浜の甘えび
昨日は残業が終わらずに、結局、終電を逃してしまった。朝の電車で帰る途中、睡魔に襲われついうとうとしていた。
「町山、町山」というアナウンスを聞いてハッとした。アパートの最寄り駅だ。慌てて降りる。
降りたところで、辺りの様子にまったく見覚えのないことに気がついた。戻ろうとして振り返ると、電車は走り出すところだった。
俺の降りた駅は「町山」ではなく「松浜」だった。寝ぼけて聞き違えたのだろう。「松浜」なぞ聞いたこともない。
俺はため息をついた。汚らしい木造の駅舎に歩み寄り、そこら中見回してみたが時刻表がない。
「くそ」と悪態をついてベンチに座り込んだ。どうせすぐには電車もくるまい。しばらく座っていたが、自分ののどの渇きに気がついた。その辺に自販機くらいあるだろうと思って立ち上がった。駅舎を出る。駅の前には下り坂になった広い道があり、その両脇にはごちゃごちゃと民家が立ち並んでいる。そして、道のずっと先には青い海が見えた。
自販機は駅舎の脇にあった。俺は財布を開いて硬貨を探った。五百円硬貨を一枚取り出す。自販機を前にしてみると、急にのどの乾きが強まった。硬貨を持った手を投入口にぶつけるようにして差し出した。
硬貨は投入口に入らず、ふちにぶつかってはじかれた。五百円玉は俺の手を離れて、地面に落ちた。俺の後ろの方向へ数度跳ねる。慌てて振り返ると、円い硬貨は日の光をちらちらと反射しながら、坂道を転がりはじめていた。
俺は坂道の方へ駆けだした。硬貨は倒れて止まる気配もなく、次第にその速度を高めてゆく。
俺は無心に走った。俺が走りすぎると沿道の車庫のシャッターがかたかたと音を立てる。誰とも出会うことがない。まだ時間が早いのか。ポケットの携帯電話で時間を確かめようかとも思ったが、やめた。硬貨を見失ってしまう。
アスファルトの僅かな凹凸につま先を取られた。とっさに手を前へ突き出す。
ぱきと嫌な音がした。激痛が走る。かなりの速さで走っていたことと、坂道だったことで、俺は勢いよく前のめりに倒れ、全体重と走ってきた勢いが右手の親指のほか、四本の指にかかってしまった。
俺は歯を食いしばって、なんとか痛みに耐えながら、道の脇の石塀に上半身を預けた。おそるおそる自分の右手を見てみると、指は付け根から手の甲の方へ折れ曲がり、既に赤黒く変わりはじめていた。
俺はふらと立ち上がった。坂道はすっかり下りきって、砂浜はもう鼻の先である。
俺は存外、はっきりとした足取りで、浜まで歩いて行った。なぜそうしたのかは分からないが、ここまで坂道を下ったのだから、最後まで行かねばと思ったのかもしれない。
砂浜に海を背にして自動販売機が一台立っていた。俺はその前に行く。自販機の前には俺の五百円玉が落ちていた。俺はそれを拾い上げて、今度はゆっくりと投入口に入れた。投入口の奥で硬貨の落ちた音がした。
それから初めて俺は、プラスチック板の向こうで並んでいるであろう商品見本を眺めようとした。しかし、そこには見本などは並んでおらず、ただ小さなブラウン管の画面とその下に丸く赤いボタンがあるきりだった。その画面には二つの単語がなんとか目で分かる程度の速さで交互に現れている。「ゆび」と「えび」だった。
俺は左手を持ち上げて、画面の下のボタンを押した。
俺は電車の中で目が覚めた。車内アナウンスが「次は町山、次は町山」と告げている。どうやら居眠りをしてしまったようだ。危うく降り損ねるところだった。前屈みになって眠っていたため前髪が目にかかっている。そろそろ髪を切らなければと思った。俺は髪をかき上げようと額に手を伸ばした。額に妙なものが当たった。水気があって少しぬめりのある何か。指先に何かついているのだろうかと思って右手を見た。人差し指と中指と薬指と小指があるはずのところには、真新しい甘えびが生えていた。
「砂浜」「五百円硬貨」「甘エビ」で書いた三題噺です。