その2
彼と暮らし始めてから一ヶ月ほどたったある晩、突然に目が覚めた。意識はあるのに目を開くことができない。まぶただけではない。全く身体を動かすことが出来ないのだ。
これって……金縛り? 今まで金縛りなど経験したことのなかった私はパニックに襲われた。
――誠二郎さん、誠二郎さん、助けて!
心の中で何度も彼の名を呼ぶ。幽霊なんだから聞こえるでしょ? 勝手な理屈だけど来てもらわないと困る。誠二郎さん、来てよ。助けに来て!
ひたすらまぶたに意識を集中してなんとか薄目を開けてみればすぐそばに彼が立っていた。ああ、よかった。気づいてくれたんだ。だが、誠二郎さんは何も言わずに私の上にかがみこんだ。彼の唇がそっと私の唇に押し付けられる。
――誠二郎さん、なにしてるのさ!
唇が触れていたのはほんの数秒だったと思う。彼が身を起こそうとした時、私の目と彼の目が合った。彼は電気ショックでも受けたかのように飛び上がり、そのとたん金縛りが解けた。
「み、美緒殿、目覚めておったのですか? いつから?」
「最初から。……いつもこんなことしてたの?」
「とんでもありません。誓って今回が初めてでござる。いつもはただ眺めているだけでございますからな」
「……眺めてたの?」
「し、失礼仕った」
彼は私を布団にくるみこむとそそくさとどこかに消えてしまった。残された私は心臓がバクバクしてさっぱり寝付けなかった。
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翌朝、身体がだるくて起き上がれなかった。
「美緒殿、どうされました?」
朝食の用意をしていた誠二郎さんが私の異常に気づき心配そうに声をかける。
「そろそろ熱を出すのかな?」
「いえ、まだ先のつもりにしておりますが」
誠二郎さんがカレンダーを見た。
「三週間後の金曜日の予定になっております。今朝は冷えましたので風邪でも召されたかもしれませんな」
「あの、昨夜のことだけど……」
誠二郎さんが赤くなった。
「覚えておられましたか」
「まあね」
――あんなの、忘れられっこないでしょ?
「面目ございません。美緒殿のあどけない寝顔に魔が差したのでございます。本来ならば腹を切ってお詫びすべきところですが、拙者はすでに死んだ身……」
「そこまでしなくてもいいけどさ、だからって金縛りにすることないじゃない」
「はて、覚えがございませんが」
「でも体が動かなくなったよ」
「さては拙者の緊張が美緒殿に伝わってしまったのかもしれませんな」
そういう仕組みなんだ。
「幽霊も女の人に興味があるんだね」
「誤解されては困りますぞ。決して戯れであのような真似をしたのではありませぬ」
「つまり、本気ってこと?」
「左様。ですが美緒殿は気になさらないでくだされ」
それは無理な話というものだ。その後、誠二郎さんとは目を合わせられなくなってしまったので、私は気力を振り絞って出勤した。
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戻ってきてからも誠二郎さんとの間の気まずい空気は変わらなかった。重苦しい雰囲気の夕食が終わると彼はさっさと後片付けを始めた。
「あの、誠二郎さん」
「はい」
「もっとちゃんとキスしようよ」
誠二郎さんの手から泡だらけのスポンジが滑り落ちた。
「なな、なんと申されましたかな。拙者、耳がおかしくなったようでございます」
「このままじゃ落ち着かないし、私も誠二郎さん、好きだから」
丸一日考えてよく分かったのだ。それが私の正直な気持ち。一緒にいればいるほど、私は彼に惹かれていく。
私は椅子から立ち上がり、真っ赤な顔の誠二郎さんに向かって一歩踏み出した。とたんに身体が硬直する。前のめりに倒れた私を誠二郎さんはしっかりと抱きとめた。
「美緒殿、危のうございますぞ」
「誠二郎さんが緊張するから悪いんでしょ?」
「そんな無体を言われては困ります」
私は彼の腕の中にいた。着古され薄くなった着物を通して彼の体温を感じる。幽霊ってこんなに温かいんだ。今までに何度も抱き起こしてもらったけれど、体と体を触れ合わせたのは初めてだった。誘っておきながら私のほうがドキドキしている。
「美緒殿は重いですな」
「誠二郎さんのご飯がおいしいから太っちゃったんでしょ?」
照れ隠しについ怒ったような口調になる。
「そ、そういう意味ではござらん。ずっしりと美緒殿の命の重みを感じるのでござるよ」
そう言って誠二郎さんが私を抱きしめたものだから、私はまた金縛りにあった。
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結局キスはできなかった。でも私は誠二郎さんと向かい合ってお茶を飲み、彼と並んでテレビを見た。今までと同じことをしているだけなのに相手が自分を想ってくれているというだけでこんなにも幸せな気持ちになれるものなの?
