第三十九話 『赤い夢』
──白い空間に、立っていた。
見渡す限り一面白一色で統一された空間が、際限なく、どこまでも続いている。
自分は何故、こんな場所にいるのだろうか。
「────」
本能が、この空間で立ち尽くすことを拒絶する。
何も考えずにただひたすら前へ前へと歩き続けた。
充てもなく、空間の終わりを目指して、奥へと突き進んでいく。
「………」
突然、変化は訪れた。
視界に靄のかかった人影をとらえた。
背丈は高く、肩幅は広い。
靄が薄れていく。
見慣れた警察官の制服を着用しているのがハッキリとわかるほどに、人影は鮮明になっていった。
知っている。
正面に立つ勇ましい人物を、知っている。
それは幾度も憧れ、幾度も目指したいと思った存在。いつかは自分も至るべき境地に、その人物は在り続けた。
埼玉県警捜査一課長──大沼蓮二。
「…………」
振り返ることなく、大沼一課長は無言で立ち尽くしている。
何かを伝えなければいけないと思った。
だから、駆け足で彼の下へと走った。
そして、目前で止まり声をかけようとした。
「………っ」
手を伸ばして、空間内に起きた変化に息を呑んだ。
白一色だったはずの空間にまるでバケツから絵の具をぶちまけたみたいに、赤色が上部から流れ始めた。
赤色は白い世界を侵食し、気がつけば自身の足元まで赤く染まっていた。
赤く赤く赤く赤く──。
無限に続く赤色が何を示しているかわからなかった。
正面、今なお無言で立ち尽くす大沼蓮二一課長。
彼の背中の中心が濡れていた。
その一部分を起点に、下の方へと不規則に液体が滴っていく。
「あ」
凛々しく立っていた大沼一課長が突然倒れた。
咄嗟に駆け寄り、彼が地面に叩きつけられないように支えた。
触れた大沼一課長の身体は異常なまでに冷たかった。
加えて自分よりも背も高く体重もある大沼一課長の身体は、体格に見合わない軽さだった。
何かがおかしい。
大丈夫かと声をかけようとした。
そこで理解する。
「──っ」
声にならない声を上げて顔を引き攣らせた。
大沼一課長の顔から生気が失われていた。
背中を支えた右手に体温とは別の冷たさを感じて自らの手を見た。
真っ赤になっていた。
恐る恐る視線を大沼一課長の腹部に落とした。
同様に、真っ赤だった。
「────」
とうに知っていた。わかりきっていた。
でも知りたくなかった。忘れてしまいたかった。
できるものなら、全てなかったことであって欲しい。
赤色は血だ。
そして大沼蓮二一課長は──『刎ね子』の手下に殺されたのだ。
「────」
大沼一課長の身体が砂のように崩れ落ちて消え去った。
フラフラと立ち上がり、再び果てのない道を歩き始めた。
白一色だった世界が今度は赤一色、血の世界となって心をかき乱す。
『刎ね子』によって、すでに十人以上もの人々を死なせた。
救える立場にいながら救えなかった己の無力感に打ちひしがれ、次いで生まれるのは自身への激しい怒りだ。
最悪の存在をもっと早く止められていれば、誰も失わせずに済んだ。理解していても現実は想像よりも残酷で、一歩進む事さえ許してはくれなかった。
どれだけ犯人へと至る証拠や証言を求めたか。
自分が朗報を会議の場で話せればどれほど良かった
か。
正義? 笑わせる。
何も成せないで何が正義に誓う、だ。
救えない過ちをカサネル自分に正義を背負う資格はない。
今の自分を形容するなら、願望を言っていただけの愚者。
何一つ結果を示せない愚か者だ。
「────」
内心で自らを罵倒し続けていると、世界に再び変化が生じた。
人影だ。目の前に人影が現れた。
大沼一課長の時とは異なり、今度は初めからくっきりと姿が見えている。
自分と同じくらいの体格の男の後ろ姿。
知っている。知らないはずがない。忘れるはずもない。
「──成嶋」
成嶋秋哉。かけがえのない親友だ。
もう『現実』のどこにも存在しない、失われてしまった親友だ。
大沼一課長と同じく、振り返らず立ち尽くす成嶋。
声をかけたい。話したくてたまらない。
でももう、親友は『現実』にいない。
成嶋の墓参りに行ったのは最初にお参りした時以来だ。
『刎ね子』事件を解決するまで、最低でも犯人像が明確にわかるまで成嶋に会ってはいけないと思った。
