その4
「紅葉を見に行こうよ」
食事の後、佐久間さんは私に分厚いガイドブックを手渡した。 家に持ち帰りぺらぺらとページをめくっているうちに、私はとある小さな田舎の集落が紹介されているのに気づいた。誠二郎さんが生前住んでいたのはこの辺りだ。ネットで地図を見せてくれたので覚えている。彼が埋葬されたお寺もその辺りにあるらしい。本来罪人である彼には埋葬は許されないのだが、助左衛門の側近の者が無実の罪で死んだ彼を哀れんだのか、それとも祟りを恐れたのか、古寺の片隅にこっそりと埋めてくれたのだという。
いつか墓参りをしたいと思いながらも、私にはそこまで遠出する気力がなかった。けれども、ガイドブックの小さな写真を眺めているうちにどうしても行ってみたくなった。
次に会った時、佐久間さんは付箋が貼られたページを開いて眉をひそめた。
「こりゃあ、ずいぶん遠いな。一泊する?」
「え?」
「ごめん。今の冗談」
「ううん、一泊でよければ行こうよ」
佐久間さんは露骨に驚いた顔をした。私の真意を測りかねたようにこちらを見ている。
「しばらく旅行なんてしてないから。佐久間さんさえ良ければ連れて行ってほしいな」
彼と一泊旅行をする意味は自分でも分かっている。誠二郎さんはもう帰っては来ない。私たちの間に残されたのは叶うかも分からない来世の約束だけだ。彼は私の幸せのためにあの世へと旅立って行ったのだから彼の墓に参って気持ちを切り替えよう。私がくよくよしていては誠二郎さんは浮かばれないのだから。
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およそ弁護士の愛車とは思えぬ小さなハッチバックの国産車に揺られて秋の風景を走るうちに、私はこの旅行を楽しみ始めていた。どうして紅葉のほかには見所もないような辺鄙な村を選んだのか佐久間さんが一度も尋ねなかったので私は胸をなでおろした。聞かれても納得のいく答えを返せたとは思えない。途中、特にトラブルもなく昼過ぎには目的地の村についた。
そこには美しい山並みを背景に絵に描いたような山里が広がっていた。彼岸花に縁取られた畑や枯れ田がどこまでも続き、所々に大きな藁葺きの民家が残っている。通りがかった小さな駅の前に周辺の絵地図が描かれた看板を見かけたので車を止めてもらった。けれど彼が埋葬されている小さな寺は見当たらなかった。
「何か探してるの?」
運転でこわばった体を伸ばしながら佐久間さんが尋ねる。ちょっと寄りたいところがあるのだと答え、私は一人で駅前の駐在所に立ち寄った。駐在さんによるとその寺は確かにあったのだが、数年前、バイパス道路を造る時に用地として買収されたのだという。寺の移転先を教えようかと言ってくれたが私は断った。
礼を言って立ち去ろうとすると駐在さんが聞いた。
「あんたは歴女って奴かい? あんな小さな寺にも武将の墓があったのかな? 」
違うというと彼は笑った。
「先月も聞きに来た人がいたんで気になってね」
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駐在所を出ると車の中に佐久間さんの姿はなかった。トイレにでも行ったのかな? 私は冷たい飲み物を買おうと駅の向かい側の小さな商店に入った。見たことのない銘柄のジュースを選び、店番のおばさんにレジで代金を払う。その時、おばさんが私の肩越しに誰かに向かって話しかけた。
「あれ、あんた、この間の人だね。見つかったのかい?」
振り返ればそれは佐久間さんだった。
「ええ、おかげ様ですぐに見つかりました。ありがとうございました」
彼は明るい笑顔で礼を言うと、陳列棚からスナック菓子の袋を取り、レジに置いた。
――どういうこと? 見つかったってなにが?
