仙道真央は鬼才である
仙道真央は、秋田という田舎であまりにも「空気が読めすぎる子ども」として育った。
父は興味のないことには一切反応しないくせに、いったんハマると三日三晩寝ずに同じ作業を続ける人だった。
母はその父のマイペースさに毎日キレている人だった。
その中間に生まれた真央は、なぜか両方の「扱い方」を本能的に知っていた。
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保育園の頃。
「まあちゃん、なんでいつも先生のところに行ってるの?」
同じクラスの男の子が聞いてきた。
真央は、積み木を積む手を止めずに答える。
「だって、もうすぐ先生が怒りそうだから。先に話しかけた方が優しい声になるよ」
実際、その数分前から先生の声の高さは少しずつ上がり、眉間にはうっすら皺が寄っていた。
廊下で盛大に水をこぼした子がいて、片付けを手伝う子は誰もいない。
先生の「イライラゲージ」がそろそろ振り切れそうなのを、真央は肌で感じていた。
真央が先生のところへ行き、わざとらしく首をかしげる。
「せんせー、タオルどこ? お水こぼれてたから拭きたい」
先生は一瞬だけ驚いたような顔をして、ふっと笑った。
「……ありがとうまおちゃん。じゃあタオル取ってきてくれる?」
教室全体の空気が少しだけ柔らかくなる。
怒鳴り声になるはずだった未来は、ぬるま湯みたいな「ありがとう」にすり替わった。
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近所のおばあちゃんたちの井戸端会議も、真央の遊び場の一つだった。
「まおちゃんは本当に誰とでも話せるねぇ」
買い物帰りの袋をぶら下げたおばあちゃんに言われ、真央は首を傾げる。
「だって、みんな話したいこと顔に書いてあるよ?」
「顔に?」
「うん。今日はね、『安かったでしょ〜って自慢したい顔』してる」
図星だったらしく、おばあちゃんは声を上げて笑った。
「いやだぁ、見抜かれちゃった!」
真央は、値札の色と袋のふくらみや足取りの軽さまで見て、「こういうとき人は自慢したい」と理解している。
説明してと言われてもできないが、そういう「パターン」が世界中に散らばっているような感覚だった。
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両親の喧嘩も、真央にとっては「翻訳可能なノイズ」に過ぎなかった。
父がリビングでパーツだらけの謎の機械を組み立てている。
母がため息をつきながら怒鳴る。
「いい加減そのガラクタ片付けてよ! ごはんの場所なくなるでしょ!」
真央はテレビを消し、テーブルの端にちょこんと座る。
「お母さんはね、『一緒にご飯食べたい』って言ってるだけだよ」
「は? そんなこと――」
母が言いかけて黙る。
真央は今度は父の方を向く。
「お父さんはね、『もうちょっとだけ触らせて』って言ってるの。これ、もうすぐいいところなんでしょ?」
父はバツが悪そうに頭を掻いた。
「……まぁ、確かに。あと少しで完成しそうなんだよ」
「じゃあさ、お母さんのご飯一緒に食べたいと、お父さんのあとちょっとだけを半分こにしよ」
真央は、指でテーブルに線を引くような仕草をして言う。
「時計の針がここになるまでお父さんタイムで、そのあと全部お母さんタイムね」
唐突なタイムシェア案に、両親は顔を見合わせて苦笑する。
「……真央、変な子だね」
「まぁ、楽だけどね。通訳がいるみたいで」
そう言いながら、母の声のトーンはさっきまでより明らかに低く穏やかになっていた。
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世界の音は大人たちにはただの雑音で、真央には「意図」と「感情」の字幕付きで聞こえている。
だから真央は誰とでも仲良くなれた。
人が何を望んでいるかを言葉より先に察してしまうから。
