その1
また熱を出した。
会社で気分が悪くなりすぐに早退。アパートに辿り着いた時には四十度近くまで上がっていた。これを数カ月おきに繰り返すものだから、今までに何度も検査を受けた。でも原因がさっぱり分からない。いつも仕事に一区切りついて、ほっとしたタイミングで高熱に襲われる。おかげで同僚に迷惑をかけたことはないのだけど、やっぱり私がストレスに弱いってことなんだろう。
熱を出すだけならまだいいのだけど、それ以外にもひどく気になることがある。これだけは誰にも話せないし話したこともない。
熱で寝込むたびにちょんまげを結ったお侍が見えるのだ。それだけじゃない。その度にそのお侍が私の看病をしてくれるのだから尋常ではない。
ほら、今は台所に立って土鍋を火にかけている。
背筋を伸ばし、真剣な表情で鍋と向かい合っている横顔はまだ若い。二十代半ばというところ。色の褪せた褐色の着物にはところどころつぎが当たっており、袴にいたっては恐ろしく年期が入って見える。
土鍋に蓋をするとお侍がこっちを向いた。
「美緒殿、喉は渇いてはござらぬかな?」
その上、こいつはしゃべるときてる。熱で幻覚が見えるという話は聞くけれど、こんな症例はどこを調べても見つからなかった。私の妄想も入っているのか、彼はなかなかのイケメンだ。そうは言っても、こんな幻を見てしまうほど時代劇に夢中になった覚えはないんだけど。
「どうなされた?」
私の返事を待たず、お侍は湯冷ましの入った湯飲みを持ってきた。
「ささ、お体を起こしてくだされ。すぐにおかゆが参りますゆえ」
彼は私を抱き起こし、湯飲みを手に握らせるとにこりと笑った。
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最初に彼が現れたのは今からちょうど一年前、一人暮らしを始めてすぐのことだった。前触れもなしに高熱に襲われて私は途方にくれた。引っ越したばかりで近所には頼れる人もいないし、田舎の親に電話をして心配させるのも憚られた。
とりあえず寝巻きに着替え布団に入ったものの気持ちが悪くて起き上がることもできない。朦朧とした頭でそろそろ救急車を呼ばないとやばいかも、なんて考え出した時、誰かが私の額に冷たいタオルを置いてくれたのだ。
目を開いてみればそれは若い男の人だった。普通なら大声で叫ぶべきところなのだけど、その人の頭にちょんまげが乗っかっていたものだから、藁にもすがりたい気分だった私はそれが熱による幻覚だと決め付けた。
「美緒殿、拙者がついております。安心してゆっくりお休みなされ」
男の穏やかな笑顔に母の胎内に戻ったかのような安心感を覚え、私はそのまま眠りについたのだった。
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翌日までに何度か目覚めたが、そのたびに水を飲まされたのを覚えている。朝が来てもまだお侍はいた。薄いおかゆを出されたけど気分が悪くて食べることはできなかった。
「失礼つかまつる」
私を抱き起こして背中側に回ると彼は遠慮がちにパジャマを着替えさせた。汗で濡れたままでいるのは気持ちが悪いし自分では身動きするのも億劫だったので私はなすがままになっていた。着替え終わるとまた夕方まで眠った。
その日いっぱい私は彼に面倒を見てもらい、三日目の朝、さわやかな気分で目を覚ましてみれば、綺麗に片付けられた部屋に彼の姿はなかった。
それからも彼は二、三ヶ月ごとに現れ続けた。発熱の件では何度も医者にかかったが、「お侍が見えるんです」なんて打ち明ける度胸はなかったので、この奇妙な『現象』には説明がつかないまま一年が過ぎようとしている。今回で彼の出現は五回目だ。
二日目の晩になると熱もほとんど下がり、体はかなり楽だ。初日は食べ物などまったく受け付けないのだが、丸一日絶食すると少しおなかも空く。お侍の作るお粥はおいしい。とろりと濃すぎず薄すぎず、梅干と食べると絶品だ。食べ終わったら眩暈を感じた。
「もうお休みになったほうがよろしいですな」
「ううん、その前にちょっと聞きたいことがあるの」
「なんでございましょうか?」
熱が下がりまともに頭が働くようになれば今度こそ聞こうと決めていた。今までは幻と会話なんて始めてしまえば、それこそ自分が狂っているのを認めるような気がして、必要最小限のことしか伝えなかったのだが、これ以上この疑問を抱えたままでいるのは精神衛生上よくない気がしたのだ。
「あなたは誰なの?」
お侍はひどく嬉しそうな顔をした。
