十七陣 構造干渉術篇
登場人物紹介
透牙
かつては“記譜の術者”として討伐を担っていた青年。
異層の景で“構造干渉術”に触れたことをきっかけに、術者としての定義が書き換えられていく。
やがて、術を詠う者ではなく、“構造に聴く者”としての旅路へと踏み出す。
掌に刻まれた痕は、記譜を超えた記憶の印。
晴明
静かに舞う術師。
“輪の構造”を開く鍵を持ち、術ではなく“舞”によって層を解く。
透牙にとっては導き手であり、術者の外にある“在り方”を示した存在。
その舞は記録されず、ただ風のように残響として街に刻まれた。
風狐
透牙の傍らにいる霊獣。
言葉を持たぬが、夜ごと空気の“軋み”を察知する。
異層の揺らぎを最初に感じ取った存在であり、街の変化を誰よりも早く見抜く。
透牙にとっては、記憶と現実を繋ぐ唯一の“感覚の伴侶”。
瞬
風狐と共に行動する小さな護り手。
透牙が干渉術を使うとき、層の安定を保つために光の膜を展開する。
無垢な存在ながら、“記録されない技”を支える重要な存在。
層の守り人
街の“根の層”を護る者。
人の形をしているが、既に術者ではなく“構造の意志”そのもの。
透牙に“記憶の継承”を託し、沈黙の中に消える。
その存在は、街そのものが持つ“記憶の代弁者”でもあった。
生霊
かつて討伐された存在。
記譜にも記録にも残らなかった、“存在の断面”。
構造干渉術の発動によって、再び街に揺らぎをもたらす。
その正体は、記録から漏れ落ちた“街の感情”だった。
あらすじ
風の止んだ街に、再び“記されぬもの”の気配が漂い始めた。
封印鏡も、十五陣も、すでに沈黙した今――
術者たちは「記譜」というわずかな手がかりを携え、
存在の境を越える問いへと再び歩みを進める。
透牙のもとに届いたのは、一行の依頼書。
“生霊討伐依頼:記されぬ者の在り方を問う”
それは単なる討伐ではなかった。
記されぬ者――かつて記録から零れ落ちた“生霊”の残響。
その存在は術式の外側で揺らぎ続け、
記録を歪め、記譜そのものに干渉を始めていた。
透牙と晴明は、再び名も知らぬ街へと降り立つ。
戦いは術の応酬ではなく、記譜と在り方の交錯。
生と記録、問いと応答、そのすべてが曖昧に溶け合う中、
彼らは“記されぬ者”が残した問いの意味に迫っていく。
――記すことは、存在を縫うこと。
――だが、記されぬ者は何を求め、何を遺そうとしたのか。
静寂と戦いが交錯する中、
透牙の手にある記譜は、ひとつの在り方を描き始める。
第一章 依頼の到着と生霊の兆し
夜更けの風が、街の端を抜けた。
石畳の上に降り立つ一羽の式神――白い鴉が、墨の匂いを残して消える。
透牙の手には、一冊の巻が残された。
封を切ると、淡い光とともに文が浮かぶ。
「依頼:生霊の討伐。
発生地点――北端・無名町屋跡。
被害:三名。いずれも夜間、無傷で昏倒。
証言:“憎しみの声”を聞いたと。」
透牙は巻を巻き直し、眉を寄せる。
生霊――肉体を離れ、強い恨みだけで形を保つ者。
自然発生は稀。何かを“強く恨む者”が近くに存在しているはずだ。
「……生者の情念か。面倒な依頼だ」
肩に乗った風狐が耳を伏せ、静かに唸る。
その反応に、透牙は空気の異変を感じ取った。
まるで風が、街の奥で濁っている。
晴明の到着を待たず、透牙は歩き出す。
北端の町屋跡――そこは、焼け落ちたまま再建されていない一角だった。
焦げた木の香りと湿った土の匂いがまだ残っている。
「ここで、誰かが“誰か”を憎んでいる」
透牙が呟いた瞬間、背後から声がした。
「……それを突き止めるのが、お前の役目だろう」
晴明が現れた。
灯りも持たずに闇の中を歩み、瓦礫に指先を滑らせる。
