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幽影の旅路  作者: ysk
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物の怪編 ― 霧に溶ける名の影 ―

登場人物紹介


――『物の怪編 ― 霧に溶ける名の影 ―』より



■ 主要人物


透牙とうが

風を読む青年。

風そのものに意志を見出し、霊や祈りの流れを感覚で感じ取ることができる。

生まれや素性は不明で、かつて自らも“名を持たぬ存在”だったという。

そのため、「名を呼ぶ」ことに強いこだわりを持ち、誰かの名を呼ぶことを救いの行為と信じている。

戦いにおいては風を操り、祈りと術を繋ぐ架け橋の役割を果たす。

静音との出会いが、彼の“名を呼ぶ者”としての覚悟を決定づけた。



ゆい

祈り歌を奏でる巫女。

声に霊的な力を宿し、旋律によって霊を鎮め、名を呼び戻す。

透牙と共に各地を巡り、名を失った魂たちを祈りで導く。

優しさの中に強い覚悟を秘め、祈りの歌は時に命を削るほどの力を持つ。

「名を呼ぶことが、祈りのはじまり」と信じている。



晴明せいめい

陰陽師。理と術を司る存在。

十二天将陣と封印術を操り、霊的現象の理を解き明かす。

静かで冷徹な印象を与えるが、根底には人と霊の“均衡”を保とうとする深い慈悲がある。

透牙たちの導師的立場として行動し、時にその言葉が物語の核心を照らす。



いつき

修験僧。土と祈りの力で霊を鎮める。

寺や山に残る“名の記憶”を読み取り、土地と霊を繋ぐ役目を持つ。

穏やかで静かな性格だが、霊への慈悲は深く、祈りの根源にある“人の責任”を説く。

透牙にとっては精神的支柱の一人であり、祈りの在り方を教える存在。



透哉とうや

共鳴士。幻影烏を通じて、霊の残滓や声の波形を読み取る。

音と波の共鳴を操り、祈りと術を調律する“音の調律師”。

透牙の良き理解者であり、感受性が高く、霊たちの“心の音”を聴き取ることができる。

冷静ながらも、他者の痛みに強く共鳴する繊細な魂を持つ。



■ 新たな登場人物


静音しずね

白い影として霧の中に現れる存在。

かつて寺に仕え、祈りの名を失った僧の魂が集合し、形を成した“名なき祈り”の化身。

人でも霊でもない、祈りそのものの残響。

問えば消え、問わねば寄り添うという、儚く矛盾した存在。

最後には透牙の呼びかけに応え、「名を呼んでくれて、ありがとう」と告げて光に還る。



連理れんり

封印術を補佐する修法師。晴明の弟子。

静音を封じるために寺へ派遣されるが、やがて彼女に深く共鳴し、「祈りを見届ける者」としての立場を選ぶ。

理知的で無駄のない言動を好むが、霊に対しても礼を欠かさない誠実な人物。

晴明からは「封じるより、見届ける術を学べ」と教えられている。



葉羽はば

天狗の修行僧。

風の気配や流れから霊の声を読み取る能力を持つ。

山奥での厳しい修行を経て、霊感と俊敏性に優れ、空中や樹上での機動も自在。

明るく朗らかだが、時折「風が泣いてる」と立ち止まるなど、深い霊感を示す。

透牙と共に旅をし、霊の声と人の祈りを結ぶ“風の媒介者”となる。



■ 霊的存在・補助者


風狐ふうこ

透牙に従う霊獣。

風の気配を操り、霊の動向を先読みする。

人の言葉を理解し、短い声で意思を伝える。

無邪気な性格ながら、透牙の危機には誰よりも早く動く。


霊猫れいびょう

晴明と行動を共にする霊獣。

物静かで神秘的な存在。霊界と現世の境を渡ることができる。

封印の地に現れる時、それは「終わりと始まりの兆し」とされる。



■ 背景と対立構造


無縁仏の霊(名なき僧たち)