「初めて聞いてくださりましたな。某は園崎誠二郎と申す者。名乗るタイミングを逃したままになっておりました。ご無礼をお許しくだされ」
タイミングという言葉が彼の口から出てくるのは間違っている気がしたけれど私は質問を続けた。
「どうしてここにいるの?」
「拙者、美緒殿の八代前のご先祖、側用人田中助左衛門に謀られ、無念にも打ち首になりましてな、その折に子々孫々祟リ申すと公言してしまったのでございます。今まではご長男を祟っておりましたが、お父上の義彦殿には美緒殿しかお子がありませんでしたので……」
「つまり、あなたは私を祟ってるのね?」
「左様、この発熱は某の怨念の仕業にございます」
「じゃ、あなたは幽霊?」
「幽霊なるものは見たことはございませんが、そういうことでございましょうな」
そういえばお父さん、以前はよく熱を出していたのに、私が家を離れてからはすっかり健康になった。お前がいなくなって気苦労が減ったからだなんて冗談を言ってたぐらいだ。
「どうして祟った相手の看病をしてるの?」
「美緒殿は一人暮らしの身、何かあっては一大事でございますからな」
それでは祟る意味などないのではないだろうか。
「打ち首になったのはどうして?」
「公金横領の濡れ衣を着せられたのでございます」
「横領ぐらいで首を切られちゃうの?」
「死人に口無しといいますからな。身に覚えのない罪状をいくつも並べ立てられたのですが、拙者は生来不器用な性質でうまく申し開きもできませぬ。せめて腹を切らせて欲しいとの願いも虚しく斬首となったのでございます」
いかにも正直そうな彼の顔を見れば世渡りも下手だったのだろうと想像がつく。 同情すべきところなのだろうけど、そのために私が苦しまなくてはならないのも納得がいかない。
「さあ、そろそろお休みくだされ。眠らないとお体に障りますぞ」
「だってあなたが一番体に障ることをしてるんでしょ?」
布団をかけようとしていた彼の手が止まった。
「左様でございますな。まことに申し訳ござらん」
私に向かって頭を下げると彼の姿はそのまま宙に掻き消えた。
翌朝は熱も下がり彼の姿はなかった。最後に彼が見せた寂しそうな顔が気になって、あんなきつい言い方しなきゃよかったと少し後悔した。
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二ヵ月後に再び熱を出し、ベッドに倒れこんだとたんに彼が現れた。
「もう出てこないかと思った」
洗面器でタオルを絞りながら、朦朧としている私に向かって彼は寂しそうに言った。
「申し訳ございませぬ」
「ううん、この間はごめん」
それだけ言うのが精一杯だった。彼の驚いた顔を横目に私は眠りに落ちた。
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「私を祟っても意味ないんじゃないの?」
翌日の晩になって容態も落ち着いたので私はまた彼に尋ねてみた。
「ご先祖の助左衛門って人はとっくの昔に死んでるわけでしょ? それにそんな極悪人が私が熱を出したからって反省するとは思えないんだけど」
「美緒殿のおっしゃる通りでございますな」
リンゴを剥きながら彼は微笑んだ。
「じゃあ、もう私を祟るのはやめて、別の方法で恨んでもらえないかな?」
「例えばどのような方法が?」
「すぐには思いつかないけど、恨みは本人に返すのが筋ってもんでしょ?」
「そうは思うのですが、なにしろあの時は首を切られようとしておりましたので冷静に考える余裕がございませんでした。つい子々孫々を祟ってやると口走ってしまったのです」
「だから真面目に祟ってたの?」
「打ち首になったとはいえ、これでも武士のはしくれでありますからな。一度口にしたことは守らねばならぬのです」
「それじゃ私の子供も孫も祟る気なのね」
「そういうことになりますな」
ご先祖様はなんて困ったことをしてくれたんだろう。お祓いしてもらったほうがいいのかも。
「私が元気な時は何しているの?」
彼の端正な顔に動揺が走った。 リンゴが手からぽろりと落ちる。
「な、何もしておりませぬが……」
怪しい。 怪しすぎる。
「あなた、普段はどこにいるの? 自分のお墓に戻るの?」
「いえ、違います」
答えたくないのは彼の顔を見ればはっきりしているが、正直者過ぎて嘘でごまかすこともできないらしい。私は容赦なく聞き出すことにした。
「じゃあ、どこにいるの? 答えなさいよ」
観念したように下を向き、彼は蚊の鳴くような声で答えた。
「姿を消してこの部屋にいるのでございます」
なんだって? この小さな1LDKのアパートに始終いたって言うの?