私は店から出るとすぐに彼に尋ねた。
「佐久間さん? さっきのはどういうこと? 」
彼は困ったように頭をかいた。
「バレちゃ仕方がないな。俺さ、一ヶ月前にもここに来たんだ」
「もしかして……旅行の下見?」
「そうだよ。職業柄、何もかも先に準備しておかないと気がすまなくてさ。それよりも早く紅葉を見に行こうよ」
こんな遠いところまでわざわざ下見に来たっていうの? 何か釈然としなかったが、それ以外にこんなところに来る目的もないだろうから、きっと本当の事だろう。車の中で彼は無言だった。五分ほど走って真っ赤なモミジに彩られた小さな山の麓に着いたとき、私はなぜかほっとしていた。
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駐車場に車を止め、私たちは山の登り口に向かった。ガイドブックで紹介されたせいか観光客の姿も多い。登り口の脇の案内板によれば、二百メートルほどのお椀形の山の上には小さいながらも立派なお城が建っていたらしい。 誠二郎さんはここのお殿様に仕えていたんだろうか? 残念ながら現在は石垣の一部が残っているだけのようだ。頂上までは広い石の階段が続いており、ゆっくり歩いても三十分あれば登れるとのことだった。
佐久間さんの後について石段を登るにつれ、またあの胸騒ぎが蘇ってきた。胸がどきどきする。運動不足のせいなんかじゃない。足元が突然に崩れてしまいそうな恐怖に襲われて立ち止まるたびに彼が振り返って疲れたのかと聞くものだから、私は歩き続けるしかなかった。
「こっちだよ」
もう少しで頂上かという辺りで、彼は舗装もされていない脇道へと入って行った。
「そんなところ、勝手に入ってもいいの?」
「こっちのほうが景色がいいんだ」
自信たっぷりに彼が答える。最初のうちは広かった小道も歩くにつれて岩だらけの山道に変わった。聞こえるのは鳥の鳴き声とバイパス道路を高速で走る車の音だけだ。五分ほど歩くと突然に視界が開けた。私たちは大きな石垣の上に立っており、眼下には美しい山里の風景が広がっていた。
私と佐久間さんは石垣の上に腰をおろし、持ってきた水筒から水を飲んだ。
「きれいだろ? 頂上からじゃ木が邪魔をしてこっち側は見えないんだぜ」
佐久間さんは得意そうに言う。さすが下見に来ただけあってくわしいんだね、と言いかけた時、私はあることに気づいてしまった。
彼は一ヶ月前にここに来たと言った。でも、私が彼からガイドブックを受け取ったのは二週間前だ。私がこの村に来たがると彼が知っていたはずがない。
私の表情の変化に気づいたのか、彼が尋ねた。
「どうかした?」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「俺も美緒さんに話がある。ここなら邪魔がはいらないからちょうどいいだろう?」
佐久間さんは胸のポケットから取り出した眼鏡をかけるとおもむろにこちらを向いた。
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雲ひとつない秋晴れなのに、辺りの温度が下がった気がした。胸騒ぎはますます大きくなり、私は吐き気に襲われた。何かが起きようとしてる。誠二郎さんが消えてしまった時のように、私の人生をひっくり返すような大きな出来事が。
――佐久間さん? あなたの仕業なの?
彼の表情からは何も読み取れない。仮面をかぶってしまったのだ。
「まずは美緒さんの質問を聞こう。何を知りたいの?」
佐久間さんの声は心なしかこの状況を楽しんでいるように聞こえる。
「どうして先月ここに来たの? 下見じゃないよね?」
「ああ、下見なんかじゃない。どうしても調べたいことがあったからだよ。美緒さんこそ、どうしてこの場所を選んだの? あのガイドブックには三百箇所以上の紅葉の名所が掲載されていた。こんな辺鄙な山里が載ってる本なんてあんまりないからさ、探すのに苦労したんだよ。で、君に渡したら思った通りこの村を指名してきた」
「私、はめられたの?」
「うん、ごめんね」
「でもどうして?」
「俺が狂ってないって証明するためだよ。それと、君に仕返しをするため……かな?」
佐久間さんの眼鏡が光る。秋の空を映しているはずなのにその青の色は冬の冷気を帯びていた。仕返しって何? 私があなたに何をしたって言うの?
――誠二郎さん! 誠二郎さん、助けてよ!
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「まずは俺の話を聞いてよ」
佐久間さんは石垣の上で長い足を組んだ。
「誠二郎という人の話だよ。君も興味があるんじゃないかな?」
私は驚いて彼の顔を見つめた。どうして彼が誠二郎さんの名前を知ってるの? 佐久間さんは私の反応を確かめるように黙って私を見つめ返した。誰にも誠二郎さんの話をしたことはない。アパートの外で彼の名を出したとすれば、出先から誠二郎さん本人と電話で話した時ぐらいだ。もしかして……盗聴されてたの? 本当に彼はストーカーだったってこと?
