第四話 『狂人』
人を殺して、笑っている。
その事実に気づいて、何故奥歯を噛み、拳を強く握りしめていたのかを本当の意味で理解した。
体が、心が、本来正常な人間がすべき反応ではない感覚を抱いたことで、それを本能が拒絶しようとした。だから人殺しに感じるはずの恐怖心と罪悪感を理由にして、本当に感じたモノを覆い隠そうとした。
どちらもゼロではない。確かに霜月侑殺害を、正確には人殺しをしたことへの罪悪感と恐怖心はある。しかしそれを上回っているのだ。本当の感情は。
自覚してはならない。
だってそうだ。
この感情を自覚したら私は。
「──人殺しに快感を覚えた」
狂人だ。
「──。あまり悠長にしてると誰か来るかもしませんし、急がないと」
死体を地面に横たわらせ、私はベンチの清掃から始めることにした。
手袋は別のモノに付け替え、鞄から三枚の雑巾とアルコールスプレーを取り出し、それを大量に吹きかけて端から端まで拭き取っていく。
その際衣服がベンチに付かないよう徹底する。
「よし」
限られた時間の中で隅々まで余すことなく拭き取り、私は一息吐いた。
手袋を再び新しいのに交換。霜月侑の腋の下に手を入れて、彼女の死体を公園の暗い木々の奥へと運ぶ。
……重すぎる。
死体が重くなるのは知っていたがまさかここまでとは。
持ち上げて運ぶのは困難だ。引き摺るしかない。引き摺った跡は死体を遺棄した後で消そう。
「……おも」
暗がりまで運び、雑に死体の手を離して地面に置いた。
後はこの死体を地面に埋めれば終わりで──、
「────」
あぁ、何を考えているんだ私は。
もう時刻は二時半を過ぎている。
今この『欲望』に甘えれば、到底死体遺棄している時間はなくなる。
遅くなりすぎれば早朝に外へ出る人間に見られる。
早ければ五時には人が散歩などで街を歩き始め、目撃者を作ることに繋がる。
それに六時からは雨予報だ。
林公園付近に防犯カメラは無いが、ある程度歩いた先には防犯カメラが設置されている。死体が発見され時、不審人物がいないか街中の防犯カメラを確認されるのは必然。そこにずぶ濡れ且つ早朝に外を歩く私の姿が捉えられば真っ先に疑われるだろう。
だから、今はダメだ。
絶対に。絶対に絶対にぜっ、
「耐えられない……!」
欲望に抗えず、鞄に手を入れてそれを取り出す。
直後──勢いよく、死体の首に鉈を振り下ろした。
「あああぁ、たまらない」
自分で言っていて本当に気持ち悪いと感じる。でも事実なのだから、言わずにはいられない。
気持ちいい。
とてもとても、気持ちいい。
「はぁ、はぁ……」
動物を最初にただ殺すのに飽きたのは十匹目を殺した時だった。
ただ殺すのではストレスの発散効果が薄まるのを感じた。ではどうすればいいかと考えながら、私は息絶えた猫を見下ろした。
そして気がつけば、その首にナイフを当てがい、上下に動かしていた。
ドクドクと流れ出る血を見ながら、汚れるのも構わずにひたすら首を切り続けた。
しかし、それは永遠ではない。
数十分繰り返すと、ナイフが空を切る。
見れば、猫の首は胴から分たれ地面に落ちていた。
猫の首を、刎ねたのだ。
「──っ」
その時に感じた、首を刎ねる感覚が忘れられなくて。
だってあまりにも気持ちが良かったから。
刎ねるまでは力がいる上に時間がかかる。でもその全てを考える思考は、私の脳内にはなかった。
首を切る心地良さ。
最後に切り落とした時の快感の絶頂。
それだけではない。
私が抱いた憎悪を、苦しみを、悲しみを、絶望を。凡ゆる蓄積した負の感情を乗せて切り続ける。その時間がストレスが千々に散っていく感覚に満たされ、心地良かった。
快感を得た後、また得たいと考えるのが人間だ。
私にとっては、首を切り、刎ねることが至高の快感になっていた。
「はぁ……っ、終わってしまいました」
心地良さに包まれながら切り続けること数十分。
私は、霜月侑の死体の首を刎ねた。
「わかってはいましたが、やはり死体を埋める時間はありませんね。予定変更して少しでも発見に時間がかかる場所に隠す方向にしましょうか」
人が来ないことは確認しているが絶対ではない。
最後まで抜かりなく、事を終えなければ。
◾️◾️◾️
何とか雨が降り始める前に自宅に帰宅できた。
首を刎ねた後、霜月侑の死体は太い木を探してその裏に寄り掛からせる形で捨てた。
刎ねた首はその死体に持たせる形で置いておいた。
「────」
シャワーを浴びて、朝食を済ませ、急いで身支度を整えて学校へ向かったお陰で何とか遅刻せずに済んだ。