供養を絶たれ、祈りも名も失った魂。

寺を覆う霧となり、「名を呼んでほしい」という願いを静音に託した。

消えることを恐れず、ただ“記憶されること”を求める

『物の怪編 ― 霧に溶ける名の影 ―』


あらすじ


霧に包まれた山道に、地図にない寺が現れた。寺は確かに存在するのに、誰もその名を言えない。


晴明、透牙、結、斎、透哉の五人は、寺の謎を解くため、再び結界の地へ。寺の門前には、名も形もない白い影が立っている。声をかけると霧に消え、黙っていればそばにいる。


この地に封じられた「名を奪う祈祷」の痕跡が明らかになる。かつて人々が恐れ、言葉にせぬまま隠したもののけの名が、再び現れていた。


結の祈りが霧を揺らし、透哉の共鳴が名を探る。斎は古文書の封印の記録を読み解き、晴明は扇を閉じて呟く。


「名を持たぬものは、形を求める。形を持たぬものは、名を欲する」


人と霊、記憶と祈りの境界が曖昧になる中、透牙は風の声の中に誰かの呼ぶ声を聞く。まだ名を持たぬ存在が、自らを見つけようとする声だ。


霧の向こうで、新たな「祈り」が息づく。


第一章 霧の寺、名なき影


北の山里は朝もやに包まれていた。透牙は馬を止め、霧の向こうの寺の屋根を見る。「地図には載っていない寺ですね」と結が巻物を確認する。


斎は杖を地に突く。「ここは古の修験者たちの祈りの場所。だが、長い歳月に名もなき霊が漂う。注意せよ」


霧の中、寺の門前に白い影が立っている。透牙は息を呑む。影は風もないのに揺れ、見る者の存在を確かめるかのように寄り添ったり消えたりする。


晴明は扇を閉じる。「名を持たぬものには、術も祈りも届かない」


その声が霧に吸い込まれる。遠くの鐘楼から寺の鐘が鳴る。音は反響しすぎて、霧の中に幽かに残像を描く。


影が蠢き、透牙の肩の風狐の毛が逆立つ。「透牙様、気をつけてください……ただの霧ではありません」と風狐が唸る。


透牙は深呼吸して馬を降り、地面に足をつける。「行こう。俺たちの祈りが、ここに届くかどうか確かめる」


結も巻物を抱え直す。

「霊を討つのではなく、調える。名なき影を静めよう」


斎は頷く。「慎重に進むのだ」


霧が揺れ、影が消えたり現れたりしながら彼らを導く。寺の門をくぐると、空気が凍りつき、世界から音が消えた。


透牙は心の中でつぶやく。「名を持たぬ者の声……聞けるのか?」


霧の寺の静寂が、彼らの旅の始まりを告げる。


寺の内陣は、外の霧以上に静まり返っていた。燭台の火は揺れず、空気は息を潜めていた。まるで寺全体が呼吸を止めたかのようだった。


透牙は慎重に足を進める。天井の梁に絡む蜘蛛の巣も静止している。「誰もいない……?」声に返事はなかったが、“誰かの気配”だけはある。


廊下の奥、祠の前で老僧がうずくまっていた。結が駆け寄り、肩を支える。「大丈夫ですか? お名前を……!」


老僧は顔を上げた。焦点の定まらぬ瞳が宙を泳ぐ。「なまえ? ……わしは……誰、じゃ……?」


空気が震え、老僧の口が動いても声は音にならなかった。寺の骨組みを伝って壁の奥で、何万もの声が低く囁くようにも聞こえる。音そのものが霧に呑まれ、残滓となって渦巻いているかのようだ。