「彼は美緒さんの大事な人なんだろ?」
「で、でももう別れたから」
「それは知ってる。でも、まだ君の心の中は彼でいっぱいだ。そうだね?」
「ご、ごめんなさい」
白く光る眼鏡の奥からも、彼の声からも一切感情が読み取れない。相手がプロの弁護士だということを初めて実感した。
「謝ることはないんだよ」
身の危険を感じ、誰にもこの旅行のことを知らせていなかったのを思いだした。行方不明になってもすぐには気づいてはもらえない。弁護士なら証拠の隠蔽だってお手の物だろう。
「俺もね、彼の埋葬された寺を探したんだよ。そのお寺はね、ここから山を二つ越えたところにある同じ宗派のお寺と合併したんだ。お墓も全てそこに移転された。その寺じゃ誰も誠二郎のことは知らなかったが、俺は先代の住職を紹介してもらい、彼の話を聞いた」
急に話が変わって私は戸惑った。それじゃ、彼は誠二郎さんがこの世にいない人間だということは知っているのだ。遠い昔に死んだ人間だということも。
「詳細は伝わっていないが、確かに寺には非業の死を遂げた侍のものだと言われる墓があったそうだ。墓石には何も刻まれていなかったが、移転の時、石を持ち上げてみれば底面に名前が刻まれていたらしい」
「……彼の名前が?」
思わず聞き返した私に佐久間さんは頷いた。
「打ち首になれば家も取り潰され、武士の資格も剥奪される。せめて密かに名前だけでも残してやろうと考えた人がいたのだろうね」
誠二郎さんの話を疑っていたわけではなかった。けれども改めて彼が実在した証があると聞いて胸が熱くなる。だけど、どうして佐久間さんがそんなことを調べに来たんだろう。話がどこに向かっているのか分からない。
「美緒さんのおじい様の生家も戦前まではこの辺りにあったそうだね。代々長男は病気続きだったけど、家自体は座敷童子でもついてるんじゃないかってぐらい繁盛したんだそうだよ。自分を殺した相手にそこまでつくすなんて誠二郎はずいぶんなお人よしだったんだな」
「お人よしの何が悪いの?」
誠二郎さんをけなされて思わず大きな声が出た。佐久間さんは怯む様子もなく口元に挑戦的な笑みを浮かべている。
「どうして……どうしてあなたが誠二郎さんのことを知ってるのよ?」
「彼が俺に会いに来たからだよ」
「いつ?」
「もう一年ほど前になるかな。夜中に目が覚めたら枕元に武士が立っていた。俺に向かって、自分を消してくれって頼むんだ」
じゃ、私に別れを告げたあと? そうか。あの世に行くと言ったものの、彼は自分じゃ消えられなかったんだ。だから佐久間さんに頼みに行ったんだ。
「彼はどうしたの?」
「消えたよ」
何の感慨もこもらない声で彼が答える。
「何か……言ってた?」
「美緒殿を頼みますと言われた。それだけだ」
「……あなたはなんて、答えたの?」
「もちろん引き受けておいたよ。俺が一生面倒を見ると誓った。だから美緒さんもそのつもりでね」
誠二郎さん、酷いよ。弁護士なら私の将来は安泰だと考えてのことだろうけど、よりによってこんな人に私を押し付けるなんて。
「そんなこと言われても困るよ」
「あれれ、俺と一泊するんじゃなかったの? 困ったな。部屋を一つしか取らなかった」
なんなの、この人? やっぱり彼は変だ。私の勘は間違っていなかった。
佐久間さんは芝居がかった仕草で肩をすくめてみせた。
「まあ、そう言うだろうと予想はしてた。話にはまだ続きがあるんだ。もう少しだけ我慢して聞いてくれるかな。これを聞けば美緒さん、俺に抱いてくれって泣きついてくるかもよ」
今度は脅すつもりなの? 私は彼を睨みつけた。この情けの欠片もない男が誠二郎さんを消したのだと思うと怒りが込み上げる。けれども彼に抵抗しても勝ち目はない。今は黙って話を聞くしかなかった。
「俺はね、子供の頃から繰り返し同じ夢を見るんだ。女の人が出てくる夢だなんてませたガキだと思うだろ? 俺には彼女が運命の人だって分かってた。そしてね、去年、行きたくもなかったコンパの席でその人にばったり出会ったんだ。だから俺は喜び勇んで話しかけたのに、彼女は俺に見向きもしない。どんな女も先を争って俺に媚を売るのに、彼女ったらさっさと逃げ帰っちまったんだぜ。運命の人のくせに酷いと思わない? ねえ、美緒さんはどう思う?」
それはあなたの頭がおかしいからでしょ? とは言えず、私は唇を噛み締めた。階段まで戻れば人がいる。細い山道を彼に捕まらずに走って戻れるだろうか?
私が黙っているのを見て彼はため息をついた。
「俺の秘密を打ち明けてあげたっていうのに、ちっとも反応がないんだな。じゃあ、もう少しだけ教えてあげる。こんなこと話せば美緒さんに笑われちゃうかもしれないけどね。だって夢の中じゃ、俺、ちょんまげを結ってたんだぜ」
――え?
