群青
高校生ともなると、将来について考える機会は格段に増加すると思う。何処の大学を目指すのか、将来は何を生業とするのか。だが考えてみてもどうにも漠然としている。目標が定まらない。まあ、無理もない。これといって夢というものを持ってはいないのだから。
このまま何となく大学に行き、何となく大人になり、適当に会社員にでもなるのだろう。そんな風に思っていた。
毎日毎日、同じような日々の繰り返し。刺激のない、退屈な日常。如何ともし難い鬱々とした気分。それを引き摺って今日も生きている。
終業のチャイムが鳴った。
「では、本日の授業はこれまで」
教師の一声を聞くなり、机や黒板に向けられていた教室中の視線が一斉に彼に向く。いや、数人寝ている者もいたことは確かだが。
「礼!」
「ありがとうございました!」
本日の日直の発声で、組全員が挨拶をする。一年生の時分から変わらない習慣である。
ガラガラと引き戸の音を立てて、教師が教室を後にした。それを見て、はあ、と息を吐く。一日の最後の授業は気怠い。それも木曜日のものは特に、だ。その所為か、この後にホームルームも待っていることが大層しんどく感じられた。
ぼんやりとしているうちに担任と副担任が教室へやって来た。すぐにホームルームが始まる。ぼうっとしたまま、話を聞く。
「……以上。何か連絡事項のある者は……」
特段報告のある者もおらず、再び日直の音頭によってホームルームが終わった。いつも通りのはずであるのにも拘わらず、今日は殊更長かったような気がする。
ふと目線を上げれば、静まり返っていた教室に喧噪が戻ってきていた。部活のある者、委員会のある者。三々五々、教室から次々と人が出て行く。そんな中、本日は部活が休みである自分には急ぐ理由もないので、ゆっくりと帰り支度をする。教科書、ノート、エトセトラ……。諸々を鞄に詰め込んでいく。最後にペンケースを入れようとしたところで不意に思い出す。
「あ……」
絵筆のケースを美術室に忘れてきていた。四限の時、片付けに手間取って次の授業に遅れそうになり、置き去りにしてしまったのだ。面倒だが、取りに行かなければ。やっと帰宅出来ると思ったのに。漏れそうになった溜め息を堪えて、教室を出る。
美術や音楽といった授業用の特別教室は普段使いする教室とは別の棟にあるため、辿り着くまでに少々時間を要する。午後の授業からの怠さを纏った身体では、ホームルームの時のように、その道のりも微妙に長く感じられる。道中、眠気があるわけではないがどうにもすっきりしない頭で取留めもないことを考えて時間を潰した。
幾つかの空き教室を過ぎ、音楽部の奴らと擦れ違った先、漸く目当ての部屋が見えてきた。美術部の連中がいるだろうから、声を掛けねばなるまい。コンコン、と右手で軽くノックをする。ガララ、と少し戸を開け、声を上げる。
「失礼しまーす。忘れ物を取りに来ました」
静寂。
あれ、電気が点いているのに。誰もいないのか。なら、勝手に入るまでだ。
今度こそ、戸を大きく開け、中に踏み入れる。と、部屋の隅に人がいるのが目に入った。
白いワイシャツを腕捲りしたその人物は、イーゼルに立て掛けられたキャンバスに向かっている。ボブとでも呼べば良いのか、ショートよりかは長めの黒髪に隠れて、その人の表情は窺えない。何だ、誰か居るんじゃないか。
「あ、あのー、すみません。ちょっと物取らせてもらいます」
「……え?」
聞き返してきた其奴は、ぐるりと此方に顔を向けた。サラリとした黒髪が揺れる。
いや、俺、結構な大声で挨拶したはずなんだが。彼の手に絵筆が握られているので、恐らく描くのに夢中で気が付かなかったのだろうと結論付ける。
「忘れ物、取りに来たんです。すぐ済むんで」
「そう……」
それきり、其奴はもう興味を失くしたかのように視線を元に戻した。対応が冷ややかだ。居心地が悪い。さっさと退散しよう。
探し物はすぐに見つかった。鞄にそれを仕舞い、一言言って去ろうと彼を見たその時。先程は気にも留めなかった彼のキャンバスが目に入った。