本人だけがその能力を「普通」だと思っていた。
それが鬼才の始まりだと気付くのは、もっとずっと先の話だ。
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小学校に上がっても、仙道真央の「世界の見え方」はあまり変わらなかった。
入学したばかりの頃、担任の先生は開口一番こう言った。
「一年生の間は、教科書の◯がついてるところだけ覚えれば大丈夫ですからね〜」
教室の空気が少しほぐれる。
真央は、その瞬間に先生を「だいたいこのくらい」と見積もった。
(あ、これ以上のことはきっと教えてくれないタイプだ)
だから、授業はひどく退屈だった。
国語の時間。
クラス全員で教科書の同じページを声を揃えて読んでいるのに、真央だけはこっそり指を数ページ先に滑らせていた。
「じゃあ次、真央さん」
先生に当てられた瞬間には、すでに三つ先の単元を読み終えている。
視線だけ今のページに戻して何事もなかったかのように読み上げる。
「……はい、よくできました」
(そりゃそうだよね。ここくらいで「よくできました」って言ってるから、いつまで経ってもここなんだよ)
心の中で毒づきながら、真央は再び目線だけ教科書の別のページへと滑らせた。
授業が「予定調和の朗読会」にしか見えなかった。
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一度教わればだいたいの教科は困らない。
九九も、漢字も、分数も、誰かが一回説明してくれればあとは勝手に頭の中で「使える形」に並び替わっていく。
テストの点数はいつも九十点前後。
本気を出せばもっと取れたが、百点を連発すると先生に変に褒められて「お手本役」にされると知っていた。
(私、別にみんなの前で黒板に呼ばれてまで説明したくないんだよね……)
だからわざとわかりやすい計算を一問だけミスしたり、漢字を一文字だけ抜かしたりしていた。
「真央さん、もうちょっと頑張れば百点だったね〜」
先生がテストを返しながら、いかにも「励ましている風」の声をかける。
真央はいつも通りにこっと笑っておいた。
「はい、次はがんばります」
(次も同じくらいに調整しますの間違いだけどね)
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聴覚と色彩の世界は、真央にとっては生きやすさと生きづらさの両方だった。
例えば給食の時間。
クラスメイトの箸がトレイに当たる乾いた音、牛乳パックを潰すぺきぺきという音、椅子を引くキーッという音。
普通の子が一つのざわめきとして流してしまうものが、真央には全部別々の「チャンネル」として聞こえてしまう。
(あ、あの子、またスプーンでお皿叩いてる。……三回目。絶対怒られる。あ、牛乳パック潰すの早すぎ。まだ飲み終わってないのに。椅子の音、うるさいなぁ。ちょっと足のところに紙でも挟めばいいのに)
その代わり、誰かが小さな声で愚痴をこぼしたりため息をついたりすると一瞬で気づく。
「どうしたの?」
隣の席の女の子が、消しゴムをぎゅっと握りしめているだけの小さな音にも真央は反応した。
「……間違えちゃって。書き直すの、めんどくさくなってきた」
「そっか。じゃあ、ここまで一気に消そうか」
真央は、どこからどこまでを一度に消せばその子のストレスが一番低くて済むか紙を見ただけで直感的に理解する。
色もそうだった。
図工の時間。真央の使うクレヨンや絵の具は、他の子よりも微妙にトーンが違う。
「真央ちゃんの空、なんかきれいだね」
先生がそう言うと、クラスの何人かが覗き込む。
真央は、空をただの「水色」で塗るのが嫌いだった。
少しだけ白を混ぜ、青を足し、ところどころに薄い紫を滲ませる。
「朝なのか夕方なのか、わかんない空が一番すき」
そう言うと、隣の席の子が笑った。
「なんか真央ちゃんぽいね。それ」
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体育だけはどうにも苦手だった。
