第二話 『前兆』
深夜三時。
夜闇に溶け込めるように黒のパーカーを着用し、フードを目深に被り、人気のない道を歩いていく。
歩き始めて二時間。私はようやく目的の場所へ辿り着いた。
「────」
野良猫が住み着いていると耳にした、小さな森。
森の周辺に住宅はなく、月明かりも少ないため不気味な静けさが立ち込めている。
私がこれからすることには、うってつけの場所と言える。
今一度周囲に視線を巡らせ、人がいないかを確認。
無人の空間であることを確かめて、私は斜めがけの鞄の中に手を入れ、一つの細長い『道具』を取り出した。
黒の鞘に茶色の持ち手。引き抜けば、月光に照らされた銀色の刃が閃く。──ナイフだ。
「あぁ……」
取り返しのつかない最悪なことを、どうして実行しようなどと考えたのか。
答えは一つ。
もはや、私の憂さ晴らしをするにはそれしかないからだ。
昼間、美術の授業の際に隣席だった大橋可奈に「無理しないで」と言われた。
その言葉はストレスプールに溺れた今の私には毒牙で、無意識の内に怒りが込み上げてしまった。
気にかけた言葉だと理解している。
理解はしていても、磨耗した心には傷にしかならない。
故に、私は──罪のない動物を殺して、憂さ晴らしをすることに決めたのだ。
「────」
ストレスの発散方法は様々だ。
休日に一日中眠ったり、趣味に没頭したり、運動をしたり。他者に話すことで溜め込んでいたモノを吐き出せる者もいるだろう。
物に当たるのは最低の行いの一つだ。常人ならば、それを常識と認識して物には絶対に当たらない。
でも、私はそうしなければ、今にも壊れてしまいそうだ。
誰かに話したところで、躾の厳しい家庭環境も、理想を求められる学校状況も変化しない。そもそも、私の全てを曝け出せるほど信用できる人がいない。
何かを傷つけてでも発散しなければ自分自身が壊れるだけだ。
物なんかじゃ、私の苦しみは解消できない。
「見つけました」
端末のライトを付けて辺りを見渡しながら歩いていると、前方に暗闇の中光る二つの点を見つけた。
目を凝らせば、そこには灰色の野良猫の姿があった。
「あなたにしましょう」
一歩、ゆっくりと近づく毎に野良猫は警戒して、私が近づいた分だけ後方へ下がる。
このまま逃げられては面倒だ。早速──。
「にっ……!」
短い苦鳴と同時、野良猫は流血しながら横に倒れた。
先ほど手に取ったナイフとは別のナイフを、私は野良猫に目掛けて投げた。狙い違わず投げたナイフは野良猫に突き刺さる。
「……っ」
「ごめんなさい。私のためにその体──使わせてください」
◾️◾️◾️
朝目覚めると、私の体は不思議といつもより軽くなっているように感じた。
「────」
ベットから立ち上がり、鏡の前に立つ。
ボサボサの頭、寝起きの疲弊しきった顔。鏡から視線を外し、目を瞑る。そうして、昨夜のことを思い出す。
──私は猫を殺した。
自宅から遠く離れた位置にある森へ深夜に赴き、罪のない野良猫を持参したナイフで腹部を刺し、首を、切り落とした。
殺した瞬間の罪悪感はあった。
けれどそれ以上に、心が軽くなるのを感じた。感じてしまった。
それが如何に異常なことか。
「動物を殺めたことでストレスを発散するとは」
そんな最悪で悍ましい自分に、嗤う。
この家に私一人でよかった。
他に誰かいたなら、今の私を見たら不気味に思うだろう。
「ふふ」
振り返り、再び鏡の中に立つ自分の顔を見た。
不気味に嗤う自分の顔が気持ち悪い。
そして、目を見て思う。
今の私は、狂気に染まっている。
そう、か。
鏡に映る自分の顔を見てよくわかった。
私の心はやはり、僅かながら軽くなっている。それはとても、とても……。
