座敷わらし編 ー幸福の座ー
登場人物紹介
◆安倍晴明
陰陽寮の長にして、理を見通す者。
祈りと呪の境を見極める冷静さを持ちながらも、
“人の情”に宿る理の歪みに、どこか哀しみを感じている。
本作では「幸福を封じることの是非」を問う存在として描かれる。
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◆透牙
若き陰陽師。晴明に仕える弟子であり、
剣よりも人の“心の匂い”を嗅ぎ取る感覚に長けている。
怒りや迷いを隠せぬ性格だが、誰よりも“生きた証”を求める。
座敷わらし・ユラとの邂逅を通じて、
“命を守る”とは何かを知っていく。
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◆結
筆を媒介に“理”を記す巫女。
霊や残滓の声を文字として写し取る能力を持つ。
静かな眼差しの奥に、命の儚さと優しさを見つめる心を秘める。
本作ではユラの祈りに最も寄り添い、
彼女を“名前で呼ぶ”ことで物語の終焉を導く。
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◆ユラ(座敷わらし)
かつて七瀬家に宿った“幸福の祈り”の化身。
白い着物に赤い紐を結んだ、八歳ほどの少女。
母・七瀬志乃の「もう一度だけ笑顔を見たい」という願いから生まれ、
時の流れを止めた屋敷の中で、人々の幸福を守り続けた。
だがその祈りはいつしか“留まる幸福”となり、
理を歪める存在へと変わってしまう。
結の声に導かれ、やがて風と共に還る。
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◆七瀬志乃
ユラを生んだ母。病で幼子を亡くしたのち、
“もう一度、あの笑顔が見たい”と強く祈った。
その祈りが屋敷の理を変え、ユラをこの世に留めた。
夢の中で結に風車を託し、
「名を呼ぶことこそ、祈りの終わりであり始まり」と伝える。
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◆縁守
古くから都の理を見守る霊。
人と神の境に立ち、祈りの均衡を保つ存在。
屋敷に宿った理の歪みを晴明たちに伝える。
「幸福は留めず、流せ」と警告する言葉は、
本作全体の主題を象徴している。
あらすじ
雨上がりの都外れ。
静かな屋敷に、子どもの笑い声が残っていた。
訪れた晴明たちは、幸福を願い続けた祈り――座敷わらし・ユラと出会う。
止まった時の中で、彼女は「幸せ」を守り続けていた。
第一章 雨上がりの屋敷
雨が上がり、都外れの道に湿った土の匂いが漂っていた。
空はまだ鉛色に曇り、雲の切れ間から淡い光がこぼれている。
晴明、透牙、そして結の三人は、苔むした石垣を越えて一軒の屋敷の前に立った。
かつては都でも名の知れた七瀬家の邸宅。だが今は、屋根瓦が崩れ、庭の草は膝の高さまで伸び放題だった。
――それなのに、どこかから笑い声が聞こえる。
小さく、鈴のように転がる声。
子どもの笑い声だ。
結が足を止めた。
「……人の気配がしないのに、笑い声がする。」
透牙が周囲を見渡し、腰の符札に手をかける。
「子供の声だ。……生きてるのか?」
晴明は静かに目を閉じ、指先で空をなぞった。
空気の流れを視るように。
目を開いたとき、その瞳は深く沈んでいた。
「否。これは“留まった祈り”の声だ。」
その言葉に、結の背筋がぞくりとした。
祈り――それは、生者のものであり、同時に死者の名残でもある。
庭の隅には、赤い風車がいくつも立っていた。