結は息を詰める。「声まで……奪われて……」


晴明が近づき、古い護符を取り出した。「“名を呼ぶ”は、存在を繋ぐ行為だ。名を失えば、魂は定めを失う」


寺の鐘が再び鳴る。しかし音は鈍く歪み、壁の奥で誰かが低く囁くようにも聞こえた。


風狐が透牙の肩で身をすくめる。「透牙様、ここは……何かがおかしい。風そのものが、怨嗟の器となっている」


透牙は唇を噛み、扇を閉じる晴明を見た。「名を奪う風……そういうことか」


廊下の窓が割れ、外の霧が流れ込む。紙灯籠の火が一斉に消え、闇の中にいくつもの“声”が響く。


『わたしの名を……呼んで……』

『誰か……私を……』


透牙が印を結び、幻影烏を放つ。黒い烏が音もなく宙を翔け、霊の残滓を探る。淡い光の筋が現れ、白い影――第一章で見た“静音”――の姿を結ぶ。


今はただの影ではない。人の形を取りながらも顔はなく、首元から霧とともにかすかな霊の風が流れ出していた。


結が祈りを唱える。「名を思い出し、還りなさい……」しかし、霧が逆流し、祈りは歪む。空間がきしむ。


晴明が呟く。「この霊は名を求めていない。奪っている。呼ばれることで形を保つ」


透牙は拳を握る。「奪わせない」


幻影烏が鳴く。「名を呼ばれたかった……」哀しみと願いが混ざった声。


風が止み、霧が静まる。透牙たちは声の残響を聞く。


“名を呼ばれたい”という祈りが夜の寺に響く。


寺の内陣、書庫の奥。斎が巻物を広げる。透牙、結、透哉も囲む。


結が息を呑む。墨のにじんだ文字。


斎が指先で文字をなぞる。「この寺はかつて無縁仏を供養していた。供養が絶え、名も形も失われた者たちが残った」


透哉が幻影烏を見る。「霊の残滓はここから。消えた祈り、忘れられた名。それが静音の正体か」


透牙が頷く。「風も声も名も消えた。霊たちは霧の中で彷徨う」


結が震える。「行き場を失った魂……」


斎が経文を唱える。「無名の僧、無縁の仏。祈りが届かず、名を求めさまよう者たちよ――その思いを封じ、還さねば」


晴明が重ねる。「名は形ではない。祈りが名の代わり。誰かに呼ばれ、想われることこそが名の本質」


透哉の指先が光る。共鳴式が震え、文字が光る。「過去の祈りを追体験させ、霊に“呼ばれる経験”を与えられる」


透牙が風狐に手を置く。「奴らが求めるものを届けよう。名を取り戻すために――」


霧が寺を包む。無名の僧たちの魂が浮かび、低い声で囁く。

『わたしの名を……覚えて……』

『誰か……私を……呼んで……』


結が祈りを唱える。

霧の奥に声が届き、白い影――静音――が形を変える。霊たちの輪郭が浮かび上がる。


晴明が巻物を閉じ、透牙たちに告げる。

「霧の霊は怨霊ではない。過去の祈りの残滓、忘れ去られた魂だ。討つではなく、名を還す」


透牙が拳を握る。

「わかった……静音、霊たち。俺たちが呼ぶ」


霧の中で光が揺れる。祈りの声が寺の奥へ広がる。無縁仏供養の真相が明かされようとしていた。


第五章 風と祈りの調律


霧が薄れ、寺の堂内に光が増す。残る霊の核――“静音”――が揺れる。


透牙は風狐の背に立ち、掌を突き出す。

「風、祈り、透哉の共鳴……斎、晴明、合わせろ!」


結が手を胸に重ね、祈りの旋律を紡ぐ。堂内を満たし、霊の揺らぎを落ち着かせる。

「名を持たぬ者たちよ、ここに還れ……祈りの名として!」


透哉の共鳴式が空間に広がり、結の祈りと同期する。

「旋律、安定……!霊も受け入れる」

幻影烏が霊の流れを誘導し、風狐が空気を静める。


斎が中央で経文を唱える。

「大地よ、霊の渦を鎮めよ。行き場なき魂に帰る場所を示せ」

石畳が振動し、光が霊の核に触れると、白い影は光の粒子となって霧へ昇華する。


