第二十六話 『終焉の残滓』
──由ヶ崎麗花は産まれた時のことを覚えていた。
三歳以前の記憶がほぼ残らない現象である幼児期健忘。通常、幼児期健忘は大抵の人間に起こる普遍的なモノだ。
故に幼児期健忘が起こっていない人間は極めて稀。
それが麗花には起こらなかった。
麗花は三歳以前どころか、胎児の頃の記憶も残っていた。
だから、自分の親に最初にかけられた言葉が、今でも鮮明に脳裏に焼きついている。
『──なんで生まれてくんだよ』
それは父親が発した言葉だった。
私を抱え、心底不愉快そうな顔で麗花を見る母親の姿もよく覚えている。
喜びと安堵を顔に出していた医者と看護師とはまるで対極な反応であったと、思い返す度に心が出血した。
適当に決められた名を与えられ、病院からおそらく家であろう場所に連れ帰られた時のことも麗花は覚えていた。
生まれたばかりの麗花に罵詈雑言を浴びせ、空腹や排泄の際に泣き叫べば悪罵され、近くに寄っていけば逃げられて、酷い時には蹴り飛ばされた。
麗花の誕生後、麗花の両親は喧嘩が絶えなかった。
何故、自分に言い寄ってきたのか。
関わったのが間違いだった。
子供なんて作るな。
ひたすらに不毛な言い合いを繰り返していた。
そうして、麗花が生まれてから三ヶ月が経過した時、変化は訪れた。
食事も満足に与えられず、自らの排泄物に汚れ、傷だらけの体。
痛く苦しく、絶叫し続けた。
絶叫して絶叫して絶叫して。
当然のように両親から剣林弾雨の如く罵声を浴びせられて。
だが突然、両親からの罵声が止んだ。
それまで、生まれてきたことを憎まれ、否定し続けた両親の罵倒がパタリと消え去った。
あの瞬間に訪れた静寂は、世界が変わったかのように麗花には感じられた。
不自然な変化に麗花は泣き止み、周囲を見渡した。
すると、胎児の麗花の瞳に血溜まりに倒れる母親の姿が最初に映った。
今度は父親の姿を探そうと視線を巡らせ、見つからないから四つん這いで歩いて探しに行った。
そして、麗花は眼にする。
──惨殺されている父親の姿を。
両眼を抉られ、額にナイフが突き立てられていた。
続いて視界に入ったのは、少年が父親の両腕を切り落とす光景。
本能が恐怖した。
一度は泣き止んだものの、再び恐怖感に滂沱と涙を流して絶叫した。
「うるさいなぁ……」
泣き叫ぶ麗花に少年は近づいてきた。
潤んだ視界に映る血塗れの少年。
少年は冷えた瞳で麗花を見下ろした。
そして少年は、何も言わずにナイフを持った右手を振り上げて──、
「この子は殺さなくてもいいかな」
そう言って、少年はナイフをしまい麗花を抱き抱えた。
それが由ヶ崎麗花と、二十年前の一家連続殺人の犯人である少年──のちにリデルと名乗る由ヶ崎瑠津との、最初の出会いだった。
◾️◾️◾️
少年、由ヶ崎瑠津が兄だと知ったのは、彼と出会ってから二年が経過してからだ。
それまでの日々は、家を転々とし、適当な食事を与えられる生活だった。
特に麗花に声をかけることはなかった。
本当に食事を与えるか、抱き抱えて家を出るか。普通の家庭からすれば育児放棄もいいところだが、瑠津は麗花を捨てたことはなかった。
どんなに泣き叫んでも「うるさい」と呟くだけで暴力を振るうことはなかった。
必ず、食事をくれた。
必ず、麗花を連れて行った。
その『必ず』が、幼い麗花には安堵感の置き場だった。
生まれてくるなと言われ、存在を否定され続けた日々とはまるで違った。
全てがダメだと思い込んでいた未発達の彼女が、そうではないと判断することができたのは、紛れもなく兄である瑠津のお陰だった。
確かに自分の兄だと、実感が持てた。