色は褪せ、羽根は土に汚れている。
なのに、すべてが同じ方向を向いて止まっていた。
結がそっと風車のひとつに触れた瞬間、かすかな声が響いた。
> 「……あそぼ?」
結は息をのんで手を離す。風車は微動だにしない。
透牙が一歩前に出る。
「今の、聞こえたか?」
結は小さく頷く。
「……うん。まるで、ここで誰かがまだ遊んでいるみたい。」
晴明は庭の中央に目を向けた。
そこには石で囲われた古い井戸がある。
その周りだけ、草が一切生えていなかった。まるで誰かが、そこを掃き清めているかのように。
「この屋敷――時間が止まっている。」
晴明は低く呟いた。
「雨も風も、ここでは流れぬ。祈りだけが残り続けている。」
透牙が拳を握る。
「“座敷わらし”か?」
晴明はゆっくりと頷いた。
「その名を持つものは、“幸福を留める妖”とも、“未練を護る子”とも言われる。
だが――この声には、どこか哀しみがある。」
再び、笑い声が響いた。
先ほどよりもはっきりと。まるで屋敷の奥から呼ばれているように。
> 「ねぇ、あそぼう? おうち、さみしいの。」
結は無意識に屋敷の方へ一歩踏み出していた。
透牙がその腕を掴む。
「結! 勝手に入るな。」
結は振り返り、かすかに微笑んだ。
「……でも、泣いてる声がしたの。」
透牙が眉を寄せる。
「泣いてる? 今のは笑い声だろ。」
結は首を振った。
「違う。――笑ってるけど、泣いてる声。」
風のない庭で、赤い風車がひとつだけ――ゆっくりと、回った。
晴明が結の肩に手を置き、静かに言う。
「行こう。祈りが“声”を持つなら、それは放っておけぬ。」
三人は、軋む門を押し開け、屋敷の中へと足を踏み入れた。
湿った畳の匂いが鼻をつく。
天井からは水滴が落ち、廊下には小さな足跡が点々と続いていた。
> 「――あそぼ。」
その声は、確かに屋敷の奥から聞こえた。
第二章 ユラ
座敷の襖を開けると、そこにひとりの少女がいた。
年の頃は八つほど。
白い着物の袖が少し長く、胸元には赤い紐が蝶結びになっている。
髪は肩で切りそろえられ、琥珀色の瞳が淡く光を湛えていた。
まるで、雨上がりの空に残る一滴の光のように。
少女――ユラは、静かにこちらを見つめた。
「やっと来てくれた……」
その声は、どこか懐かしさを含んでいた。
「ずっと待ってたの。」
結が小さく息を呑む。
「あなたは、ここで何を……?」
ユラはにこりと笑った。
「みんなを、幸せにしてたの。ずっと、ここで。」
その瞬間、ユラが小さく手を叩いた。
――ぱん、と澄んだ音。
座敷の空気が震え、畳の上に淡い光が広がっていく。
光の中に、かつての七瀬家の食卓が浮かび上がった。
温かな夕餉の香り、賑やかな笑い声、炊き立ての白飯の湯気。
父が笑い、母が箸を差し出し、子供たちが駆け回る。
幸せの光景――だが、どこかおかしい。
誰も動かない。
笑顔はそのまま、声も姿も止まっている。
まるで、絵巻の中の一場面のように。
結が息を呑み、手を伸ばす。
けれど、その指先は光の中をすり抜けた。
「……幻?」
晴明が座敷の中央に歩み出る。
その目は、微かな揺らぎの奥を見透かすように細められていた。
「幸福を祈る“符”が理を変えたのか……」
低く呟く。
「祈りが、命を留めたのだ。」
ユラは少し首を傾げた。
「悪いことなの?」
透牙が口を開く。
「……悪いとかじゃねぇ。けど、“止まったままの幸せ”は、生きてるとは言えねぇだろ。」
ユラの瞳がわずかに揺れる。
「でも、あの人たちは幸せだったの。私が願ったの。
“もう悲しまないで”って。
だから、時間を止めたの。
あのときの笑顔のままでいられるように。」