マラソンをすればすぐに息が上がり、鉄棒では逆上がりがなかなかできない。
個人種目では「できない子」のグループに分類されることが多かった。
でも、団体戦になると話は別だった。
ドッジボールの時間。
真央は、ボールを持つよりも相手チームの子どもたちの癖を見る方に集中していた。
(あの子は、投げる前に必ず二回ボールをバウンドさせる。あの子は、狙うときとフェイクの時で目線の高さがちがう。あの子は、利き手と逆にフェイント入れるけど、肩の向きだけ右投げの時と変わらない)
ボールを持っていない時ほど真央はよく動いた。
投げてくるタイミングをコンマ数秒だけ早く察し、味方の子を後ろから引っ張ったり自分が前に出てカバーしたりする。
「ナイス真央!」
「今、絶対当たってたのに……!」
ゲームが終わった後、敵チームの男の子にそう言われる。
「なんでわかったの? 俺、フェイントかけたのに」
息を切らしながら彼が聞くと、真央は首をかしげた。
「え、だって、投げる前に右肩だけ上がるもん」
「……こわ」
単純に運動神経が悪くて自分ではあまり投げられない分、真央は人間のスキの方をひたすら観察し続けていた。
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先生は、そんな真央をちょっと変わっているけど賢い子くらいにしか認識していなかった。
「真央さん、もうちょっとみんなと同じこともしましょうね。授業中に別のページ読んでたらダメですよ〜」
ある日、ついに注意されてしまった。
真央は素直に本を閉じる。
「はい。気をつけます」
口ではそう言いながら、内心ではため息をついていた。
(別のページ読んでてもテストできてるんだから問題ないでしょ。それより、自分の授業が退屈だって疑ってみたらいいのに)
さらに言えば、先生が板書を間違えているのも真央は何度も見ていた。
「先生、そこはひくじゃなくて、たすじゃないですか?」
「あら、本当だ。ごめんなさい。真央さん、よく気づいたね」
(いや、そんなん気づくでしょ……。これでも小学校の先生かぁ)
そんな風に心の中ではがっつりバカにしていた。
けれど、それを口に出すほど真央は幼くもなかった。
この世界では、気づいてしまったことの半分以上は、黙っていた方が平和に生きられると、なんとなく理解していたからだ。
仙道真央は、小学生にしてすでに世界の方が自分よりも理解力が低いのだと、うっすら気づき始めていた。
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中学生になっても、仙道真央の世界の解像度だけは相変わらず周囲と合っていなかった。
本当は、母親は真央を私立に入れたがっていた。
「なんか頭いいしさ、ちゃんとした学校行かせた方が将来のためでしょ」
パンフレットを広げて「進学実績」とか「合格者の声」とかを眺めている母に、真央は内心うんざりしていた。
(ちゃんとした学校って何。こっちの都合なんか聞く気ないくせに)
受験勉強をして知らない土地に電車で通い、同じ制服を着た「エリート候補」の群れに混ざる――
想像しただけで胃のあたりがじわっと重くなる。
「公立でいい。ていうか、公立がいい」
真央がそう言うと、母はあっけらかんとした顔をした。
「えー、もったいないなぁ」
(誰の人生よ)
口には出さず心の中でだけ毒づいて、結局真央は家から徒歩圏内の普通の公立中学に進んだ。
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少しはマシな世界になるかと思っていた。
小学校よりは多少「話が通じる人間」が増えるかもしれない、と。
しかし実際は、ただ「バカの種類」が増えただけだった。
一週間も経たないうちに、真央はため息をついていた。
(なんだこれ。小学校の続きじゃん)
中学に上がっても授業の構造はほとんど変わらない。
