第四十三話 『怒りの置き所』
警察署に戻ると多くの警察官が『刎ね子』逮捕について話していた。
飛び交う内容は事件解決を喜ぶ声と恐怖から解放されることへの安堵感だ。
「『刎ね子』がついに捕まったんだってな!」
「肩の荷が降りるぜー」
「もう怯えなくてもいいんだ……」
『刎ね子』に殺されるかもしれないと恐怖を抱いているのは、なにも一般市民に限った話じゃない。
僕たち警察官も同様の恐怖を抱いている。
おかしな話でも何でもない。至極真っ当な考えなのだ。
「来たか瀬波に愛宮も」
「ご苦労様です菜野警部!」
「──。ご苦労様です」
勢いよく挨拶をする愛宮。
しかし、気分的にどうも彼女のように挨拶する気にもなれず、軽く会釈をして僕は挨拶を返した。
「元気ないなぁ瀬波。『刎ね子』が捕まったんだぞ。嬉しくないのか?」
「そういうわけでは」
淡々と菜野警部の疑問に僕は答えた。
嬉しいか否かを聞かれれば嬉しいに決まっている。
僕の大事な人を奪った『刎ね子』が捕まったのだ。
憎き相手を誰かが捕えてくれた。事件を遂に終わらせてくれたんだ。
それでも。
誰が逮捕するかどうかはじゃないのはわかっている。
わかってはいるが、僕はただ失態を犯して、親友や上司、そして家族を奪われて。
その結果が別の人間が決着をつけた事実が──納得できていないだけで。
「……そうか」
だから、なのか。
嬉しいはずなのに、喜ばしいはずなのに、涙を流すほどに声を上げたいはずなのに。
僕の心がモヤがかったままだ。
「──犯人は取り調べ室だ」
俯いて苦い感情を抱く中、冷たい声が僕の耳に突き刺さる。
顔を上げればそこには先日大沼一課長に代わり、新たに捜査一課をまとめ上げる存在となった伊津野一課長が正面に立っていた。
彼はいつもとなに一つ変わらない表情で僕を見ていた。
「誰が取り調べを担当してるんですか?」
「根城だ」
「────」
根城巡査部長。
大沼一課長が殺された現場に居合わせた刑事だ。
誰よりも近くで大沼一課長の死を見届けた彼が『刎ね子』の取り調べを担当しているとは驚きだ。
彼の心情を思えば別段おかしな話ではない。しかし、失礼な話だがまともな取り調べができるとは思えなかった。
憎しみは人を狂わせる。
僕が言えた話じゃないが奪われたモノの大きさが大きければ大きいほど、心のうちで憎しみは膨れ上がり正常な判断を不能とさせる。
伊津野一課長とはまた経路の違う生真面目さのある根城巡査部長の性格的に、仇を前に冷静さを保てるとは思えない。
だから、よく周りが彼を取り調べに抜擢したものだと思った。
「なぜ根城巡査部長に?」
先をゆく伊津野一課長の背にそう問いかけた。
すると背後へ振り返らず伊津野一課長は答えた。
「菜野警部が凄まじい剣幕に押し切られたらしい」
「そこまでだったんですか?」
「警部の胸ぐらを掴むくらいには、な」
淡々と語る伊津野一課長。
実際どんな様子であったか容易に想像がつく。
と言っても、僕も同じようにしていたに違いない。
憎き相手がようやく逮捕されたとなれば自分こそが取り調べをしたいと思わないわけがない。
そして、仮にも上司にダメだと止められても従える自信がまるでない。
「被害者は?」
「────」
「伊津野一課長?」
答えが返ってこない。
何かあるのかと僕は訝しげに一課長を見た。
数秒経過して、伊津野一課長は口を開いた。
「──三芳芽亜の父親だ」
「は?」
一瞬、何を言われたのか理解できずに僕は立ち止まった。
脳内で一つ一つ単語を咀嚼して、それから再び文字を繋げて、人名であると認識して。
「三芳芽亜の、父親?」
「一流企業の社長である三芳一仁が殺された」
三芳芽亜の父親が殺された......?
