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幽影の旅路  作者: ysk
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十八陣 無風の都

登場人物紹介 ― 無風の都 編 ―


透牙とうが


風を読む青年。

かつて“風神・風音”と対話し、「祈りは名を呼ぶこと」と悟った。

今は晴明の補佐として祈りと封印を司る。

無風の都では、封じられた風の“息”を最初に感じ取った。


「風は生きている。祈りを忘れた世界でも――必ず、どこかで息をしている。」



ゆい


祈りの巫女。純粋な祈りの声で神霊や封印を揺らす力を持つ。

“風神・水音”の加護を受けており、祈りの歌は今も風を呼ぶ。

都の子供たちに祈り唄を教えることで、“無祈”の心を溶かした。


「祈りはね、誰かを想う気持ちそのものなの。」



晴明せいめい


陰陽師の長。冷静沈着にして、どんな異変にも動じない。

古代の封印術や祈祷陣を読み解く力に長ける。

風塔では“祈りを封じる陣”の本質を見抜いた。


「止まる風は、祈りを恐れた証。動く風は、祈りの赦しだ。」



透哉とうや


音を操る共鳴士。

音と風の波を読むことで霊や封印の“声”を聞き取る。

無祈との戦いでは共鳴陣を用い、柊の魂を救った。


「音は祈りの形だ。静寂さえも、祈りの一部なんだ。」



いつき


僧侶にして経を紡ぐ霊導師。

精神の均衡を保ち、仲間たちの心を支える。

戦いの最中、沈黙に支配された塔で“無祈の声”に対し経を唱えた。


「祈られぬ魂に、言葉を返すのが我らの務めだ。」



連理れんり


符術師。護符と封印陣の構築を担う。

静かながら芯が強く、誰よりも祈りの“形”を重んじる。

無祈の核が暴走した際、護符を使い霊圧を押さえ込んだ。


「符は心のかけら。誰かを守る意志がなければ、光らない。」



葉羽はば


風を纏う戦士。俊敏さと直感で仲間を守る。

都では結の護衛として動き、柊と凪真の戦いを止めた。


「風を信じろ。見えなくても、必ず背中を押してくれる。」



凪真なぎま


都の密偵。かつて妹を“風の祈り”の暴走で失い、祈りを拒んでいた。

無祈に操られるが、結の祈りによって心を取り戻す。

その後、仲間として旅に加わる。


「風を憎んでいた。でも今は、もう一度信じてみたい。」



ひいらぎ


元盗賊。風走りの技で風の流れを逆踏みする俊足の男。

祈りの符を盗もうとして“無祈の核”に取り込まれるが、透哉と結の祈りで救われた。

以後、仲間として“守る”側へ。


「盗むより、守るほうが……ずっと難しいな。」



無祈むき/風のかみ


“祈られぬ神”として生まれた風の残響。

人々が祈りを恐れた結果、神の“名”を奪われた存在。

子供たちの声と結の祈りによって癒され、都の守護となる。


「我は沈黙に生まれ、祈りに還る風。」



水音みおん


かつて風神に名を与えた少女の霊。

風神・風音と共に旅を導く“祈りの記録”の化身。

時折、結の夢や祈りの歌の中に姿を見せる。


「名を呼ぶ声がある限り、風は消えないよ。」

あらすじ


 風が、なかった。

 音も、香りも、揺れもない。

 空に浮かぶ雲さえ、ひとところに留まり、溶けもしない。


 ――ここは、“無風の都”。


 かつてこの地は、祈りと風が交わる都と呼ばれた。

 けれど今は、術も神も忘れられ、人々はただ黙って空を見上げるだけ。


 石畳に降り立った透牙が、わずかに息を吐いた。

 その吐息さえ、空気に吸われるように消えていく。


「……風が、死んでいる。」

 透牙の言葉に、隣の晴明が目を細める。