晴明が十二天将陣を調整し、天と地、風と祈りの五重の調律を完成させる。

「残滓は安定した。名は戻った」


霊たちの声が響く。

「名を呼んでくれて、ありがとう……」


結が手を下ろし、笑む。

「届いた……皆の名が霧に刻まれた」


斎が祠の前で頭を下げる。

「救われたのは彼らだけではない。私たちも、名を思い出した」


堂内に新たな護符が貼られる。

無名供養むみょうくよう」――無名の魂を祀る祈りの証。


透牙が風狐の肩で尾を揺らし、山並みを見渡す。

「風はまた、名を探す旅に出る――」


光に包まれた寺は平穏を取り戻し、霧の向こうに新たな朝が訪れる。霊たちは安らかに還り、祈りの名は風に刻まれたまま、北の山里に静かに残る。


第六章 静寂の祠、風の名


朝の霧が消え、夜明けの光が山の稜線を越え、寺の屋根瓦を黄金色に染める。騒乱から一夜明け、村の人々は次々と自分の名前を思い出し始めた。


「藤原久道だ」

「私は“あや”!」


泣き笑いの声が村に満ちる。祈りが現実に戻る音だ。


寺の裏手、小さな祠の前で、斎は静かに膝をついていた。風が経文を揺らす。


「名とは、呼ばれることの喜びかもしれない」

彼の声は朝靄に溶けていく。

「誰かに思い出してもらうだけで、魂は迷わずにいられる」


透牙と結が彼の背を見つめる。結は巻物を抱え、呟く。


「この巻物に、“祈りの名”を記そうと思う」


透牙は頷く。


「名を呼ぶことは、存在を受け入れること。それを残すのは、祈りそのものだ」


風が尾を揺らし、祠を回る。鈴が鳴る。


「風が名前を運んでいる」

結が微笑む。


透牙は空を見上げる。


「風が吹く限り、名は消えない」


彼らの足元で、朝露が光る。かつて霊の渦があった場所に、今は穏やかな風が流れる。


斎は祠に札を貼り、頭を下げる。札にはこう記されている。


「静音之霊 安寂」


かつて名を奪い、名を求めた者の魂は――今、「名を得て」眠りについた。


透牙と結は歩き出す。巻物の中で、新しい祈りの名が静かに増えていく。


霧が晴れた山々の向こう、風の道が伸びていく。次の名を探す旅は終わらない。


新たな風が、東の山々を渡っていた。霧に包まれた古寺――「蓮照寺」。境内では、鐘の音すら響かぬ“沈黙”が支配していた。


「また、名が消えたのか」

透牙がつぶやく。空気が震える。僧たちの唇が動いても、声が出ない。音は寺の外へ逃げ出したかのようだった。


結は祈りの鈴を握りしめ、沈黙に耳を澄ませる。


「聞こえる……声じゃなくて、“響きの名”が、泣いている」


斎が古びた石塔を調べると、「供養」と刻まれていた。


霧の中から、白布の袈裟をまとった青年僧、連理が現れた。彼は寺の守護で、封印の残滓が解けかけていることを告げた。透哉が幻影を放ち、黒羽が霧の奥を探ると、二つの核、祈りと怨嗟が同じ「名」を奪い合っていることがわかった。


晴明は十二天将の陣を描き、五重調律を指示した。結の祈り、透哉の烏、斎の経、透牙の風、連理の輪が一つになり、風が鳴り、光が爆ぜた。


優しい声が「ありがとう」と漏れた。霧が晴れ、寺の鈴が初めて鳴った。透牙は「また、“名”が還った」と言った。連理は「祈りが途切れなければ、声は届く」と微笑んだ。結は「風の道、続いていく」と言った。晴明は「名を奪う祈りは、名を与える祈りに還る」と言った。


薄い空に白い雲が流れ、音を取り戻した世界の中で、彼らの影は新しい旅路へと伸びていった。


霧の奥から、かすかな声が零れた。蓮照寺の境内には、まだ淡い光が漂っている。結は「みんなの声が戻ってきている」と言った。風鈴が微かに鳴り、「名を呼ぶ気配」だった。斎は祠の前に座り、筆をとった。「名を書き記そう。祈りが記録の代わりになるように」