今の私は──殺人犯だ。
しかし不思議だ。
もっと罪悪感や焦り、見つかることへの過度な心配をするものだと思っていた。見つかることに怯え、心は穏やかではない日常生活を送ることになるのだとばかり。
でも、いずれの感情も私の心にはごく僅かしかなかった。
逆に、日常生活から非日常生活へと変わることへの大いなる好奇心が勝り、私の心は以前にも増して軽くなっていると実感する。
快感を知ってしまった以上、私はまた誰かの首を刎ねるだろう。
その前に霜月侑の遺体は発見され、警察が動き、大々的に報道されるようになる。だが、そんなことはどうでもいい。
現時点で苦痛しかない人生を、他の誰かの手で終わらせてくれるのなら、それが『死』でも構わない。
ただあまりにも早く捕まっては快感を満たせないことに鬱憤が溜まるし、面白くない。
これまで培ってきた経験の全てを最大限活用して、首を刎ね続ける。
最後の最後まで。
「三芳さん、霜月さんから何か聞いてたりしない?」
「ごめんなさい、私も何も聞いていなくて……」
「そっか……。どうしたんだろう霜月さん」
霜月侑の無断欠席。
そう担任から告げられると、彼女を知る生徒たちに衝撃が走った。
三年開始から一ヶ月。
霜月侑という生徒は、穏やかで優しく、真面目で清楚な存在だと周知されている。
そんな彼女が無断欠席したことで、何かあったのではないかと考えのか、側から見れば接点が多く見える私に何か知らないかを問いかけてきた。
私はいつも通りの振る舞いで、そこに心配げな色を纏い知らないと嘘をつく。
霜月侑という少女は、もうこの世にはいない。
この私が、殺したのだから。
「…………」
窓越しに豪雨の外を眺めながら、霜月侑殺害の行く末について考える。
霜月侑の欠席について担任を始め誰も知らないのは好都合だ。友人には私と会うことは話していないとわかった。
後は彼女が家族に私と会う事を伝えていなければ完璧。
その答えは担任が霜月侑の自宅に電話してからだ。
もしそこで「三芳さんと会うと話してた」と言われれば面倒だ。今のうちに適当な嘘を考えておかないと。
それがなければ、後は聞かれても心配そうに知らないと返し続けるだけで済む。
問題は警察が動き始めてからだ。
親しい生徒となれば真っ先に私の名前が上がり、私は警察から確実に話を聞かれる。証拠はできる限り隠滅し、死体の発見にも時間がかかる場所にもしたが、それでも死亡推定時刻は案外あっさりと特定される。
アリバイを証言できる人間がいない現状、変に勘ぐられれば厄介なことになりかねない。
その時の乗り越え方を想定しておくとしよう。
「ひとまず安心、ですかね」
担任が戻ってきたのは朝の挨拶から三十分後だった。
結果、霜月侑の家族は突然失踪した事実にひどく動揺しており、これから警察に行方不明者届けを出しに行くと言われたと話していた。
つまり、第一関門は突破したというわけだ。
第二関門は警察の動きで私の行動も変化する。と言っても、さして心配はしていない。
この殺人はただの殺人ではない。猟奇殺人だ。
それをまさか、女子高生がやったと考えるにしても可能性は低いと判断するのが自然だ。
……あくまで私の勘であり、絶対ではないけれど。
「? こんにちは菜野さん」
「────」
次の授業へ向かう途中一、二年間同じクラスだった菜野琴葉がこちらへ近づいてきた。
殺人を犯したからといって、これまでの振る舞いが変化することはない。いつも通り人々が求める理想の『三芳芽亜』を演じながら、私は先に軽く頭を下げて挨拶をした。
しかし、菜野は私の存在を無視して無言ですれ違っていった。
クラスが同じだっただけで、ほとんど関わったことがない相手。文化祭の出し物の時の話し合いで会話する程度の関係性だ。
それでも、八方美人としての自分を形成する道を選んだ以上、たとえ嫌いな相手でも私は同じように接する。
「こういうのの積み重ねが、私をおかしくする」
無視されて気分がいいのは変な癖を持ち合わせる人間だけだ。
私は無視されれば腹が立つし、悪口を言われても腹が立つ。
既に遠くなった菜野の背を睨みつけてから、次の授業へと向かった。
◾️◾️◾️
──三芳芽亜が霜月侑を殺害した、三週間後。
立入禁止と書かれた黄色のテープ、それが貼られた向こう側に立つ警察官に警察手帳を見せて、僕と後輩の愛宮彩瀬は現場に入った。
「「お疲れ様です、一課長」」
「来たか、瀬波、愛宮」
僕らが挨拶をすると、長身の男性は振り返りそれぞれの苗字を低い声で呼んだ。