「死んでいるのではない。――封じられているのだ。」

 晴明は扇を開き、空気をかすかに撫でる。だが、布は動かない。


 結が歩を進め、石の祠の前で立ち止まった。

「風が祈られていない……ここでは、“願う”ことすら忘れられたのね。」

 少女の声が静寂に吸い込まれていく。


 斎が掌を合わせ、低く経を唱えようとしたが、声が途中で途切れる。

「……祈りが、返ってこない。」

「祈りが?」透哉が首をかしげる。

「そう。まるで、言葉が届く前に溶けてしまう。」


 葉羽が屈み、地に手を当てた。

「土の流れも止まっている。風だけじゃない。ここ、全部が眠っているんだ。」

 連理は崩れた石碑を撫でながら呟く。

「“無祈むき”――この名、どこかで見た気がする。」


 晴明がその言葉に反応し、扇を閉じた。

「……無祈。それは、祈られぬ神、あるいは祈りを拒んだ魂。

 かつて戦の火に怯えた都人が、神への願いを断ったという。」


 その瞬間、結の胸元の鈴が微かに鳴った。

 音もない風の中で、わずかに金の音が震えた。


「……聞こえる。誰かが、名前を探している。」

 結が目を閉じ、息を吸う。

 透牙が静かに頷いた。


「――行こう。風音が導いている。

 止まったこの都に、“息”を取り戻すために。」


 その声に、仲間たちはゆっくりと歩き出した。

 風なき都の空の下で、祈りの物語が再び動き出す。


第一章 無風の都、沈む空


 風は、どこにもなかった。

 乾いた石畳が続く都の外れ――砂埃ひとつ舞わぬ静寂が、透牙たちを迎えた。


 旗は垂れたまま動かず、煙は炉の口で止まり、空に雲が浮かんでも流れない。

 葉羽が眉をひそめ、指先で空気を確かめた。

「……まるで、時ごと止まっているみたいだ。」


 透哉が小さく頷き、携えた共鳴器を耳に当てる。

「音の反響がない。鳥の声も、風の擦れる音も、完全に消えている。」

 その声すら、どこか鈍く、空気の層に吸い込まれるようだった。


 結が歩み寄り、地に膝をついた。

「風が眠っている……いいえ、眠らされたのね。」

 その瞳は静かに閉じられ、指先が石畳の亀裂をなぞる。

 祈りの気配を探しているのだろう。だが――。


「……何も、返ってこない。」

 呟く声に、斎が経を唱えようとするが、唇が震えただけで音が出ない。

「……祈りが……届かぬ。」


 晴明が一歩前に出て、扇を開いた。

 白布のように静止した空気の中で、彼は淡く息を吹きかける。

 それでも、扇は揺れなかった。


「……風が動かぬとは、祈りそのものが封ぜられているのだ。」

 その声は、誰に聞かせるでもなく、沈黙に落ちていった。


 都の中心部には、高く聳える塔が見えた。

 かつて“風塔ふうとう”と呼ばれた祈りの象徴――今は黒布で覆われ、封じの札が無数に貼られている。


 連理が札のひとつを見つめ、眉を寄せた。

「……この印、禁祈きんきの陣。祈りを媒介する力そのものを断つ結界……だと?」


 結が静かに塔の方を見た。

「祈られぬ都……人が風を忘れ、風が人を忘れた。」


 透牙はその言葉に目を細め、腰の御幣を握りしめた。

「なら、思い出させるまでだ。――風も、人も、祈りも。」


 その瞬間、塔の影がわずかに揺れた。

 風は吹かぬはずの空の下で、ただひとつ、鈴の音が小さく鳴った。


 誰の祈りかも知らぬまま、

 “無風の都”の物語が、静かに息を吹き返そうとしていた。


第二章 影走りの凪真


 夜の都は、まるで息を潜めた巨大な遺跡のようだった。

 灯籠の火は揺れず、足音だけが石畳に吸い込まれていく。


 透牙たちは、風塔を囲む路を巡察していた。

 晴明が札を掲げ、静かな声で呪文を唱える。

