第四十六話 『過去の鎖』
「追いかけなくてよかったのか?」
色々な想いが重なりすぎて席を立てないままでいた愛宮。
そんな彼女の内心を見通した愛宮の上司、菜野に心配げに声をかけられた。
「──っ。……ごめんなさい。お見苦しいところを」
咄嗟に愛宮が振り返ると菜野は驚いた表情をしていた。
初めは意味がわからなかった。しかし、直後に頬に感じた温い感触から自分が泣いていると理解して、慌てて菜野から目を逸らした。
「場所、変えようか」
「大丈夫です……わたしまだ、がんばれます……それに菜野警部にご迷惑を」
「部下が泣いてるってのに放っておけって? 酷いことさせないでくれよ」
そう言った菜野の声はとても穏やかで、愛宮は益々涙が込み上げてきた。
もう、色々な感情がごちゃ混ぜになりすぎて、自分で自分がよくわからなくなっている。
これ以上何かをしようにも、考えることも、体を動かすこともままならない。
今の愛宮は、まともに行動がとれるような状態ではなかった。
だから、上司の優しさに甘える以外に選択肢がなかった。
「申し訳、ありませんっ……」
「いいのいいの」
失礼のないよう今度は顔を見て謝罪を口にした。
すると菜野は、快活に笑いながら愛宮の謝罪に応えたのだった。
◾️◾️◾️
「少しは落ち着いたか?」
「……はい。ご心配いただきありがとうございます」
会議室を出て二人が向かったのは休養室だ。
夜間勤務も多い警察官は体調を崩すことも当然ある。疲弊した警察官が僅かな休息をとるため重宝されている。
休養室に入り愛宮がパイプ椅子に腰掛けること十分。ようやく彼女の涙が収まったタイミングで菜野が声をかけた。
まだ鼻を啜り、涙目なままだが先ほどよりはだいぶ落ち着いていた。
「無理してるだろ。愛宮巡査」
「……っ」
真剣な声色で菜野は愛宮にそういった。
とっくに自覚していた。自分を偽り、明るく健気な愛宮彩瀬を取り繕っていると。
そうすれば──否、そうしていなければ、大切な先輩を苦しめてしまうのではないかと怖かったのだ。
親友を失い、憧れの上司を失い、家族を失った。限界まで摩耗した彼の心に寄り添うことが、愛宮が瀬波にできる最善だと考えていた。
けれど今は、そうは考えられなかった。
薄々気づいてはいた。大切な誰かを失うたびに、瀬波が変わっていくのが。
だが、愛宮の中で理由は喪失だけではない気がしていた。
そしてその理由が何かを、愛宮は理解していた。
──『正義』。
正義に誓って。瀬波は度々そう口にしていた。
最初に彼と出会った時、警察官に相応しい志が眩しくて、心底憧れた。自分も先輩のようにならなければと。
ただ、最近の瀬波の正義は日を増すごとに歪んでいる。真っ白で純粋な輝きは無くなり、赤く赤く染まっている。
瀬波がそうなってようやく理解した。
瀬波碧斗は正義に執着し、現在は正義の深穴に堕ちているのだと。
その正義への執着が、喪失に対する悲しみから転じて──激しい憎悪に形を変えている。
瀬波碧斗の根幹である正義が、彼の精神を蝕んでいる。
だから愛宮は、寄り添うだけが最善とは思えなくなった。
「……菜野警部」
「ん?」
「どうして、伊津野一課長は瀬波先輩を邪険に扱うんでしょうか……」
無理をしていることを自覚して、最善が最善ではないと理解して。この次はどうすればいいのか。
先の見えない、助けを求められない暗がりに放り出されたような気分に陥っていた。
自分が瀬波のように賢くもなく、行動力もなく、正義感もない。
多くの警察官に備わっていて当然の素質が愛宮は自分にはないと後ろ向きに考えている。
それでも、足りない自分は懸命に足掻く以外の選択肢を持ち合わせていない。
