がごぜ編 〜風祈録・無名供養〜
登場人物紹介
【主要登場人物】
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◆ 安倍晴明
陰陽師。十二天将を統べる理の術師。
穏やかな微笑みの裏に、深淵を見通す静謐な眼を持つ。
霊の理を「討つ」のではなく「調える」ことを旨とし、
名なき霊に“名を与える祈り”を見出す。
本章では、十二天将陣の「言霊封陣」を展開し、怨念の声を祈りに還した。
象徴:理と均衡
式神:霊猫
主な術:言霊封陣・十二天将陣・理律結界
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◆ 透牙
風を操る若き陰陽師。晴明の弟子の一人。
感情よりも直感を信じ、行動で示すタイプ。
式神・風狐と心を通わせ、風の流れから霊の「声」を読み取る。
“名を呼ぶ者”として、もののけの魂に語りかけ、
最終的に鎮魂を導く言葉を放つ。
象徴:風と意思
式神:風狐
主な術:風脈探査・鎮風陣・魂呼びの息
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◆ 結
祈り歌を紡ぐ巫女。穏やかで芯の強い女性。
祈りによって霊と人の心をつなぐ「声の巫女」として活動しており、
歌声は「祈りの名」として霊の形を鎮める力を持つ。
“名を祈る者”として、透牙の風と共鳴し、
悲しみの霊たちを安らぎへ導いた。
象徴:祈りと共感
得意技:祈唱・旋律封印・名綴りの歌
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◆ 透哉
透牙の弟。音と波動を操る陰陽師。
冷静で分析的な性格だが、兄想い。
共鳴式を通じて術と祈りを同調させ、
「祈りの旋律」と「風の共鳴」を結び、鎮魂儀を完成させる。
象徴:音と調律
式神:幻影烏
主な術:共鳴陣・音紋調律・感応探査
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◆ 斎
修験者。山の霊力と経文を操る古の修験道士。
穏やかだが内に強い信仰と責任を秘める。
寺の記録を調べ、名を失った僧たちの真実に気づく。
祈りと経文を用いて結界を安定させ、
最終儀では“地と祈りの柱”として鎮魂を支えた。
象徴:大地と信仰
得意技:修験結界・供養経文・封土陣
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◆ 風狐
透牙の式神。白銀の毛並みを持つ風の妖狐。
人の心の波動を風で感じ取り、主の感情と共鳴する。
時に守護者、時に導き手。
本章では風の乱流を抑え、透牙の呼び声を霊たちへ届ける架け橋となる。
象徴:風と記憶
役割:守護・伝達・霊の導き
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◆ “名なきもの”
地図にない寺に現れた白い影。
その正体は、名も記録も残されずに亡くなった僧たちの霊。
呼ばれることを願い、呼ばれぬまま忘れられた存在。
彼らの怨念は“がごぜ”の核と共鳴し、「名を奪う霧」となって漂っていた。
最後は透牙の呼びかけに応え、「名を呼んでくれて、ありがとう」という声を残して還る。
象徴:忘却と祈り
あらすじ
『もののけ編 ― 名を持たぬ祈り』
霧の夜、透牙たちは再び北へと向かう。
地図にも記されぬはずの寺院――その門前に、白い影が立っていた。
「名を問えば消え、問わねば寄る」
その存在を“もののけ”と呼ぶ者もいれば、
“人の心の残滓”と語る者もいた。
風は音を失い、鐘の音だけが山に響く。
そこに宿るのは、忘れられた祈り、名を持たぬ魂の群れ。
晴明は扇を閉じ、霧の向こうを見据える。
「名なきものを鎮める術はない。だが――名を与える祈りならば、届くかもしれぬ」
透牙は風狐と共に霧を裂き、
透哉と結は祈りの旋律を紡ぐ。
そして斎は修験の印を結び、霧の底にある“人の記憶”を探る。
再び鳴る鐘の音が、彼らを導く。
それは、終わりではなく――新たな“風の道”の始まりだった。
第一章 霧の寺、名なき影
夜霧は重く、山道を這うように広がっていた。