しかし、平穏は長くは続かなかった。
「それじゃあ、こっちに来て」
麗花が十歳になる頃、瑠津は知らない女性を家に招き入れた。
家に入るなり瑠津は自室へ女性を入れ、その後に聞こえてきたのはベットの軋む音と女性の嬌声。
軟禁状態の麗花は凡ゆる知識が欠落しており、当時二人が何をしているのかわからなかった。
それが何日も続いた。
女性が毎回異なるのも麗花には意味がわからなかった。だから当然、興味を抱き始めた。
兄が女性となにをしているのかを。
瑠津は他者と比較しても相当な読書家だった。
麗花が瑠津を目にする時は大抵本を読んでいた。ある日瑠津が借りてきた三冊の本のうちの一冊に、人体に関する書籍が部屋にあり、麗花はそれを手に取った。
専門的な知識が多く、字も満足に読めない麗花は四苦八苦しながら本を必死になって読んだ。
そして何日も時間をかけて、瑠津が女性としているのが性行為であると知った。
「……こどもが、できること」
人体に関する本を読み終わった後、麗花は残りの二冊に読み始めた。
片方は刃物に関する本。もう片方は女性に関する本。
後者で浮気というものを知り、瑠津がやっていることがいけないことであるとそこで初めて知った。
知ったからと言って、何かを感じるわけでもない。
いけないことなのだろうとは思った。でも、それを咎める理由を麗花は持っていなかったし、咎める必要性を感じなかった。
それから更に、五年後。
肉体的な発達はあれど、知識は依然として未発達のまま時は流れた。
見た目は大人に近づいているのに中身は子ども。
学校には当然通えず、麗花の軟禁状態は続いていた。
ただそれがおかしいとは思わなかった。
自分にとっては当たり前のことで、皆同じように生きていると常識を刷り込まれていたから。
そんな変わらない無色の日常は、再び赤く染まった。
ある日の夜、瑠津は全身を赤く染めて帰ってきた。
その姿を見た時、麗花は強烈なフラッシュバックを起こした。
胎児の頃、罵声や暴力が突然静寂に変わり、血溜まりに倒れる母と惨殺された父を目にした。ナイフを持った血濡れた兄と、初めて会った日の記憶だ。
胎児の頃の記憶と照らし合わせて、瑠津の体に付着しているのが血であると理解した。
理解して、彼がまた誰かを殺したのだと自然に思った。
何故かはわからない。わからないけれど、麗花は瑠津の姿を見て激しく動揺した。
頭を抱えて、過呼吸になって、何も考えられなくなった。
──それが、麗花にとって二度目の悪夢の引き金になった。
「うるさいんだよ!!」
怒声が廃墟の家に響き渡った。
今まで一度として聞いたことのない、兄の叫ぶ声。
初めて耳にした瑠津の声に麗花は涙目になりながら顔を上げた。
そこには、見たことのない凄まじい怒りの形相を浮かべた瑠津の姿があった。
恐ろしかった。
咄嗟に顔を背けた。顔を背けて、再び頭を抱えて俯いた。これは何かの間違いだと、自分は夢を見ているんだと言い聞かせて。
しかし、紛れもない現実で、麗花のとった行動が更に自分を苦しめるきっかけになってしまった。
「なんなんだよ!! あ!? ボクに文句でもあるわけ!?」
頭を掴まれ、無理やり壁に叩きつけられた。
精神的な衝撃と肉体的な衝撃が重なり、麗花は既に意識を失いかけていた。
失いかけた意識は、その後に続く出来事によって無理やり現実に引き戻される。
「お前はボクのモノだ。ボクに、このボクに、黙って従ってさえいればそれでいいんだよ!! 黙ってボクの愛を受けとってろよ!!」
麗花は廃墟の家のベッドに投げ飛ばされた。
直後、服を脱いだ瑠津に馬乗りになられ、麗花も服を無理やり脱がされた。