その手元に、淡い光の線が走った。
「これは……結界の痕跡だな。
焼けたのは偶然じゃない。誰かが、ここで“縁”を切ろうとした」
透牙は黙って頷き、辺りを見回す。
そこかしこに、黒い影が染みのように残っている。
“恨み”が空気に沈殿しているのだ。
晴明が、片膝をつき、指先でその影をなぞる。
その瞬間、空気が震え、声が響いた。
「――どうして、生きている……」
影が形を持ち始める。
女の輪郭、焦げた衣の端、焼けた香の匂い。
だが、その瞳には確かな憎悪が宿っていた。
透牙は、即座に結界の符を展開する。
「恨みの主を探せ。誰を憎んでいる?」
晴明は、術式の光を重ねながら呟く。
「生霊は“対象”を失えば消える。
――つまり、この者が恨む“誰か”が、この街にまだ生きている」
風が止まり、影が蠢く。
怨念は、記録ではなく“感情”そのものとして街を蝕み始めた。
「探すぞ、透牙」
「……ああ。恨みの行方」
夜の街に、再び戦の気配が満ちていった。
第二章 恨みの行方、記譜の探査
夜の街は沈黙していた。
だが、沈黙の奥に潜むものがある。
それは風ではなく、声――
“誰かを憎む”声が、空気の底で脈を打っていた。
透牙は、巻の欠片を掌に乗せる。
白紙のようなその面に、淡い墨の揺らぎが浮かぶ。
まるで、記されぬままの怨嗟が、今も息をしているかのようだった。
「……この地に残る“縁の断片”を拾う。
誰かが、誰かとの繋がりを焼き捨てた痕跡だ。」
彼が指先を地にかざすと、巻の欠片が微かに鳴いた。
足元の土が淡く光り、途切れた糸のような線が浮かび上がる。
それは“記譜”による探査――
街に染み付いた記憶と感情を可視化する、透牙の独自術。
一方、晴明はその隣で印を組み、低く呟く。
「……“式神・風聴”――現れよ。」
風の粒が旋回し、街の廃屋をなぞるように走った。
音なき音、声なき声が拾われ、空気に滲み出す。
二人の術が重なり、街全体が一枚の記譜のように震え始めた。
透牙の目に、微かな情景が映る。
炎に包まれた夜。
逃げ惑う影。
そして――瓦礫の下で、誰かを見上げる女の目。
「……この生霊、“見られなかった”ことを恨んでいる。」
晴明が顔を上げた。
「忘れられたのではなく、見ようとされなかった。
この恨みは、否定そのものだ。」
巻の欠片が、淡く共鳴する。
その中心に、一つの家紋のような模様が浮かび上がった。
「……“榊家”。古い家だな。」
晴明の声に、透牙は頷く。
かつてこの街で起きた火災事件――
その家の娘が亡くなり、原因は“放火”とされながらも、
加害者は見つからぬまま、家だけが沈黙した。
透牙は立ち上がり、巻を懐に戻す。
「恨みの対象は、まだ生きている。
生霊は、その者の影を追っている。」
晴明が風の流れを読み取りながら呟く。
「……南の屋敷跡。風が止んでいる。」
二人は、音もなく歩き出した。
瓦礫の上に残る焦げ跡が、まるで導きのように光を放つ。
風狐が小さく鳴き、影の中で目を細めた。
街の奥に、沈黙が満ちていく。
そこに、まだ語られぬ怨嗟が眠っている――
そして、次の夜、透牙たちはその“声”と対峙することになる。
第三章 榊家の跡、語られぬ怨嗟
次の夜、街の奥に沈黙が満ちていた。
風は止み、灯りは揺れず、
ただ“声にならない声”が空気を軋ませていた。
透牙と晴明は、無名町屋跡のさらに奥――
草木に覆われ、崩れかけた石垣を越えた先に、
かつて“榊家”と呼ばれた屋敷跡へと足を踏み入れる。
門は朽ち、瓦礫の下には焦げた畳の残骸が見えた。
その中央、黒い焦げ跡が輪のように広がっている。
透牙が膝をつき、掌に巻の欠片を乗せる。
淡い光が揺れ、空間に薄い記譜が展開される。