「じゃあ私の暮らしを覗いてたのね?」
「ち、誓って風呂場や着替えを覗いたりしておりませぬぞ。下着をかぶったりもしておりませぬ」
そこまでは聞いていないけどさ。どこでそんな知識を仕入れたのやら。
「私が元気なときは隠れてなきゃいけない決まりなの?」
「いえ、そういうわけではございませんが」
「じゃあ、消えなくてもいいじゃない」
「つまり、ここにいてもよろしいのですか?」
彼の手からまたリンゴが転がり落ちた。
「見えない男にうろうろされるよりはよっぽどましでしょう?」
「左様でございますな」
幽霊だとは思えない明るい表情で何度も頷くものだから、もしかしてとんでもないことを許可してしまったのではないかと私は不安になった。
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翌朝、すっかり熱は下がっていた。
外は快晴で僅かに開いた窓の隙間から秋の風が流れ込んでくる。卵焼きのいい匂いに台所を見ると、私の気配に気づいたのかお侍が振り返った。
「美緒殿、おはようございます。見事な秋晴れでございますぞ。朝食の用意をいたしますのでまずは身支度をしてくだされ」
言われるままにシャワーを浴びて着替えてくると、テーブルにはふわふわの卵焼きと味噌汁が並んでいた。キュウリの浅漬けらしきものまである。
「美緒殿は熱を出しても三日目には必ず会社に戻られますな。会議は明日の午後なのですから今日はゆっくりなさればよろしいのに」
土鍋から炊き立てのご飯をよそいながら彼が言う。どうしてこの人が私のスケジュールを把握しているの?
「そうそう、課長殿からメールが入っておりましたぞ。美緒殿の体調を気遣っておられました。よい上司に恵まれましたな」
彼はテーブルの上からiPhoneを取ると私に手渡した。なるほど、そういうことか。
「ええと、あなたの名前……」
「誠二郎でございます」
「誠二郎さん、これ、使えるの?」
「美緒殿がよく置き忘れて出勤されますので、その隙に基本的な操作はマスターいたしました。洗練されたインターフェイスで初心者にも分かり易くデザインされておりますな。義彦殿の電子手帳を見たときには驚いたものですが、僅かな間にずいぶんと進歩したものでございます」
さてはこっそりお父さんの電子手帳をいじってたのはこいつか。
「会議に必要な書類はほれ、ここにプリントアウトしておきましたので本日中に目を通されたほうがよろしいな」
PCの設定が勝手に変わる原因も分かった気がした。
「それと佐久間殿からもメールが入っておりましたぞ」
「ええ、また?」
「美緒殿に御執心のようでございますな」
佐久間って人とは友達に連れて行かれた合コンで出会った。若手弁護士が揃ってるとか言って同僚の加奈子に無理やり引っ張っていかれたのだ。
加奈子が紹介してくれた男性と会話を始めた時、佐久間さんが割り込んできた。それもかなり強引に。長身で知的な顔立ちの佐久間さんは参加者の中でもダントツに格好よかった。でもなぜか顔を合わせたとたん、私はおかしな胸騒ぎに襲われたのだ。それでなくても黒縁眼鏡の下の表情が芝居臭く感じられて、正直彼にいい印象はない。会場にいる間ずっと私から離れようとしないものだからその日は理由をつけて早々に退散した。 それなのに、加奈子が連絡先を渡してしまったらしく、それ以来しきりに連絡してくるようになったのだ。
「拙者にはそれほど悪い御仁には思われませんが。それに佐久間殿の勤めておられる法律事務所はなかなか評判がよいようでございますぞ」
「どうやって調べたのよ?」
「昨今はインターネットという便利なツールがございますからな」
「あの人、どうして弁護士になったのか聞いたら、困ってる人の役に立ちたいからだって表情も変えずに言うのよ」
「それのどこがいけないのですかな? 立派な理由ではございませんか」
「どこか胡散臭いのよ。信用できないの。第一、あんなスペックの高い人に彼女がいないわけないでしょ?」
電車の時間が迫っていたので私は会話を切り上げて立ち上がった。
「今日はキャラ弁でございますぞ。お仕事、頑張ってくだされ」
どこか浮世絵風のディズニーキャラの描かれた弁当をカバンに入れ、買い物リストを手渡すと彼は笑顔で私を送り出した。