ただ、教科書の厚さとテストの範囲が増えただけである。
先生が黒板に問題を書き、みんなが一斉にノートを開き、当てられた生徒が途切れ途切れに答えを言う。
そこに「中学生ならではの知性」みたいなものは残念ながら見当たらなかった。
(中学生になったらもう少しマシな質問とか飛ぶかと思ったのに)
真央は、また教科書の別のページに指を滑らせる。
数学の授業なのにこっそり英語の長文を先に読んでいたり、逆に英語の時間に数学の章末問題を考えていたりする。
先生にバレるタイミングももはやパターン化されていた。
「仙道さん、今どこ見てるの?」
ある日の国語の授業で、教師が眉をひそめて声をかけた。
「ここです」
真央は、咄嗟に該当ページに視線を戻し、すらすらと教科書を読み上げる。
教師は一瞬だけ「疑い」の色を浮かべるが、真央がちゃんと読めているのを見るとそれ以上深追いはしない。
(問題ないならいいですって顔。自分の授業がつまらないとは、絶対に考えないんだよな)
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朝読書の時間は、一日二十分と決まっていた。
チャイムが鳴ると、クラス全員が半分寝ぼけた顔でカバンから本を出し机の上に広げる。
教室にはページをめくる音とたまに誰かの小さなあくびだけが流れていた。
その月の課題図書はそこそこの厚みがある物語だった。
みんなは一ヶ月かけて読む前提で渡されている。
真央は、一日目の朝で三分の一くらいまで読み進めた。
二日目で半分、三日目で三分の二、四日目でほぼ終わり。
五日目の朝、最初のチャイムが鳴り終わる頃には最後の一行まで読み切っていた。
(……終わった)
顔も上げずに本を閉じる。
まだ教室のほとんどの生徒は、ようやく物語の入り口をうろうろしているあたりだ。
残り時間をちらっと確認して、真央はその場で感想文を書き始めた。
・ここが面白かったところ
・ここはちょっと雑だと思ったところ
・もし自分ならこう書き直す、という案
鉛筆が止まることなく動き続ける。
十分も経たないうちに、片面びっしり文字で埋まった紙が一枚できあがっていた。
朝読書の二十分が終わり、ホームルームが始まる前。真央は、担任の机までその紙を持っていった。
「先生、これ感想です。読み終わったので」
「え、もう?」
教師は本気で驚いた顔をした。
「はい。朝読書の時間だけで読みました」
事実なので特に誇張はしていない。
先生は紙と真央の顔を交互に見て、なんとも言えない表情をした。
「……他のみんなはまだ半分もいってないと思うよ」
「そうなんですね」
(なんで? 二十分×五回あれば、普通に終わる量じゃん)
真央には「わざとゆっくり読む」という発想がなかった。
読めるだけ読んでしまうのが当たり前で、ページをめくる速度を意識的に落とすという行為がどうにも理解できなかった。
その月の朝読書の時間、真央だけは残りの日をずっと別の本かノートにこっそり書き物をする時間として使うことになる。
周りがまだ同じページをめくっている中、一人だけ「課題を終えてしまっている」という事実がまた彼女とクラスとの距離をじわじわと広げていった。
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合唱の季節になると、クラスは妙に浮き足立つ。
「パート決めしまーす。ソプラノ、アルト、それから男子は男声ね」
真央は迷わずアルトに手を挙げた。小学校の頃からずっとそうだった。
(高い声なんて出す気で練習すれば誰だって出る。低めのラインで全体を支えてる方が面白いのに)
音楽の先生は「音程が安定してるから」という理由で真央をアルトに振ったが、実際は真央自身もそのポジションを気に入っていた。
問題は、周囲の音程だった。
誰かが一人だけ半音くらいズレる。
語尾で音が落ちる。
ハモりのラインとメロディが、ぴたりと噛み合わない。
(なんでそこでその音出るの……?)