墨の線が輪を描き、焦げ跡の中心に吸い込まれていった。
「……この地、まだ“名を呼ばれていない”。」
晴明は静かに頷き、指先で印を結ぶ。
「“風聴の式”――ここに残る息を拾え。」
風が、ほとんど聴こえぬほどの音を立てて流れた。
その流れに乗って、かすれた声が響く。
――どうして、見なかったの。
――どうして、呼んでくれなかったの。
透牙の目が細められる。
「……生霊じゃない。“憎しみ”だけが先に動いている。」
その瞬間、焦げ跡の中に立つ影が見えた。
痩せた男。
沈んだ眼差しの奥に、かつての罪を閉じ込めているようだった。
「……あなたが、“恨みの主”ですね。」
男は透牙たちを見ず、焦げ跡を見つめたまま口を開く。
「見てしまったんだ……燃えていく姿を。
けれど、何もできなかった。」
晴明が静かに問う。
「助けなかったのか?」
男は首を振る。
「違う。――助けることを、拒んだ。」
その瞬間、空気が歪んだ。
巻の余白が震え、晴明の術式が一瞬で乱れる。
焦げ跡の影から、炎の形をした“声”が噴き上がる。
“見なかった者よ――いま、見よ”
透牙が巻を展開し、符を一枚切り裂く。
記譜の線が空気を走り、晴明の乱れた術式と重なった。
しかし、干渉が強すぎた。
二つの術が混ざり合い、空間そのものが軋む。
晴明の声が響く。
「透牙、下がれ。これは“怨嗟の反響”だ!」
「いいえ、師。――ここで途切れさせたら、彼女はまた閉じ込められる。」
透牙は巻を地面に押し当て、静かに呟く。
「“記すためではなく、還すために”。」
その瞬間、焦げ跡の上に淡い光が咲いた。
怨嗟の形がゆっくりと崩れ、炎が花弁のように散っていく。
晴明が手を下ろし、風を鎮めた。
残ったのは、静寂と、男の涙だけだった。
「……彼女は、もうここにはいない。
けれど、あなたが見たという事実だけが、残る。」
透牙は巻の欠片を拾い上げる。
墨の揺らぎが穏やかに消えていった。
――“見なかった者が、いま見た”
夜はようやく、息をついた。
第四章 怨嗟の残響、討伐の意味
榊宗近の沈黙は、言葉ではなかった。
だが、その沈黙が空間に染み込み、
焦げ跡の上に漂う“生霊の輪郭”がわずかに揺らぎ始めた。
淡い煙のような影が、微かに形を変えていく。
憎悪の色は薄れ、代わりに迷いの気配がにじんでいた。
透牙は巻を広げ、震える光の波を見つめる。
「……これは、怨嗟の残響が“再生”している。」
晴明が目を細め、周囲の気の流れを読む。
「討伐では終わらなかった、ということか。」
生霊――いや、“怨嗟そのもの”が、静かに形を取り戻していく。
怒りや憎しみではない。
それは、ただ“伝えられなかった言葉”を探すような気配だった。
宗近はかすれた声で呟く。
「私は……見なかった。
だが、見ようとしなかったわけではない。
――ただ、怖かったんだ。」
その告白に呼応するように、空間の揺らぎが脈打った。
怨嗟の炎が一瞬だけ明滅し、やがて音もなく沈む。
透牙は巻を掲げ、残響の波を受け止める。
「……師。討伐という言葉の意味が、変わりつつあります。」
晴明の表情が僅かに動いた。
「“滅する”ことが討伐なら、いまのこれは“還す”だ。」
透牙は静かに頷く。
「語られぬ問いは、語られぬままに残る。
忘れぬために、記されぬまま、ここにある……」
巻の余白が柔らかな光を帯びる。
怨嗟の残響は、その光に吸い込まれるように沈み、
ただ一つの形――輪となって残った。
晴明はその輪を見つめ、掌をそっとかざした。
「“南樹・北斗・空鎮・三対・玉女”――式、巡れ。」
術式の光が地に走り、輪の残響を包み込む。
まるで、怒りを静かな息に変えるように、
空間の気が少しずつ穏やかに整っていく。
