第十七話 『大丈夫の毒』
家に入れた警察官二人をリビングの椅子に座らせ、羅奈はお茶を出すと言って台所へ向かった。
他人を家に招いた時はお茶を出すのは礼儀だ。それがたとえ警察であれど。
ポッドのお湯を沸かし、適当なお茶の粉をガラスのコップに入れた。
生憎と羅奈は買い物を許可されておらず、無断で外出したとバレる危険があるため形が残るものは買うことができない。当然、コップも好みのデザインのモノがあっても家にはおけないのだ。
父は家のことには無頓着だったこともあり、マグカップはなく本当にただ飲み物を入れる用の質素なデザインのコップしかない。
沸いたお湯をコップの中に注いで、二人分のお茶を持ってリビングへ。
リビングに入ると警察官は羅奈にお辞儀をした。
「ご丁寧にどうも」
「…………」
警察官二人の前にある机の上に、お茶の入ったコップを置いた。
羅奈は警察官とは反対側の椅子に腰掛け、俯き加減にに警察との対話を始めた。
「その、お父さんが、どうしたんですか?」
声を僅かに震わせながら羅奈は問いかけた。
演技ではない。素で震えているのだ。
人との接触を極度に避けていた羅奈にとって、他者との接触は恐怖そのもの。
まして対話など、地獄でしかない。
だが、地獄などと言っている場合じゃない。
ここで新名羅奈が、父親の新名篤也を殺害した犯人であると疑いの目を向けられれば全てが無駄に終わる。
この場は溢れそうになる好悪の意思を無視して、地獄を歩んできた少女として警察と対峙する。
それこそが、新名羅奈に与えられた偉大な人物からの使命だ。
「会社の方から無断欠勤が一週間以上続いていて、携帯と自宅双方に連絡しても通じないとの通報が入りまして。なのでこうしてご自宅に来させていただいた次第です」
「……はい」
「それで、お父さんはどこにいらっしゃいますか?」
「二階の自分の部屋、だと思います……」
「だと思います?」
嘘をつくことなく、羅奈は事実を伝えた。
しかし、警察は羅奈の最後の一言に違和感を覚えたらしく、オウム返しに聞き返してきた。
「ええと、羅奈はお父さん、と……ちゃんと喋って、なくて……」
「失礼。嫌でしたらお答えしなくても結構です」
そう前置きして、最初に羅奈に質問をした警察官の隣に座る警察官が今度は質問した。
「ちゃんと喋っていないというのは、頬や腕の傷と関係がありますか?」
「……っ」
羅奈はこくりと頷いた。
羅奈は内心でよく観察している警察官に対して感嘆した。
頬の傷は一目でわかるが、袖下にある僅かにはみ出た痣にまで気づくとは。
感嘆と同時に羅奈は思う。
やはり、疑われているのだと。
「これは、お父さんに……」
「DVを受けていた、と」
「は、はい……」
「……聞いていた情報と違いますね」
谷口が太田に小声で言った言葉を羅奈は聞き逃さない。
そしておおよそ、警察が異なるといったことの理由を羅奈は知っている。
「聞いてた情報って、なんですか?」
「すみません。あなたの父親である新名篤也さんは、誰に対しても友好的に接して、部下からの信頼も厚く──家族想いな方であると聞いておりまして」
最後の話を聞いて羅奈は軋む音が鳴るほどに奥歯を噛んだ。
あまりにも、人が違いすぎる。羅奈が見ている『父親』の新名篤也と『外面』の新名篤也は、恐ろしいほどに別人だ。
二重人格かと疑いたくなるが、それほどまでに内と外とで切り分けを行なっていたということだろう。
外面を演じすぎた結果が、羅奈への過度な暴力だったとなれば合点がいく。
どうあれ、憎いことに変わりはない。
植え付けられた父親に対する全身が震え上がるほどの恐怖心と贄たぎる憎悪は、生涯魂に刻まれたまま消えることはないのだから。
たとえ、愛しい『刎ね子』との日々が幸せだとしても。
「嫌でなければ、教えていただけませんか? 新名篤也さんのことを」
「え……?」
「目の前で苦しんでいる人に手を差し伸べるのが警察です。無理にとは言いません。ただ、お話していただけるのなら我々は虐待事件として捜査を開始し、新名羅奈さんの身の安全をお約束します」
言われた瞬間、羅奈は上手く事が運んだと内心でガッツポーズした。
特別言葉を要する必要もなく、いつも通りの他者との接し方で警察が羅奈を心配する流れになった。
だが、本番はここからだ。
「あの、それじゃあ……」
長々と『刎ね子』に伝えたことと同様の内容を警察に話した。