三芳芽亜は捜査会議にて菜野警部の娘さんからの情報により、現状『刎ね子』の疑惑がかかった唯一の人物だ。
八月頭に高知県への滞在歴があり、最初の被害者である霜月優と先日の阿久津大河とも関わりがあり、霜月優とは親友、阿久津大河とは二学期以降に親交を深め殺される直前に二人でどこかへ行く姿が目撃されている。
そして、不自然な三芳芽亜の精神的変化。
いくつかの観点から三芳芽亜に疑いの目を向けていた。だが、今回『刎ね子』に殺されたのは、その三芳芽亜の実の父親──。
「どうして三芳芽亜の父親が……」
疑問は尽きない。いずれにしても、この後直接問いただせばわかることだ。
まともに答えればの話だけど。
「気になったのですが」
「なんだ」
ふとある疑問を抱いて伊津野一課長に問いかけた。
「伊津野一課長は、嬉しいですか?」
「────」
「あなたにとっても悲願の相手ですよね。どう捉えているのか気になって」
『刎ね子』が逮捕されたというのにいつもと何も変わらない伊津野一課長。
彼のその冷徹な表情の裏には、いったいどんな想いが渦巻いているのか疑問に思った。
「────」
しかし、伊津野一課長はなにも答えずに再び歩き始めた。
深く答えを追求する必要も感じず僕もそれ以上を聞くのは辞めた。
どれだけ聞こうと、きっと答えてはくれないだろうから。
「────」
向かう先は『刎ね子』のいる取り調べ室。
道中、僕の問いかけ以外の会話が生まれることはなく、三人の靴音が静寂に満たされた廊下に響き渡るだけ。
取り調べ室が近づく度に緊張感は高まっていった。
そして──、
「入れ」
取り調べ室に着き伊津野一課長が扉を開け、僕と愛宮を先に中へ入るよう言った。
愛宮と目を見合わせて互いに頷き合い、意を決して取り調べ室の中へ入った。
「ふざけるなぁ!!」
中へ入った直後に聞こえたのは『刎ね子』の取り調べを担当していた根城巡査部長の怒号だった。
目を向ければ鬼の形相で顔を歪めて、体面に座る不気味な『少女』に鋭い眼光を突き刺していた。
今にも殴りかかりそうなほどに根城巡査部長は怒りに震えている。
「本当に……」
そう。
根城巡査部長の前にいるのは若い『少女』だった。
整えられた長い黒髪を一つに束ね、制服を着用して姿勢良く腰掛ける少女なのだ。
幾度も完全犯罪を成立させ、複数の殺人を未解決事件にした異常者の正体。
それがまさかの女子高校生だったということだ。
まさかとは言っても僕の中では年齢に関する衝撃はさして大きくはない。
両親を殺された日、僕は僕自身の目で『刎ね子』が年若の女である事を確かめている。
だが実際に事実を前にすると言葉にできない感情が湧き立った。
怒りなのか、悲しみなのか、疑念なのか、気持ち悪さなのか。
僕の内心であらゆる感情が渦を巻いている。
ただ一つ、断言できることがあるとするなら。
「意味がわからない」
理解できない思いだった。
見た目からして愛宮と年齢差はほとんどない。そんな少女が単に人を殺すのではなく、首を刎ねる狂気を成したのか。字面だけ見れば空想だと疑わざるを得ない光景が目の前にある。
それがまったく、理解できなかった。
「なにがそんなに気に入らないのか、ワタシには全く理解できませんね」
「十人以上も殺しておいて理由なく殺した? ふざけんな!」
怒鳴られているにも拘らず微笑を湛えたまま微動だにしない『刎ね子』。
このまま根城巡査部長に取り調べをさせていても、彼の怒りのボルテージが上がるだけで進展は望めそうにないな。
交代しようか。
「瀬波先輩」
取り調べ室の扉のノブに手をかけたのと同時、愛宮が僕の肩に触れて心配げな眼差しでこちらを見ていた。
