第十六話 『死せる綻び』
「こりゃあ、自殺だろうねぇ」
ハンチング帽の鍔に触れながら、菜野剛伸は懸垂器具に吊るされた男性の遺体にそう結論づける。
元は連絡がつかないと会社の同僚からの通報を受け、部下の太田と谷口が確認のため自宅に赴いたのが始まりだ。
そこで実の娘である少女と対面し、眼前の男性にDVを受けていたと話を聞いた。
話を聞き、行方不明者として捜索を行い、発見後にDV事件の捜査を行う運びになるはずだった。
だが、男性の──新名篤也の自室に入り首吊り死体を発見したことで事態は終息した。
最悪の形で行方不明者は発見され、父親の娘のDV事件も同時に解決されてしまった。
「恨みを買うような人間ではなかったとはいえ、外面と自分の子どもに対する人格が違いすぎてたんなら、苦しんでいたとしておかしくない」
「あの、娘さんが……」
「殺したってか? そりゃ、ちょいと飛躍しすぎだ。散々虐待されてきて、外ではいじめも受けてきて。おれたちには想像もできないほど最悪の人生だ。父親に対する怨みもとっくに暴発してるだろうよ」
そこで一度話を区切り、菜野は自身が立つ場から後方の離れた位置に立つ自殺した新名篤也の娘、新名羅奈の姿を見据えた。
警察との対話中もおどおどと怯えてある少女の父親に対する憎悪は計り知れない。
菜野も話を聞いた段階では疑っていた。
彼女は暫く外出していない。にも拘らず、父親の自殺に数日間気づかなかったと証言している。
家にいると知っていても、日々受けていた虐待が急に途絶えたことに疑問を抱くはず。数日間の間に確認もしないのは不自然だと思ったからだ。
だが、菜野は実際に新名羅奈の姿を見て、疑心を抱いた自分を罵倒した。
頬や腕に無数の傷が付き、体は痩せ細り、全身を小刻みに震わせ、瞳に光の宿らない少女。
一目で壮絶な人生を送ってきたとわかる姿だった。
事前に聞いていた新名羅奈の人生を、彼女自身の姿で証明していた。
凄まじい憎悪を抱いていたにしても、粉々に砕けた心では行動を起こす以前に恐怖に押し潰される。
そして、平均を遥かに下回っていると思われる肉体では、寝込みに首を絞めて殺害し、懸垂器具に吊るすのは弱った少女には到底不可能だ。
「悪い言い方をすると、だ。……あの子はもう、何をするにも自発的な行動が恐怖でできないんじゃないかね。だから、殺人もできない」
菜野は少女の有り様からそう結論づけた。
警察官になって約三十年。
数多くの事件を取り扱ってきた。
その過程で、老若男女問わず、壊れてしまった人々を間近で何度も見てきた。
その経験が菜野に告げる。
新名羅奈は、過去の事例と比較にならないほどに精神の崩壊した人間であると。
「詳しい事情は署で聞くぞ。今は……」
「菜野警部」
立ち去ろうとした菜野の背に太い声がかかる。
振り返れば谷口同様、菜野の直属の部下である太田が眉を寄せて立っていた。
「自分のも飛躍した考えかもしれませんが……」
「言ってごらん」
言いにくそうに切り出した太田に菜野は先の言葉を促した。
しかし、即座に返答はなく強く目を瞑り、小声で「いや」と口にしている。どうやら迷っているらしい。
そんな太田の肩に菜野は優しく手を乗せた。
尚も迷いが晴れず俯く太田に菜野は柔和な笑みを浮かべた。
「別に怒らないから。可能性を口にするのも警察の仕事。あんまりにも突拍子のないことだったら、話聞いてたか?ってなるけども」
「菜野警部……。お時間をとらせてしまい申し訳ありません。自分の考える可能性、話させていただきます」
迷いを抱えた表情から決意を固めた真剣な表情に変化した。
そして、太田は言った。
「もし、新名篤也さんの自殺が他殺だったとしたら」
「他殺?」
「はい。密室の殺人は過去にいくつか事例が存在してます。それを踏まえて、自殺を他殺として視点を変えて見た時。密室殺人、現場の証拠ゼロ、首吊り遺体」
「────」
「──『刎ね子』による殺人の可能性はありませんか?」
太田の話した可能性に菜野は瞳を細めた。
内心で太田が話すことを迷っていた理由に納得する。
話された内容は具体性を伴わないモノだ。
過去の事例と照らし合わせて、単純に自殺を他殺として見方を変えただけ。
だが、いざ音にするとありえないと切って捨てられないだけの現実味があった。
「『刎ね子』、か」
太田から視線を外し、女性警察官に背中をさすられている新名羅奈の姿を視界に入れる。
それから夕方の橙色の空を眺めた。
そして──、
「瀬波と伊津野なら、どう考えるかねぇ」
事実なら恐ろしい可能性にうっすら冷や汗をかきながら、やや口の端をつり上げて、優秀な部下の姿を思い描いたのだった。
◾️◾️◾️
──犯した失態に自身を咎めた。