だから今、目の前が真っ暗であったとしても、進まなければいけないのだ。
暗闇は自分で照らす他にない。
最初の一手が、伊津野に関する疑問の解消だ。
「いずれは聞かれんだろうなぁとは思ってたが、今とは驚いた」
「すみません……」
「謝らなくていいとも。聞かれれば素直に答えるつもりだったしな」
優しく微笑んだ菜野に愛宮は背筋を正して頭を下げた。
「口外はしないって約束できるかい?」
「もちろんです」
「真面目だな愛宮巡査は……さて」
菜野は愛宮の反対側にあるパイプ椅子を後ろに引いて腰掛けた。
そして、丁寧に語り始めた。
「伊津野悠生って男はかつて──『若き天才』って呼ばれてたんだよ」
◾️◾️◾️
── 伊津野悠生は『正義』を信じてやまなかった。
両親共々警察官の家庭に生まれた伊津野は、産まれた時時点で将来は警察官になることが確定した人生だった。
人よりも早く歩けるように、言葉を話せるように、身体能力が高くなるように、知識量で秀でることができるように。
あの手この手で一人の青年を育て上げた。
小学校に進学する頃には、他人とはかけ離れた成長を実現し誰よりも秀でた秀才となっていた。
親からの教育のみで秀才となったわけではない。
伊津野悠生は事あるごとに父親にこう言われて育った。
「正義は絶対だ」と。
全ての悪を罰し、自らが正しさの指針となり安寧を気付き上げる。それには『正義』はなくてはならないと、何度も何度も言われて育った。
口煩く言われ続けた『正義』の言葉は幼き伊津野の心に根付いていき、大人になってもある歳までは変わらず『正義』を絶対視していた。
伊津野悠生の能力の高さの理由には、強い『正義』の執着があったからだ。
始まりからして他者を上回る前提として育てた両親を、しかし伊津野は恨んだりしたことはなかった。
むしろ伊津野は感謝していた。両親のお陰で過ちを犯さずにすみ、他者を頼らず自身で最適解を出せる。
疑問にぶつかるたび人生は一瞬の停滞を生む。その停滞は無駄だと認識していた。
無駄を削り、常に最適解のみを求める在り方を徹底した男。
それが、伊津野悠生だった。
高三で警察学校を受験。未だ塗り替えられることのない歴代最高成績を叩き出し、卒業後は警察学校へと進学した。
入学後も伊津野はかけられた期待を裏切ることはなかった。
立ち居振る舞い、心構え、秀でた身体能力と頭脳。他の生徒を簡単に圧倒してみせた。
そうして、一度の失敗もなく警察学校を卒業。
初めは地方の交番勤務であったが、伊津野が勤務を始めて以降悪いとされた地域の治安が劇的に改善した。加えて運にも恵まれ、指名手配班を逮捕という大きな功績を残した。
交番勤務時点での高い実力を評価されたことで、伊津野は二十一歳という若さで捜査三課に配属。そこでも成長に伸び悩むようなことはなく、トントン拍子に成果を残していった。
捜査三課配属から二年。
類稀なる功績を積み重ね、伊津野はついに捜査一課への配属が決まった。
その一報が伊津野に通知される時点で、周囲から伊津野はこう呼ばれていた。
──『若き天才』。
それは、十年以上後に別の青年が呼ばれるようになるなる呼び名。
視点を変えても一切評価の揺らぐことのない、完成された存在。グラフで示せば直上に限りなく近い推移を模るだろう実力者に相応しい名で呼ばれることとなった。
快進撃は捜査一課へと配属後も変わらなかった。
だが、伊津野といえど完全無欠とは言い切れない欠点があった。
対人能力の低さだ
伊津野は基本、物事を人並み以上に自己解決できてしまう。それ故に他者の協力を必要とせず、孤立無縁でもやってのけるだけの知識と技量が備わっていた。
