んでいる。オレンジ色の照り返しが、彼女本来の瞳の輝きを倍増しているかのようだ。
そんな彼女の嬉しそうな笑顔につられて、道ゆく旅人や隊商の一団までもが、にこにこと手を振ってくれているのだった。
「これ、ルレア。あまり外へ乗り出していると、窓から転げ落ちてしまうよ」
たしなめるように声を掛けながらも、彼女の隣に座る父ルキアスは優しく微笑みながら、その丈高い背をゆったりと寛がせていた。
「ヴァンドーナ、そなたはとても落ち着いておるのだな」
ルキアスが、いままさに地の果てに沈まんとしている太陽を彷彿とさせる瞳を彼に向けて言った。
「充分に驚いています。これほどまでにこの世界が広いとは思いませんでしたから」
「このソサリア王国はトリストラーニャ大陸でも大国のうちに入るだろう。だが、世界はまだまだ広い。東にはドナン大陸、西にはミンバス大陸、南の果てには《未踏の大地》アウラガレス大陸が存在しておるぞ。それに、陸よりも海のほうが遥かに広遠たる規模を誇っておる」
ヴァンドーナは頷いた。世界の大まかな地形、現在ある国や都市の地図は、知識としてすでに習得していた。
けれど、ひとの領域ならざるほうが遥かに広大である。海はおろか陸上であっても、把握されている部分は世界の僅かであった。未開の大地や踏み込むことすら叶わない土地というものは、数え上げたらきりのないほどである。ヴァンドーナが書庫で目にした現代の世界地図のすべてが、書き込まれていない部分が多く目立つものであった。そのような土地については、冒険者たちが少しずつ明らかにしている最中なのだ。
そう――『冒険者』。
この世界には、そのように呼ばれるひとびとが数多くいた。魔獣たちとの戦闘の術に長けており、いにしえに栄えていたという魔法王国の遺跡を探索することを生業とする者たちのことだ。彼らは遺跡の宝物を狙うこともあるし、護衛に雇われることもあれば、街のひとびとの失せ物探しから国家の依頼まで引き受けることもあるという。
街道を行き交うひとびとのなかにも、武器を帯びて旅荷を背負う冒険者らしい出で立ちをした姿が数多くあった。けれど、その中でも傭兵と呼ばれる、対人戦闘をこなすという冒険者たちの姿がないのは、この国が平和である証のようなものであろう。
冒険者たちを含め、目にするほとんどのひとびとの姿について、その出で立ち以上に目を惹くのが、背格好や肌――種族の違いであった。
この世界には、五つの主たる種族が存在しているのだ。
人間族、飛翔族、竜人族、魔人族、エルフ族と呼ばれており、身体の特徴はかなり違っている。竜人族や魔人族は背が高く屈強そうな体格であることが多く、反対に飛翔族やエルフ族は線が細い。けれど飛翔族は、その名の通り背中に一対の翼を有しており、自在に空を飛ぶことができる。エルフ族は器用で精霊たちとの心通わせ、森羅万象についても親しみのある者が多いのだという。竜人族も、数は減ったらしいがその体躯を真なる竜へと変化させることができる者も、少なからず存在しているということだ。
「すべて本で得た知識ばかりだが……これほどまでに違っているとは」
屋敷に住まうルキアスやルレアをはじめ、そのほとんどが人間族であったため、ヴァンドーナはこの街道でそれらしい他種族の姿を見かけるたび、思わず目が吸い寄せられてしまうのであった。
もちろん彼は、あからさまに好奇の目で他人を見ることは避けているが、それでもどきどきと鼓動が高鳴るのを抑えきれない。
「この国は、陸上交易が盛んなんですね」
少しでも心を静めようとして、ヴァンドーナは別の感想を口にした。
少年のつぶやきに、瞑目していたルキアスが応える。
「このまま北に進んでいけば、王都から北は海上貿易が主流になる。ソサリア王国は、魔法の技術によって作られた魔石や護符、様々な生活に必要となる魔道具を輸出している国だ。もちろんその材料は国内で産出される魔材石が主だ。産地は南西から南東部にかけての国境付近、大陸の中央を貫く大山脈フェンリルの北壁入り口にある町ハイベルアからルアノにかけて点在している鉱山だ」
父であり師でもある魔導士は、ゆっくりと目を開けてヴァンドーナを見た。
「ラウスミルトにほど近い《大陸中央都市》ミディアルは、それら魔材石が集められ、研磨や精錬、加工される工房の拠点でもある。そして目的用途別に精製された魔石や魔道具は、もうひとつの交易都市テミリアを通り、その先にある王都ミストーナまで運ばれるのだ」
「王都から、他国へ向けて船で輸出されていくんです」
ルレアが口を挟んだ。
「ねぇ、おとうさま。ミストーナの王都には、とても大きな港が隣接していると聞きました。わたしたち、今回そこも見られるのかしら」
「到着したその日は無理だろうが、翌日の朝ならば時間が取れるだろう」
「すてき! ありがとう、おとうさま」
ルレアは頬を紅潮させて、手を打ち鳴らした。その嬉しそうな様子に、ヴァンドーナの顔も自然とほころぶのだった。
けれどルキアスは、またも自分の考えに沈みこんでいた。
「なにか気になることでもあるのですか?」
ヴァンドーナは訊ねた。今回初めて屋敷から外へ連れて行ってくれるというのはありがたかったが、特別な理由でもあるのだろうかと訝しんでもいたのだ。
父ルキアスの顔には、いつもと違う濃い疲労の影がある。時折しずかに瞑目したままであったり、遠くへ視線を投げかけたまま動かないこともしばしば。何かを思い悩んでいるのかもしれなかった。
「……今でなくとも構いません」
彼がそう付け加えると、父は「うむ」と短く頷き、隣で嬉しそうに微笑みながら窓の景色に夢中になっている娘に目を向けた。