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夕方、アパートに戻ると夕食ができていた。
「ささ、食されよ。美緒殿はイタリア料理がお好きですからな。拙者、実物を食べたことがござらんのでレシピ本を参考にいたしました。うまくアルデンテになっておりますかな?」
シンプルなトマトソースのパスタはとてもおいしかった。
「リコピンには驚くべき抗酸化作用があるのでございますよ」
私の食べっぷりに彼は満足げだ。その後の会話で彼は朝の奥様向け情報番組の熱心な視聴者だと判明した。
就寝時間になると彼は礼儀正しく挨拶をしてどこかに消えてしまった。このアパート内にいるのは分かっているのだけど、やはり気を使っているのだろう。そういえば夜中に目を覚ましたらTVがつけっぱなしになっていたことがあった。もしかして幽霊は眠らないのかもしれないと思い「TVを見てもいいよ」と声をかけると、どこからともなく「かたじけのうございます」と返事が返ってきた。
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誠二郎さんとの同居は驚くほど順調だった。けれども私が働いている間、彼がすべての家事を済ませてしまうので、甘えっぱなしの私は申し訳なく思った。
「お手伝いさんみたいに使っちゃってごめんね。そんなつもりじゃなかったんだけど」
「いえ、拙者は毎日が楽しくて仕方がないのです。生前は楽しい思いなどしたことがございませんでした。武士の家に生まれたものの暮らしていくのがやっとの生活。父が死んだ後は拙者が家督を継ぎましたが、多額の借金の返済に追われる毎日でございます。そんな折、助左衛門殿に目をかけていただき、昇進も間近かと喜んでおりましたところ、それは拙者を罠にはめるための策略だったのでございます」
辛い過去を思い出したのか、彼の表情が翳った。心なしか部屋の中もどんよりと暗くなったような気がする。
「いいんだ。誠二郎さんさえ構わなければ好きにしてよ」
私が慌ててそう言うと、彼の表情がぱっと明るくなった。彼の過去に触れるのは避けたほうがいいようだ。
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誠二郎さんはTVが好きだった。姿を消さなくてよくなってからはゴールデンタイムの時代劇が見られるのがとても嬉しいようだった。
「昼間の再放送ばかり見ておりましたからな」
「時代劇なんて本物のお侍から見たらおかしなところだらけじゃないの?」
「いえ、実を申せば昔がどんなだったかはっきり覚えてはおらんのです。拙者が死んだ後、世の中はめまぐるしく変わりましたからな」
子供のころ、曾ばあちゃんの言ってることすら分かりにくかったのに、どうして二世紀前の人間である誠二郎さんと問題なく会話ができるのが不思議だったが、彼の聞き取りやすいサムライ言葉はどうやらTV番組からの逆輸入であったらしい。
彼が特に好きなのはパターンの決まった勧善懲悪物だった。正義のヒーロー達の活躍に彼はいつも真剣な面持ちで見入るのだった。
「このキメのセリフになんともシビレますな。拙者にもあのような度胸があればむざむざ打ち首になることもなかったでしょうに」
「あれは作り話だもん。そううまくはいかないよ」
「そうでございますな」
そう言った彼の顔は寂しそうだ。正直者の彼が身に覚えのない罪で首を打たれてしまったとは、さぞかし無念だっただろう。
「誠二郎さんって真面目そうなのに、誰も無実の罪だとは疑わなかったの?」
「拙者の無罪を信じて疑わぬ者もおりましたが、なにせ助左衛門殿は殿の覚えもめでたく飛ぶ鳥を落とす勢いでございましたからな。異を唱える者などおらぬのは当たり前。彼らを責めるつもりはありませぬ」
また部屋がどんよりと暗くなってきたので私はそこで話を切り上げた。今も昔も正直者が馬鹿を見るのが世の常だということか。自分の先祖ながら助左衛門が憎たらしい。誠二郎さんが満足しているのなら、このままここにいてもらおう。彼と同居を始めてから、私も日々の生活に張り合いが出てきた。幽霊に祟られるというのもそう悪い事ではないらしい。