青。それは一面の青だった。青も青。真っ青だ。他には何も描かれていない。深海を描きたかったのか、宵闇が迫る空を描きたかったのか。あるいは夜明け前の空かもしれないし、全く別の何かかもしれなかった。
ただ、絵の全体が同じ青というわけではなく、ある部分では群青、ある部分では紺青、またある部分では紺碧と、絶妙なグラデーションが施されている。
思わず息を吞んだ。自分は美術の成績が良い訳でもなければ、美術鑑賞の趣味もない。美術に関しては素人も素人だ。巨匠の傑作が子供の落書きのように見えることなんてざらにあったし、写真のように描かれた綺麗な絵はただ綺麗だと思うだけだ。それなのに。
「凄いな……」
初めてだった。絵に感動を覚えたのは。こうして言葉が口から零れ落ちたのは。
何を描いているのか、作者の意図は何なのか。そんなことはこれっぽっちも分からない。分からないが、何か胸に迫るものがある。己の審美眼など当てにもならないが、彼は天才なのではなかろうかと、本気で思った。
ふと我に返ると、作者である彼が此方を静かに見返していた。その瞳は何処か冥く、何を考えているのかは読み取れない。
「面白くないって言わないんだ」
彼が呟くように言った。
「誰でも描けるとか、言わないんだね」
そう言葉を続けると、彼はふ、と小さく微笑んだ。一見、鮸膠も無さそうに見える此奴もそんな表情をするのかと、初対面のくせに思ってしまった。
「僕は二年三組の九条宗一郎。上履きの色、同じだから同学年だよね」
彼の言葉で足元に視線を落とす。確かに二人とも同じ青色だった。
「俺は武田湊。一組。宜しく」
彼の口調に釣られて、自然とタメ口になった。まあ、いいだろう。
「絵、好きなの」
彼が徐に口を開き、尋ねてくる。
「あ、いや、詳しくは、ない」
何故かしどろもどろになって答える。
「そっか」
落胆させたかと思ったが、彼は気にしていないようだった。何を話せば良いのか分からないので、適当に話題を出す。
「なあ、此処で絵を描いてるってことは、美術部だよな?」
「うん」
「他の部員は?」
「今日は休みの日だから誰もいないよ」
「そうなんだ」
暫しの沈黙。訳もなく緊張する。別に人見知りという訳でもないのだが。
「ねえ」
突然、彼がまた口を開く。
「他の絵、見てみる?」
悪戯っ子のような目をして、彼は言った。
「ん、見る」
「了解」
反射的に答えると、彼はどことなく嬉しそうに微笑んだ。
彼に連れられて美術室の奥の保管庫に入る。其処には絵画だけでなく、彫刻や焼き物、粘土作品などが所狭しと並べられていた。色の洪水。モネ、だったか。あの世界に入り込んだかのように錯覚する。
彼はガサゴソと奥の棚を探っていた。仕舞い込んであるようだ。
「大方は家に持って帰ったんだけどね」
探しながら、彼が話し出す。
「幾つかはまだあったはず……。ああ、これだ」
そう言って百円ショップにあるような安物の額縁に入れられた絵を三枚、取り出した。
「ほら」
保管庫の薄明りの中、彼が絵を差し出す。
「ここじゃ暗いから、美術室に戻っていいか?」
俺がそう言うと、彼は分かった、と言って絵を抱えたまま先立って部屋を後にした。それに続いて美術室に戻ると、彼が古びた長机の上に絵画たちを並べる。
「少ないけど」
そう言って席に着き、真っ直ぐに俺を見る。此方も椅子に腰掛ける。
先程とは違って明るい蛍光灯の下、俺は繫々と三枚の絵を眺めた。作品は何れも抽象画のようだ。一枚は赤や黄や緑や黒がぐちゃぐちゃと混じり合った絵。もう一枚は緑を基調として、其処に黄緑や青といった絵具を幾筋も垂らしたような絵。最後の一枚は殆ど一面が白く滲み、靄がかかったような絵である。
何とも名状し難い。最初に見た青い絵と同様に、何を描いているのか皆目見当がつかない。だが、見える気がする。これを描いた作者の姿や当時の心境が瞼の裏に浮かぶ気がする。抽象画はよく分からないと思っていたが、見た者に考えさせるのがその本質なのかもしれない。
