第十五話 『忍耐との勝負』
八月一日、土曜日。
炎天下の空の下、地上は煩い蝉の鳴き声で溢れている。
「ん」
額に滴る汗をハンカチで拭ってから、ぬるくなったお茶の残りを一気に飲み干した。
私は今、高知県に来ている。
さいたま市から電車で空港まで行き、飛行機で一時間半かけて移動し、更に空港からタクシーで一時間かけて父親の実家に向かい現在に至る。
夏は嫌いだ。暑いし、汗でベタベタになるし、飲み物をどれだけ飲んでもすぐに喉が渇く。
体力も熱で持っていかれるし苦痛でしかない。
年々気温が上がり、今年はどの地域も最高気温を更新している。
本当にやめてほしい。私の身がもたない。
「お! 芽亜も来てたのか!」
正面、燻んだ白色が歴史を感じさせる別荘の玄関口に、ワックスで髪を立たせたベリーショートの髪型の男が私たちに手を振っている。
三芳一仁。
私の実の父親だ。
「久しぶり、お父さん」
「おうおう会えて嬉しいよ芽亜。三ヶ月ぶりくらいか?」
「うん」
父は大赤字となった企業を建て直した凄腕営業マンだ。
その仕事のせいで単身赴任を余儀なくされていて、私と母の住む家には全く帰ってこない。
母の住むといっても、母も弁護士の仕事が忙しく家にほとんどいないけれど。
とはいえ、父との久しい再会にも拘らず私には何の喜びもなかった。
何をするにも仕事優先の父の在り方は、サラリーマンとしては優秀かもしれない。事実、業績を大幅に向上させるほどの仕事をこなしたのだから。
でも、人として見た時はどうだ。
仕事を優先しすぎるあまり、家族を疎かにし、友人との関わりも希薄な父を、良い人間だと言えるのだろうか。
唯一人間性が良い部分を挙げるとすれば、父は浮気をしたことが一度もない。
いや、浮気をすることさえ仕事の妨げとなり時間の無駄、そうした考えを持ち合わせているといった方が正しいか。
人当たり良く、仕事ができて単身赴任。
女はいくらでも言い寄ってくるはずだ。そして、父もまた私と母に隠れて簡単に浮気をして、隠し通せる環境にいる。
絶対とは言い切れないものの、平気で自身のプライベートと仕事のスマホを手渡せる人間が浮気をしているとは考えにくい。
ともあれ、父の良い点を挙げるとすれば浮気しないことくらいだ。
それ以外は人間味がなさすぎる。
まるで、社会の奴隷だ。
「疲れてるだろぉ? ささ、中に入って」
「ありがとお父さん。芽亜、行こっか」
父に案内されて私と母は別荘の中に足を踏み入れた。
外装は古いものの、内装は煌びやかな雰囲気を醸し出していた。
清掃の行き届いた木の床、艶のある白色の壁と扉。天井にはペンダントライトが幾つも吊るされ、室内の優美しさを引き立てている。
外装も多少の整備はしていると前に父から聞いている。では何故汚れたままなのかといえば、古臭さを残したいらしい。
内装は客人を招くこともあり、汚いままでは居心地を悪くしてしまうからだとか。家族で滞在する際にも、虫などが出て不快に感じさせてしまうと嫌ということで内装はしっかりと整備しているようだ。
「2階の好きな部屋に荷物置いてきな。ご飯食べて少し休んだら出発しよう」
そう。私と母がわざわざ高知まで来たのは、親戚と知り合いへの顔合わせが理由だった。
祖父母への挨拶もあるけどそれは一番の理由じゃない。父に関連する人たちへの挨拶回りは、三芳家の恒例行事だ。
一週間のうちのほぼ全ての日を使って、合計五十件を超える挨拶回りに赴かなければならない。
「……はぁ」
想像しただけでため息を吐かずにはいられない。
私が理想を演じ続ける理由は、学校の人間から知らぬ間に過度な期待を持たれていたことが大半だ。
でも、同じくらい毎年の挨拶回りという恒例行事に、私が理想を演じる理由が詰まっているといっていい。
厄介にも程がある。
「めんどくさい……」
二階の空き部屋に入り、私は持ってきた荷物を放り投げた。
今どき、大多数の親戚や知り合いに挨拶回りなど時代遅れなことになんで私が付き合わないといけないのか。
ただただストレスだ。
「羅奈は、上手くやってくれるでしょうか」
天井を見上げ、近日父親自殺の事情聴取を受ける新名羅奈の姿を思い浮かべて、私はまたしてもため息を吐いた。
◾️◾️◾️
「あ〜、嫌だなぁ」
一人、リビングのソファに腰掛けながら羅奈は呟いた。
昨夜、羅奈が近所のコンビニに向かった道中、近隣住民に指を刺されて父親のことを話しているのを耳にした。
父親を殺してから一週間以上が経過し、友好関係の広い新名篤也が無断欠勤を繰り返す現状を怪しむ同僚は多いはずだ。
実際、何度も父親の勤務先から電話がかかってきた。
全て無視したが。
「愛しの『刎ね子』様に事前に準備しておくよう言われたし、がんばないとなんだけど……」
人との接触自体を極度に嫌う羅奈にとって、警察との対話など苦痛どころの騒ぎではない。単なる拷問だ。
だが、殺人に関与していないと身の潔白を偽らなければ、逮捕されて『刎ね子』の道具となる夢は叶わなくなる。
確実に成功させなくては道具にすらなれない。
これは、羅奈にとって一世一代の大勝負なのだ。
「にしても、ハードル高くないですか?」
演技経験は皆無、口も上手くない。
羅奈は内心で猛烈に焦りを感じていた。