警察二人は終始真剣な眼差しで羅奈の話を聞き、時折過酷な話に顔を顰めていた。
自身の過去を全て話していいものか迷った。
しかし嘘をつく理由がない。仮に嘘をついてそれがバレれば、羅奈が新名篤也を殺したのではないかという疑念を強めるだけだ。
故に過去を詳細まで警察に語った。
「辛い話をさせてしまい、申し訳ありません」
羅奈から見て左側に座る太田が深々と頭を下げた。続けて谷口も羅奈に頭を下げた。
そうして、彼らは再び羅奈と目を合わせた。
「新名篤也さんをDV事件の容疑者として、近日中に捜査を始めさせていただきます」
「あ、りがとう、ございます……」
「本人にも直接話をお聞きしたいところなんだが、何せ連絡がとれないと通報を受けてきてるからな」
「ですね。新名篤也さんに会えなければ何もできない」
「羅奈さん。お父さんの部屋に案内してもらえますか?」
「わかりました……」
ここまでは上々。後は、死体を見せてからの振る舞いで羅奈の趨勢が決まる。
羅奈は席を立ち、警察二人に「ついてきてください」と小声で伝えてゆっくりと歩き始めた。
リビングをでて廊下を右に曲がり、玄関の近くにある二階への階段に足を乗せた。掃除をしておらず階段はカビで黒ずんでいる。そんなことはお構いなしに三人は階段を軋ませて上がっていく。
階段を全て登りきると警察の一人、太田が呟いた。
「この臭い……」
振り返ると、警察二人は顔を顰めていた。
酒豪の父親の部屋の前となれば、酒臭さを指して言った言葉だと思った。
──強烈な異臭に鼻腔を刺激されるまでは。
「うっ……」
思わず羅奈も口と鼻を覆った。
今までに嗅いだ事のない刺激臭に吐き気を催した。
「ここ、です……」
口元を抑えたまま、涙目になりながらも羅奈は警察に刺激臭の発生源である眼前の部屋が、父親の新名篤也の部屋だと伝えた。
すると警察二人は顔を見合わせ、意を決したように互いに頷き合っていた。
そして二人は、新名篤也の部屋の前にたった。
「警察です! 新名篤也さんと連絡がつかないとの通報を受け参りました!」
「────」
「新名篤也さん! いらっしゃいましたら返事をしていただけませんか?」
太田が声を張り、扉をノックしながら新名篤也を呼んだ。
しかし、部屋の向こうから何の応答もなく、ただ太田の声が部屋の前で反響するだけだった。
太田は呼びかけを続けた。
「新名篤也さん! 新名篤也さん!」
「────」
何度呼びかけても部屋から返事はない。
異臭を嗅いだ時点で呼びかけても返事はないと察していたのだろう。
太田は呼びかけをやめて、羅奈の方へ振り返って言った。
「この扉は内側から鍵をかけられれと外からは開けられない仕組みになっています。なので、体当たりして強引に開ける以外に方法はありません」
呼びかけをしなくても結果はわかっていた。それでも、彼らは呼びかけなしに突入することはできない。
つまり、羅奈に新名篤也の部屋に入る許可をもらうためのパフォーマンスだ。
そんな回りくどいマネをされずとも、羅奈は父親の部屋に入れるつもりだった。
とはいえ、他人の家の部屋に強引に押し入ったとあっては大問題。
必要なことなのだろうが、羅奈にはあからさますぎて間抜けな絵面に見えた。
「漂う異臭からも何かあった可能性が高いです。羅奈さん。中へ入っても構いませんか?」
「……はい」
羅奈は即答した。
ここまで全て予定通り。
今のうちに死体を見せてからの立ち回りを考えておこう。
「──っ!」
太田は一歩下がり扉に全身をぶつけた。
だが一度では扉は破れず、二度三度と繰り返した。
「らぁ!!」
四度目にして扉はついに破られた。
バタンと大きな音を立てて、三人が立つ場所とは逆方向に床に倒れた。
新名篤也の寝室の方へ。
「新名さ……っ!?」
谷口が目的の人物の名を呼ぼうとするも、発した声は中途で途切れた。
室内を見渡す前に最初に視線を向けた場所に目的の人物はいた。
谷口は最悪の事態に目を見張り、太田は悔しげに頬を硬くしている。
懸垂器具に吊るされた羅奈の父親、新名篤也の死体。
先日『刎ね子』との共同作業で偽装した実の父親の死体だ。
「……は」
警察二人の表情とは全く異なる表情を羅奈はしていた。
光の宿らない濁った黒瞳に父親の姿を映して──不気味に嗤っていた。
◾️◾️◾️
「偉いね〜」
うるさい。
「優秀すぎて鼻が高いぞ!」
うるさい。
「良い子に育って良かったわね」
うるさい。
「本当に理想の子だね」
──黙れ!!