「どう?」
彼が尋ねてくる。暫く思案した後、答える。
「どれも凄いと思うよ。これは……」
赤や黒の絵を指す。
「不安を煽るけれどポップな印象も受けて面白いし、こっちは……」
緑の絵を指し示す。
「技術は良く分からないけれど、色のバランスが考えられているんだと思う。で、これなんだけど……」
最後の白い絵を指差す。
「これは、正直、見た通り空っぽ、って感じがする」
拙い感想だ。上手く言い表せない。己の語彙力の無さが恨めしい。おまけに、絵の事は本当に分からない。失望されただろうか。少々不安に思って彼を見ると、意外なことに微笑んでいた。うんうんと小さく頷いてさえいる。
「君、美術は詳しくなさそうだけど、良く観察する人なんだね。適当な言葉じゃなさそうだし、何だか嬉しいな。感想貰えたの、久しぶりだし」
そう言って、笑う。先に見たよりも柔らかな笑みだった。取っ付きにくそう、という印象はどうやら間違っていたようだ。
「最初の絵は筆で描いたんだけど、二枚目……。そう、緑の絵ね。それはフルイドアートっていうんだ。ポーリングアートとも呼ばれるね。絵具を流して絵にする方法でね……」
勝手に彼が話し出す。
「……それで、最後の絵、その白い絵。それは本当に空っぽなんだよ。武田の言うように」
彼が絵に向けていた視線をちら、と此方へ寄越す。
「抽象画ってさ、理解されないことも多くて。周りからつまらない、とか、落書きみたい、とか、散々に言われてさ。もう何もかも嫌になって、頭空っぽにして描いたら出来たんだ」
ふと、彼のあの濁った眼を思い出す。理由は、これかもしれない。
「タイトルもね、『空隙』って付けたんだ。心の隙間、みたいな意味を込めて」
はは、と笑う顔が少し寂しげに見えた。
「抽象画以外は描かないのか? ほら、果物とか人とか」
彼に問うてみる。
「静物画や人物画ね。描くよ。此処には置いてないから、今は見せられないけど」
「見たい」
言葉が口を衝いて出る。何故かは分からない。分からないが、惹きつけられる。魅せられる。彼の絵の引力に抗えない。
俺の言葉に、彼は驚いたように瞠目した。そして心底嬉しそうな色を浮かべて、微笑んだ。思わず見惚れてしまいそうなその笑みに、心臓がきゅっと縮む。
「分かった。じゃあさ、夏休みの間、モデルになってよ」
「え?」
思いがけない彼の言葉に、聞き返す。
「あと二週間で夏休みでしょ? 部活終わった後にでもさ、絵のモデルになって。そうしたら他の絵も見せられるから」
「え、何で」
「何でも。僕、武田ともっと話してみたいし」
じっ、と此方を見つめてくる。その瞳を見たら、逆らえない気がした。いや、俺が多少乗り気になっているだけか。
「月、水、金の午前中に部活だから、時間の会う日、午後に集まろう。夕方まで美術室使えるから。そっちは予定どうなの? ていうか、何部?」
「サッカー部。予定はお前と同じだけど……」
「じゃあ、丁度良いね」
楽し気に言うが、うーん、と唸る俺を見て、今度は捨てられた子犬のような目をしてきた。
「……駄目?」
そんな目をするな。
「……分かった。いいよ」
「やった」
喜色満面。あの沈んだ目が嘘のように明るくなる。ああ、これで夏休みの予定が一つ埋まってしまった。
「じゃ、宜しくね。休暇の最初の月曜日、ここで待ってるから」
手を差し出される。それに応えてから腰を上げた。
「じゃあ、また」
そう言って、彼に向かって軽く片手を挙げる。
「うん、またね」
彼も立ち上がって見送ってくれた。教室を出る直前に見た彼の姿は、陽が傾いて橙色に染まった教室の中、淡く輝いて見えた。絵になる男だな、などと、柄にもなく思った。
この時、連絡先を聞かなかったことを何故かずっと忘れていた。
あの出会いからきっかり二週間後、夏休みがやって来た。そして約束の日になる。炎天下の部活の後、昼食を摂り、美術室へ向かった。教室に着くと、何時かのようにノックをして声を上げる。