風が止み、虫の声さえも遠ざかる。まるで、世界が息を潜めているようだった。
透牙は足を止め、前を歩く斎の背を見た。
修験装束の裾が湿り、杖の先が地面に淡い光を灯している。
その光がなければ、どこまでが道でどこからが闇なのかさえ分からなかった。
「……この先だ」
斎の声は、霧を切るように低く響く。
「地図にはないが、確かに寺はある。かつて、名もない僧たちが眠る場所だった」
その言葉に、結が小さく息を呑んだ。
「名もない……? どうして、そんな……」
「戦で焼かれ、供養もされずに消えた。
名を呼ぶ者がいなくなれば、人も魂も、やがて形を失う」
晴明の声が、霧の奥から静かに重なる。
その扇の先、朧げに門の影が浮かんでいた。
山門は崩れかけ、苔むした石段の上に白いものが立っていた。
人影――だが、輪郭が定まらない。
霧と同じ白さの中に、ただ“在る”という存在感だけがある。
「……人?」
結が一歩踏み出しかけた瞬間、晴明が手を上げた。
「問うな」
「え……?」
晴明は目を細め、白い影から目を逸らさずに言った。
「名を問えば、消える。問わねば、寄る。これは“名なきもの”の定めだ」
透牙が小さく息を吐いた。
「名を持たぬ……まさか、もののけか?」
「いや、まだ形になりきっていない。
だが――」
晴明は扇を閉じ、静かに告げた。
「名を持たぬものには、術も祈りも届かない」
霧の中、白い影がわずかに揺れた。
その瞬間、風狐が透牙の肩から飛び降り、低く唸る。
狐火がぱっと灯り、白い霧の内側を照らすと、影は音もなく消えた。
「……今のは、何を……?」
透哉が息を潜めて尋ねる。
斎は小さく首を振り、険しい顔のまま答えた。
「“呼ばれたくて”現れたのだ。けれど、呼ばれてはいけない。矛盾した魂だ」
その夜、寺に辿り着いた一行は、荒れた堂の中で火を灯した。
壁には焦げた跡が残り、破れた経典が散らばっている。
そして、誰も触れていないのに――
――ごぉん。
鐘が、鳴った。
湿った空気を震わせるように、低く、重く。
「誰が……?」
結が振り返る。
堂の外、霧の中に、無数の影が揺れていた。
人のようで、人ではない。
風が止まり、祈りの声のようなものが、どこからともなく聞こえてくる。
“名を……返せ……”
透牙の胸がざわつく。
「聞こえたか、今の……?」
晴明は扇を掲げ、静かに目を閉じた。
「“がごぜ”を鎮めた地に、まだ眠りきれぬ怨がある。
名を持たぬ祈り――それが、新たなもののけを生んでいるのだ」
霧が、わずかに動いた。
それは風ではない。
人の嘆きが、形を求めて揺れたのだ。
鐘が二度、三度と鳴る。
――新たな異変の幕が、静かに上がった。
第二章 消える名、残る声
夜が明けても、霧は晴れなかった。
陽が昇ったはずなのに、寺の境内は薄明のまま。
鐘楼の上には、風もないのに黒い布の影がかすかに揺れていた。
まるで、そこに立つ者の存在が空気そのものを乱しているかのように。
「……おかしい」
透哉が眉を寄せた。
「この辺りの気配、まるで“時間”が動いていないみたいだ」
透牙は黙って頷き、周囲を見渡す。
朝を告げる鳥の声はおろか、山のざわめきもない。
すべての“音”が、寺に届く前に凍りついたかのようだ。
ただ、ひたすらに――静寂。
やがて、寺に避難してきた村人の一人が口を開いた。
「なぁ……お前、俺の……あれ……なんだったっけ……」
隣の男が焦ったように肩を掴む。
「何を言っている、俺は……俺は……」
その声が途切れた。
言葉が、霧に吸い込まれたように消えた。
「名前を、忘れている?」
結の声が震えた。
村人たちは互いの名を呼ぼうとしても、口が動かない。
呼びかけようとするたび、舌の上で何かが溶けるように消えていく。
「これは……“名を奪う”現象です」
晴明が扇を開き、周囲の気配を探る。
「もののけの影が、名を“食”っている。
魂と名は繋がっている――名を失えば、存在の輪郭が曖昧になる」
結が急いで祈りの旋律を紡ぎ始めた。
彼女の声は、まるで透哉の共鳴術を先取りするかのように、柔らかく空気を震わせる。
「呼び合う声は 祈りのかけら
名を結ぶ糸 ほどけぬように」
その旋律が村人たちを包むと、一瞬だけ彼らの顔に光が宿る。
「……あ、俺……庄蔵だ……!」
喜びの声が上がったが、それも束の間。