「――臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前。」

 薄く光が走り、塔の結界の輪郭が浮かび上がる。


「風の流れ……まるで、すべての“道”が閉じられているな。」

 葉羽が低く呟き、手にした数珠を軽く弾いた。

「風導の道筋がどこにも繋がっていない。都そのものが、ひとつの“封”だ。」


 そのとき――闇がわずかに揺れた。

 結が息を飲み、透哉が反射的に共鳴具を構える。

 音もなく、屋根の上を何かが走り抜けた。


「……来る!」

 透牙が御幣を構えた瞬間、影がすっと降り立った。

 月の光を受けぬ黒装束。面をつけずとも、その気配は人のものとは違う。


「外の祈祷師か。」

 静かな声。男は懐の短刀をひと振りで翻し、透牙の足元に突き立てた。

 刃は風を裂かず、しかし、空気の層を“切る”ように滑った。


「風が……動いた?」

 結が呟く。ほんの一瞬、空気が震えた。


 透牙が低く問い返す。

「お前は……何者だ。」


 影の男は答えず、背の黒布を翻した。

「名を問うな。俺は“影走りの凪真なぎま”。都の密偵として、お前たちの動向を監視している。」


 晴明が一歩前に出る。

「密偵か。都の命か、それとも――己の意思か。」


 凪真の眼が、一瞬だけ揺れた。

 その眼差しには、敵意よりも、深い悲しみが宿っている。


「風を呼ぶ者など、都には必要ない。」

 その言葉を残し、彼は闇に紛れた。


 しかし、吹かぬはずの風が、彼の去ったあと微かに動いた。

 その気配に、風狐が姿を現す。

 その金色の尾が静かに揺れ、低く囁いた。


「……あの男も、風を失った一人だ。」


 透牙は夜空を見上げた。

 凪いだ月の光の下、風の道はまだ閉ざされたままだった。


第三章 盗賊柊、風を盗む


 昼下がりの都は、沈黙の中にかすかなざわめきだけがあった。

 祈りの詞を忘れた人々は、ただ機械のように市場を行き来している。

 透牙たちは、都の中心部――封じられた「風塔」の近くで調査をしていた。


 そのときだった。


 ――ぱんっ。


 乾いた音が響き、群衆がざわめく。

 露店の符箱が破られ、金や宝ではなく“祈りの符”が散らばっていた。


「止まれっ!」

 衛兵の叫びとともに、ひとりの男が屋根を駆け抜ける。

 陽光を背に、灰のような髪が閃く。


「……風が、動いた?」

 結が呟いた。


 透牙は即座に御幣を振り上げた。

「風の流れ、そこまでだ!」


 見えぬ力が走り、屋根の上の男の足元を縛る。

 しかし、その男――ひいらぎは片足で空気を踏み抜き、逆に風を跳ね返した。


 風が逆巻く。

 透牙の結界が弾け、砂塵が舞い上がる。


 男は片手に符を握り、口の端を歪めて笑った。

「風を縛ろうなんざ、甘いな。風は誰のものでもねぇ。俺たちの最後の自由だ。」


 葉羽が即座に反応する。

「“風走り”……! こいつ、風導の理を逆に踏んでいる!」


 柊は屋根から屋根へと飛び移り、地を蹴るたびに風が逆向きに流れた。

 まるで、止まった都にひとりだけ“生きた風”を持ち込んでいるようだった。


 晴明が低く呟く。

「……盗賊ではないな。彼は“風そのもの”を盗んでいる。」


 透哉が符の軌跡を読み取り、驚愕する。

「この符、ただの祈り札じゃない。風塔の封印符の一部だ……!」


 結が息を飲む。

「つまり……風を封じていた符が、盗まれている?」


 葉羽が目を細めた。

「あの男……無意識に“封”を破りつつある。だが、それを制御できる術を知らねぇ。」


 透牙は風の残滓を感じながら、遠くに消える影を見送った。

 柊の残した風が、かすかに都の埃を揺らす。


「……風を盗む、か。」