地形情報を理解し、凶器を選別し、何度も殺人のシミュレートを行い、殺した翌日以降の天候を把握する。
事前準備を徹底することで、『刎ね子』として殺人を完遂できる。
でも、今日は違う。
一度決壊した防波堤は、そう簡単に修復できない。
修復できないままなら以前よりも耐える力はなく、次に負荷がかかった時簡単に溢れさせてしまう。
私の防波堤はとっくに決壊していた。修復の兆しさえ訪れず、膨大なストレスで傷跡を押し広げ続けた。
その結果が、今日の失態を招いた。
「…………」
いつも通り、死体の処理は完璧にしたつもりだ。
けれど今回は、天候を考慮した殺人ではない。
悲しいかな、明日は確か晴れ予報だ。
つまり、発見されるのが早ければ私は詰む。
「何をしてるんでしょうか、私は」
暴発したストレスに耐えきれなかった。
首を切り落としている時、通常なら感じるはずの快感がなかった。
あったのは両親を始め父の関係者への不快感と、それが薄れていく感覚。
行動としても欲求を満たすタイミングとしても適切ではなかった。
本当に自分が愚かしい。
「──こんな夜更けにどうした?」
別荘の玄関前、依りにもよって今一番会いたくない人物の姿が瞳に映る。
灰色の古びたシャツとズボンを着用した寝巻き姿の父だ。
幸い血の付いた服や凶器は全て殺害現場付近に処分してきた。
問題なのは、時刻が深夜三時を過ぎていること。
「────」
何と言い訳すべきか思考を加速させる。
眠れなくてと答えるのが無難か。
いや、眠れないというのが通じるのは寝所に入って一時間程度だけだ。十一時に寝所に入って深夜三時では時間が空き過ぎている。
田舎の空気を吸いたくてと答えるか。
これも不自然な答えだ。
私が別荘に戻ってくるところを父に目撃され今に至っている。適切じゃない。
父の問いは、外に出て、何をしてたかだけを聞いているのではない。
私がなぜ深夜に外出し、何処へ行き、何をしてきたのかを聞いてきている。
下手な嘘を答えれば逆に怪しまれる。
どうすれば……。
「あー、散歩か?」
「え?」
「都会じゃ変な輩もいるし、暗い道を一人で歩くなんて中々できないもんな。というかそもそも歩きたくなるような場所もないか」
私が数秒黙り込んでいると、父はあけすけに笑いながらそう言った。
……怒ってない?
それどころか怪しんですらいない?
「いやなに、父さんも出ようと思ってたところでさ」
「お父さんも?」
黙り込んたことを怪しまれないためにも、私は父の言葉に乗っかった。
「自然の早朝の空気はうまいからな。昔っから親父に何回怒られてもやめらんなくてさ。季節毎に前後するけど、夏は三時に家出て日の出まで散歩してよ、日の出見た後家に帰るのがルーティンだったんだ」
「そう、なんだ」
「お前も半分おれの血が流れてるから関わりが薄くても似るのかね」
父は片手で頭部に触れながら大声で笑った。
怪しんではいるものの様子見するためにそれらしいことを言ったのか、真に私が早朝の空気を求めて散歩してきたと思って言ったのか。
いずれにせよ、この場で理由を聞かれないのなら好都合だ。
「夏とはいえここは山中だから、肌に触るし部屋に戻った方がいいぞ。風邪引くと大変だろ?」
「うん。ありがとう」
そう一言残して、私は別荘の中に戻った。
◾️◾️◾️
暗闇に包まれたトンネルの中、男は入り口を微かに照らす月光を見ていた。
「────」
光の下を生きられなくなった男の寝床は、この使われなくなったトンネルだけ。
人の立ち入りは月に数回程度のこの場所は、まさに男にとってうってつけの空間だった。
人間が持つ最低限の欲求を満たすだけの日々。
それは、第三者が聞けば退屈すぎる日常だと顔を顰めただろう。
だが、男の現状に退屈も不満もない。
最低限の欲求しか満たさないのは、既に人間として満たされてきたから。
強欲に生き続けた結果、男は完成された現在を得た。
故に何かを欲さず、静かに日々を謳歌していた。
だが──、
「────」
静寂のトンネルに足音が響き渡る。
毎日のように聞いている、軽く、速度の遅い足音。
加えて、歩く度に鳴る金属音。
男の視界に僅かに片目の隠れた女の姿が混じる。
その女は唯一、男と同じ日々を共有する存在。
「……っ」
「ありがとう」
震える手で手渡された紙を受け取ってすぐに目を通した。
紙の左上には『楓奈』と差出人の名前が記され、雑な字で文章が書かれている。
男は一通り目を通して、妖しく口を歪めた。
「へぇ」
男は満たされてきた。
故に何かを欲さず、静かに日々を謳歌していた。
その日々が、届けられた一報で変化する。
「楽しくなりそうだね」
手紙にはこう記されていた。
──『刎ね子』が現れた、と。