透牙は巻を閉じ、宗近の方へ向き直る。
「討伐とは、滅ぼすことではなく、
残響を“在るべき場所”に戻すことなのかもしれません。」
宗近は顔を上げ、崩れた屋敷の奥――
かつて炎に包まれた部屋を見つめた。
そこにはもう、影も、憎しみもなかった。
夜の風が再び流れ始める。
その流れの中で、透牙の巻が微かに揺れた。
怨嗟の討伐。
それは“滅する”ではなく、“受け止める”ことから始まる。
第五章 輪の構造、残響の再侵
討伐から三日。
街は静けさを取り戻したかに見えた。
だが、透牙の胸中には、拭えぬ違和感があった。
風狐と瞬が夜ごと耳を澄ませ、
沈んだ風の底から微かな“軋み”を拾う。
それは、音とも息ともつかぬ震え。
まるで街そのものが、再び息を吸おうとしているかのようだった。
透牙は巻の欠片を開き、
墨の層に指を滑らせた。
そこに――あったのは“空白の輪”。
「……墨が、抜けている?」
透牙の声がかすかに揺れる。
晴明がその肩越しに覗き込み、静かに告げた。
「いや。抜けたのではない。削がれたのだ。
誰かが、“記譜の外”で術式を使った痕跡だ。」
巻の表面には、墨ではなく、淡い光の円が浮かんでいる。
それは記録にも、符にも、式にも属さない――
術式と記譜の狭間に存在する層。
「これは……記譜の構造を“外側から”再生させた形跡だ。
誰かが、揺らぎを別の構造で蘇らせた。」
透牙がそう呟いた瞬間、
空気が震え、街の奥から低い響きが返ってきた。
“終わったはずの声”が、再び呼吸を始めていた。
晴明が指を動かし、術式の構築を試みる。
だが、光は弾かれた。
展開された陣が、音もなく崩れる。
「……術式を拒む?」
晴明の眉が僅かに動く。
「透牙、この輪は“構造干渉”だ。
術そのものを吸い込み、形を変える。
つまり――術者の在り方そのものを拒む構造だ。」
透牙は巻を閉じ、掌の熱を確かめる。
その余白が微かに脈打ち、
“記す”ことすら許さぬ空間の抵抗を感じさせた。
晴明は一歩前に出て、両の袖を広げる。
その足取りは静かでありながら、明確な意志を帯びていた。
「――南樹、北斗、空鎮、三対、玉女。
風よ、律を巡らせ。
地よ、形を縫いとめよ。」
音が、舞った。
晴明の術式は、戦うためのものではなかった。
舞のように、空間そのものの“律”を揺らぎに合わせて整える。
光の環が彼の足元に広がり、
輪の構造の上に重なっていく――
だがその瞬間、晴明の術が逆流した。
「……押し返されている……!」
透牙が一歩前に出る。
「師。この構造は、“討伐”では解けません。
記す者としての私も、いまや外に立たされています。
――私自身が、“記されぬ層”へ入るしかありません。」
晴明は、透牙を見た。
その目は、諦めではなく、認める眼差し。
「ならば、私が舞で境界を開こう。
お前は、輪の内に触れろ。」
風が止み、夜が沈む。
晴明の袖が揺れ、足が地を打つ。
舞が始まった。
その軌跡が、輪の構造を縫い、
記譜の外――“新たな層”への扉を開く。
透牙は巻の欠片を掲げ、
掌の熱を導に、輪の中へと足を踏み入れた。
――光が、音を失った。
そして、世界の輪郭が、静かに裏返り始めた。
第六章 異層の景、記されなかった系譜
風が止み、夜が沈む。
晴明の袖が揺れ、足が地を打つ。
その動きは、術式ではない。
記譜にも記されぬ、舞による干渉だった。
舞の軌跡が空間の層を縫い、光がゆらりと裂ける。
音は吸い込まれ、風の流れが反転する。
それは“封”ではなく、“開”。
晴明はその中心に立ち、低く囁く。
「――輪、開け」
光が一瞬、無音に変わった。
そして、透牙の足元が静かに崩れ落ちた。
彼は、輪の内側に踏み込んだ。