真央には不思議で仕方がなかった。
正解の音が頭の中でちゃんと鳴っているのに、どうやったらわざわざ外れた音を出せるのかその仕組みがわからない。
本気で歌えば歌うほど、隣のわずかなズレに苛立ちが募る。
「もうちょい上だって。そこ、落ちないで」
つい口が出る。
「え、そんな細かくわかんないし」
同じパートの子が、ちょっとむっとした顔をした。
その表情を見て、真央は「あ、やりすぎた」と理解する。
「ごめん。なんか気になっちゃって」
(気取りすぎって思われるやつだ、これ)
頭ではわかっていても耳が勝手に「違う」と反応してしまうのだから、どうにもならない。
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勉強の方はというと、さすがに全部が全部楽勝というわけではなかった。
数学は少しずつ「パズル」から「抽象」に傾き始めていた。
文字が増え記号が増え、図形と証明という名前の「めんどくさい儀式」も始まる。
最初はさすがの真央も教科書を読みながら眉をひそめた。
(なにこれ。当たり前のことを、わざわざ長く説明するゲームみたい)
だが、問題を解き続けているうちに脳内で何かがカチッとはまった。
(あ、これ、型がある)
同じパターンの問題が少しだけ数字や条件を変えて繰り返されている。
その「型」を見つけてしまえば、あとは穴埋めをするだけだ。
一次方程式も連立方程式も、最初の数問でルールを理解してしまえばあとは量をこなしているうちに手が勝手に動くようになった。
英語はもっと分かりやすくパターンの塊だった。
過去形、進行形、疑問文、否定文。
教科書の例文を眺めているだけで「あ、この位置にnot挟めばいいのね」とか「ここをひっくり返せば疑問文ね」とか、ルールが勝手に抽出されていく。
(英語って、言葉っていうより記号の並べ替えゲームに近いな)
テストでも、単語を全部覚えていなくても構文と文法の「形」だけでなんとなく正解に辿り着けることが多かった。
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そんな真央は、男子にはそれなりにウケた。
「仙道ってさ、なんか大人っぽいよな」
「頭いいけど、別にガリ勉って感じじゃないし」
からかい半分、憧れ半分の目線が向けられる。
質問されればそれなりに会話も続くし、男子のどうでもいい冗談にも笑ってやれるくらいの社交性はあった。
問題は、女子側の評価だった。
「なんかさ、いつも冷めてない?」
「あの子ちょっと気取ってる感じしない?」
ヒソヒソ声が時々ロッカー裏やトイレで聞こえる。
真央は聞こえないふりをしながら、心の中では「ああ、やっぱりな」と妙に納得していた。
(授業中に別のページ読んで、朝読書も速攻で終わらせて、合唱では音程について口出しして、テストはそこそこ取れて、男子とも普通に話す女――そりゃ、なんか気取ってるってことになるよね)
それでも、意図的にバカなふりをするほど器用でもない。
中学二年の頃には、クラスの中での自分の立ち位置を真央はほぼ確定事項として受け入れていた。
「ちょっと変わってるけど頭はいいらしい女」
「男とは普通に話すけど女子からするとなんかムカつく女」
世界の評価と自分の内側との差分を、彼女は冷静に観察し続けていた。
(まぁ、別にいいけどね。――どうせ、この程度の世界そう長く付き合う気もないし)
そんな投げやりとも達観ともつかない感覚を、中学二年にしてすでに抱き始めていた。
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中学三年になって、クラス替えと同時に担任も変わった。四十代前半くらいの男の教師で、眼鏡の奥の目つきがやたらと鋭い。
最初のホームルームで彼は妙な自己紹介をした。
「俺は正解より理由の方が知りたいタイプです。点数も大事だけど、なんでそう思ったかを話せる人間の方が個人的には好ましい」
教室内がぽかんとする。
(……ようやく、話が通じそうなやつが出てきたな)
真央は、内心少しだけ感心していた。
その日以来、その担任との会話だけは他の教師相手とは違って若干マシな温度で続いていく。
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とはいえ、世界そのものがマシになったわけではなかった。
むしろ三年生になったことで「この先もこの世界が続く」という現実が、よりハッキリと輪郭を持ちはじめていた。
(よくこんな魑魅魍魎たちと生きていられるな)
教室を見渡すたび真央は心の中で毒を吐く。
