【プロローグ──転生先は、顔だけ王子でスキルなし】
黒い何かが、目の前でぐらりと揺れた。
「あ……れ……」
息が、うまくできない。
目の前がぐにゃぐにゃに歪んで、耳鳴りとともに視界の端が黒く染まっていく。
ついさっきまでデスクに向かっていた気がする。
大量の報告書、期限当日だった案件、山積みの押印。
誰も手伝ってはくれず、上司には詰められ、後輩には頼られ……。
そうだ。
コンビニで買った栄養ドリンクの賞味期限が切れてたんだ。
気づいたけど、もったいなくて飲んだんだよな。
だってまだ働き終わってないのに、帰れないんだから。
──気がついたら、俺は倒れていた。
あぁ、これが……過労死か……。
真っ白な意識の奥で、ぽつんとそんな言葉だけが残った。
次に目覚めたのは、知らない部屋だった。
重厚な天蓋付きベッド。陽の光が差し込む高窓。
高そうな家具と壁一面の金色の紋章。
シャンデリアの下で鳴いている鳥の声までどこか上品だ。
「……え?え?」
思考がうまくまとまらない。
けれど、身体の感覚はある。
眠っていたらしい頭の奥から、ゆっくりと情報が流れ込んでくる。
夢でも、幻でもない──現実だ。
いや、待て。
情報量が……多い。多すぎる。
記憶。
記憶だ。
俺のじゃない。
誰かの人生が、頭の中でぶわっと流れる。
──レオナルト=ヴァルシュタイン。
この国の第一王子。
美形。
だが中身は、最低最悪の権力に固執してるクズ王子。
貴族を恫喝し、
平民を見下し、臣下からも「顔だけ王子」と陰口を叩かれる──そんな王子の記憶が、ありありと。
俺、コイツに転生してる……!?
そして──思い出す。
さっきまでの出来事。
目の前の鈍器。
振り下ろされた衝撃。
倒れた瞬間に、まるでフラッシュバックのように自分の前世を思い出したんだ。
そのタイミングで、目を開けた。
目を覚ました時、部屋には見知らぬ男がいた。
手には刃物。
鋭く、まっすぐに俺の胸を──
「ぎゃあああああああああああああ!!!!!」
情けないほどに叫んだ。
殺される──というより、「訳がわからなすぎてとりあえず声が出た」が正解だろう。
運良く、誰かがすぐに飛び込んできた。
黒いマントを翻した少年。
俺とそっくりな顔で、まるでドラマのワンシーンのように剣を抜き、刺客を撃退した。
その姿に、俺はこう思った。
え、誰このイケメン。
今の俺?
違う。
いや、たしかに似ている。
でも何かが違う。
その瞬間、レオナルトの記憶の一部を思い出す。
少年の名は、ユリウス=シュヴァルツ。
第一王子レオナルトの影武者──らしい。
レオナルトの記憶によると。
俺の命を救った彼が、無言で俺の元へと駆け寄り、表情を変えずに告げた。
「……殿下、よくぞご無事で」
──えっ、いや、まず説明くれない???
もはや何が何だかわからないまま、襲撃の恐怖と、前世と今世の膨大な記憶の洪水に飲み込まれ、俺はふわりと意識を手放した。
◆
どのくらい時間が経ったのか。
目が覚めた頃には、体はベッドに寝かされ、隣ではあの影武者が椅子に腰かけて本を読んでいた。
気配に気づいたのか、彼──ユリウスは本を閉じて顔を上げた。
「……目を覚まされましたか、レオナルト殿下」
いや、違うんだって。
俺は「翔」だし、「王子」なんてやりたくないし、ましてや暗殺未遂とかマジで無理。
ため息をついていったん状況を整理して考える。
しかし、そんなとき頭に浮かんだのは、くだらないネットの話だった。
『30歳まで童貞だと魔法使いになれる』──そんな都市伝説。
でも俺は、その魔法使いにすらなれなかった。
いや、魔法使いどころか──
「王子!?しかも顔だけ!?スキルも魔力もステータスもなし!?え、転生チートは!?ハーレムは!?勇者とか魔王は!?」
問いかけに答える者はいない。
ユリウスは少し驚いてから「何だこいつ」という顔をしているし、ドアの向こうで使用人の悲鳴が上がり、「失礼しましたッ」と叫ぶ声とともに、足音が慌てて遠ざかっていった。
「……あ、うん。声出しすぎた」
そこからの日々は目まぐるしかった。
この世界の言葉はレオナルトの記憶があるからか理解できたし、体もすぐに馴染んだ。
そして何より驚いたのは、周囲の全員が俺を「第一王子」として扱っていたことだ。
──その実態は、やはり最悪だったらしい。
元のレオナルトは、権力至上主義の塊で、横柄で傲慢、友も部下もおらず、家族にすら恐れられていた。
そんな彼の暴走を見かねた国王が密かに任命したのが、「影武者」だった。
政務のほぼ全てはユリウスが処理し、表向きだけを王子が飾る──そんな体制。
「……影武者が有能でよかったな、おい」
ため息まじりに呟きながら、俺はあっさりと決断した。
「俺はもう王子やめる。引退。第二の人生、スローライフします」
言った瞬間、城内は大混乱に陥った。
なにせ、かつてあれほど王座に執着していた男が、突然「やーめた☆」である。
特に狼狽えたのはユリウスだった。
俺が記憶を取り戻す直前、王子は暗殺されかけていた。
そのときに気絶したことで急所を逸れ、結果的に命を拾った。
声を聞きつけて駆けつけたユリウスが撃退してくれたから、今こうして俺は生きている。
しかも、今まで王子がやる仕事を代わりにやってくれてたのが影武者のユリウス。
それを思い出して、俺はこう思った。
「お前が王でいいじゃん」
だが彼はきっぱりと言った。
「殿下の影武者である私が王位を奪うなど、道義に反します」
──まじめか。
結局、何度話してもユリウスは首を縦に振らなかった。
なので、俺はこう譲歩した。
「田舎に引っ越せないなら、せめて庭で畑くらい耕させてくれ。俺は野菜と土に囲まれて生きていく」
「……殿下、それは王族の園芸の域を超えています」
「王族じゃなくて農民になります」
「おやめください」
こうして今日も、王城の朝は平和に──いや、何かが決定的にズレたまま始まる。
そしてその裏で、世界は静かに歪みはじめていた。
まだ誰も、気づいていない。