協調性を求められる警察官という職業においては致命的な欠点であった。
協調性がなく、感情も表に出さない。
次第に伊津野は周囲からこう言われるようになった。
評価に肖りお高くとまるなよ、と。
そして、『若き天才』との呼び名は、ただの『一匹狼』と言い換えられるほどに、徐々に伊津野には悪名が付き纏った。
「────」
冷たい眼差しを向けられるのが当たり前になった頃。
それは突然に現れた。
「──すごいね、伊津野巡査は」
何度目かの事件解決を果たした伊津野。昇進の話が出たタイミングに、一課の室内で一人ファイリングに勤しんでいた伊津野は声をかけられた。
声はやや高く、警察官にしては細身で美形。特徴的なのは溢れ出る穏やかな空気感。
それが伊津野悠生と── 小更遼也の最初の出会いだった。
◾️◾️◾️
小更遼也は伊津野の三つ上の警察官だった。
階級は巡査部長。洞察力と統率力に優れた捜査一課でも重宝される優秀な存在。
伊津野から見ても他の警察官とは比較にならない、素質を持ち合わせた人間だと捉えていた。
事実その見方は正しい。
協調性を持たない伊津野の手綱を上手く握り、連携が他の捜査官と拗れないように配慮も行い、起こった事件は一つ一つ解き明かして疑問点を残さず終える能力があった。
だからこそ、伊津野の在り方が小更の目についた。
悪い意味ではなく、良い意味で。
秀でた実力者であるが故の傲慢は性格。
しかし、彼の心根には確かに『正義』が根付いているのが強く感じられた。
何をもってして伊津野悠生という男が、警察官という国民の安全を守る仕事についたのか。
「伊津野はさ、なんで警察官になったの?」
「父親が警察だったからです」
「──強固な『正義感』がありながら?」
「────」
問答に答えはなかった。
親にさせられたと言いながらも、警察官に相応しい信念を伊津野は誰よりももっていた。
小更遼也が目をつけたのはまさにそこだった。
自覚は確実にある。その上で頑なに父親が警察官だったからと言い続ける姿勢。
矛盾しているとさえ言える伊津野が小更は面白かった。
「お手柄だねぇ伊津野!」
以降も、小更は伊津野と関わり続けた。
大した会話があるわけではない。小更が話しかけ、伊津野が一言答えるだけ。周囲から小更がおかしくなったと思われるほどに、二人の関係性は歪であった。
小更に何か目的があったというわけではない。
伊津野が心を閉じているから心を開かせるために声をかける、なんて善性に満ちたものではない。
小更は本当に伊津野が面白くて、特殊な彼が今後どうなるのか見てみたくて話しかけていたにすぎなかった。
面倒だと思いつつも無碍にできない立ち位置にいる小更。だから雑でも伊津野は常に相手をしていた。
真意は当然理解していながらも、伊津野は小更との交流を拒否できる側ではない。
上司部下の関係性がひどく厄介に感じていた。
自分よりも実力を伴わない、年数ばかりが嵩む程度の低い人間を上司として敬わなければいけない。
会話はするものの礼節は重んじない。真に敬うべき相手でない存在等しく適当な対話で済ませてきた。
ほとんどの人間は伊津野の態度をよくは思わず、一度で接点は途切れていた。
だが、小更は強引に伊津野の領域に踏み込んできた。
そして伊津野にとっては最悪で、小更にとっては望んだ転機が訪れた。
「俺とペアだってさ、伊津野!」
「……っ」
県内で殺人事件が起こり、犯人が逃走したまま行方知れずになった事件が起きた。
その際、張り込みや訪問調査が必要とされ、伊津野と小更は互いの特性が噛み合うのではないかとして当時の一課長からペアを組むよう言い渡された形だ。