記憶力もない。行動力もない。怠惰で、哀れで、自分で自分を変える気もない。テスト前になると「やべー、全然やってねぇ」と騒ぎ立て、終わった後には「まあ赤点じゃなかったしいっか」と笑う。
(ひとつのことを三回も聞かないと覚えられないって、どういう構造で生きてるの? 何度も同じ失敗繰り返して、まだ自分を責めるより先に笑えるって、逆に才能じゃん)
そんな連中と同じ制服を着て同じ教室に座っているという現実が、だんだんと耐え難いノイズに思えてきた。
真央は、ずっと死にたがっていた。
理由は単純だった。「飽きたから」だ。
このクソ田舎で同じような顔ぶれと、同じような会話と、同じような季節を、あと何十年繰り返すつもりなのか――
(秋田だけに飽きた、ってね)
しょうもないダジャレで自分の死にたい理由をまとめてしまえるあたり、自分の頭の悪さにもうっすら呆れていた。
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ノートは三年生になる少し前から書き始めていた。
「日記」と呼ぶにはあまりにも冷徹で、「作品」と呼ぶにはあまりにも素材そのままの、生々しい記録。
クラスメイトの会話。教師の口癖。廊下の隅で見た告白未遂。駅前で見たどうしようもない痴話喧嘩。家での両親の喧嘩と、その後の沈黙。そういうものを、ほとんど逐語的に、びっしりと書き連ねていった。
評価も解釈も、一行も書かない。ただ「こういうことが起きた」という事実と、そのとき聞こえた音、見えた色、温度だけを書き込む。
一冊目が埋まり、二冊目、三冊目と増えていき、中学三年になる頃には、その記録は十二冊になっていた。
(まぁ、遺書だよね。これ全部)
そう決めた瞬間、ノートは一気に意味を持ち始めた。
生きてきて眼の前で起きたことをできる限り漏らさず書き残しておくこと。
それを自分の存在証明にしてしまえば、あとはもう身体の方はいつ消えても構わない。
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ある日、真央は裏山に行った。
夏と秋の境目くらいの湿った風の吹く午後。
体育の授業を軽くサボっても誰にも気づかれない程度のざわつき。
首を吊る、という行為そのものに特別なロマンはなかった。
手頃な木、手頃な高さ、手頃な道具。
やり方はネットと本とうっすらした知識で十分だった。
(別に、誰かに見つけてほしいわけでもないしね)
そう思って足を離した瞬間――
乾いた音がして世界がひっくり返った。
ロープではなく、枝の方が先に折れたのだ。
真央の身体は斜面を転がり落ち、岩と土と木の根に何度も打ちつけられた。
痛みがどこから来ているのかも判別できないまま視界が白くなり、音だけが遠くから聞こえる。
(……あー、だっさ)
最期にそう思ったのを、ぼんやりと覚えている。
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目を覚ました時には、病院の天井があった。
左足にギプス、肋骨あたりに鈍い痛み。
点滴のチューブ、消毒液の匂い、どこかの部屋から聞こえるテレビの音。
「あ、起きた?」
母の声は妙に乾いていた。
泣きはらした、というには目の周りがむくんでいない。怒っている、というには声の温度が低すぎる。
父は黙って立っていた。
何を考えているのか、本当にわからない顔で。
「……ごめん」
一応そう言っておいた。
本心をどこまで混ぜるべきかもよくわからなかったので、とりあえず一般解として。
しばらくしてから、今度は白衣の男が現れた。
「少し話をしてもいいかな」
あぁ、と真央は直感した。
(来たな、精神診断ルート)
ロールシャッハ・テスト。バウムテスト。その他諸々よくあるやつ。
齢十五にして、やり方と「これをこう答えると、だいたいこう解釈される」というテンプレくらいは既に頭に入っていた。
思春期の自殺未遂。家庭環境。成績。友人関係。
それらの情報と組み合わせて「なんとなく無難で、深刻すぎず、しかし放置もできない程度」の判定に落ち着かせる方法も、だいたい想像がついていた。
(攻略法、バレバレなんだよなぁこれ)
インクのシミを見せられて、「何に見える?」と聞かれる。
「蝶々とか、龍とか、そういうのに見えます」
抽象と具体の中間くらい、教科書的には「想像力は保たれているが、やや空想傾向あり」くらいの評価になりそうなラインを真央は器用に歩いていく。
バウムテストの木も、教科書に載っている健全気味な木とちょっと病んでる木のちょうど真ん中あたりを狙って描いた。
(これで「少し不安傾向はあるけど、知能は高く、今後の環境調整で様子見」って判定になるでしょ)