結の胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「……あなたが、ひとりで守ってたのね。」
ユラは小さく頷いた。
「ずっと。でも……もう、みんな帰ってこない。
笑ってるのに、声が届かないの。」
その声には、哀しみが混じっていた。
晴明は静かに扇を閉じ、座敷の中心に跪いた。
「ユラ。お前の祈りは確かに届いた。
だからこそ、いまは“解かねばならぬ”祈りだ。」
「……解く?」
「留めた想いは、やがて腐る。
幸福であったものが、痛みを呼ぶ日が来る。
お前の優しさがこの屋敷を閉じ込めているのだ。」
ユラはその言葉に、小さく唇を噛んだ。
「じゃあ、私が……悪いの?」
結が一歩踏み出し、膝をついた。
「違う。あなたがいなかったら、この笑顔はもうとっくに消えてた。
でも、もう休んでいいの。あなたの祈りは、ちゃんと誰かに届いたから。」
ユラの目に、涙が滲む。
そして、光景の中の母親の姿を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……お母さん、笑ってるね。」
結は微笑む。
「うん。ちゃんと、笑ってる。」
その瞬間、光がふっと揺れた。
座敷の幻の食卓が、静かに、淡く溶けていく。
ユラの小さな手が、空を掴むように動いた。
「さようなら、なのかな。」
晴明が穏やかに頷く。
「また、どこかで逢うだろう。祈りが風になるときに。」
ユラは微笑み、涙を一筋だけ流した。
「ありがとう。……来てくれて。」
そして――風もない座敷で、白い袖がふわりと揺れ、光とともに消えた。
結はしばらくその場に座り込み、畳に残る温もりを見つめていた。
透牙が小さく息をつく。
「まるで夢みたいだな……」
晴明は目を閉じ、静かに言った。
「夢こそ、祈りの残り香だ。……この屋敷は、ようやく眠りについたのだ。」
雨上がりの空から、一筋の光が差し込む。
座敷に残った赤い風車が、ひとりでにくるりと回った。
第三章 風車の記憶
夜。
雨上がりの空は雲を払い、月が屋敷の瓦を照らしていた。
誰もいないはずの庭に、ぽつりと灯篭の灯がともる。
風もないのに、炎だけがゆらゆらと揺れている。
その灯の奥から、低く穏やかな声がした。
「――陰陽師よ、幸福を留めるな。」
結が振り返る。
「誰……?」
灯の中に、白い影が立っていた。
それは人でもなく、霊でもない。
灯篭の守り――**縁守**と呼ばれる存在だった。
縁守の声は静かで、夜風に溶けるように響いた。
「流れぬ幸福は、やがて祟りとなる。」
晴明が歩み寄り、扇を軽くかざす。
「この屋敷の理は、“祈りの執着”か。」
縁守はゆっくり頷いた。
「そうだ。あの子は、祈りの形。
母の涙が生んだものだ。」
灯の中に、一瞬、ひとりの女の面影が浮かぶ。
髪を結い、枕元に座る女――その目は深い哀しみに濡れていた。
「七瀬志乃。
病で子を失い、幾夜も泣き明かした女だ。
“もう一度、あの子の笑顔を見たい”――
そう願った祈りが、座敷わらし・ユラを生んだ。」
結が息を呑む。
「じゃあ、ユラは……」
「母の祈りの欠片だ。」
縁守の声が静かに続く。
「志乃の涙は、土に染み、屋敷の理を変えた。
幸福を留め、命の流れを止めた。」
沈黙が落ちた。
屋敷の中から、まだ微かに笑い声が聞こえる。
それは風に乗らず、ただ響き続けている。
透牙は唇を噛みしめた。
「……そんな優しい祈りが、どうして祟りになる。」
晴明は灯の揺らぎを見つめ、ゆっくりと言葉を返した。
「理は等しからず。
幸福すら、過ぎれば滅びとなる。」
縁守の灯が一度だけ強く揺れた。
「七瀬志乃の魂は、すでに流れの外にある。