嫌だと必死に抵抗したものの、非力な麗花の抵抗は空しく、結果瑠津に好き放題された。
首を絞められ、殴られ、そして──犯された。
「────」
思考が、視界が、人生が。
ひたすらに赤く染まった。
赤く赤く赤くなって、無色だったはずの麗花の人生は絶望へと再び色を変えた。
「────」
初めは求められないことに苦しんだ。
生まれてくるなと言われ、散々暴力を振るわれた。口汚い言葉で存在を否定された。
けれど、その悪夢は兄の手によって終わった。
特別に何かをしてくれるわけではない。
雑に食事を与えられ、幾度も住む場所を変えながらも決して自分を見捨てなかった。
それがある種の救いで、麗花は瑠津に感謝していた。
だが、今度は求められることに苦しむことになった。
訳もわからず怒りを向けられ、胎児の頃に両親に受けた以上の暴力を受けた。殴る蹴るだけじゃなく、刃物で切り付けられたり、首を絞められたりした。
極め付けは、母違いの兄妹でありながら性的暴行を受けたこと。
結局、自分は生まれてきてはいけなかったんだと、思わざるを得なかった。
あの憎い母が自分を産まなければ、こんな悪夢を見ることはなかったのだと。
麗花は世界を呪った。周囲の人間全てを呪った。
でも、呪いよりも、諦めが勝ってしまった。
だから、全てを放棄して兄の性奴隷になっても、何か抵抗をする気力が湧かなくなった。
「────」
その後も、瑠津は誰かを殺して、見知らぬ女を抱いて、頻繁に怒りを麗花にぶつけた。
十五歳になってから、ずっと。
気がつけば外へ出ていたが、そんなことに喜ぶ心を、とうに麗花は有していなかった。
逃げてもよかった。
けれど、どこへ逃げればいいのかわからなかった。
逃げたところで、見つかった時にもっと酷いことをされたらと考えて、とてもじゃないが恐ろしくてできなかった。
兄を殺すことも麗花は考えた。
しかし、何故だろうか。どうしても、行動に移せなかった。殺そうとして辞めるのではなく、そもそもナイフすら持てなかったのだ。
殺してやりたいほどに憎いはずなのに、できなかった。
その答えを、麗花は胎児の頃の記憶が再びフラッシュバックして知った。
どんなに酷いことをされようと、麗花にとっては最悪の両親から救ってくれた恩人で、唯一の家族だ。
由ヶ崎麗花という人間の人生のほとんどが、由ヶ崎瑠津という実の『兄』の存在に埋め尽くされている。
無意識のうちに、憎しみの炎は燃え盛ることはなく、救われたことの感謝の波が押し流していた。
感謝の次に抱くのが、きっと何か理由があると考えること。
本心でも十分に理解していた。
兄はただストレスをぶつけているにすぎないと。
それでも、怒り狂うだけの理由があると、何人もの人を手にかける理由があると麗花は考えた。
気がつけば兄を『心配』していた。
由ヶ崎麗花は他人を知らない。
故に自分が異常だと気がつけない。
性奴隷にされているのに、主人を心配するなどどう考えてもおかしな話だ。
だが、麗花はおかしいなんて微塵も思わなかった。
あの日、確かに救われたのだ。
麗花は、兄である瑠津に。
──その感情が全てで、理由の全部だった。
◾️◾️◾️
「私が言うのもなんですが、異常ですね」
「言っちゃいますそれ!?」
一通り麗花の話を聞いて私は最初にそう感想を伝えた。
横で羅奈がギョッとしているのは無視する。
言われた当人は何も答えなかった。
「何が異常かもわかりませんか?」
「……ぇ」
話を聞く限り、麗花は外見と中身が相当かけ離れている。
私よりも年は二つ上。
ボロ布を纏い、身体も薄汚れていてわかりづらいが、顔は美形でスタイルも良い。