成嶋に心から顔向けできない現状のまま会いに行こうと考える自分を許せなかった。
全てが終わるその日まで、成嶋には会わない。大沼一課長も同様に。
それが自らに課した罰だ。
「……ぁ」
突然、成嶋はこちらへ振り返った。
そして、笑った。
以前と変わらない純粋な笑みを浮かべていた。
思わず泣きそうになった。
しかし、グッと奥歯を噛み締めて涙を必死に堪えた。
涙を流したいのは成嶋の方だ。泣く事さえ今の自分には許したくない。
「────」
成嶋の姿に異変が起きた。
腹部に一部分が白のワイシャツを赤く染め始めた。
ということは背中も同様に二箇所、赤く染まっているのだろう。
その変化に心臓に針を打ち付けられたか錯覚するほど激痛が走った。
「────」
ワイシャツを残酷に赤く染め上げていく『血』。
顔を見れば成嶋の血色の良かったは肌は青白くなっていた。
だが、成嶋は笑みを絶やさなかった。
「大丈夫だよ成嶋」
自分でも恐ろしいくらいに冷静な声が出た。
泣きたい気持ちも、罪悪感も、心臓の痛みも。
生じている全ての感覚を無視して、成嶋の顔を見据えた。
そして、口を開いた。
「僕が必ず──」
◾️◾️◾️
──目蓋に指さる陽光の眩しさに僕はゆっくりと目を開けた。
夢から覚めた。
だからなのか、眠りから覚めた時の気だるさはなかった。
僕は寝台に上に寝かされていた。
側頭部に手を当てれば包帯が巻かれている。
微かに痛む程度なため捜査にもすぐ復帰できるはずだ。
「あの夢」
夢の内容は鮮明に覚えている。
死した大沼一課長と成嶋が現れた異質な世界。
何故、あのような夢を見たのかはわかる。
昨晩の意識を失う直前の出来事が原因だ。
昨日は愛宮と共に休暇を満喫して、その後僕は実家へと戻った。しかし玄関に入る前に異変を察し、中に入ってから──両親の殺害現場に遭遇した。
父の首に刃物を当てがう犯人と目が合い、僕は必死に捉えようとしたが鈍器で殴られて気絶し逃してしまった。
嫌というほどに覚えている。
脳裏にあの無惨な光景が焼きついて離れない。
恐らく。いや、間違いなくと断言できる。
とうに殺されていた父の首に不自然に刃物を当てている状態。
あれは確実に──『刎ね子』だ。
『刎ね子』が、僕の両親を殺したんだ。
「瀬南先輩!」
横から甲高い涙声が聞こえた。
身体を起こして顔を傾けるとそこには見慣れた後輩の姿があった。
愛宮彩瀬。どん底から救ってくれた大切な後輩。
同時に、今の僕に残された唯一の絶対的に守らなければいけない存在だ。
「ごめん愛宮。また心配かけちゃって」
「謝らないでくださいっ! わたしの方こそ、ギリギリまで一緒にいたのに」
「──愛宮のせいじゃない」
愛宮の言葉を遮って僕は言った。
心配してくれるのは嬉しい。
でも愛宮は、僕に関することとなると過剰になりすぎだ。
「どうあっても愛宮のせいになんかならない。心配してくれるのは嬉しいけど、それで自分のせいだって考えないで。この結果を招いたのは他ならぬ僕のせい以外の何ものでもないんだから」
「すみません……」
キツイ言い方をしたが事実だ。
たとえどんな状況であれ、僕に関することで愛宮が悪いとなる事象は起こり得ない。
そのことを悪いけど飲み込んでもらいたい。
昨晩の出来事は紛れもなく僕の失態だ。
失態に失態を重ねた、僕の無能さが招いた結果なのだ。
他の誰でもない。
背負うべきものは、背負わなければいけない。
「何日くらい寝てた?」
「三日です……」
殴られた時の当たりどころか悪かったんだな。
もしかすると、あの白から赤へと転じた夢の世界に選択肢を与えられていたのだろうか。
目覚めるか、死ぬか──。
「愛宮だけ?」
「いえ、伊津野警部も来てます」
「呼んできてもらえるかな。一対一で話がしたい」
「わかりました」
そう言って愛宮は足早に病室を出て行った。
警察署で倒れた時とは話が違う。
今回は僕の両親が『刎ね子』の被害者となっただけでなく、僕自身も『刎ね子』と被害者となりここにいる。
そして今、この世界において瀬波碧斗という存在は──唯一『刎ね子』の生きた被害者となった。