一瞬中へ入ることを躊躇したが、躊躇したところで事態は停滞の一途を辿るばかりだ。
ここで動かす必要があるのは明白。
終わりは、誰かが掲示しなければいけないのだ。
「大丈夫」
一言言い残して僕は取り調べ室の中に入った。
「……瀬波」
「代わります」
「いや……」
「今のまま取り調べを続けても埒があきません。代わってください」
強い口調で言うと根城巡査部長は黙り込んだ。それから彼は席を立ち取り調べ室の扉を開けた。
「既に各事件の詳細は聞いた後だ。新名の父親も自殺ではなく他殺だったことも確定した」
「ありがとうございます」
「それと……まともに耳を傾けるな」
最後にそう言い残して根城巡査部長は取り調べ室を出た。
それを見届けてから僕は書記の警察官に一礼。
そして、机の方へと向き直った。
「お前が『刎ね子』か」
「ええ」
妖しく笑みを浮かべて『刎ね子』は僕の問いかけに首肯した。
窓越しに見た時と直接目にするのとでは感じる異質さが違った。
瞳に光はなく、纏う雰囲気は昏く、陰鬱さを溢れさせたような不吉を象った存在感がある。
「取り調べを担当する瀬波だ」
「存じておりますよ」
自身の名前を名乗って僕は『刎ね子』の対面に座った。
今日までの捜査において、一度として彼女を目にしたことはなかった。
着実に犯人に近づいている実感があったが、こうして全く知らない人物を前にすると辛酸を呑まずにはいられなかった。
ともかく今は『刎ね子』から全てを聞かなくてはならない。
根城巡査部長の反応からしてもまともに答えるとは思えないが。
頭の中に幾つかの質問を並べて僕は『刎ね子』の取り調べを始めた。
「なぜ殺人を犯した?」
「ご存知のようにワタシは母に捨てられ、父にはDVを受けて育ちました。学校でもいじめを受ける日々でしてね」
「────」
「そんな時、溜まりに溜まったフラストレーションを野生の猫にぶつけたんです」
フラストレーションを猫にぶつけた。
それを聞いて『刎ね子』事件が起こる前の成嶋との会話を思い出した。
内容は何匹もの小動物が惨殺された状態で発見され、その多くが首が切り落とされた状態で見つかったというものだ。
あの日の時点では何か大きな事件の前触れなのではないかと考えたが、まさか日本中を震撼させるほどの事件が起きるとは想像もできなかった。
しかし、他ならぬ『刎ね子』の証言で動物の殺害と『刎ね子』事件が繋がっていたこと証明された。
だが、疑問は解消されていない。
「ストレス発散に野生の動物を標的にしたのはわかった。じゃあ、首を切り落とした理由はなんだ?」
『刎ね子』と呼ばれる所以。それはほとんどの殺人にて首を刎ねる異常な殺し方からつけられた名だ。
しかし、ストレスをぶつけたと言っていたが何故首を刎ねることに繋がったかが見えてこない。
如何にして、この長く続く連続殺人に至ったのか、僕たちは知る必要がある。
「簡単ですよ」
新名はそう前置きをして笑みを深め、僅かに目を見開いた。
彼女の変化に悪寒が背筋に走った。
本当の意味で殺人を犯している、首を刎ねている最中の『刎ね子』と対峙している感覚。
あの晩に目の当たりにした狂人の姿が脳裏に鮮明に甦る──。
「──気持ちいいから」
一言。新名羅奈は言い放った。
その発言に僕は唖然とした。
「最初は単なる興味だったんですよ? 生き物の首を切ったらどんな感覚になるのだろうかと。とはいえ、例え動物でも見つかれば虐待の罪でワタシは逮捕されるわけで。でも、好奇心というものは不思議な感覚で、止められないんですよね」
「お前……」
「気がつけばワタシは殺したばかりの猫の亡骸の首にナイフを当てがって、切り落としていました」
「やめろ……」