そう結論づけている自分の頭の方がよほど病んでいるんじゃないかとも思ったが、口には出さなかった。
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結果として、精神診断は「決定打」にはならなかった。軽度のうつ傾向があるくらいで。
医者は両親に何かを説明し、両親は何度もうなずき、しかし病室に戻ってきたときにはその内容を真央に詳細に伝えることはなかった。
「……もう、中学には行かなくていい」
母はぽつりと言った。
「えっ?」
反射的に声が出た。
「行かせない。こんなことになるくらいなら行かせない方がマシでしょ。高校は……どこか県外の、ちゃんとしたところ探すから」
ちゃんとしたという言葉に、また苛立ちが湧く。
(いや、行かない選択肢を勝手に決めるなよ)
そう反論しかけたが黙った。
両親の顔を見て、これは恐らくもう覆らないと理解したからだ。
父も、小さく息を吐いて言った。
「ここじゃもう、お前を支えられないんだと思う。……多分な」
それが本音なのか言い訳なのか、真央には判別できなかった。
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真央は学校に戻ることはなかった。
教科書と問題集だけが家に届き、担任が一度だけ見舞いに来た。
「……生きててよかった、って言うのも陳腐だけどさ」
彼は病室の椅子に座りながら、少し困ったように笑った。
「死ぬ前に書きたいこと全部書いてからにしろよ。ノートにまだ余白あったろ」
「もう十二冊ありますよ」
「じゃあ十三冊目までは待て」
そんなズレた会話が、なぜか一番まともに感じられた。
担任はノートの一部をちらっと読んで「これは遺書っていうより観察記録だな」と呟いた。
「世界をここまで細かく見るやつは、なかなかいないよ」
「見たくて見てるわけじゃないですけどね」
真央がそう返すと、彼は少しだけ眼鏡の位置を直した。
「高校、どうするんだって?」
「県外の私立らしいです。偏差値57の、そこそこそれっぽいところ」
「……まぁ、ここよりは世界が広いかもな」
そのとき初めて、真央は少しだけ未来のことを考えた。
このクソ田舎から離れる、という一点だけは確かに魅力的だった。
(魑魅魍魎の種類くらいは、変えられるかもしれない)
そう思えただけでも、裏山で途切れたロープと、痛む肋骨と、ギプスに固められた足にほんのわずかだが意味が生まれたような気がした。
やがて、退院の日が来る。
制服の代わりに私服で中学を卒業し、仙道真央は偏差値57の県外の私立高校に進学することになる。
この世界にまだ少しだけ付き合ってやるか、そんなふうに思いながら。
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──この時点では、仙道真央はまだ知らない。
偏差値だとか進学先だとかそういう分かりやすい「ルート」の話より前に、自分がすでにかなり特殊な観察装置を積んで生まれてしまっていることを。
誰かがため息をつく前の、喉の奥の小さな息づかい。
怒鳴り声になる一歩手前の、声帯の震え方。
教室に満ちる「飽き」と「諦め」と「見栄」と「退屈」の温度差。
それら全部を普通より少しだけ高い解像度で受信してしまうせいで、生きづらさと同時に妙な面白さも抱え込んでしまっていることを。
ノート十二冊分の記録は、遺書として書き始められた。
けれど、中身だけを取り出して机の上に広げればそれは「世界というどうしようもない喜劇の台本」にも見える。
クラスメイトのどうでもいい会話も、教師の浅い説教も、両親の噛み合わない言い争いも。
行間を詰めて並べていくと、人間という生き物の滑稽さと哀れさと、それでも続いていくしぶとさが勝手に浮き上がってくる。
(……まぁ、観察対象としては、そこまで悪くないか)
もし、このときの真央の胸の内を一文にまとめるなら、多分そういうことだろう。
世界はクソだし、秋田も、学校も、家も、完璧にどうしようもない。
それでも、「完全に見限るには、まだサンプルが足りない」と十五歳の彼女はどこかで冷静に計算していた。
だから真央は、ロープの切れた裏山をあとにして、ギプスの重さと、鈍く痛む肋骨と、十二冊のノートを抱えたままもう少しだけこの世界を見続けてみることにした。
この先、どんな魑魅魍魎が待っているのか。
どんなくだらない大人たちと、どんな間抜けな失敗と、どんなささやかな幸福に出会うのか。
――それは、まだページの先に白紙で残されている。
秋田を卑下する意図はありません。作者のルーツでもあるので……。