透哉は幻影烏を呼び戻し、黒羽に宿った光を見つめる。

「霊の名が、戻り始めている。

 記憶も、声も、すべて祈りに共鳴しているんだ。」


その時、霧の中から白い影が現れた。

あの“静音”――しかし、今は恐ろしさではなく、穏やかな気配を纏っている。

影はゆっくりと透牙の前に立ち、微笑むように言った。


「声は、儚い。

 けれど……祈りがあれば、もう一度、響ける。」


その声は風に溶け、結の祈りの旋律と重なっていった。


晴明は扇を閉じ、静かに頷いた。

「名を返す祈り――それが“風”の本懐だ。

 忘れられた名を呼び戻す風。それが、そなたらの道である。」


風狐が尻尾を振り、寺の屋根を駆け上がる。

その動きに呼応するように、霊たちの姿が次々と淡い光に変わっていった。


『ありがとう……呼んでくれて……』

『私たちは、もう消えてもいい。名が残るから――』


霧が晴れ、空が白み始めた。

蓮照寺の屋根に、朝日が差し込む。

僧たちの影は静かに祈りの光へと還っていく。


結は涙を拭い、透牙の袖を掴んだ。

「ねえ……私たちの旅って、結局“名を探す旅”なんだね。」


透牙は微笑み、頷いた。

「そうだ。名は人を繋ぐ。声は、その証だ。

 だから俺たちは――“呼び続ける”んだ。」


晴明が杖を軽く地に打つ。

「行くがよい。

 風の道は、まだ続いておる。

 その先にも、呼ばれぬ名、響かぬ声が待っている。」


風が吹き抜ける。

連理が祠に護符を貼り終え、結界の光が穏やかに収束していく。

その護符には、新しい文字が刻まれていた。


――「風祈ふうき


それは、名を返す祈りの印。


透牙たちは振り返らずに峠道を進む。

風狐が一度だけ立ち止まり、朝の光の中で囁いた。


「風はまた、名を探す旅に出る。」


霧の彼方、遠くに揺れるのは――地図にも記されぬ、次なる寺の影。

風の音が静かに重なり、祈りの調べを残して消えていった。


第九章 過去の罪、霊の還る道


霧の消えた山に、柔らかな風が吹いていた。

夜明けの光が寺の瓦を撫で、祠の前の護符がかすかに揺れる。


斎が古文書を開いた。墨が褪せ、筆跡はかろうじて残っている。

それは、かつてこの寺で命を落とした僧たちの記録――

だが、その末尾に、一つの名があった。


静音しずね


結が息を呑む。

「……この名前、もう誰も読めないと思っていたのに」


晴明は扇を閉じ、静かに頷いた。

「静音は、この寺で“声の祈り”を司っていた僧だ。

 戦乱と疫で多くを失い、己の名を封じ、他者の声を守ろうとした。

 だが、祈りを続けるうちに――己の声すら、風に溶かしてしまったのだ。」


透牙はそっと祠の扉を開いた。

中には、連理が祈りの姿勢で座していた。

その足元に、淡い光の糸が幾重にも絡まり、まるで風を織るように震えている。


静音の声が、遠くで囁いた。

『……連理、あなたがいたから、私は名を思い出せた。

 祈りの声を、もう一度、風に乗せて。』


連理は目を開き、涙をこぼす。

「あなたの祈りは、今も生きている。

 誰かを呼ぶ声として、誰かを守る風として――。」


霊の光が静かに流れ出す。

それは過去の僧たち、無名仏たちの魂の形となり、

一筋の風となって山の彼方へ昇っていく。


晴明がその光を見上げながら、低く呟いた。

「名と声は、祈りを通して初めて生きる。

 誰かが呼び、誰かが応える――それが命の循環であり、赦しの形だ。」


風狐が小さく鳴き、透哉の肩にとまる。

幻影烏がそれに応えるように羽ばたいた。


透牙は空を見上げ、静かに言う。

「風は、忘れた名を運ぶ。

 そして、祈りがある限り――名は、消えない。」


結が微笑み、祈り歌を口ずさむ。

その旋律は霧のない空を渡り、遠い山々に反響した。


やがて、静音と連理の影が光に溶ける。

風の中で、確かに声が残った。


『ありがとう。もう、怖くない。

 名を呼ぶ風がある限り、私はここにいる。』


霧のない山里。

寺の鐘が一度だけ鳴り、遠くの村へと風が走る。


斎は古記録を閉じ、そっと呟いた。

「名も声も、すべて祈りの残滓。

 だが、それは消えるためではなく――受け継がれるためのものだ。」


透牙、結、斎、透哉、晴明、連理、風狐。

誰もが静かに祠へ一礼し、山道へと足を向ける。


空は澄み渡り、遠くで風の音が笑うように響いた。

まるで旅立ちを祝福するかのように。


第十章 五重の調律、最終封印


山を覆う霧が、深く、静かに息づいていた。