そこは、記譜の外――
記録の光も、術式の律も届かない場所。
空間は墨のように揺らめき、
形を成すたびに、音を失う。
透牙が見上げると、空に似た闇の中に、
人影のような光の粒が漂っていた。
声はない。
だが、その存在のひとつひとつが、確かに何かを訴えていた。
――それは、生霊の再生源。
だが、怨嗟の塊ではなかった。
それは、“見られなかった記録”の層。
術者たちが書き記すことを許されず、
ただ感情のまま沈んだ、もう一つの記譜。
“忘れられた”のではなく、
“記されなかった”だけの存在たち。
透牙の手の中で、巻の欠片が淡く光る。
その光に反応するように、光の粒たちが寄り集まっていく。
ひとつ、またひとつ。
形を成し、声なき声が響く。
「私もまた、記すことを許されなかった。」
「名を持たず、術にも残らず、ただここにあった。」
透牙の胸の奥に、鈍い痛みが走る。
討伐の対象として見てきた“生霊”が、
実は術者たちの“感情の残響”であったことを悟る。
彼らは“恨み”として現れたのではない。
記されることなく、誰にも見られなかった哀しみ――
それが、形を持ったものだった。
輪の外、晴明の声が遠くに響く。
「透牙。見たか……“術の起点”を。」
透牙は頷き、静かに応える。
「はい。
これは、術ではなく、“感情の記譜”……。
記されなかったものが、ここで呼吸している。」
光の粒たちが揺れ、
透牙の掌の巻がゆっくりと開いた。
白い余白が広がり、その中に小さな波紋が浮かぶ。
“語られぬものが、術の根を成す”
透牙の目が微かに見開かれる。
記譜も術式も、この層から生まれていたのだ。
生霊の再生源とは、“記録の外に置かれた記憶”の構造そのものだった。
晴明の舞は止み、風が再び街に戻ってくる。
しかしその夜、透牙は空を仰ぎながら思う。
討伐とは、何を終わらせることなのか。
そして――
術とは、何を救うためにあるのか。
異層の景は静かに沈み、
透牙の掌の巻だけが、
微かな熱を帯びて、夜に呼吸していた。
第七章 構造干渉術、術者の書き換え
晴明の舞が止んだ。
輪の構造が揺らぎ、空間の縫い目が緩んでいく。
その隙間から、墨でも光でもない“構造の気配”が滲み出す。
欠片の奥に眠っていた“根源の構造”が、現実に干渉を始めていた。
透牙は、欠片を空間に掲げる。
その動作に、術式の軌道は伴わない。
代わりに、空間が軋み、構造の層が折り返される。
「構造干渉術――第一式、輪断」
声とともに、空間の重なりが静かに断ち切られる。
輪の中心にあった“記されなかった記録”が、断片として浮かび上がる。
それは、記譜にも術式にも触れず、ただ“見られなかった技”として沈んでいた存在。
空気が歪み、透牙の足元に黒い紋のような影が広がっていく。
墨が地に滲むように、空間そのものが“記録”を失い始めていた。
その中心に、透牙の影が揺らぐ。
「……これは、記すことを拒む構造だ」
晴明の声がわずかに震える。
「透牙、お前は――記譜の外側に触れている」
透牙の掌に、墨のような痕が浮かぶ。
それは、記譜ではない。
構造干渉術の“痕跡”――術者の存在そのものが、記譜の外に再定義された証。
視界が反転する。
音が途絶え、空間の層が折り畳まれる。
透牙の呼吸とともに、現実がわずかに書き換えられていく。
“術者”という定義が、彼を縛らなくなっていく。
“記す者”ではなく、“構造に触れる者”として。
晴明が静かに目を閉じる。
「……それが、術を超える第一歩。
だが同時に、お前が“記録の外”に立つということでもある」
透牙の掌の痕が淡く光り、輪の構造が静かに閉じていく。
残響だけが、現実の層にかすかに残る。