霊的な風が吹き抜け、光は再び霧に溶けた。
「くっ……祈りがもたない」
結が膝をつく。
晴明が扇で印を切り、結界を張り直した。
「無理に抗うな。これは祈りと術が交差する領域……名という“存在の芯”を食らうもののけだ」
透哉は掌を翳し、幻影烏を呼び出す。
漆黒の鳥が、ふっと空へ舞い上がった。
「記憶の残滓を追う……名が奪われる瞬間を見せてくれ」
幻影烏の視界が透哉の脳裏に流れ込む。
霧の中――誰かが村人の名を囁き、そしてその名が風にさらわれる。
声の主は見えない。だが確かに、風がそこに意志を持っていた。
「名を奪う風……風そのものが、“食”うのか」
透哉が息を呑む。
そのとき、晴明が扇を高く掲げた。
「――十二天将陣、青龍・白虎、起動」
空気が揺れ、二つの霊光が境内を包み込む。
結界が広がり、霧の侵入を一時的に防いだ。
「透牙、外を見張れ。何かがこの寺の中心を狙っている」
「了解」
透牙は風狐を連れ、堂の外に出た。
霧はさらに濃くなり、視界は五歩先も見えない。
風狐が耳を立て、低く唸る。
そして、誰かの“声”が霧の中から響いた。
「名を呼ばれたかった……」
透牙は振り返った。
しかし、誰もいない。
「それだけで、よかったのに……」
風が冷たい。
けれどその声には、怒りではなく――悲しみがあった。
透牙は拳を握りしめた。
「……名を、返してほしいのか」
その瞬間、霧の奥で鐘が鳴った。
低く、重く、まるで誰かの嘆きを響かせるように――。
第三章 霧の名、祈りの記録
霧はまだ晴れぬ。
山の寺に宿った白い霞は、まるで幾百の声を封じ込めたかのように重く、息づいていた。
灯明の揺らめく本堂。
修験者・斎が古びた巻物を広げる。墨は滲み、紙はすでに脆い。
晴明が静かにその肩越しに目を落とした。
「……この寺、かつて“名知らぬ者”を弔っていたようだ。」
斎は小さく頷く。
「戦でも、飢えでも、名を持たぬ者は多かった。誰も呼んでくれぬまま、土に還った者たちを――」
彼の指が震える。巻物の末尾にはこう記されていた。
名知らぬ者、幾人。
ただ祈りを以て弔う。
その言葉を読み上げた瞬間、灯がふっと揺れた。
結の頬を掠める風が、どこか哀しげに鳴る。
「……呼ばれたいのだな。」
透牙の声は微かに震えていた。
その掌の中で、彼の指がかすかに脈打つ。
結は膝を正し、祈りの旋律を紡ぎ始める。
その声は、まるで透哉の共鳴術を先取りするかのように、柔らかく空気を震わせた。
透哉が幻影烏を呼び出し、その羽に霊の記憶が映る。
幻の光景――焼け落ちる伽藍、焦げた袈裟、祈りを叫ぶ僧の姿。
その僧の唇が動く。
「……せめて、名を……呼んでほしかった。」
霧の奥で、幾つもの声が重なる。
名を求め、名を失い、名のないまま祈った声が。
結は涙を滲ませながら祈りを続けた。
晴明はゆっくりと立ち上がる。
掌に式符を展開し、十二天将陣の一部を起動させる。
淡い光が床を走り、霊たちを包む。
「名とは肉体の形ではなく、思いの継承だ。
名が滅びるのは、誰もその者を思わなくなった時のみ。
――祈りが絶えぬ限り、その名は生き続ける。」
その言葉と共に、幻の僧が安堵に満ちた微笑みを浮かべ、光の粒子となって霧へと溶けていく。
その瞬間――鐘が長く、清らかな音色を一つ鳴らした。
静寂が戻る。
霧が薄れ、寺の輪郭が再び浮かび上がる。
透牙は空を見上げ、結の方へ顔を向けた。
「……名は、祈りと共に残るんだな。」
結は微笑み、静かに頷く。
「うん。誰かが呼ぶ限り――その人は、ここにいる。」
風がそっと二人の髪を撫でる。
霧の中、遠くで小さな声がした。
それは、確かにこう囁いていた。
「ありがとう。」
第四章 名のない祈り、呼ぶ声
霧が震えていた。
まるで空そのものが悲鳴をあげているようだった。
本堂の灯が吹き消され、闇が寺を呑み込む。
地が鳴り、天井の梁が軋む。
どこからともなく、千の囁きが重なって響いた。
「名を……名を……」
「呼んで……呼んでくれ……」
結の祈り歌が霧の雑音に遮られ途切れた。
透哉が紡いだはずの旋律は霧に飲まれ、音そのものが歪む。
透哉が叫ぶ。
「共鳴式が崩れる――干渉が強すぎる!」
幻影烏が暴走し、影と光の境が溶ける。
寺の廊下は歪み、障子の向こうに別の世界が見えた。