「俺は狂おしいほど彼女に恋してた。でも夢の最後はいつも悲しい別れで終わるんだ。その人は泣き顔で俺にこう言う。針千本だよ、ってね」
彼はゆっくりと眼鏡をはずした。私をまっすぐに見つめる目には狂気の色はない。心なしか目頭が少し濡れていた。
「自分の頭がおかしいんじゃないかって疑いながらも、俺は彼女との約束を果たそうとしたんだよ。針千本飲まされちゃかなわないからね」
「あなたは……誠二郎さんなの?」
「俺にもよく分からない。でも、もしそうなら俺は君にこう言うべきなんだろうな」
彼は小さく咳払いすると私の耳元でささやいた。
「美緒殿、約束を果たしに参りましたぞ」
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私は泣き出した。ほっとしたのと嬉しいのとで声を上げて泣いた。佐久間さんは黙って私を引き寄せると、泣き止むまでずっと抱いていてくれた。
胸騒ぎも吐き気もいつの間にか嘘のように収まっていた。しばらく経って彼が聞いた。
「落ち着いた?」
「佐久間さんの馬鹿!」
「え、俺、馬鹿なの?」
「あなたが誠二郎さんなんだったらさっさと教えてくれればいいじゃない」
「俺だって自分が正気なのか自信がなかったんだよ。あの晩、誠二郎に会った時、自分が未来の彼だってことが俺にははっきりと分かった。誠二郎が俺に近寄ることが出来なかったのは、本来彼と俺とは同時にいてはならない存在だったからだ。時間まで遡っちゃうなんてよっぽど今世の美緒さんに会いたかったんだろうな」
佐久間さんが微笑んだ。
「美緒さんにもそろそろ打ち明けるべきだと思ったんだけど、その前に彼が存在したという裏づけを取ることにした。だから一人でここに来たんだ。墓石のおかげで彼が実在した人物だと分かった。でもやっぱり、食事の席で『俺、誠二郎の生まれ変わりなんだけど、どうする?』なんて尋ねる度胸はない。全てが俺の妄想だって可能性も否定しきれなかったからね。美緒さんが本当に誠二郎を知っていたという確かな証拠が欲しかったんだ」
「だからガイドブックを渡して私の反応を見たのね。でもあんなに脅かすことはないでしょう? 意地が悪すぎるよ」
佐久間さんが口を尖らせた。
「いいか、俺は子供の時から勉強ばかりの毎日だった。美緒さんに会った時に自分を誇れる男になってなくっちゃならないと思ったからだ。ラブレターは山のように貰うのに女とは付き合ったこともない。おかげで学生時代には佐久間君は男にしか興味がないと女子に噂される羽目になった。それなのに美緒さん、最初から人を変質者みたいな目で見て、やっと付き合ってくれたと思ったら散々じらされてさ。あんまり腹が立ったからちょっと脅かしてやろうと思ったの。かわいい冗談だろ?」
「冗談にしては度が過ぎてるでしょ? 殺されるのかと思ったんだからね」
「どうして俺が美緒さんを殺さなきゃならないんだよ? それに、誠二郎もそれほど出来た人物でもなかったんだぜ。美緒さんの着替えを隠して困った顔で風呂場から出てくるのを見て面白がってたぐらいだから」
「酷いじゃない。そんなことまで夢で見たの?」
「印象の強い出来事は結構覚えてるんだ。まさか美緒さんが素っ裸で飛び出してくるとは思ってなかったからね」
「嘘つき。覗いてないって言ったじゃないの」
「俺じゃないよ。俺は佐久間亮太。前世は誠二郎だったのかもしれないけど今は違う。それでもいいなら付き合ってやってもいいぜ」
「じゃ、付き合わない。性格が違いすぎるもん」
「何言ってるんだよ? 約束させたのは美緒さんのほうだろう?」
誠二郎さん、今じゃあなたは弱きを助ける正義のヒーローだよ。今度こそ思い通りの人生を歩めたはずなのに、約束を守って私を探し出してくれたなんて、やっぱりあなたは変わっていない。
「悪くないバージョンアップだよ。ちょっとSの気が強いけどね」
「え? それ、俺のことを言ってる?」
「うん、見つけてくれてありがとう」
彼はにっこり笑うと身を乗り出して私にキスした。遠慮がちな優しいキス。このキスをまだはっきりと覚えている。
「これ、俺のファーストキス」
柄にもなく顔を赤くして佐久間さんが打ち明けた。
「え、佐久間さん、もてそうなのに?」
「だって、美緒さん以外は女に見えなかったんだぜ。責任取ってくれよな。……あれ、美緒さん、熱がある?」
今のキスのせいだと思うけど。
「風邪ひくと大変だ。もう降りよう。夜に支障があったら困るし」
「そこは口に出さなくてもいいところでしょ?」
「何でだよ? 美緒さんと一泊だなんて楽しみで昨夜はほとんど眠れなかったんだぜ」
ああ、誠二郎さんの奥ゆかしさはどこに行ってしまったんだろう。
「でも、万が一、熱が出ちゃったら……」
佐久間さんがにやりと笑う。
「看病は拙者にお任せでござるよ」
彼の頭の上にちょんまげが見えた気がした。
-おわり-