厳格さを身にまとい、振る舞いの全てに徹底した警視庁捜査一課のトップ。──大沼蓮二捜査一課長だ。
「ご遺体は」
「あそこだ」
「ありがとうございます」
「先に言っておくぞ。覚悟しておけ」
事前に殺人事件が起きたと聞いていた。
その遺体の下へ行こうとしたところで、大沼一課長にそう言われた。
覚悟しておけ。
その言葉に、僕の全身に悪寒が走った。
でも僕は警察官だ。先へ進み続けなければいけない。
僕は同じく不安そうにしていた愛宮に「行こう」と頷きかけて共に死体の下へ向かう。
そして、大沼一課長が先んじて助言してくれた意味を痛感した。
「うぷ……」
吐き気に手を抑えて愛宮は遺体から視線を逸した。
彼女の反応は理解できる。過去、殺人事件に何度か関わってきた。遺体を初めて見た時の恐怖心は未だに脳裏に焼き付いている。
だが、今回の殺人は僕のまだ浅い警察人生の中では、初めての事例だった。
──遺体は、首から上がなかった。
そして肝心の首は、遺体の両手の上に置かれている。
僕より更に経験の少ない愛宮には、トラウマになるほどの衝撃があったはずだ。
衝撃を受けたのは僕も同じだ。
でも、今するのは怖がることじゃない。遺体について話を聞くことだ。
僕は遺体を調べている鑑識の一人に声をかけた。
「被害者の名前は?」
「瑛陵高校の三年生、霜月侑十七歳。別の方からお聞きしましたが、三週間前にも同姓同名の人物の行方不明者届けが出されていたそうです」
「死亡推定時刻は?」
「細かな時間は推定できてませんが、行方不明者届けが出た日と考えれば三週間は経過しているかと」
「三週間……」
「しかも証拠一つないときたよ。完全犯罪、反吐が出る」
吐き捨てるように言ったのは、先日強盗犯の逮捕に尽力してくれた同期の成嶋だ。
普段の飄々とした雰囲気は消えて、犯人に対する怒りを露わにしている。
「……っ」
遺体に手を合わせてから、僕は惨殺遺体を観察した。
衣服は血と泥で汚れているものの破れていない。身体に切り落とされたこと以外の外傷はないことから、取っ組み合いになったとは考えにくい。
恐らく不意打ちで殺された。
そして特筆すべきは切り落とされた首だ。
瞳は虚い、口元がひどく汚れている。
「口の中の状態はどうでしたか?」
「だいぶ傷を負っていますね。口内に手を入れられて声を出させないようにしたのでしょう」
「……やっぱり」
「首の傷を見てください。切れ味の悪い刃物を使用したのか、全体的に荒い。それから一箇所、切られたのではなく刺された箇所があります」
鑑識の方が指を刺した場所を見れば、確かに一箇所だけ大きな傷口が見つかった。その傷口は半分に分たれていて、遺体の両手の上の首を見れば同じ位置の場所に半分になった傷口があった。
「口を押されられながら、空いた手で刃物を首に刺して殺したんだろうよ。ただ殺すだけならそれだけで済んでた。でも」
「切り落とされてる。犯人は被害者に恨みを持っていたことが動機かな……」
「──その判断は早計だ」
僕と成嶋の会話に新たな声が入った。
振り返れば、僕らよりも頭一つ高い背でこの現場にも一切動じている様子のない上司──伊津野悠生警視がそう言った。
「早計、っすか」
「お前たちの見立ては単に現場を見て、僅かな証拠から推測したにすぎない。視野を広げろ」
そう言い残して伊津野警視は立ち去っていった。
埼玉県警内で毎年とてつもない成績を残している伊津野警視。期待の警察官とされ、時期捜査一課長の有力候補と召される存在だ。
「瀬波が活躍しそうになってるから嫌味でも言いにきたのか?」
「やめなよ成嶋……簡単な答えを出したのは事実だから」
前々からあまり伊津野警視をよく思わない成嶋。
事件現場に来て私情を、それも上司に対しては正すべき態度だ。
でも、仲良くしてもらってるのもあり、性格的にも強く言えない自分が不甲斐ない。
成嶋から視線を移して再度首の切り落とされた遺体に目を向ける。
「視野を広げろ、か」
今一度、伊津野警視に言われたことを思い出して、事件について考える。
「────」
数分考え込み、僕はあることを思い出した。
「成嶋、前に強盗犯を逮捕した時に動物が殺害されたって話覚えてる?」
「え? あぁ、あの後も何件か……もしかして」
成嶋が強盗犯逮捕の際に話した、不審な動物殺害。
大きな事件の前兆と会話したのは記憶に新しい。
その不審な動物殺害は、ただ殺害されていたわけではない。
「──首が切り落とされてたって言ってたよね」