山寺は今や、現と幻が混ざる「幻界」と化していた。
「……来るぞ、押し返せ!」
透牙が風を操り、結界の裂け目を押さえる。
しかし霊の流れは嵐のように逆巻き、風狐がその前に立ちはだかった。
黄金の毛並みが逆立ち、尾が輝く。
風狐は吠えた――それは風の咆哮であり、祈りでもあった。
霊の奔流を押し返すその背に、結の涙が落ちる。
「お願い、もうやめて……! あなたたちは、ただ――呼ばれたかっただけでしょう!」
その声に、霊たちが一瞬だけ動きを止めた。
けれどすぐに、さらに強い波が押し寄せる。
斎が立ち上がり、修験道の経文を唱え始めた。
その声は低く、しかし力強く大地を震わせる。
「南無大悲観世音――、無縁の者、今ここに縁を得ん!」
本堂の中央、晴明が扇を開く。
十二天将陣の印が宙に走り、光の環となって寺を包んだ。
彼の瞳が蒼く光る。
「――“言霊封陣”!」
封陣が発動し、霊の声が言葉に変わる。
「名がほしい」「忘れられたくない」
――無数の声が重なり、涙のように降り注ぐ。
透牙は歯を食いしばり、掌を地に置いた。
風の式を再構築し、己の声をそこへ重ねる。
「ならば俺が呼ぶ!」
その声は風に乗り、寺全体を震わせた。
「ここに還れ――“祈りの名”として!」
瞬間、無数の白い光が霧を突き破り、涙の雨が大地を洗うように崩れていく。
霧は急速に晴れ、鐘が長く、慰めのような音色を再び鳴らした。
晴明は静かに扇を閉じた。
「名とは、誰かが呼ぶためにある。――そして、呼び続ける者がいる限り、消えることはない。」
風狐は透牙の足元に戻り、霧の中でその尾を揺らした。
その白銀の毛並みは、安らかな光に包まれていく。
結は胸の前で手を合わせ、目を閉じた。
透牙はただ、その光を見つめていた。
声にならない祈りが、胸の奥に残る。
――名を継ぐ祈り。
それは、風と共に息づいていた。
第五章 風と祈りの調律
寺の霧は深く、夜の静寂を吸い込んでいた。透牙は風狐と共に地面に掌を置き、術を再構成する。結は祈りの旋律を紡ぎ、透牙は共鳴式を慎重に強化する。斎は修験の経文を唱え、地脈の力で結界の中心を支える。晴明は十二天将陣を半開放し、言霊封陣で幽霊の核を誘導した。
五つの力が一つに調律される。風、祈り、共鳴、修験、陰陽――互いが響き合い、寺全体に静謐な旋律が広がった。無数の白い影が光を帯び、ゆっくりと落ち着きを取り戻す。かつて無名で消えた僧たちの霊も、微笑みながら霧へと還っていく。
透牙は低く、しかし力強く声を発した。
「ならば俺が呼ぶ。ここに還れ――“祈りの名”として!」
その一言が霊たちに届き、白い影は涙のように崩れ、光の粒子となって霧に溶けた。鐘の音が長く、清らかに響き渡る。
斎は深く頭を下げる。「救われたのは、あの者たちだけではありません。――名がなければ、何を信じ、何に向かって祈ればいいのか。私たちも、名を思い出したのです。」
寺の門前には、新たな護符が貼られていた。そこには「無名供養」の文字が、祈りの光と共に輝いている。
透牙は静かに呟いた。「名を呼ぶって、こういうことなんだな……」
霧は完全に晴れ、山々の梢を越えて、空には風の道が一本、光のように伸びていた。それは、彼らがこれから進むべき道のようでもあった。風狐が透牙の足元に戻り、白銀の尾を揺らす。その背中に安堵の光が差し込み、寺の夜は、再び静けさを取り戻した。
第六章 静寂の祠、風の名
霧がすべてを覆っていた山は、いまや穏やかな風に包まれていた。
寺の庭には朝の光が差し込み、露に濡れた草木がかすかにきらめいている。
昨日まで名を失っていた村人たちの声が、境内に戻ってきた。
それはどこかぎこちないが、互いの名を呼び合うことの喜びに満ちていた。
斎は祠の前に座り、ゆるやかに掌を合わせる。
その祠の中には、名を持たずに逝った僧たちの魂を祀る新たな札が安置されていた。
そこには墨で「無名供養」と記され、まだ乾ききらぬ筆の跡が祈りのように残っている。
「名とは、ただ呼ばれることの喜びかもしれない……」
斎の声は静かで、どこか安らいでいた。
長く続いた修験の旅の果てに、ようやく掴んだ答えがそこにあった。
縁側に腰かけた晴明は、膝の上の霊猫を撫でながら目を細めた。
「名を呼ぶことは、存在を繋ぐこと。人も、霊も、それを望むのだ。」