それは泣き声にも似た風のうねり。

夜と朝の境で、寺は光の薄衣に包まれている。


透牙が一歩、祠の前に進み出る。

足元には、無数の白い燐光――かつて“名を奪われた者たち”の残滓が漂っていた。


結が両手を合わせ、祈りの旋律を紡ぎ始める。

その声は、かすれながらも、確かな光を帯びて広がる。

透哉の幻影烏が輪を描き、音の調律でその祈りを支える。


斎は修験道の経文を唱え、足元の印を固める。

「大地の祈り、天と結べ。迷える魂を、風の道へ導かん――」


その隣で、晴明が扇を静かに掲げた。

彼の周囲に十二天将陣が浮かび上がる。

淡い金光が輪となり、五人の術と祈りをひとつに繋げていく。


透牙が風狐を呼び、霊風の流れを掌に収める。

「……もう迷わなくていい。名も声も、ここに還れ――」


風が鳴いた。

それは、まるで千の魂が同時に息をする音だった。


光が爆ぜる。

祈り、風、音、術、経、全てがひとつの律動に融け合う。

それは、名を返すための“五重の調律”。


天から降る光が寺を包み、霧の中に無数の影が立ち上る。

僧、村人、無縁の霊――皆が微笑み、手を合わせた。

そして、静音の声が風に乗って響く。


『……ありがとう。名を呼ぶ声が、私を還してくれた。

 祈りは風に乗り、風はまた、名を探す旅に出る。』


その瞬間、祠の護符が眩い光を放つ。

そこに刻まれた文字――「無名供養」。


斎が膝をつき、深く頭を下げる。

「これで……皆、帰れたのですね。」


晴明は扇を閉じ、静かに答えた。

「名も声も、祈りの中に還った。

 ――そして、呼ぶ者がいる限り、消えることはない。」


透哉が幻影烏を見上げる。

その翼はもう、霧の影を映していない。


結が小さく歌い出す。

それは、霊たちを送るための最後の旋律。

優しく、穏やかに――風に溶けていく。


透牙は風狐の頭を撫で、目を閉じた。

「風よ……次の道を、示してくれ。」


光が収まり、寺の中に静寂が戻る。

霧は完全に晴れ、ただ一枚の護符だけが祠に残った。


その護符は、朝の風に揺れながら、柔らかな音を立てた。

――まるで“名を呼ぶ声”の残響のように。


やがて晴明が歩き出す。

「行こう。風は、まだ止まってはいない。」


透牙、結、斎、透哉、風狐が頷き、山道を下り始めた。

背後で寺の鐘が静かに鳴る。

その音は、もう恐ろしい響きではなく――祈りの合図だった。


風が吹く。

霧のない空の下、光の道が彼らの前へと続いている。


「風の道、再び。」


第十一章 旅立ちの朝 ―風の灯、祈りの継承―


夜明け。

霧はすでに消え、峠の向こうから黄金の陽光が差し始めていた。

昨日まで白い霞に覆われていた山々が、ようやくその輪郭を取り戻す。


透牙は石段の上に立ち、静かに振り返った。

かつて霧に閉ざされていた寺――いまは、穏やかな風の中に佇んでいる。

祠の前には「無名供養」と記された護符が貼られ、

その紙が朝風にそよぎ、かすかに音を立てていた。


結がその音に耳を傾けながら、掌を合わせる。

「……まだ、祈ってるのね。名を返してもらえたみんなが」


透哉が柔らかく微笑み、風に髪を揺らす。

「声は消えない。共鳴は残る。音が空気に溶けても、祈りは響くんだ」


斎は手にした数珠を握り、祠へと一礼した。

「名とは、ただ呼ばれることの喜び――」

そう呟いた声には、深い慈しみと静かな覚悟が滲んでいた。


その横で、晴明が霊猫を撫でながら、穏やかな眼差しで仲間たちを見つめる。

「祈りを結ぶ者たちよ。風は、次の地を示している。

 ――まだ、終わりではない。」


ふと、石畳の上を白い光が走った。

風狐だ。

透牙の足元にまとわりつくように尾を揺らし、透き通るような声を放つ。


「風はまた、名を探す旅に出る――」


その言葉に、結が顔を上げる。

「ねぇ、透牙。次はどこへ行くの?」


「……北の谷に、小さな村があるらしい。」

透牙は風狐の方を見やり、風の流れを読むように目を細めた。

「古い祠があるって聞いた。そこにも、祈りを忘れた影が残ってるかもしれない。」


斎が頷く。

「ならば行こう。修験の道も、祈りの道も、風と共にある。」


そこへ、連理と葉羽が寺の境内から姿を現した。

二人の背には、封印具と祈祷札が揺れている。


連理:「私も行きます。封印を補う者として。……もう、同じ悲しみを繰り返さないために。」

葉羽:「道の先に何が待っていようと、風があるなら迷わない。」


晴明は彼らを見渡し、ゆるやかに扇を開いた。