伊津野は反対したが巡査の言い分が通るはずもなく。
二人はそこから長期間、バディとして殺人事件の捜査に加わることとなった。
初めは相性が著しく悪かった。
伊津野が小更の指示を無視したり、逆に小更の突拍子もない捜査方針に伊津野が振り回されたり。互いに悪影響を及ぼしあう関係性だった。
だが、日が経つに連れ二人の相性は良くなっていった。
お互いの特性を理解し、正しい会話の流れを掴み行動傾向に寄せていく。そうすることで自然と相性の悪さは薄れた。
そこに至るまで──実に二ヶ月。
二ヶ月もの期間、犯人の痕跡を得るには至らなかった。長期間かけて相性が良くなったところで、犯人は結局野放しのまま。状況は全くプラスになど働いていなかった。
「伊津野はさ、この事件どう思う?」
それは今回の事件を任された捜査官の士気が下がり始めた頃に問われた。
小更が伊津野に難解なものだとか、そんな簡単な答えを求めていないと考えるまでもなく理解していた。
求められているのは、伊津野の答えであり大衆の意見ではない。
「間抜けだと思います」
「──っ」
伊津野がそう答えたものの小更からなんの返事ももらえず、伊津野は小更の方へ顔を向けた。
すると、目を見開いてあっけらかんとした表情で小更は伊津野をみていた。
その数秒後。
「ふっ。あっはははは!」
声を大にして小更は大笑いした。
「間抜けって、あははは!」
「……なにかおかしなこと言いましたか」
「おかしいだろって! 普通犯人の動向とか、事件の今後とかそういうこと言う場面じゃない?」
「ありきたりなは答えは求められてないと思ったので」
「よくお分かりで! さて……なんで、間抜けだと思う?」
眦にうっすら涙を浮かべたまま、小更は伊津野に再度問いかけた。
「人を殺して逃げ回る行為自体、俺からすれざ愚かだと言わざるを得ません。どうせ捕まる未来しかないわけですし」
「うんうん」
「仮に指名手配犯のように逃げ切れたとしても、恐怖に苛まれて生き続ける人生が待ち受けてる。だから間抜けだと、俺は思います」
悪行を行う人間は皆愚かだ。
悪だけに限らず、破滅しかない道を選ぶ馬鹿さという意味でも伊津野はそう考えていた。
何一つ救いのない選択を、道筋を歩もうなどとどうして思えるのか。
「やっぱ、伊津野と組めてよかったよ」
「なんですか急に」
「こうやって面白いやり取りできるじゃん?」
そう言って小更はまた快活に笑った。
笑顔の絶えない小更を初めは鬱陶しくも思ったが、慣れれば悪くないと感じていた。
格式を重んじ、礼節を重んじ、部下としての振る舞いを重んじる。それらが全てを重視する傲慢な上司より、ラフで柔らかい人格の人間の方がマシだ。
日を重ねるに連れて、二人の関係性はより良いものとなっていった。
『孤高の天才』とされた伊津野も、小更のお陰で地に足のついた評価ではなくなっていった。
伊津野の人生において、間違いなく小更遼也は恩人と呼べるほどの存在となっていった。
しかし──。
「犯人が出たってのはこの辺だっけ」
「はい。通報された位置と合致します」
「りょうかいっと。始めますか」
それは、殺人事件が起こってから実に八ヶ月が経過した頃だった。
未だ解決には至らず、明確な犯人像が掴めていない状況だ。
近隣住民の目撃証言から得られている情報は、銀のブレスレットを左腕に着用。性別は男性と見られているが定かではなく、紺色のフードを被っていたとするが今同じ服を着用しているかも分からない。
あまりにも情報不足も甚だしい状況下に置かれながらも、数ヶ月経ったタイミングでこれらの情報全てに合致する人間が現れたとして都内某所にて二人は張り込みを行っていた。