その声音は、春先の風のように柔らかく、聞く者の心に染み入る。
透牙は風狐を従え、結と共に祠を見上げた。
結の手には、一冊の薄い巻物――“祈りの名”の記録帳がある。
それは、名を失った魂たちを再び風に刻むための、新たな記録。
「この名を、風に残そう。
忘れられぬように。祈りが絶えぬように。」
結が頷き、巻物をそっと開く。
彼女の指先が紙を撫でるたびに、淡い光が文字の形を取っていった。
それは風に溶けるように淡く、しかし確かに存在していた。
風が吹く。
木々の葉を揺らし、祠の鈴をやさしく鳴らす。
その音はまるで、霊たちの微笑む声のようだった。
晴明は立ち上がり、空を仰ぐ。
澄み切った青空に、一本の風の道が光のように伸びている。
「……名は、祈りの形か」
透牙が小さく呟き、風狐が応えるように尾を揺らした。
その白銀の毛並みが陽光を受け、まるで風そのものが笑っているかのようだった。
霧の寺は再び静寂を取り戻す。
だが、その静けさの奥には、確かに“呼び合う声”が残っていた。
風は祈りを運び、祈りは名を継ぐ。
それが、この地に刻まれた――静寂の祠の、風の名であった。
エピローグ 風の道、再び
霧は完全に晴れ、山々の稜線を越えて朝日が差していた。
濡れた峠道に光が反射し、細い風が新しい一日を告げるように吹き抜ける。
透牙たちは静かに歩き出した。
背後には、名を取り戻した寺と、風に揺れる「無名供養」の札。
その文字は、まるで祈りが形となったように、朝の光を受けて淡く輝いていた。
風狐がふと足を止め、振り返る。
その白銀の尾が光を弾き、透牙の頬をかすめていった。
「……風はまた、名を探す旅に出る」
その声は、まるで風そのものの囁きのようだった。
結が振り向くと、霧の向こうにかすかに影が見える。
――地図にない寺の、ぼんやりとした輪郭。
誰もそれを口にしなかった。
ただ、晴明が微かに笑い、扇を閉じて空を仰ぐ。
「道は続く。名も、祈りも、終わらないのだ。」
霧が流れ、光が満ちる。
風は峠を越え、遠くへと消えていった。
それは、まだ語られぬ“次の名”を探す旅路の始まりでもあった。
――風の道、再び。
あとがき
『がごぜ編 〜風祈録・無名供養〜』
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は“がごぜ”という強烈な妖怪を題材にしながら、
恐怖や怪異そのものよりも、
「名とは何か」「祈るとはどういう行為か」
という、静かで深いテーマへと物語が導かれていきました。
がごぜは一般的には“恐ろしい寺の妖怪”として語られていますが、
本作ではその根底にある
「名を失ったまま忘れられた者の祈り」
に焦点を当てました。
討つのではなく、
祈りによって“存在を輪郭づける”という陰陽師たちの在り方は、
風を読む透牙、声を紡ぐ結、音を整える透哉、
大地を祈る斎、そして理を調える晴明――
それぞれの特性と信念が重なり合うことで形になったものです。
祈りとは、誰かの存在を忘れないということ。
名とは、その存在を確かに呼ぶということ。
その二つが揃って初めて、人も、霊も、安心して還っていける。
そんな静かな真理を、物語という形で描けたことを嬉しく思います。
今回の章は、激しい戦いや大規模な術比べではなく、
ささやかな声に耳を澄ませる物語になりました。
しかし、そんな“静かな戦い”こそ、
陰陽師たちの旅の根幹なのかもしれません。
次の土地でも、どんな祈りが待つのか。
どんな霊が名を求め、どんな人が名を呼ぶのか。
彼らの旅は、まだ続きます。
最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
次回予告
『物の怪編 ― 霧に溶ける名の影 ―』
霧深い山中で、彼らは“地図に載らない寺”を再び目にする。
門前に立つのは、名も形も定められぬ白い影。
――問えば消え、
――問わねば寄り添う。
それは妖か、人か、それとも祈りの残滓か。
晴明が静かに扇を閉じる。
「名を持たぬものは、形を求める。
形を持たぬものは、名を欲する」
風は再び道を示し、
透牙たちの旅路は、霧の彼方へ続いていく。
どうぞ次の章も、よろしくお願いいたします。