「初めてはいつだって素敵なモノです。柔らかな肌をゆっくりと裂いていくとやがて硬いものに当たるんですよ」
「やめろっ……」
「骨です。骨にぶつかるんです。骨はナイフでは切るのに時間を要しますから、そこだけは気持ちよくはなくストレスですけど。それから」
「──やめろ!」
「あら」
聞くに耐えない内容に席を立って怒声をぶつけていた。
……根城巡査部長が怒鳴るのも無理もないな。
わかりきっていたが、やはりこの少女は、『刎ね子』は常道から逸脱している。
普通の精神性ではない。
対等に会話しようなどと考えた僕がバカだった。
全うに接するだけでこちらの気分が害されるだけだ。
かといって、話さないわけにはいかない。
今僕がすべきなのは対話だ。憎しみを向けることじゃない。
「…………」
瞑目して深く深呼吸をした。
そして、奥歯で怒りを無理やり噛み砕いて、再び前を向いた。
「理由はわかった。別の質問だ。三芳芽亜の父親を殺した理由はなんだ?」
「みよし……? 誰ですかそれ」
「三芳一仁との関係は?」
「いや、知りませんよ、そんな人」
「──ッ」
ここまでの問答で聞くだけ無駄な気はしていた。
本当に意味を持たず、ただ己が快楽のためだけに殺人を犯しているというのか。
聞いて、意味があるのか? この取り調べに、何の価値が生まれる?
しかし、真っ当な答えが来なくても聞くべき事は全て聞かなければならない。
「次だ。何故瑛陵高校の生徒を二度も殺した? お前は瑛陵高校の生徒ではないはずだ」
『刎ね子』の動向には不可解な点が存在している。そのうちの一つが瑛陵高校の生徒の殺人だ。
最初の一人目は霜月侑。二人目が阿久津大河。
二人なら偶然と言えなくもない。だが、埼玉県全域を殺人区域としているのに瑛陵高校の生徒がピンポイントに二人殺されるのは不自然だ。
殺人の不自然さは他にもある。
新名羅奈は孤児であり、北本市の施設で現在は生活をしている。
通っている高校は同市内にある青峰岸高校。部活動などで両高校が交流した経験もないため、学校同士の繋がりは皆無だ。
極めつけは、そもそも新名が高校に通っていない事。
外界と途絶されていたに等しい完全な不登校生であった少女が、なぜ瑛陵高校の生徒を二度も殺したのか。
考えられる可能性として、まず上がるのがストーカー行為だ。
新名が瑛陵高校の生徒に何らかの理由で執着していたのなら殺す理由にも説明がつく。
だが先に推測したように、新名には家族と施設の人間以外に面識は存在しないはず。故にストーカーは説明がつきにくい。
もう一つ可能性がある。こちらの方が僕はあり得ると踏んでいる。
それは捨てた母親の関係者を殺していたというものだ。
新名は過去、自身の父親のDVの影響で母親は離婚。離婚理由にはDVをした夫の顔が浮かぶとして、娘を母親が捨てた事が含まれている。
つまり、新名はどこかで母親の情報を掴んだ。そして憎き母親への復讐を実行するべく、間接的に関係者を殺して最終的に本人を殺す算段だったと。
「ああ、そのことでしたか」
表情は依然として微笑のまま『刎ね子』は口を開いた。
「偶然ですよ」
「嘘をつくな」
「嘘をつく理由がありますか? 無差別なのはあなた方警察も理解しているはずでしょうに」
「高知県での殺害を除いて全て埼玉県で殺人を行っているのに、なぜ瑛陵高校の生徒が二度も被るんだ。お前が霜月侑と阿久津大河に対して何かしらの意味を含んで殺したとする方が自然だ」
「……はぁ。聞き分けのない方は嫌われますよ」
「ふざけるのにも限度があるぞ。しらばっくれるのは辞めろ」
「事実をお伝えしているだけですが」
そこで初めて『刎ね子』は微笑以外の表情を見せた。
微かな苛立ちだ。顔に不快感を宿して視線を鋭くした。
本当に無差別なのか?