 彼は呟いた。

「だが、その風はまだ死んじゃいない。あの男が“鍵”になるかもしれない。」


 晴明は微笑を浮かべ、扇を畳んだ。

「面白くなってきたな。

 盗賊が、封印を解く――皮肉だが、運命というのはそういうものだ。」


 葉羽が空を見上げる。

 静止した雲の中、ほんの一筋だけ、風の筋が動いた。


 その流れは――再び動き出す“風の記録”の始まりだった。


第四章 沈黙の塔


 都の中央にそびえる「風塔」は、古色蒼然としていた。

 透牙たちは慎重に石段を上り、塔の中へと足を踏み入れる。


 塔内部は薄暗く、空気は鉛のように重い。

 かつての祈りの痕跡は、ほとんど消え失せていた。

 中央に残るのは、見慣れぬ幾何学模様の陣――封印だけが静かに居座る。


「これは……祈祷陣が崩れ、封印陣だけが残っているな」

 晴明が扇を広げ、陣を分析する。


 連理が傍らで符の形状を指差す。

「この陣……風を止めるために設えられたものです。祈りではなく、風そのものを封じている。」


 斎が眉をひそめる。

「ここは神を祀る塔ではない。風を閉じ込め、動かぬようにした場所だ。」


 結は小さく息を吸い、祈り歌を口ずさむ。

 その旋律はかすかに共鳴し、塔の上層へと響く。


――かすかな声。


「……ぅ……」

 風塔の上層から、微かな囁きが漏れた。


無祈むきの声だ……」透哉が符を持ち、耳を澄ませる。

「祈りを知らぬ者たちの恐怖が、風を封じたのだろう。だが……まだ残滓がある。」


 葉羽が天井を見上げ、眉をひそめる。

「この封印、ただ閉じ込めるだけじゃねぇ。逆に“風走り”の技を知る者なら、利用できる構造だ。」


 透牙は目を細め、思索する。

「……柊が逃げたときの風……あれは偶然じゃない。封印の裂け目を逆手に取った“風走り”だったんだ。」


 結が小さく頷く。

「彼の足跡、祈りの残滓を辿る術にもなるかもしれない。」


 晴明は薄く笑い、扇を畳んだ。

「なるほど……盗賊の手に、封印の秘密が握られている。皮肉なことだが、都を救う鍵になるかもしれない。」


 塔の空気がわずかに震え、止まっていた風の残滓が指先に触れる。

 透牙はそっと息を吐いた。

「……行こう。塔の封印を破る前に、まず風を知る必要がある。」


 風塔の影の中、微かな“無祈の声”が囁き続ける――

 それは止まった都の真実を告げる、静かな警鐘だった。


第五章 無祈むきという名


 塔の最上層。薄暗い空間に、透哉が符を掲げて残響を解析する。

 風は依然として止まり、息を潜めたように静まり返る。


「……この塔の内部には、人でも霊でもない――空の声が満ちている。」

 透哉の瞳が光を反射する。符の上で、かすかな青白い霧が渦巻き、光の残響が宙を漂う。


 空間の中心から、低く響く声が立ち上がった。


「祈りは、恐れ……ならば、我は沈黙を選ぶ。」


 結の身体が小さく震える。

「……沈黙の祈り……?」


 晴明が扇を広げ、静かに口を開く。

「名を持たぬ祈り……祈られぬ神の成れの果てか。都は、祈りを恐れ、封じたのだろう。」


 その瞬間、凪真が影のように一歩前に出る。

「そうだ。昔、この都は祈りが戦を呼んだ。恐れから人々は祈りを封じたんだ……封印こそが、この都の静寂を保つ唯一の手段だった。」


 透牙は微かに風を感じ、手をかざす。

 空気がわずかに揺れ、白い光が封印の縁を照らす。

 塔の中央には、かすかに動く「封印の裂け目」が見えた。

 そこから漏れる光は、まるで塔自体が呼吸しているかのように、柔らかく上下に揺れる。


 葉羽が呟く。

「……柊の足跡、ここの裂け目を逆手に取ったんだな。封印を破らずして、風を踏む術――風走り。」


 結がそっと手を伸ばし、透哉の符と光に触れる。