昨夜の猫の殺害が、私の心に明確に意味を成したことがわかった。
なら、心身の疲弊が消える瞬間まで──動物を殺し続ける。
当然見つかれば虐待の罪で逮捕される。
けれどそれを気にしていては、同じ道を辿るだけだ。
とうに限界を迎え、ストレス発散に動物殺害を実行した事実は消えない。
一度手を出した時点で後戻りはできない。鬱憤が晴れていくのに心地良さ感じて、辞めようなどと誰が考えるのか。
「慎重かつ狡猾に、憂さ晴らしをすることにしましょうか」
◾️◾️◾️
──逃亡する強盗犯を全速力で追いかける。
三月に入ると立て続けに一人の男による強盗が相次いだ。
通算六度、犯人は様々な場所で強盗事件を起こした。
それまで警察は捕まえられずにいたが、回数が増えるにつれて証拠は揃っていった。
そして、四月二十日に大宮市付近で不審人物を見かけたと通報を受け、その人物が現れたとされるマンションの張り込みを続けること二週間。
強盗犯は姿を現し、現在に至る。
「待て‼︎」
「しつけぇー‼︎」
犯人との距離は徐々に縮まっているが、このままでは人混みに出すことになる。
このままだと人混みを利用してまかれる……!
「はいそこまでー」
「どぅお⁉︎」
追いかけていた犯人は、僕の目の前で大きく転倒し、顔面から地面に倒れ込んだ。
足を止めて付近を見れば、そこには親しい同期の姿があった。
「助かったよ成嶋」
「別に大したことは。にしても、また大手柄だな」
成嶋秋哉。
警察学校時代からの同期で、同じ捜査一課へと配属となった青年だ。
飄々としながらも芯には強い正義感を持つ彼にはいつも助けられている。
「僕じゃなく成嶋の手柄の方が正しいんじゃないかな……」
「見つけたのも追い詰めたのも瀬波だ。おれはただ手伝っただけだっての」
「……うん」
「ったく、もっと自分の成果に自信持つようにしろよ」
犯人の手首に手錠かけながら、成嶋は僕にそう言った。
僕は──瀬波碧斗という存在は、周囲から『若き天才』だと言われている。
現在二十四歳にして、既に僕は複数の難事件を解決してきた。その成果を上の人間に高く評価され、同期をはじめとした警察の仲間にそう評されるようになった。
……僕自身、過大評価がすぎると感じている。
事件の遭遇率が高かっただけ。推理し、証拠などから犯人を探し出す行為は全ての警察官がやっていることだ。
僕はただ最善を尽くしたにすぎない。だから、身に余る評価だと感じざるを得ないのだ。
「そうそう、知り合いの警官から聞いたんだけど、さいたま市の方で野良猫が惨殺死体が見つかったらしい」
「ひどい……」
「横腹にナイフが刺されてて、その……」
成嶋はそこで口を噤んだ。
それから表情を歪めて言った。
「首が、切り落とされてたって」
「──っ!」
成嶋から続けられた猫の惨殺死体の更なる情報に絶句した。
驚愕は遅れて怒りに変化した。同時に、強盗犯を取り押さえた今、何故成嶋は僕に猫の殺害事件を伝えたのか疑問が生まれた。
「どうして今、その話を僕に?」
「このバカ、人は殺さなかったなって考えて思い出したんだよ。動物の殺害事件は、殺人事件の前兆ってのはよくある話だし、一応瀬波には話しておこうってさ」
「署に連行してからすべきだったか」と成嶋は苦笑しながら、強盗犯を立ち上がらせ、停止させている車のある方向へと歩いていった。
その背に続きながら、僕は猫の殺害事件が殺人事件の前兆だと言った成嶋の話に嫌な予感を覚える。
実際、大量の被害者を出した殺人犯から、事件を起こす前に動物を惨殺していた事実が発覚することもある。
成嶋の話によれば猫は飼い猫ではなく野良猫である点も、殺人事件の前兆の可能性が高いと思ってしまう。
僕の考えすぎだろうか……。