「失礼しまーす……」
戸を開けると、中に数名の生徒が居るのが見えた。皆、静かに各々の作品に向かっている。彼を探して部屋を見回すと、向こうも此方に気付いてやって来る。
「来たね」
待ってましたとばかりに、彼が楽し気な声で言う。
「隣の教室が空いてるから、そっちに行こう」
俺が口を開く前に、彼が続けた。
「勝手に使って良いのか?」
尋ねると、彼は笑って答えた。
「美術部で借りてる部屋だから大丈夫。たぶん、他に使う人もいないから僕らで貸し切り。気兼ねなく使えるよ」
「そうか」
彼が俺の肩を押して部屋を出る。少々浮足立っているように見える。スキップでも始めそうだ。
ガラガラガラ……。
戸を引き、中に入る。部屋の中は一部の机が端に寄せられ、空いた場所に椅子が一つだけ残されていた。モデル用だろう。その椅子から三、四歩分離れた所にはイーゼルが立てられている。その傍の机にはスケッチブックや鉛筆、絵具や絵筆といった画材が置かれていた。どうやら彼が既に準備をしていたらしい。
「それっぽく用意はしたんだけどね……。今日はスケッチだけで終わるかも」
パラパラとスケッチブックを捲りながら、彼が言う。
「構図決めたいからさ……。幾つかポーズ取って貰って、それらをスケッチしようかな」
ふふ、と此方を見て笑う。
「さて、早速だけど始めても良い?」
「うん」
彼の問いかけに肯定を返し、立ち上がる。
「どうすれば良い?」
尋ねると、彼は考えるように小首を傾げた。
「そうだなあ……。まあ、初めだし、とりあえず楽に座って。その椅子に」
イーゼルの前の椅子を示される。
「分かった」
言われた通り、椅子に腰を下ろす。やや猫背の、力の抜けた姿勢をとる。
「そのまま座ってて」
そう言うと、彼はスケッチブックを開き、鉛筆を手にした。絵画用なのであろうそれは、通常よりも芯が長く削り出されていた。恐らくカッターか何かで削っているのだろう。見慣れないが故か、その跡でさえも彫刻作品であるかのように見えてくる。
サッサッ、サラサラサラ……。
紙の上を鉛筆が走る音が微かに響く。それ以外の音は無い。楽に、とは言われたものの、何となく息を詰めてしまう。
彼は描いている間、時折此方に視線を寄越した。偶に立てた親指と俺を見比べるような素振りも見せた。何かを測っているのだろうか。詳細は不明だが、画家らしい仕種に何となく可笑しくなる。笑ってしまいそうになるのをぐっと堪えた。笑ってしまっては真剣に描いている彼に悪い。
何分程そうしていたかは分からないが、肩が凝りそうだと感じ始めたところで、彼が声を上げた。
「よし。ラフスケッチだけど、出来たよ」
もうポーズを崩して良いとのことなので、脱力してから背中を伸ばす。立ち上がった俺に、彼は満足そうな顔でスケッチを見せてきた。
「……やっぱり上手いんだな」
ラフ、だから写真の如く、とまではいかないが、其処には確かに俺が居た。美術部凄いな、と一人感心する。うんうんと頷く俺に、彼も心做しか誇らしげである。
「じゃあさ、次はね……」
ウキウキとした様子で、彼が言った。
「え、もう?」
「出来るだけ描きたいからさ」
まだ始まったばかりとはいえ、じっとしているのに少々疲れたのだが。弾んだ声に、期待に応えてやりたい気持ちが湧く。
「分かったよ」
彼に応じて、再び椅子に腰掛ける。それから俺は彼の指示に従って、幾つもポーズをとり続けた。時々休憩を挟んで雑談を交えたが、それ以外は終始無言で互いに画家とモデルに徹した。描き上がる度に彼はそのスケッチを此方に見せ、俺はその都度、美術部の技術に感嘆した。
そうして過ごしているうちに閉校三十分前の放送が流れた。俺たちは慌てて片付けをし、時間ぎりぎりに校門を出る。
「今日はありがとう。色々描けて良かった。良いモデルさんだね」
彼が朗らかに言う。
「ちょっと疲れたけど、面白かったよ」
俺が答えると、彼は照れ臭そうに笑った。