「誠二郎さん、奥さんはいなかったの?」
あまりに女性に免疫がないので答えは想像できたけど、好奇心から尋ねてみた。
「貧しさゆえに嫁を取る事も叶わなかったのでございます。何年も寝たきりの母もおりましたからな。拙者に嫁ぎたがるおなごなどどこにもおりませんでした」
彼の表情が翳る。しまった。また辛い過去を思い出させてしまった。聞かなきゃよかったと思ったけど後の祭りだ。
そのとき玄関のチャイムが鳴った。救われた気分で立ち上がり、ドアの覗き穴から外を見て驚いた。佐久間さんが立っていたのだ。
加奈子の奴、住所まで教えたのか。佐久間さんが私に興味があると知り、彼女は彼を応援し始めた。彼女によれば彼はコンパに来ていた中でも一番の有望株らしい。今までは女性に興味を示さなかったのでターゲットから外されていただけなんだと。
「もう、これじゃストーカーじゃないのさ」
いつの間にか隣に立っていた誠二郎さんが目を丸くした。
「なんと、ストーカーでございますか。早速警察に連絡いたしましょう」
「ごめん。ちょっと大げさに言っちゃった。そこまで嫌がらせされてるわけじゃないから」
「被害が出ぬうちに弁護士に相談という手もありますぞ」
「でも、佐久間さんは弁護士だし」
「お客は佐久間殿ですか? あの方が美緒殿に狼藉を働くとは思えませぬが」
「そうは思うけどさ。あの人、しつこいし、一人暮らしの女のところに連絡もなしに押しかけてくるのもおかしいでしょ?」
「ご安心くだされ。美緒殿は拙者がお守り申す」
「どうやって? 侍なのに刀だって持ってないじゃない」
「持っておっても使うわけにはいきませぬからな。一刀両断された男性の亡骸が転がっていては美緒殿がお困りでしょう」
誠二郎さんはにやりと笑うと重さを確かめるように靴箱の上の花瓶を持ち上げた。
「拙者の編み出した秘伝ポルターガイストの術を使いまする」
「もしかして、実家に泥棒が入った時にペンキの缶、投げつけたりした?」
「よく覚えておられますな」
「誠二郎さんって守護霊みたいだね」
「祟るばかりでは気がひけますからな」
私がドアを開けると、スーツ姿の佐久間さんがにっこり笑った。
「突然にすみません。また体調が悪いと聞いたので気になって来てしまいました」
「それはわざわざすみません」
どう応対していいのか分からず、私はそう答えた。黒縁眼鏡の下の表情はやっぱり芝居臭く思える。何が目的なんだろう。
「これ、お見舞いです」
彼は大きな紙袋を差し出した。
「あの、気を使ってもらわなくても」
「大丈夫そうでよかった。俺、帰ります」
私に紙袋を押し付けると、彼はすたすたと歩き去った。あまりにあっけないので拍子抜け。ポルターガイストの出番はなかったなと誠二郎さんを振り返ると、彼は蒼白な顔をして床に座り込んでいた。
私は息を呑んだ。彼の体がうっすらと透けて、床に敷かれた玄関マットの模様が見えていたのだ。
「あの方は……なんなのでございましょう」
彼の声は弱々しく今にも消えてしまいそうだ。
「どういうこと?」
「佐久間殿は拙者の存在を打ち消す力を持っておられるようです。あれ以上近づいていたら、どうなっていたかわかりません」
「じゃあ、あの人には霊を祓う力があるの?」
誠二郎さんが弱々しく笑った。
「佐久間殿に頼めば拙者を祓うことができますぞ」
「冗談でもそんなこと言わないでよ」
急に怖くなった私は床に膝をついて誠二郎さんに抱きついた。
「美緒殿、なにも泣かずとも」
「だって誠二郎さんがいなくなったら嫌だよ」
「それほどまでに想っていただけるとは拙者は幸せ者にございますな」
誠二郎さんは優しく笑って、今度は私を金縛りにすることなくキスしてくれた。