車で邸宅に戻ってすぐ、私たちは用意されていた夕飯を口にした後、それぞれの寝室に入った。
父の関係者への挨拶回りを始めて四日目。
今日も高知県をあちこち移動した。その都度わたしを称賛する言葉に始まり、次いで出るのは両親の育て方を称賛する言葉だ。
何度も何度も同じ言葉をかけられて、同じ振る舞いを繰り返して。
「あぁ……」
どうにかなってしまいそうだった。
無理やり柔和な笑みを顔に貼り付けて、かけられる言葉の全てに相手が望んだ返答を返すのは苦痛でしかない。ある種の拷問と言い換えてもいい。
疲労を心配する両親の声に対しても決して疲れたなどと口にはできない。
いつも通りで構わないと言われても、演じている自分こそが自然体であると知られている以上本当の意味での素を晒せない。
知り合いだからと多少のワガママも許してくれると言われても、言えば相手の私に対する印象を下げかねないため言えない。
この四日間で幾度も『大丈夫』と嘘をついた。
『大丈夫』という言葉は、私にとって毒でしかない。
『大丈夫』と口にする度、私の心を荊の毒が蝕んでいく。
痛く、苦しくも、吐き出せるのは周囲に誰もいない時だけ。
とうに忍耐の限界を超えている。
滞在期間はあと三日もあるというのに耐えきれる自信がない。
耐えている自分の想像すらできない。
「まだ……」
今の私の顔は酷く青ざめているに違いない。
ならいっそ、ストレスを発散してしまえればどれほどに楽になることか。
けれど、我慢できずに手をかけるわけにはいかない。
親が近くにいる状況下では抜け出すタイミングも限定される。
それに邸宅にいるのは私たち三芳一家だけじゃない。
抜け出した時か戻ってきた時に見つかりでもしたら、確実に怪しまれる。
だから、高知県にいる間は耐えなければ。
私が私を滅ぼすことになる。
「今日もお疲れ、芽亜」
「──っ」
不意に背後から聞こえた女声に小さく肩を震わせた。
……今の顔を見られたら今日までの嘘がバレてしまう。
瞬時に疲弊した自分の意識を切り替えて、人々の理想の姿を演じる自分を取り繕い始めた。
演じている自分をイメージして口元に弧を描く。それから眉を少し高く上げて、ゆっくりと振り返って──、
「──やっぱり疲れてるでしょ」
その一言に、振り返る途中で大きく目を見開いた。
……否定、否定しないと。『大丈夫』だって。
散々嘘をついて演じてきたのだ。見抜かれるなんて失態、犯せるはずがない。
犯していいはずが、ないのだ。
「お父さんはともかく、あたしはあなたのことよく見てるんだよ。何年育ててきたと思ってるの?」
「なんで、疲れてるって……」
振り返らず私は女性に、母に問いかけた。
「歩き方とか挨拶してる時の顔かな。なんとなく力が抜けてるというか、そんな感じ?」
失態だ。
今の今まで、誰かの前でボロを出したことなど、それこそイレギュラーな存在である羅奈ぐらいのもので他にはいなかった。
当然、羅奈以外に母も含まれる。
「キツイなら明日は来なくてもいいよ」
やめて。
「毎年の恒例でも、交流の少ない相手と話すのは思いの外疲れるものだから」
やめて。
それ以上、何も言わないで。
「芽亜が体悪くしたらお父さんもがっかりするだろうし」
もうやめて。
これ以上は、堪えていたものの全てが瓦解する。
「──無理は禁物だよ」
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「…………」
落としそうなほど弱い力で右手にノコギリを持ったまま、暗がりに呆然と立ち尽くす。
気力の失われた瞳で『それ』を見下ろしながら、起こした事実への理解を脳に浸透させていく。
「私は」
空いた左手で自分の口端に触れて、天を仰いだ。
都会では決して見ることのできない満点の星空。
口端から左手を離して、星空にかざすように左手を向けた。
星々の輝きが、左手についた鮮血を妖しく照らしている。
赤く艶めく鮮血を眺めた後、私は再び視線を地面に落とした。
「……耐えられなかった」
首と胴が切り離された『それ』が──死体が、転がっていた。