「この光と声……祈りの残滓よね。私たちが呼び戻せば、再び風は動くはず。」


 晴明は扇を軽く振り、光の残響を抑えつつ言う。

「だが安易には動かすな。名なき祈りは暴れれば破壊になる。」


 塔の空気が微かに唸り、青白い残響が渦巻く。

 透牙は目を閉じ、指先で空気の脈を読む。

「……分かった。まずは、この声の正体を知る。風を動かす前に、無祈の心を呼ぼう。」


 空間に漂う沈黙と光の揺らぎが、塔に封じられた真実――

 無祈という名の神の、声なき叫びを映し出していた。


第六章 風を知らぬ子供たち


 都の小路を抜け、結は孤児たちの集まる広場に立った。


「さあ、みんな……風の唄を一緒に歌いましょう」

 結が口を開くと、透牙の周囲の空気が微かに揺れ、風狐の毛先がそよぐ。


 しかし、一人の幼い少年が首をかしげた。

「風って……なに?」


 結は一瞬言葉を失い、顔を曇らせた。

 この都では、風を感じ、祈りを歌うということ自体が忘れられていたのだ。


 結はそっと手をかざし、祈りの旋律を紡ぐ。

 その瞬間、空気が微かに震え、日差しが瓦の隙間を通って淡い光の帯を作った。


「ほら……風は見えなくても、耳と心で感じるものよ」

 結の声に反応して、ひとすじの風が子供たちの髪を揺らす。


 葉羽が足を止め、空気の脈を読んだ。

「……風が――目覚めようとしている」


 透牙は手を広げ、微かな気流を追う。

 その視線の先には、塔の封印が残す青白い残響がわずかに揺らめき、無祈の記憶を映すかのようだった。


 結が再び歌う。

「祈りは、忘れられても、また呼び覚ますことができる」


 微風は広場を駆け抜け、子供たちの頬に触れた。

 その風は、過去に封じられた祈りの記憶――無祈の記憶に触れ、再び目覚める兆しだった。


 透牙が囁く。

「これでいい……小さな祈りから、風は帰ってくる」


第七章 影と風の誓い


 夜の都に、影が滑るように動いた。

 凪真――かつて風を守るはずだった少年は、今、無祈に操られ、透牙たちの前に立つ。


「ここで風を呼ぶ者など、容認できぬ!」

 凪真の声は冷たく、かつての哀しみを覆い隠していた。

 しかし、その瞳の奥には、失われた妹の面影が揺れている。


 透牙が手を広げ、風の流れを読んだ。

「恐れを超えて、もう一度“名”を呼べ」

 言葉と共に、彼の周囲に微細な気流が走る。


 結は凪真の胸元に触れ、祈りを紡ぐ。

「あなたの記憶を見せて……妹さんを、忘れたままでいないで」

 結の祈り歌が共鳴し、凪真の幼き日の記憶が映像のように浮かび上がる。


 ――妹は風の祈りの暴走で命を落とした。

 幼い凪真は、風の力を恐れ、心を閉ざした。

 無祈の影はその恐怖を糧に、彼を操っていたのだ。


 結の歌声が塔の封印の残響と絡み合う。

 その瞬間、広場の空気が震え、子供たちの頬をそよぐ風が現れる。

 わずかに揺れる葉の音、鈴の音、そして小さな囁き――風が目覚めたのだ。


 凪真の目に光が戻る。

「……風よ、妹の名を、もう一度」

 言葉と共に、彼の手のひらから微かな気流が立ち上り、無祈の影を弾く。


 結と透牙は互いに頷く。

 子供たちの中に芽生えた、初めての風の感覚――

 風は恐れではなく、祈りに応えて動くものだと知ったのだ。


 無祈の記憶が微かに光となり、塔の上層から風の残響として広がった。

 それは、封じられた祈りの記憶が再び世界に顕現した瞬間だった。


 葉羽が微笑む。

「これでいい……小さな祈りから、風は帰ってくる」


 透牙は凪真の肩に手を置き、穏やかに言った。

「恐れではなく、信じる力で呼ぶのだ――名を忘れた風も、必ず応える」


第八章 祈りを盗む者