「前言ったみたいにさ、夏休み中、このままモデル引き受けてくれる? キャンバスに仕上げるところまで、きちんとやりたいんだけど」
端からそのつもりであったので、一も二も無く承諾する。
「ありがとう。それじゃあ、次は水曜日に。それで大丈夫?」
「うん」
「楽しみだなぁ。じゃあ、帰ろうか」
「そうだな。じゃ、俺こっちだから。またな」
「またね」
俺と彼は反対方向に歩き出した。少しして振り返ると、彼の白いワイシャツ姿がどんどん小さくなっていくのが見える。刻一刻と橙色の濃くなる景色に、初めて会った日の彼の姿が重なった。
次の水曜日はすぐにやって来た。先日と同様に部活を終えた後、美術室へ向かう。そして落ち合って二人で空き教室に移動する。前のように部屋はすぐに描き始められるように整えられていた。椅子やイーゼルの配置もほぼ同じだ。前と異なるのは椅子とセットの机が残されていたことくらいだ。今日は一緒に昼食を摂り、それから描画を始める。今回も構図決めのためのラフスケッチをするとのことだった。
「目線をもう少し上げて、右に顔向けて。そう……。そこでストップ」
彼の指示通り、顔を動かす。もう何回目のポーズになっただろうか。初めは単純にポーズの指定だけだったが、段々と表情も要求されるようになった。
「物憂げな表情で……。ちょ、笑うなって」
最初は気恥ずかしさが勝っていたが、それも次第に落ち着いて慣れてくる。そのうちプロにでもなったかのような心持ちで楽しむ余裕まで出てきた。無論、同じ姿勢や表情をとり続けるのは容易ではなかったが。
やはり彼は描いている最中、集中しているのか夢中になっているのか、言葉を発しなかった。だから自らも無言でモデルに成り切った。沈黙を貫く間、自然、脳内は纏まりのないことで埋め尽くされた。
そうして時間を過ごすうち、徐々に陽が傾き、教室の中に光が差し込む。机も椅子も、床のくすんだタイルも、淡く色付く。太陽が染めていく。すると変わらぬはずの景色が古い蛍光灯の白い明かりに照らされている時とは少しばかり違って見えてくる。
絵画。そう、絵画のように見える。
その中に居る自分は、まるでその絵の世界の住人になったようだ。己の姿を見る事は叶わないが、傍から見ればこれは空間芸術と呼べるのではないか。そんなことも考えた。
突如として放送が流れた。下校の時刻だ。
彼が手を止め、此方に声を掛ける。それに応えて一緒に片付けをして、校舎を後にする。
「今日もありがとう。次、いつにする?」
「次は……」
彼の問いに、自らの予定を確認して答える。それが終わると、じゃあ、と互いに手を挙げて別れる。二回目だからか、存外あっさりとしたものだった。しかし妙な充足感がある。ふと振り返ると、今日は急ぎだったのか、彼の姿は既に無かった。
それからというもの、俺は彼の呼び掛けに応じてモデルを続けた。部活の後、閉校の時刻まで。週に三回、きっちりと。
回を重ねる毎に、ラフスケッチだったものはデッサンに変わり、キャンバスに描いて彩色をする場合も出てきた。そうなると一枚が完成するまでに時間を要するため、一日に一つのポーズをずっと取り続けることになった。これには少々骨が折れた。だが俺は飽きもせずにモデルを続けた。単純に、面白くなったのである。
求められるものを求められるままに返す。相手の理想に、なる。
それが面白かった。また、演じる、ということに喜びを見出すようになってきた。彼がいつも俺の表情や姿勢を褒めてくれていたからでもあるだろう。
そんな彼とは随分と打ち解けて、様々な話をするようになっていた。家族のこと、趣味のこと、身内に内緒にしているような隠し事や失敗談なども。
彼のこれまでの作品も見せて貰った。数多くの人物画や静物画。抽象画も何枚も。わざわざ学校に持ち込むのは手間だろうに、感想に飢えているから、と彼は披露するのを止めなかった。
夏休みも中盤に差し掛かってきた頃、進路についての話になった。
「九条は何処受験するんだ?」