こんな偶然があるのか?
一旦この疑問は後回しだ。今同じ質問を続けてもおそらく答える気はないだろう。
他に聞くべきことは山ほどある。別の質問だ。
「質問を変える。一連の事件のほとんどが埼玉県を対象に殺人を行っていた。でもたった一件だけ全く別の場所、高知県で事件が起きた。あれはなんだ?」
「父親の付き添いです。仕事都合で挨拶回りに付き合わされていました」
筋は通っている。
高校生はそこまで金銭を有していない。新名に至ってはアルバイト経験はないため、ろくなお金もないはずだ。
しかし付き添いとなれば話は変わってくる。
そういえば、移動の資金はどこから出てるんだ?
埼玉県を移動するにもそれなりの金は必要になると思うが、働いていない新名はどこで資金を得ていたのかがわからない。
「お前は働く以前に外出さえろくにしてない。高知での殺害を除いて、移動の金銭はどうしていたんだ」
「父親のを盗む以外にありますか?」
「…………」
当然とばかりに悪びれる様子もなくハッキリと『刎ね子』は答えた。
『刎ね子』に強盗したような事例は存在していない。
話は事実なのだろう。
まだまだ聞きたいことはある。
本音を言えば、成嶋を殺した事をいの一番に聞きたい。他の質問の全てを無視して、なぜ捕まるリスクを背負ってまで警察官である成嶋を殺したのかを。
「警察官を一人、殺したな」
「警察官?」
「成嶋秋哉。忘れたとは言わせないぞ」
「名前は生憎と誰一人として覚えていませんが、そうですね警察官、警察官……あ! 思い出しました。たしか、橋の下で殺した男性の方でしたよね」
本当にただ思い出しただけ。
十人以上を殺して、そのうちの一人を思い出すのは聞かれてようやくの領域。
「………ぎっ」
強く奥歯を噛んだ。
成嶋は……。成嶋はこんな奴に殺されたって言うのか!
一様に殺人は赦される行為じゃない。
自らの意思で人を殺した時点でたとえどんな理由があろうとも悪だ。絶対悪な事実が揺らぐことはない。
でも、だ。
百歩譲ることさえもできないけれど、まだ、まだ恨みを持って殺したと言われた方が整理もついた。
それが誰を殺したかも理解していない、真に人を人だと認識せず、己が欲望を満たすだけの『物』として利用されて成嶋は殺された。
「……ふぅ」
天井見上げて右手で顔を覆った。
事件は終わった。事件は終わったんだ。
形式上は終わったはずなのに、精神的に事件が終わらない。
どこに成嶋を殺された悲しみを、苦しみを、憎しみを!
亡くした痛みをぶつけろって言うんだよ!