だが、井戸の底に――最後の祈りが残っておる。」
「井戸……?」
結が小さく呟く。
晴明が扇を閉じた。
「行こう。そこに、ユラの“終わり”がある。」
屋敷の裏庭に続く石畳を進むと、
風車の列が夜風に揺れた。
赤い羽根が、月光を反射して一斉に回る。
さっきまで止まっていたはずの風車が――。
透牙が足を止める。
「……動いてる。」
結が風車のひとつに手を伸ばす。
その中心には、小さく折られた紙符が結ばれていた。
薄く書かれた墨の文字。
――「また、笑ってね。」
結の手が震えた。
「これ……ユラの字だ。」
その瞬間、井戸の奥から冷たい風が吹き抜けた。
屋敷全体が、息を吐くようにきしむ。
灯篭の灯が大きく揺れ、縁守の声が響いた。
「急げ。祈りがほどける前に、あの子の想いを鎮めよ。」
晴明は月を仰ぎ、短く息を整えた。
「……理を正す時が来たようだ。」
結が小さく呟く。
「ユラの祈り、今度こそ――届きますように。」
その言葉に呼応するように、
風車の列がふわりと光を帯び、ゆっくりと止まった。
静寂。
月の光が井戸の水面を照らし、
その底に、眠るような微笑が浮かんでいた。
第四章 祈りの還る座敷
夜更けの屋敷は、息をしているようだった。
風もないのに障子が揺れ、畳の上には淡い光が流れている。
結は静かに筆を取った。
墨をすらずとも、筆の先が畳を撫でるたびに、文字が浮かび上がる。
――「ここにいると、みんな笑ってくれる」
その瞬間、あの柔らかな声が重なった。
「ねぇ、見て。みんな、まだここにいるの。」
振り向くと、座敷の奥にユラが立っていた。
白い着物に赤い紐、琥珀の瞳。
どこか懐かしい笑みを浮かべている。
「わたし、もう誰も泣かせたくなかったの。」
結の喉がかすかに震える。
「でも、みんな……もう、ここにはいないのよ。」
ユラは首を振り、指先を上げた。
「ううん、いるよ。見て、ほら――。」
座敷の四隅。
そこから、ぼんやりと光が立ち上がる。
それは人の形をしていた。
父、母、子どもたち。けれど顔には目も口もなく、
ただ“笑い”の形だけを模していた。
透牙がすぐに反応し、刀を抜いた。
「……それは、命じゃねぇ!」
晴明が扇を広げて制した。
「手を出すな。彼らは“祈りの残滓”だ。」
結は筆を握りしめたまま、呟く。
「祈りが……命を縛っている……。」
屋敷の天井が軋む。
畳の隙間から光が滲み出し、まるで屋敷そのものが呼吸しているようだった。
幸福を願う声。
笑い声。
それらが一斉に溢れ、空間を満たす。
晴明の声が響く。
「――屋敷が“幸福”という名の牢獄になっている。」
ユラは小さく笑った。
「だって、ここにいれば、みんな笑っていられるんだもん。」
その笑みの奥に、寂しさが滲んでいた。
結が歩み寄り、ユラの手を取る。
「……ユラ。
あなたの“みんな”は、きっともう眠りたがってる。
ずっとここに留まっているのは、あなたが“笑って”くれるから。」
ユラの瞳が揺れる。
その光の奥に、小さな涙が生まれた。
「……じゃあ、わたしが笑うのをやめたら……もう、誰もここにいないの?」
晴明は静かに答える。
「いないことを、受け入れるのが“祈りの終わり”だ。
祈りは留まるものではなく、流れゆくものだからな。」
その言葉を聞いたユラは、小さく頷いた。
そして、ゆっくりと屋敷の中央――古い井戸の方へ歩き出した。
「……お母さんが、ここにいるの。」
井戸の縁には、赤い風車が一つだけ残っていた。
ユラはそれを両手で包み、そっと微笑んだ。
「ありがとう。わたし、もう大丈夫。」
風車がひとりでに回り始める。
夜風が吹き抜け、屋敷を包む光が柔らかく広がった。
畳の上の“笑う影”たちが、一つ、また一つと淡く溶けていく。