 風塔の奥、薄暗い廊下に柊の影が滑り込んだ。

 手には古びた護符――塔の封印を示すものだ。


「これを……奪えば、力が手に入る」

 柊はつぶやき、護符に手をかける。しかし、その瞬間、護符から低く不気味な唸りが響いた。


 ――“無祈の核”が目覚めたのだ。


 柊の体を霧のような黒い影が包む。

 「何……?」

 声は出せど、身体は自由を失い、無祈の霊が彼の意思を覆い始める。


 透哉が静かに足を踏み出す。

「共鳴陣、展開……全霊の声を引き寄せろ」

 音の波が塔内を満たし、柊と無祈の影の間に渦を作る。


 連理が封印符を掲げ、悲鳴のような音に反応して叫ぶ。

「符が、悲鳴を上げている……!」

 護符は自ら光り、暴走する無祈の力を押し返す。


 その瞬間、外から子供たちの声が届いた。

「風って……ふわふわだね!」

「見て、葉っぱが揺れた!」


 小さな声が塔内に反響し、無祈の影がわずかに形を取り始める。

 人でも霊でもない、風と記憶が交じった半透明の存在。

 子供たちの祈りの声によって、初めて無祈は自らの存在を顕すのだった。


 柊は必死に意識を取り戻す。

「……俺はもう、盗むのはやめた。今度は、守る」

 彼の手が護符をしっかりと握り直すと、無祈の影は暴走を止め、塔の奥で静かに揺らめく光に変わった。


 透牙は静かに風を読む。

「名を持たぬ祈りでも、守られることで形を得る――風はそれを知っている」


 結は小さな微笑みを浮かべ、子供たちに手を振る。

 塔の奥で、無祈の核は部分的に顕現し、風と祈りの声に応えていた。


第九章 風塔崩壊


 都の中央にそびえる風塔。その頂上から突如、強烈な風が吹き出した。


 「く、来るぞ!」

 透牙が身を低く構える。風は建物の隙間を縫い、旗も煙も激しく舞い上がる。


 塔の内部――無祈の核が完全に覚醒したのだ。半透明の影が渦巻き、空気を切り裂く。

 「祈られぬ我は、名を得ぬまま彷徨う風……」

 低く囁くその声が、都の隅々にまで響いた。


 結は目を閉じ、祈りを高く掲げる。

 「名を与える……あなたは、“風のかみ”。私たちの祈りを受けて、風の名となれ!」


 透牙が風を読み、子供たちの声と結の祈りを塔の頂上まで導く。

 葉羽は風の流れを整え、連理と斎は結界符と経文で塔を固定する。

 晴明は扇を広げ、陰陽陣を重ね、無祈の暴走を押さえ込む。


 黒い影が渦巻き、光と風が塔内で交錯する。

 柊は護符を胸に抱き、無祈の眼を見つめる。

 「守る……お前を、もう二度と独りにしない」

 彼の言葉が、無祈の核に届いた。


 瞬間、渦は光に変わり、無祈は静かに輪郭を整える。

 かつて「風を恐れた都の記憶」と、子供たちの声や祈りが一体となり、風の流れが再び塔から都全体へと広がった。


 風塔の頂から吹き下ろす風は、暴力的な嵐ではなく、柔らかく、祈りの循環を象徴するような温かさを帯びている。

 無祈の核はやがて淡い光となり、柊の肩で穏やかに揺れながら、都と風の記憶を繋ぎ直した。


 結が笑む。

 「これで、都は風を忘れずに生きられる……」


 透牙も頷く。

 「名のない風はもう、ない。みんなの祈りが、風に戻った」


 子供たちの笑い声が、塔の周囲を優しく包む。

 無祈はもう独りではない。祈りと名を受けて、風の守として、都に生き返ったのだった。


第十章 風塔の再誕


 夜が明けかけた都の空は、まだ灰色だった。

 風塔の周囲には、沈黙が満ちている――まるで世界そのものが息を潜めて、何かを待っているように。


 斎が経を唱え始めると、倒壊しかけた塔の基部に貼られた無数の封印符が淡く光を帯びた。

 連理が手をかざす。

 「……封印の構造が変わり始めている。抑制じゃない、今度は――祈りに転じてる。」