「──怒っていらっしゃいますね」
その一言に僕は弾かれたように顔を上げた。
見れば『刎ね子』は楽しげにこちらの様子を伺いながら、ゆっくりと話しはじめた。
「あなたの怒りはワタシにもよく理解できます」
「な、にを……」
「やるせないのでしょう? 終わりが、こんな形で訪れた事実に」
少女は残酷に口を裂いて嗤う。
それは嘲笑ではなかった。
瞳を爛々と輝かせ、黒瞳に赤い光を、狂気を宿していた。
「ワタシの愚かなミスの積み重ねが、この結末を導いたわけです。しかし悪を悪と認識せず、被害者さえ認識の外にある。全てを捨てでも捕えたかった犯人が現状を楽しんでいる。いえ、こう言い換えてもいいですね。楽しませてしまっている」
「──ッ」
「ほんとうは心底申し訳なさそうに罪を謝罪させ、首を垂れて「謝っても許せない」なんて糾弾したかったのでは?」
「そんなのが目的じゃない!」
「死刑を拒む無様な姿を完膚なきまでに拒絶して、目の前に座る狂人の心をあなたの手で砕いて、千々に切り裂いて、打ちのめしたかったのでしょう?」
「そんなわけないって言ってんだろ!」
「では──今のあなたの顔に宿る『それ』はなんだというのですか?」
赤く染まり始めた思考に『刎ね子』の一言が突き刺さり、僕は目を見開いた。
右手で頬を触り、取り調べ室にある片面鏡を見た。
「……ぁ」
無様な顔だった。
目の下に大きなクマを作り疲弊しきった顔。
悔しいとも悲しいとも表せない表情。
行き場を失った怒りが、僕の顔に張り付いていた。
「現実とは都合良くはいかないものですね」
「…………」
これ以上、僕が何を話しても無駄だ。
目の前の狂人には人の痛みが理解できない。ただ自らの欲求を満たしたいがために人を殺し続けた狂人から、得るものなんて何もない。
余計に、傷ついただけだった。
「行ってしまうのですか?」
振り返り、取り調べ室の扉のドアノブに手をかけたところでそう声がかけられた。
「──っ」
一瞬の躊躇いを経て僕は取り調べ室の外に出た。
もはや、対話をする気になれなかった。
僕の中で『刎ね子』事件は終わったんだ。
今の気持ちは必ず時間が解決してくれる。
心の中で整理する以外に、ない。
▲▲▲
十分間の対話を経て取り調べ室を出た瀬波の表情は、見たことがないほどに疲れきっていた。
自分が言葉をかけたとても気休めにさえならない。そう本能的に理解させられるほどだった。
最後のやり取りの最中に見た、片面鏡越しの瀬波の表情を見て、愛宮は胸が締め付けられる想いが込み上げてきた。
苦しんでいる。怒っている。簡単な感情表現の文字で言い表せないやるせなさを、瀬波の表情から強く感じた。
「無駄な問答だったな」
「──ッ」
取り調べ室から出てきた瀬波に最初に声をかけたのは伊津野だった。
彼は瀬波に対して冷酷に一言を伝えた。
「あなたにはわからないでしょうね。大切な人を喪う苦しみも怒りも」
それだけ言い残して、瀬波はこの場を去っていった。
以前までは逞しく見えた先輩の背中は、年相応の弱さに打ちのめされて小さく見えた。
「……わからないわけないだろ」
ポツリと、伊津野が口にしたのを愛宮は聞き逃さない。
感情を表に出さない伊津野。今の彼の表情には確かな怒りが宿っていた。
愛宮から見て伊津野が見せた怒りは、単に『刎ね子』に対する怒りとは別のように思われた。
彼もまた『刎ね子』に傷を受けたのだろうか。
愛宮には伊津野の真意はまったくわからなかった。
「────」
誰も彼も、今回起きた最悪の連続殺人事件に深い傷跡を心に刻まれた。
しかし、どれだけの痛みを抱えようとも、人は前に進み続けなければならない。
同じ傷を受けた立場でも、愛宮の傷は浅い。なら今は、傷の浅い者こそ早期に整理をつけて、人よりも早く未来を歩むべき時だ。
「前を向かなくちゃ」
グッと拳を握り締めて胸にそれを当てた。
進もう。亡くなった人たちの分も。
進もう。深い傷を受けた人たちの分も。
進もう──己が掲げる正義のためにも。
ここに、九ヶ月に渡る『刎ね子』連続殺人事件は、終わった。