なにせ、自殺場所が自宅の自室とあっては、羅奈が殺していないと疑いを晴らすのは難しい。
それでも、羅奈が特別上手い弁を考えなくて住むように『刎ね子』は尽くしてくれた。
『刎ね子』は現実の自殺を偽装した密室殺人のやり方を片っ端から調べ上げていた。
新名篤也の部屋は内側から鍵をかけると、外から開けられない仕様になっている。
外から鍵が開けられる仕様では、ドアノブを交換する必要があったがその手間もなく密室殺人のトリックを成立させられた。
一通り作業を終えてから『刎ね子』は羅奈にこう言った。
『羅奈の心の傷が偽装の要になります。ボロを出さないよう、気をつけて警察には話してください』
母親に捨てられ、DVの父親に預けられ、家では暴力、学校ではいじめの毎日。
その結果、羅奈の心は壊れた。
まさか、壊れた自身の心を使う日が来るとは想像もできなかった。
「ううん、心配ばっかりしてる場合じゃない。やり遂げなきゃ! 『刎ね子』様のためにも! ──およ?」
そう意気込みを口にした直後、自宅にインターホンの音が鳴り響いた。
今一度気を引き締めて、モニター付きの子機の前へ。
画面には黒のスーツを着用した二人の男性の姿が映し出されていた。
通話のボタンを押して、羅奈は応答した。
「はい……」
『警察です。新名篤也さんが連絡取れないと通報を受け訪問致しました』
男は警察だと言い、やはり新名篤也について通報を受け家に来た。
今日まで、シミュレーションは何度もしてきた。
その通りに話すだけだ。
「お父、さん?」
怯えと疑問を交えて羅奈は答えた。
『娘さんですか? お父さんはいらっしゃいますか?』
「えっと……多分、部屋に……」
無意識に声が震えてしまう。
幼少期から悪夢のような人生を送ってきたツケだ。
だが、この瞬間は自分の人生に感謝しよう。
『中に入ってお話を聞きたいのですがよろしいですか?』
「は、はい……」
通話を切り、羅奈は玄関に向かった。扉にかかるチェーンを外し、上下二つの鍵を開けて、ゆっくりと扉を開いた。
「こんにちは。警視庁の太田です。隣は谷口です」
「あ、はい……」
羅奈は軽く会釈をして警察二人を家の中に入れた。
新名羅奈の、人生を賭けた大勝負が始まった。
◾️◾️◾️
「本日はありがとうございました」
目の前に立つ老人二人に流麗に一礼。
今日だけでいったい何度同じように礼をしたかわからない。
腰を痛めるのではないかと思うほど、父の親戚と知り合いに私は理想を演じて恭しく頭を下げた。
今目の前に立っている老人は、父が営業として上手くやる方法を教わった恩師らしい。
なんでも昔、父が働いている会社で凄まじい営業成績を叩き出していたとか。
「ホント、久々に会えてよかったですよ糸崎さん」
「こちらこそ会えて良かったで。時間あったらまた来てくれてええから。ワイらはいつでも三芳家を歓迎するで」
最後に父と男性の老人、糸崎が会話を終えて私たちは
彼らの家を後にした。
「疲れたろ、芽亜」
車中、窓の外の景色を眺めていると父が私を気遣ってきた。
疲れた。今すぐにでもベッドに倒れ込みたい。
ストレスだって溜まった。何故高知にまで来て、いつもと同じ振る舞いを続けなくてはいけないのか。
結局、身体的疲労より精神的疲労が私を満たしていた。
でも、疲れたなんて口に出せない。
「ううん、大丈夫。お父さんの方が大変だったでしょ?」
「俺は好きでやってるからさ。疲れなんてあってないようなもんだよ」
こうやって返される。
だから、疲れたなんて言えない。
十年前、まだ小さかった私は今日と同じような一日を過ごした。
その時も今と同じ質問をされたことがある。
当時私は疲弊していて「疲れた」と父に返事をした。
私を気遣った質問ならば、自分の状態を偽らず伝えた時返ってくる言葉は心配の言葉のはずだ。
けれど違った。
父はあの日、私にこう言った
『よくしてもらったんだから疲れてても口に出すなよ』
聞いておいてと、思った。
まだ十歳にも満たない自分を連れ回しておいて、何故そんな言い方ができるのかと心底思った。
褒めてもらったり、おもちゃを貰ったり、美味しい物を食べさせて貰ったり、お小遣いを貰ったり。
確かによくしてもらった。疲れたと言っていい立場にはなかったかもしれない。
だが、それとこれとは別ではないだろうか。
車で移動とはいえ数十件も周り、ただ挨拶するだけでは済まない。疲れないはずがない。
幼い私には、当時の父の返しに静かな怒りを覚えた。
癇癪とは明確に違う、本物の怒りを。
「────」
十年前の父の質問を覚えていた。
だから、あの時とは真逆の返事をした。せざるを得ないというのが正しいけれど。
父は娘を正しく娘として見ることができないのだ。
『家族』の定義に当てはまるから、それに見合う関係性を築いているだけ。
三芳一仁とはそういう男だ
「芽亜も無理しすぎないようにね」
「ありがとうお母さん」
助手席に座る母が振り返り私にそう言った。
母の一言に返事をして微笑を浮かべた。
込み上げてくる怒りを奥歯を噛んで抑えた。
込み上げてきたのは怒りだけじゃなかった。
この帰省期間だけは抑えようと考えていた『衝動』が、両親の言葉によって一気に込み上げてきた。
ここで、欲望に素直になれば私は──。
「……耐えないと」