その扇面には、金糸で描かれた円――“風輪印”が浮かび上がる。


「ならば行こう。

 風の道が途切れぬ限り――祈りは続く。」


光が山の稜線を越え、彼らの背を照らす。

鳥が鳴き、遠くの谷間に新しい風が生まれた。


透牙たちは峠道を歩き出す。

霊猫は晴明の足元に寄り添い、風狐は先頭を走る。

結がそっと口ずさむ旋律が、やわらかな風に乗って流れた。


「名を呼び、祈りを紡ぐ。

風よ――どうか、道を照らして。」


朝の光は彼らの旅路を包み込み、

その先には、まだ地図に記されぬ新たな村の影が見えていた。


風が、再び道を描いていく。


――風の灯、祈りの継承。


第十二章 風の道、再び


山を下る道には、春の風が吹いていた。

白い霧がすべてを覆っていたあの夜が、まるで遠い夢のように思える。


透牙は足を止め、振り返った。

峠の向こうに、あの寺の屋根が小さく見えた。

「無名供養」の護符が、陽光を受けて金色に光っている。


彼はそっと目を閉じ、手のひらを風へ差し出した。

「……風はまた、名と声を探す旅に出る。」


その声に、結が静かに微笑んだ。

「ねぇ透牙。風が、泣いているように聞こえるの。」


「泣いてるんじゃない。」透牙は小さく首を振る。

「呼んでるんだ。まだ見ぬ“名”と“声”を。」


風がふっと強く吹いた。

結の髪が舞い、風狐がその間を駆け抜ける。

霊猫は斎の肩に飛び乗り、陽の当たる方向をじっと見つめていた。


斎が微笑し、杖を地に突く。

「風は道を示す。祈りは、その道に光を灯す。」


晴明は扇を閉じ、軽やかに言葉を継いだ。

「ゆえに、名も祈りも絶えることはない。

 風が巡る限り――それは、永遠の循環となる。」


その隣で、連理が小さく頷く。

「私は、封印を“終わらせるため”じゃなく、“見届けるため”に歩きたい。」


葉羽は微笑んで言った。

「私も行きます。……風の音が、“まだ続きがある”って言ってる。」


透哉が空を見上げ、風の流れを読むように目を細める。

「北の谷――風が、そこへ向かっている。」


結は両手を胸の前で重ね、そっと祈りの言葉を紡いだ。


「名も、声も、祈りも。

風に乗りて、また誰かの心に届きますように――」


透牙はその声を受け止めるように深く頷く。

風が全員の間を巡り、彼らの衣を揺らした。


晴明:「行こう。風の道がある限り、我らの旅は終わらぬ。」

斎:「祈りの調べは途切れぬ。風が、それを覚えている。」

結:「うん……次の祈りを、届けに行こう。」


風狐が先導するように跳ね、霊猫がその後を追う。

透牙たちは再び歩き出す。

足元の石畳に陽が差し、道の先に霞む村影が、静かに姿を現した。


――そこは、「風の村」と呼ばれる場所。


そこには、祈りを忘れた人々と、

名を呼ばれることを望む“新たな影”が待っているという。


透牙は、遠くの風を見据えて呟いた。

「風はまだ、語り終えていない。……行こう、皆。」


朝の光が彼らの背を照らし、風がまた一筋、

彼らの旅路を描いていった。


――風の道、再び。

あとがき


この物語『物の怪編 ― 霧に溶ける名の影 ―』をお読みいただき、ありがとうございました。


霧深い山里に立つ名も形も定まらぬ霊たち、そしてその霊と向き合う透牙たちの旅を描く中で、私自身も「名とは何か」「祈りとは何か」を深く考える時間を得ました。名はただ呼ばれるためのもの。祈りは、その名を支える力――。霊たちの切なる願いは、人の心と重なり、読者の皆さまにとっても、静かに胸に響くものであれば幸いです。


透牙、結、晴明、斎、透哉、そして新たに加わった葉羽や連理といった仲間たち。彼らは、それぞれの力と意志を結集し、祈りと術、風と声を調律しました。その経験を経て、彼らは単なる旅の仲間ではなく、「祈りを見届ける者」として成長していきます。霊の名と声を呼び戻すことは、同時に生者の心を照らすことでもありました。


物語を通して描かれた「風の道」は、決して一度きりのものではありません。透牙たちの旅は、この先も続きます。名も声も、祈りも、風に乗せて――。


最後に、読者の皆さまがこの物語の霧の中で、ふと「祈りの声」を耳にすることがあれば、それは私たちの小さな願いが届いた証です。静かに、けれど確かに、祈りは次の世代へと繋がっていきます。


――読んでくださり、ありがとうございました。

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