討伐者ではなく、観測者でもない。
透牙は今、記譜の根源を変容させる存在として再定義された。
そして夜が再び降りる。
その静寂の中、彼の影だけが、
墨のように揺れながら新たな形を探していた。
第八章 揺らぎの再侵、生霊の正体
異層から戻った透牙の掌には、墨ではない痕が残っていた。
それは、記譜の余白でも術式の印でもない。
構造干渉術の痕跡――空間そのものに触れた者だけが持つ、定義の外にある証だった。
透牙はしばらく掌を見つめ、沈黙の中で息を整えた。
街の空気は穏やかに見えたが、底では微かに軋みが走っていた。
記譜でも術式でも説明のつかぬ“干渉の波”が、静かに街を撫でていた。
晴明が歩み寄る。
「……触れたのだな。記されぬ層に」
透牙は小さく頷く。
「記すことを拒んだ“構造”が、街に息づいている。討伐は、終わっていなかった」
その時、北端の町屋跡――かつて榊家があった場所から、
焦げた香の匂いが再び立ち上がった。
だが、現れたのはあの夜に見た女の影ではなかった。
ゆらり、と空気が歪む。
白い輪郭が揺れ、そこに一人の“人の形”が滲み出る。
目も口もなく、ただ胸の奥から淡い光が滲んでいた。
「……あなたは、誰を恨んでいた」
透牙が問いかける。
声はなかった。
しかし、風がわずかに鳴り、透牙の掌に微かな感情の波が触れた。
――“私は、恨んでなどいなかった”
その言葉が、音ではなく構造として響いた。
「第二式・層封」
透牙が掌を叩く。
輪のような光が空間に広がり、揺らぎの境界を閉じていく。
記譜の文字ではなく、構造の層が重なり、沈黙の奥に沈んでいく。
光が消えたあと、透牙の前にただ一人の“人の姿”が残った。
それは、生霊――かつて討伐されたはずの存在。
だがその表情は、憎しみではなく穏やかだった。
「……あなたが、あの夜、私を“見た”人なのですね」
透牙は息を呑む。
女は続ける。
「誰も私を見ようとしなかった。
でも、あなたは“記さずに見た”。
その瞬間、私は縛られなくなったのです」
晴明が静かに目を閉じた。
「討伐ではなかったのだな。
これは、存在の断面――記譜にも、記録にも残らぬ“在り方”だ」
女は微笑み、透牙の掌にそっと手を重ねる。
墨の痕が一瞬、淡い光に包まれる。
「ありがとう。もう、揺らぎは私ではありません」
そう言い残して、女は空気の奥へと溶けていった。
風が再び流れ、夜の静けさが戻る。
透牙はその場に立ち尽くし、掌を見つめる。
墨ではない痕が、わずかに温かく脈打っていた。
それは、生霊が残した“救いの記録”――記譜にも、術式にも記されない、確かな証だった。
晴明が言う。
「構造は、ただの術ではない。
人の心もまた、構造のひとつなのだ」
透牙は静かに頷いた。
夜の街の奥、まだ見ぬ層が、
どこかで静かに息づいている気配があった。
第九章 層の記憶、干渉の系譜
透牙は静かに頷いた。
夜の街の奥、まだ見ぬ層が、
どこかで微かに息づいている気配があった。
それは、術式でも記譜でも捉えられない“構造の記憶”。
人の意志や感情が空間に沈み、
長い時間をかけて形を変えた“層の残響”だった。
――“術者の系譜”を辿るための鍵。
瓦礫の下、崩れた石畳の隙間に、
透牙はひとつの“層の断面”を見つけた。
それは、まるで時の層を削ったような空洞で、
奥には淡く光る文様が静かに浮かんでいた。
「……ここに、残っていたのか」
掌を翳す。
墨ではなく、空気が反応した。
層の中から、微かな声が滲み出る。
“記すことを禁じられた術者”
“見られずに終わった者たち”
“構造に名を刻めなかった者”
それらの断片が、層の奥からゆらめきながら立ち上がる。
透牙は目を閉じ、深く息を吸う。