単純に警察官が被害者になった以上に瀬波碧斗が被害者になったこと、それも『刎ね子』によるものと分かれば伊津野警部が病院に来ていないはずがないと思ったのだ。
「絶望しているかと思っていたんだがな」
冷えた声音が病室内に響いた。
視線を向ければ伊津野警部が病室の入り口に立っていた。
「絶望してどうにかなるならいくらでもしますよ」
「経験則か?」
「はい」
伊津野警部なりの心配なのだろう。
彼は常に冷徹で厳しい人だ。安い心配などしてはくれない。
されても、正直今は意味をなさないけれど。
「三日前の晩、お前の実家で何があったか説明しろ」
そう言われて、僕は包み隠さず全てを話した。
愛宮と過ごした休暇の終わり、実家に帰省した事。
そこで言い聞かせてあった玄関の鍵の戸締りがされていなかった事。
中へ入ると不自然にリビングだけ電気が消されていた事。
そして、右手に刃物を持ち父の首に当てがっていた犯人と遭遇した事。
「────」
一連の話を聞いても伊津野警部の表情に変化はなかった。
表情そのままに顎に手をやり、何かを考え込み始めた。病室内が沈黙に満たされる。
「なぜ『刎ね子』だと断言した?」
沈黙を破り伊津野警部は僕にそう問いかけた。
「人気のない辺鄙な土地での殺人に加え、殺した死体の首を切ろうとしていたからです」
「他には」
「変装をしていました。『刎ね子』の目撃証言は過去一度もありませんが、都度変装して犯行を行っていたとしたら目撃証言という名の決まった答えを得られない事にも納得がいく」
実家付近に防犯カメラは設置されていない。街灯は少なく、一切の人気がない山の麓に建てられた実家は、過去の『刎ね子』事件の犯行現場と重なる。
変装については、
「待て。変装だと断言する根拠はなんだ?」
瞳を細めて伊津野警部は言った。その声音からは微かに力強さを感じた。
確かに説明し忘れていた。
あの晩。僕は『刎ね子』を見た。
ただ見ただけでは変装しているか否かはわかるはずもない。だから、伊津野警部は変装だと断言する僕を怪しんでいる。
『刎ね子』が変装している絶対的な根拠。
動揺の渦中でも目蓋に焼き付けた、性別すら知り得なかった殺人鬼の姿を思い出して。
「長い髪でした」
「なに?」
「僕は犯人を何としても逃さないと『刎ね子』に覆い被さったんです。その時に被っていた帽子が外れて、長い髪が顕になりました。間近で見た目元は男性のモノとは異なる柔らかさと睫毛の長さ、肌感は滑らかな印象を受けました」
「──っ」
「単に長髪の男性かもしれない。しかしそれでは、目元の女性らしさに説明がつかない。やはり『刎ね子』は女だと僕は考えます」
よくぞ覚えていたと自画自賛する。
犯人を逃しただけでなく、姿を見ておきながら殴られた衝撃で姿を忘れたとなれば生き残った意味がない。
両親と同じように僕も『刎ね子』に殺されていたかもしれない。
でも、こうして生きている。いいや生かされたと言い換えてもいい。
世界で唯一無二の存在となった僕にしか出来ないことをやり遂げるのだ。
「話はわかった」
胸ポケットから取り出したメモ帳に何かを書き込んだ後、伊津野警部は改めて僕と目を合わせた。
叱られるのだろうか。無理もない。
一対一という絶好の状況でありながら僕は犯人を逃したのだ。咎められて当然、
「──大丈夫か?」
かけられた言葉は予想とはまるで異なるモノだった。
病室に入ってきた当初にはかけられなかった心配の言葉。それを今かけられた。
簡潔に、大丈夫かと。
返すべき言葉、既に決まっている。
「大丈夫です」
そう言ってから僕は病室の窓の外へ顔を向けた。
曇った寒空の下、枯れ木がいくつも生えているのが見える。
まるで今の自分のようだと思った。
多くの犠牲を経てようやく得た大きな証拠。
傷だらけのハリボテの正義だとしても、自らの心に掲げるモノを失えば今度こそ何もできなくなる。
やるべき事を見失って壊れたくはない。
たとえボロボロになっていても、間違いだらけでも、僕は警察官として正義に誓う事を辞めない。
惡を罰するのに、正義なくしてなんだと言うのか。
全てを終えるまで己が正義に誓って足掻き続ける。
そして醜態の果てに、僕は。
「僕が必ず──」
──『刎ね子』を殺す。