結の筆先から光が流れ出し、それが屋敷の隅々まで広がった。
晴明が呟く。
「祈りが還る……。」
ユラが微笑んだ。
「お母さん、わたしね、みんなとちゃんと笑えたよ。」
その声を最後に、彼女の姿は光の粒となり、井戸の底へと吸い込まれていった。
夜が明ける。
屋敷の庭に残ったのは、静かな風と、回り続ける赤い風車だけだった。
第五章 祈りの行方
夜。
雨上がりの屋敷に、淡い月の光が差していた。
結は、いつの間にか眠っていた。
夢の中で、柔らかな風に頬を撫でられる。
そこは、見覚えのある座敷だった。
ただし、すべてが透き通るように白い。
障子も、畳も、風車さえも、まるで霞の中に溶け込んでいる。
その中央に、ひとりの女が立っていた。
白い衣を纏い、長い髪を垂らしたまま、微笑を浮かべている。
「……あなたが、七瀬志乃さんですね。」
結が言うと、女はゆっくりと頷いた。
「この子だけは、泣かせたくなかったの。」
その声は、祈りのように静かで、しかし痛いほどに真実を帯びていた。
「あなたの祈りが、ユラを生んだのですね。」
「……ええ。」
志乃はうつむき、両の手を胸の前で握りしめる。
「けれど、あの子は“幸福を終わらせる”ことを知らないの。
私の祈りが、あの子をこの世に縛りつけたの。」
その瞳から、一筋の涙がこぼれる。
それは光の糸となって、結の足元に落ちた。
志乃は結に近づき、そっと手を差し出した。
その掌には、小さな赤い風車が一つ。
先ほど屋敷で見たものと同じ形。
「“名を呼んで”。それだけで、あの子は自由になるわ。」
結はその言葉を心に刻むように頷いた。
――そして、夢は、静かにほどけていった。
***
夜が明ける。
屋敷の庭には朝露が降り、草の葉がきらめいている。
晴明は祠のような古い井戸の前に立ち、扇を閉じた。
「これで、祈りは流れに還った。」
透牙が空を見上げる。
「……けど、まだ聞こえる気がする。あの子の笑い声が。」
結は懐から風車を取り出した。
淡い朝の光が、それを虹色に照らす。
「ユラ――。」
その名を呼んだ瞬間、微かな風が吹いた。
庭の風車が一斉に回り、光の輪が広がっていく。
その風の中で、笑い声が確かに響いた。
けれど、もう哀しみの影はなかった。
晴明が目を細める。
「……祈りは封じるものではない。
受け止め、流すことが“生かす”ということだ。」
結は風車を胸に抱き、微笑んだ。
「ユラの願いも、きっと……どこかで芽吹いている。」
透牙が歩き出す。
「さて、次はどこへ行く?」
晴明は朝の空を見上げ、静かに答えた。
「“理”は人の中にもある。――我らが行くのは、人の世そのものだ。」
屋敷を離れる三人の背に、朝日が差し込む。
その光は、まるでユラが見送っているかのように、温かかった。
風が吹く。
ひとつの赤い風車が、ふと音を立てて回り始めた。
――「ありがとう」
それは、確かに少女の声だった。
第六章 祈りの終わりに
夜明け前。
まだ空が白む前の静寂の中、屋敷の座敷に淡い光が揺れていた。
蝋燭の火が細く震え、障子の向こうから微かな風が通り抜ける。
晴明、透牙、結――三人はその座敷に並んで座っていた。
そして、畳の中央には、あの少女――ユラが立っている。
白い着物の裾が揺れ、瞳には揺らめく光が映っていた。
ユラは少し首を傾げて言った。
「どうして帰るの? ここにいれば、ずっと幸せなのに。」
その声は柔らかく、けれど確かに“縋る”響きを持っていた。
結は静かに微笑み、言葉を選ぶように答える。
「幸せは、流れるもの。
止まってしまったら、命じゃないの。」
ユラの瞳が揺れた。
その小さな手が震える。
「……わたし、怖いの。