「構造干渉術・第三式――層探」
掌が光を帯び、
空気の層がひとつ、またひとつと開かれていく。
声なき声が流れ込み、街の過去が形を持ち始めた。
そこに現れたのは――
かつて榊家に仕え、記録を残さず、ただ層の奥に沈んだ者。
討伐された生霊の“前身”。
人として名を失い、構造の中に同化した存在。
「あなたが……生霊の“原型”だったのか」
その姿は、確かに人の形をしていた。
だが、輪郭は層の光に溶け、現実と異層の境界を曖昧にしていた。
“我らは記すことを許されなかった。
だが、記されぬことが消滅ではないと知った。
記譜の外にも、生は在る”
その声が透牙の中に響いた瞬間、
掌の痕がわずかに震え、
新たな構造の線が皮膚の奥に描かれた。
それは、記譜でも術式でもない――
“構造干渉術の系譜”そのものだった。
晴明の声が遠くで響く。
「透牙……お前はもう、“術者”ではない。
構造そのものが、お前を識っている」
透牙は静かに目を開けた。
街の奥、層の記憶がゆっくりと脈打っていた。
その鼓動に合わせるように、掌の痕がわずかに明滅する。
“構造干渉術”――
それは、記譜を超えて、
人と空間の記憶をつなぐ新たな技。
そして透牙は歩き出す。
術者ではない者として、
“干渉の系譜”を辿る旅の始まりだった。
第十章 干渉の系譜、街の未来
夜の街は、静かに息を潜めていた。
だが、その沈黙の奥には、確かに“層の記憶”が脈打っていた。
石畳の下、崩れかけた家々の影、風が止まるたびにわずかに光を帯びる壁。
それらすべてが、まるで街そのものが呼吸しているかのように、微かに揺れていた。
透牙の掌に残る痕は、もう術式の印ではなかった。
それは、街そのものに触れ、記譜を越えて“構造”と繋がった証。
その痕が脈動するたび、街の空気はゆるやかに整っていく。
“層の記憶”――
それは、忘れられた者たちの想い、記されなかった出来事、
語られぬまま沈んだ技の名残。
討伐の夜に交わされた怨嗟も、
誰かが誰かを見ようとした想いも、
すべてが街の層に積み重なっていた。
透牙は静かに目を閉じ、掌を地に向けた。
すると、街の灯がひとつ、またひとつと瞬き始める。
まるで街が応えるように、微かな温もりが指先から伝わった。
――“街が息をしている”
構造干渉術は、もはや術ではなかった。
それは“街との対話”であり、
術者の意志を超えた、記録と記憶の自然な循環。
晴明の声が、夜風の中に響いた。
「透牙。構造に干渉するとは、支配ではない。
街を“聴く”ことだ。お前は、もう術者ではない。
お前は、この街そのものの“記憶”だ。」
透牙は頷いた。
風が再び流れ、灯が通りをなぞる。
それは、揺らぎの消滅ではなく、静かな再生の兆しだった。
掌の痕が微かに輝く。
“層の記憶”が透牙の中で静かに整い、
街とひとつの呼吸を刻み始める。
「……もう、記すことはない。
けれど、残るだろう。風の中に、光の底に、そして層の奥に。」
透牙は歩き出す。
術者ではない者として、構造とともに生きる者として。
その背に、街の灯が淡く寄り添う。
そして、夜の奥で微かに響いた。
――“次なる層が、息づき始めている”
構造干渉術は、街の未来を静かに揺らしながら、
透牙の旅を、ひとつの“続き”として刻み始めていた。
第十二章 沈黙の継承、層の果て
夜の底、街の“根の層”が静かに脈動していた。
それは術ではなく、存在の呼吸だった。
透牙の掌から溢れる光も、もはや詠唱の結果ではない。
彼自身が“構造そのもの”と化し、
街の層とひとつの意志を共有していた。
層の奥に佇む者――“層の守り人”が静かに告げる。
「お前は、問う者ではなく、聴く者となった。