「これで犯人捕まえたらお手柄だよなぁ。昇進末待った無し!」
「ふざけてる場合ですか」
「気持ち明るくしてないと、殺人事件の張り込みなんてやってらんないってー」
気安い調子で肩をすくめて笑う小更。呆れながらも伊津野はいつも通りだと薄く微笑んだ。
全く持って緊張感がないため上手くいくのかと常々思うが、小更はこれでも伊津野以上の実力を秘めた警察官だ。彼の活躍は間近で何度も見てきた。
長期化し、苦戦している事件だが自分と小更がいればいずれは終わる。
犯人にとっては災難だと内心では思い、憐れむ以外の感情を伊津野は持ち合わせてはいなかった。
「──なぁおい」
突然、小更は声を顰めて伊津野の肩を叩いた。
小更がある一点を指差していた。見ればそこには──目撃証言と同じ姿の男が歩いていた。
「伊津野は回り道してあの男の先に出てくれ。おれはまっすぐ追いかける」
「無茶しないでくださいよ」
「心配しすぎだよ」
真剣な眼差し、けれど好戦的な笑みを湛えながら小更は犯人と思われる人物に近づいていった。
伊津野は指示通り回り道をして、犯人が進む方向へ先回り。
「ちぃ! 逃げんな!」
わかりやすく状況は動いた。
小更の声が住宅街の路地に響き渡る。その声をきっかけに伊津野も全速力で走り始めた。
「はぁはぁ……!」
やはり、罪人は愚かだ。走りながら伊津野は内心でそう思う。
何故、惨めな終わりを自ら選ぶのか。それがまるで理解できない。
罪に手を染め、己が人生を破壊し、誰からも理解されない終わりに堕ちていく。
たとえ如何なる理由があれど、罪人は愚かだ。
醜悪な罪人は裁かれるのが定めだ。
時間はかかったが、今回の事件も過去の事件と同様に終わらせるのみ。
「小更じゅ……」
小更を呼ぼうとした伊津野の子は途絶えた。
正面、小更の姿があった。彼の対面には犯人と思われる男も見える。
それはいい。ただ一点──小更の腰の辺りが、赤く染まっていなければ。
「小更巡査部長!!」
小更は男に刺されていた。
その時初めて、伊津野は動揺した。人生で一度もした事のない動揺。小更が刺された瞬間に、初めて。
「──ッ」
「……おい……逃げんなよ……」
刺した刃物を抜いて男はその場を走り去ろうとした。しかし、他の誰でもない小更の手によって、男の逃亡は失敗に終わる。
小更が男は背後に手を回し、抱きしめる様な体制で逃がすまいと全力を尽くしていた。
より深く、刃物が刺さるのにも構う事なく。
「伊津野っ!! 手錠をかけろ!!」
「──っ、は、はい!」
立ち尽くした伊津野を小更が呼んだ。我に帰った伊津野は男の背後へと回り、両手を掴んで強引に手錠をかけようとした。
だが、両手に手錠をかけるという事は、小更の腹部に刺さった刃物を無理やり引き抜く形になる。
そうなれば傷口は広がってしまう。小更の命に関わると思い伊津野は手錠をかけることを躊躇した。
「小更巡査部長……」
「おれは平気だから、早く」
「ですが……」
「早くしろ!」
力強く放たれた言葉に、伊津野は考えを放棄してただ犯人を捕らえることに全力を尽くした。
暴れる犯人の両手を強引に掴んで手錠を──、
「ぐっ……」
刃物を手にした右手を掴み背中に回す瞬間、刃物が小更の腹部から引き抜かれ鮮血が噴出する。
小更の血は伊津野の頬に飛び、思考が真っ白に染まりかけながらも目の前の男の手に手錠をかけた。
「小更巡査部長!!」
男に手錠をかけ地面に組み伏せた後、伊津野は慌てて倒れた小更の元へ駆け寄った。
「止血しないと……!」
自身のワイシャツを引きちぎり、小更の腹部へ巻こうとした。
「傷が……」
背中に貫通していた時点で予想はしていた。だが、先の刃物を無理やり引き抜いたこともあり、小更の刺された傷口が大きかった。