いなくなるのが。」
結はそっと膝をつき、懐から赤い風車を取り出した。
月明かりを受けて、それはゆっくりと回り始める。
「ユラ、あなたの名前を呼ぶ。
だから――行っていいの。」
ユラは一歩、二歩と近づいた。
その小さな唇が、結の言葉をなぞるように動く。
「……名前……ユラ……」
その瞬間、屋敷の空気が変わった。
畳の隙間から光が溢れ、壁の影がゆっくりと溶けていく。
風車が一斉に回り出し、かすかな笑い声が重なった。
ユラの頬に、一筋の涙が伝う。
「ありがとう。……お母さんに、会えるかな。」
結は微笑んだ。
「きっと、待っているわ。」
ユラの身体が光に包まれ、輪郭が霞む。
その姿はまるで朝霧のように淡く、優しく消えていった。
座敷の中に残ったのは、風車の回る音と、
どこかで聞こえる鳥の声だけだった。
透牙が深く息をつく。
「……終わったんだな。」
晴明は静かに立ち上がり、扇を閉じた。
「祈りとは、形を求めるものではない。
流れに還るとき、人も祈りも“理”に戻る。」
結は光の残滓を見つめながら、呟く。
「ユラの笑顔は、ちゃんと届いた。
だから……もう、大丈夫。」
障子の外、空が少しずつ明るみ始めていた。
夜の名残と朝の気配が交わる境目に、
淡い風が吹き抜ける。
――風の中で、微かな声がした。
“ありがとう”
その声は、確かにユラのものだった。
そして、屋敷の庭に並ぶ風車が、朝日を受けて静かに回り始める。
それは、祈りが流れ、命が続いていくことを示す音だった。
終章 風の記録
翌朝。
夜の名残を薄く残した空の下、屋敷はただの廃屋に戻っていた。
崩れた瓦、剥がれた障子。
けれど、庭の片隅に並ぶ風車のうち――ひとつだけが、かすかな風を受けて回り続けていた。
透牙は立ち止まり、耳を澄ませる。
「……笑い声、聞こえた気がしたな。」
結は静かに頷く。
「うん。あの子、ちゃんと笑ってた。」
晴明は空を仰ぎ、ゆるやかに扇を閉じた。
「幸福とは、留まることではない。巡ることだ。
それが、人の理。」
朝霧の向こう、淡い陽が差し始める。
濡れた苔がきらめき、遠くの都では鶯がひと声鳴いた。
三人は屋敷に背を向け、静かな道を歩き出す。
結は一度だけ振り返り、心の中で呟く。
――幸福も、祈りも、命も。
――巡ってこそ、生きているのだと。
その瞬間、屋敷の屋根の上で、何かがふと動いた。
朝の光の中、小さな影が笑ったように見える。
風が吹く。
赤い風車がひときわ大きく回り、柔らかな音を立てた。
それはまるで、
「ありがとう」と告げる、風の声のようだった。
あとがき ―座敷わらしという祈り―
座敷わらし。
それは、幸せをもたらすと語り継がれてきた小さな客人。
だが、この物語で彼女は“幸福を呼ぶ存在”ではなく、
“幸福を留めてしまった祈り”として描かれました。
失われた笑顔を願う母の想い、
それを受け止めて生まれた小さな命――ユラ。
彼女は、誰かを悲しませたくないという
たったひとつの優しさから、この世に留まり続けたのです。
けれど、どれほど清らかな祈りであっても、
それが流れを止めたとき、理は静かに歪み始めます。
幸福も涙も、巡ってこそ命。
晴明たちが辿り着いた答えは、封じることではなく、
“呼ぶこと”――“名を呼び、認め、還すこと”でした。
ユラの物語は、決して恐ろしい怪異ではありません。
それは、愛する者を想う心がかたちを持った
“もう一つの命”の記録です。
朝の光の中で回る風車の音。
あの音は、まだどこかの座敷で、
誰かの笑い声とともに響いているのかもしれません。
――祈りは消えず、形を変えて巡る。
そう信じながら、この物語を閉じます。