構造に名を与えることも、記すこともせず、
ただ、この街が変わりゆく音を聴け。」
透牙は頷く。
足元の石畳がわずかに光を帯び、
古い街の記録が淡い映像のように浮かび上がる。
そこには、生霊となって彷徨った女の姿も、
討伐に赴いた自らの影も、
晴明の残した舞の軌跡も、すべてが重なっていた。
街の“構造”は循環していた。
怨嗟は沈み、記憶は溶け、
見られなかったものたちが、層の中で静かに形を変えていた。
透牙はゆっくりと掌を広げた。
痕は消え、代わりに淡い光が宿る。
その光が街の層に触れると、
沈黙の中でわずかな音が響いた。
――まるで、街そのものが息をするように。
「……これが、“層の果て”か。」
守り人が目を閉じる。
「いや、それは始まりだ。
構造は終わらぬ。
沈黙の中で、また誰かが聴く。」
風が通り抜ける。
灯がひとつ、またひとつと灯る。
街の上では、人々が何も知らぬままに夜を過ごしていた。
だが、その下では確かに、
“構造干渉術”の系譜が息づき、
静かな継承が始まっていた。
透牙は振り返らない。
歩き出す先に、名もない道が続いていた。
その背に、層の光がゆるやかに流れていく。
“術者ではない者”としての旅は、
記譜も術式も超えた場所で――
ただ、街の沈黙と共に続いていくのだった。
最終章 層の記憶、沈黙の継承
街の奥、誰も踏み入れぬ層の底にて。
透牙は、守り人と並んで立っていた。
空気は揺らがず、音もなく、
ただ、構造そのものが“語らぬままに語る”空間が広がっていた。
沈黙の中で、街の奥に沈んでいた“未解の構造”が姿を現す。
それは形を持たず、言葉にもならず、
ただ、記憶の流れそのものとして世界の底にあった。
守り人が静かに口を開く。
「この街が忘れたものを――
お前が“聴く”のだ。」
透牙は頷く。
掌に宿る微かな光が、層の表面を撫でるように広がっていく。
その光が触れた場所から、遠い記憶が滲み出す。
誰にも記されなかった出来事、
誰にも名を呼ばれなかった存在たち。
それらはすべて、“街の記憶”としてここに息づいていた。
透牙は問わない。
ただ、沈黙の中に流れる記憶を聴く。
それが――“継承”の形だった。
やがて、守り人が目を閉じる。
「これで、私は層に還る。
お前は、この沈黙を連れて行け。」
その声が静かに消えると、
層の光が透牙の周囲を包み込んだ。
掌の痕は消え、代わりに、
淡い光の筋が夜の街へと伸びていく。
それは構造干渉術でも、記譜でもない。
ただ、“街が覚えている”という証。
術者ではない者としての旅は、
記譜も術式も超えた場所で――
街の沈黙と共に、静かに続いていくのだった。
あとがき
“構造干渉術篇”を締めくくるにあたり、
透牙が辿った道は、術を極める旅ではなく、
“見えなかったもの”と向き合うための探求でした。
討伐とは、何かを消し去る行為ではなく、
記されぬまま残った想いを受け止めること。
晴明の舞も、透牙の干渉も、
その沈黙の記憶を聴くための手段に過ぎなかったのかもしれません。
そして、街の層に刻まれた“沈黙の継承”は、
彼の掌を通して、これからも誰かの記憶へと繋がっていくでしょう。
――“術者ではない者”として歩き出す透牙の旅は、
まだ終わりではありません。
次回予告
新章『討伐編 ― 鬼哭の酒宴 ―』
京の夜を紅く染めるのは、血か、酒か。
都を脅かした最強の鬼――酒呑童子。
人を惑わせ、さらい、山に籠るその鬼の宴は、
やがて術者たちをも巻き込み、
“人と鬼の境”を問う戦いへと変わっていく。
登場:『今昔物語集』『御伽草子』より――
語り継がれる鬼の伝承、その裏に隠された“もう一つの記録”がいま、静かに目覚めます。