 晴明が頷き、扇を開く。

 「封ずる術を祈る術へ――まさに“転化”だ。いくぞ、結。」


 結が一歩前へ進み、祈り筆を握る。

 唇が開かれると、柔らかな旋律が風塔の奥に染みわたっていく。

 その声に呼応するように、透哉の共鳴陣が足元に広がり、音が光へと変わった。


 「葉羽、風を」

 「応っ!」

 天狗の修行僧・葉羽が羽衣を翻すと、停滞していた空気が揺れ動く。

 微かな風が生まれ、祈りと音と光を繋いだ。


 凪真は静かに目を閉じ、かつて封じるために使った影走りの力を逆に流した。

 「……風よ、もう恐れない。俺の影も、お前の流れに還れ。」

 その隣で柊が笑みを浮かべ、護符を空へ放る。

 「盗んでばっかじゃ終われねぇからな。今度は、渡す番だ。」


 全員の力が、一点に集束する。

 晴明が扇を振り下ろし、透牙が風を読んで宣言した。


 「風は戻る。祈りは止まらない!」


 瞬間、塔が光に包まれた。

 封印陣がひとつひとつ祈りの文様へと変化し、塔全体が呼吸を取り戻していく。

 崩壊の音ではない――それは再誕の音。風の鼓動。


 やがて、都の空が揺れた。

 長い間、閉じ込められていた風がゆるやかに吹き抜ける。

 屋根の上の旗が揺れ、祈り鈴が微かに鳴る。

 子供たちが歓声を上げて走り出す。


 光の中に、淡い姿が立っていた。

 無祈――いや、今は“風の守”。


 柊が前へ出る。

 「お前……もう眠るのか?」

 風の守は、微笑んで答える。

 「この地の祈りが続く限り、私は在る。お前たちの風の中に。」


 傍らで、子供が風に向かって手を伸ばす。

 「また、あそぼうね――風の神さま!」

 風がその小さな声をさらい、都の屋根の向こうへと流れていった。


 晴明が静かに扇を閉じ、呟く。

 「風は、祈りを憶えている。」

 結が笑って答えた。

 「そして祈りは、風を呼び続ける。」


 ――都に、初めて“風”が吹いた。

 止まっていた時が、静かに動き出した。


第十一章 風の還る都


 朝の光が、ようやく都を染めた。

 長く閉ざされていた空は青を取り戻し、雲が流れる。

 風塔の頂には祈りの布が新たに掲げられ、柔らかな風に揺れていた。


 通りの鈴が鳴る。屋根の旗が翻る。

 人々が立ち止まり、空を仰ぐ――その頬を撫でるのは、久方ぶりの風。

 誰かが笑い、誰かが涙をこぼした。


 凪真が塔の下に立ち、目を細める。

 「……ようやく、風の音が聞こえる。」

 彼の声は低く、しかしどこか晴れやかだった。

 透牙が隣に立ち、空を見上げる。

 「お前の妹も、きっとこの風の中だ。」

 凪真は短く頷き、目を閉じる。


 柊は市場の片隅で、修復を手伝う子供たちを眺めていた。

 かつて符を盗んだ手が、今は破れた護符を直している。

 「風がある街ってのは、悪くねぇな。」

 そう呟くと、子供の一人が笑って「また風を盗んじゃダメだよ!」と答えた。

 柊は苦笑して、頭を掻いた。

 「……もう盗まねぇよ。風は、みんなのもんだ。」


 都の中央では、晴明が静かに扇を閉じていた。

 「止まる風は、祈りを恐れた証。

  動く風は、祈りの赦しだ。」

 その言葉に、透哉がうなずく。

 「祈りは音、音は風――全部、繋がっていたんだね。」


 連理は壊れた塔の礎に新しい符を貼り、呟いた。

 「これで……もう封印の時代は終わりだ。」

 斎が経を唱え、静かに手を合わせる。

 「祈りの都、再び。」


 結はその中心で、手作りの小さな風鈴を吊るした。

 透き通る音が鳴り、都中に響く。

 「この音が消えない限り、風も祈りも生きてる――」

 彼女は風鈴の下に小さく刻んだ。


 > “祈りの都”