「M大学かな……」
「えっ?」
M大学は美術系の専攻が無い総合大学だ。てっきり、九条は美大志望だと思い込んでいたのに。
「美大じゃないんだな」
そう呟くと、彼の顔が曇った。
「……父親に反対されててさ」
「……そうか」
彼は美大に行けないかもしれない、ということをこの時に知ったのだった。両親共に教師だという彼の家庭は厳格なのだろう。彼の背負っているものが見えるような気がした。
「武田はどうなの?」
「俺は、まだ……」
決めていない。そう、決めていないのだ。どうすべきか。考える時間は十二分にあるはずなのに。何も決まらない。だが。
「……大学じゃない道も、あるよな」
そう言うと、九条は少々驚いた顔をしていた。考えたこともなかった、という表情だった。
その日、別れた時の夕焼けは今までで一番澱んで見えた。
そして、とうとう最後の日がやってきた。
九条は神妙な面持ちでキャンバスと向き合っていた。
「……出来た」
唐突に彼が呟いた。終わったのだ。全て。
キャンバスを覗き込むと、物思いに沈む一人の少年が、ワイシャツ姿で窓辺を見つめていた。何処か虚ろな、哀し気な瞳。九条に出会った日。彼の絵を始めて見た時の彼の瞳。それによく似ていた。
これが彼に見えている世界なのだ。嬉しくて、悲しい。彼の心を知ったことが。どうして。……どうして。理由の分からない衝撃に、頭がぼうっとした。この時、何を話したのか、あまり覚えていない位だ。
そして、モデルの礼を言われ、別れた。彼の瞳は穏やかだった。そして、すぐに夏休みが終わり、日常が戻ってきた後。不思議なことに、彼と会う機会はなかった。
同学年なのだから、廊下などですれ違うこともあるだろうに、彼を見つけることは何故か出来なかったのである。また、どういう訳か、俺は自ら彼のクラスを訪ねるようなこともしなかった。たぶん、自分は何処か恐れていたのだ。彼の胸の内を知ってしまったから。
そのうち、本格的に受験シーズンがやってきて、夏休みの思い出も霞の様に薄く遠い記憶になりつつあった。それでも完全に忘れたわけではなく、結局彼は進路をどうしたのだろう。やはり絵は描き続けているのだろうか。そんなことを思うこともあった。そうして春が来て三年生になり、勉強漬けの夏休みが過ぎ、部活の引退があり、秋が来て、受験シーズンの冬が来た。けれど、俺は……。
「……それで、以上が私が俳優になったきっかけなんです」
あの夏休みから五年後。俺はとある雑誌の取材を受けていた。今回は若手俳優を特集するとのことで、自分に取材依頼がきたのだ。俳優としての活動について、今後の目標、そして、俳優になった理由。様々に質問されて話したのが、九条との夏の一時についてだった。
あの一件で、俺は演技に興味を持ち、気が付いたら俳優養成所の門を叩いていた。紆余曲折はあったものの、無事にデビューを果たし、舞台俳優として活動している。
九条はどうしているだろうか。今でも時折思い出す。あの時どうして、連絡先を交換しなかったのか。それだけが後悔として残っていた。
取材が終わり、一ヶ月も経った頃、自分の記事の掲載された雑誌が発売された。
その数日後。
事務所に荷物が届いた。平たい、大きな段ボール箱。中身は。
「は……」
あの絵だった。俺がモデルを務めた、あの夏の。
慌てて箱から絵を出すと、小さなメモが落ちた。書かれていたのは、九条の名前と電話番号だけ。すぐに携帯でその番号にかける。
「……久しぶり、というには長すぎたかな」
懐かしい声が返ってくる。涙声で答える。
「……本当だよ」
「雑誌を見たんだ。偶々。そうしたら武田じゃないか。驚いたよ。それで居ても立っても居られなくなって。絵を送ったんだ」
「今までどうしてたんだよ」
「僕も聞きたいよ。……あのさ、今、画家として活動しているんだ。それで、小さいけれど、今度、個展をやるんだ。……来てくれないかな?」
「行くに決まってんだろ!」
――別れた道が、繋がった。