強くシャツを巻いても血はとめどなく溢れ出ていく。
恐ろしく早く、命の灯火が消えようとしていた。
「救急車をっ!」
「……っ」
「小更、巡査部長……?」
携帯を取り出して救急車を呼ぼうとしたところで、小更が伊津野の肩に触れた。
小更の顔に目を向けると、彼は優しく微笑んでいた。
「やっと、慌てた伊津野が、見れたよ……」
「な、にを……」
「お前はさ、もっと、もっと……感情を、表に、出す、べきだ……」
「……ぁ」
「それと……………………正義もほどほどに、な…………」
「小更巡査部長? 小更巡査部長!!」
声は徐々に途切れていき、呼吸も弱くなっていた。
涙目になりながらも伊津野は救急車を呼び、できる限りの止血を行なった。
そうしているうちに十分が経過した。
救急車に小更を乗せるのを手伝い、自身も共に救急車に乗り込み病院へと向かった。
だが──病院に着く前に、小更遼也巡査部長は、死亡した。
◾️◾️◾️
「これが、伊津野悠生が今の状態になった最たる原因だ」
残酷な過去を聞かされて愛宮は再び涙を流していた。
いつも冷徹で、なぜか瀬波にだけ嫌がらせみたく振る舞う彼を、愛宮は決して良くは思っていなかった。
しかし事情を聞いて、伊津野に対する見方が大きく変わった。
なにせ──、
「つまり、伊津野一課長が瀬波先輩に冷たくしてたのは
……」
「自分みたいにならないように諦めさせようとしてたのかもしれないな」
菜野は天井に目を向けながらそういった。
性格は違えど、伊津野もまた『若き天才』と呼ばれ、強く正義に執着していた。
だからこそ、瀬波を過去の自分と重ねて、悪手だが冷たく当たっていたのかもしれない。
事件にのめり込みすぎるあまり、回りが見えなくなっていき、最終的には自分が堕ちていく。
それを他の誰よりも、知っていたから。
「どうして菜野警部がこの話を知っていたんですか?」
「見てたからな。当時の二人を。最初はオレも伊津野はあんましよく思ってなかったが、小更が殺された翌日に自分からこの話をし始めたんだよ」
「自分から?」
「ああ。そこで初めて、伊津野も同じ人間で、誰かの死を悲しめるヤツなんだって思ってな。以降、何かと伊津野を気にかける様になったよ」
考えてみれば菜野は何かと伊津野と関わっていた。意外な接点に驚きつつも、愛宮は深く納得した。
「最後にこれだけは言っとくぞ、愛宮巡査」
「はい」
「伊津野の過去を聞いたからって、あいつに同情はするな」
真っすぐに言い放たれた菜野の言葉に愛宮は目を見張った。
「どんな過去であれ、自分を他者に重ねて扱いを変えるのは許されるべきじゃない。何より、同情は伊津野のためにならない。伊津野は伊津野で、自分で先に進む道を見つけさせた方がいいからな」
「────」
「だから愛宮巡査。この先、伊津野と衝突することもあると思う。でも、決して自分を曲げちゃダメだ。愛宮巡査自身の手で、先に進んでいってほしい。その過程で──瀬波を助けてやってくれ」
最後の一言に込められた強い意思に、愛宮の脳内で音を立てて歯車が動き始めた。
暗かったはずの景色は明るく照らされていき、何をすべきか明瞭になった。
やるべき事が定まった。
泣いているばかりじゃ、二人と同じ様に未来には進めない。
自分だって、多くの悲しみを超えてきたのだ。
それは今、この瞬間にも言える事だ。
愛宮には愛宮にしかできないことがある。
なら、誓いを立て、また笑い合える日々が迎えるために役目を果たそう。
「ありがとうございます、菜野警部。わかりました。わたしはわたしの道を進みます。必ず──瀬波先輩を助けてみせます」