 柔らかな風が、それを読み取るように吹き抜けた。

 旗がはためき、鈴が鳴り、子供たちの笑い声が空へ昇る。


 透牙が一歩、都の門の方へ歩き出す。

 背中に風が押す。

 「……行こう。まだ祈りを知らぬ地がある。」

 結が微笑み、他の仲間たちもそれに続く。


 風塔の頂から、一筋の白い風が彼らを見送るように流れていった。


 ――こうして、“無風の都”は名を改め、

 再び“祈りの都”として風の記録に刻まれた。


第十二章 風の道、続く


 夜明け前の都は、まだ淡い靄に包まれていた。

 風塔の上で鳴る風鈴が、ひとつ、微かに揺れる。

 その音はまるで「行っておいで」と告げるように、透き通って響いた。


 結が風鈴に指先で触れる。そこには小さく刻まれた文字――

 「祈りの都」。

 昨夜、自らの手で彫った祈りの証。

 「……この音が、風を導いてくれる。」

 結の声に、朝の光が差し込み、風鈴が淡く輝いた。


 門前に、旅支度を整えた仲間たちが並んでいた。

 晴明が扇を閉じて言う。

 「風は巡る。祈りがある限り、その道は絶えぬ。」


 凪真が静かに一礼する。

 「俺も行く。風の音を、もう二度と失いたくない。」

 柊は肩をすくめ、少し照れくさそうに笑った。

 「ま、誰かがまた風を盗もうとしたら、止めてやるさ。」

 葉羽がくすりと笑い、連理が小さく頷く。


 透哉が荷を背負いながら、空を見上げる。

 「音が違う……生きてる風の音だ。」

 斎が経巻を閉じ、淡く微笑む。

 「祈りは続く。だからこそ、風も息づくのだ。」


 透牙が振り返り、静かに言った。

 「風はまだ、名を探している。」


 その言葉に、晴明が扇を開く。

 「では、我らがその名を記そう。」


 朝日が昇る。

 風が彼らの衣を撫で、道の先を照らした。

 遠く、霞む山の向こうに、赤く光る社が見える。

 炎が揺れ、風を呼ぶように。


 結がそっと呟いた。

 「次は……“火の祈り”ですね。」

 透牙が頷き、微笑む。

 「風が導くなら、炎もまた、祈りの声を持っているはずだ。」


 ――その瞬間、風鈴がもう一度鳴った。

 やさしい音が背中を押し、旅の仲間たちは歩き出す。


 靴音が、朝の道に消えていく。

 風は再び、祈りを運ぶ。


 そして物語は、次の地へ――

 「火のひのやしろ」へと続いていった。

あとがき


―「無風の都」を終えて―


 風が止まるということは、世界が息を止めてしまうことに似ている。

 祈りが途絶えた都、名を失った神、そして沈黙を選んだ人々――この章を書きながら、私は「信じることを恐れた世界」を描きたかったのだと思う。


 前章「風の村」では、“祈りを封じた者たち”の罪と赦しをテーマにした。

 今回はその延長として、「祈りを忘れた者たちの再生」を軸に据えている。

 祈りは恐れと紙一重であり、風はその恐れを運ぶ存在でもある。

 無祈むきは、そんな恐れの結晶であり、同時に「人が祈らなくなった神」の象徴だった。

 それを倒すのではなく、“名を返す”ことで癒す――それがこの物語の核心である。


 そして、新たに登場した凪真と柊。

 彼らは「失った者」と「奪う者」、その対極のようでいて、実は同じ場所に立っていた。

 風を拒んだ者も、風に逆らった者も、最後には“風に背を押されて”歩き出す。

 それが、祈りの力であり、透牙たちが導こうとする世界の形だ。


 物語の最後で都に再び風が吹くとき、子供たちが初めて「風ってなに?」と笑う。

 その小さな問いこそ、祈りのはじまりだと信じている。


 次なる地は「火の社」。

 風が祈りを運ぶなら、火は祈りを燃やす。

 そこでは“燃える命”と“消える願い”をめぐる、新たな試練が待っているだろう。


 ――風はまだ、名を探している。

 その名を呼ぶための旅は、これからも続いていく。


  筆者

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