でも、話し方や言葉づかいが稚拙な部分が多すぎる。
長らく軟禁状態にあった以上、仕方のない話だけれど思った以上に酷い。
……世の中、こんなにも憐れな人生を送る人がいるとは。
羅奈も相当だったが、麗花はその上をいく。
他人の、それも普通ではない人の人生に優越をつけるなという話だが、酷いにも限度がある。
平和の陰に苦しむ人間が大勢いることを痛感する。
「世界が憎い」
羅奈と麗花に比べれば、私のは大した理由にならない。
好きなモノを与えられ尽くして、その果てにありのままでいられなくなったなんて可愛い理由だ。
それでも、私にとっては十分生き地獄だ。
こうして、誰かを殺して、首を刎ねる狂人に成り果てるくらいには。
「ところで、あなたは他の女と違って命令に従って行動することはなかったのですか?」
「わたしはそういうのは……悪いことをするのは、他の子たちの仕事、だったから」
何を思って傍に麗花を置き続けたのかを知る由は、死んだため二度とない。
しかし、リデルは麗花を殺さず、捨てることもしなかった。
そこには、絶望しかない家庭に生まれた義妹への単なる憐れみ以上の感情があるように思える。
それを口に出すことは無駄なのでしないが。
「麗花、あなたはどうしたいですか?」
「ころ……」
「本音を、聞いているんです」
事情はわかった。後は、由ヶ崎麗花の処遇を決定するだけ。
壮絶な人生を生き抜いてきた彼女が、僅かでも希望を求めるのなら、私はそれに応えよう。
『刎ね子』という狂人でも、構わないというのなら。
「まだ」
「はい?」
「まだ、生きていたい……少しでも、たくさんのこと、知りたい……なんでも、いいから……」
ポツポツとそう溢した麗花は、下を向いたまま肩を震わせている。
由ヶ崎麗花は生きたいと望んだ。
なら、私の答えは一つだ。
「私の元で働くことを条件に、あなたに平穏を約束しましょう」
「いや、でも……」
「私は別にあなたを痛めつけたりはしませんし、無理を強要するつもりもありません。できる範囲で手伝ってくださればそれ以上は求めません」
「だけど……」
「あなたの存在が明るみに出た時の危険性は十二分に理解しています。リデルの女奴隷に暗殺される可能性も想定済みです。その上で、私はあなたを勧誘しているんです」
道具は多いに越したことはない。
使い方は使ってから考えればいい。
「単に手数を増やしたいだけです。如何でしょう?」
「…………」
片目を瞑り、私は静かに彼女の答えを待った。
そして、今度は先ほどよりも早く返事が返ってきた。
「乱暴に、しませんか?」
「しません」
「じゃあ……………………おねがい、します」
麗花は震える手を私に差し出した。
そこに手を重ねて、私は彼女に微笑みかけた。
「あぁぁあ!! 『刎ね子』様の隣は羅奈だけだったのにぃぃぃぃー!!」
横で嘆く羅奈を見て私は呆れてため息を吐いた。
それから再び、麗花の方を見た。
彼女の存在は特大の爆弾だ。
光の元を歩かせれば、日本中の記者に追い回される日々が始まる。
陰を歩いても、リデルの女奴隷に狙われる危険性が高まる。
とはいえ、彼女に救いの手を差し伸べる選択をした以上、その辺はうまく立ち回るだけのこと。
光の元を歩かせるつもりはないし、女奴隷が殺しに来るのなら私が返り討ちにすればいい。
難しい話ではない。
「今日は月がよく見えませんね」
こうして、二十年前の事件の犯人であるリデルこと由ヶ崎瑠津との一件は決着した。
得たのは最良の結果と、新たな道具。
この先も続くだろう修羅に嫌気がさしつつも、今は無事に終わったことに満足することにした。




