第十話 『地獄を生きる少女』
──新名瑠羅奈の人生は、最悪から始まった。
岩手県久慈市で生まれた少女は、誕生直後に生死の境を彷徨った。
女児の平均体重を大幅に下回り、正常な呼吸もままならない状態。緊急で治療を開始したことで呼吸は安定し、数週間がかりの治療の末、奇跡的に一命を取り留めた。
その後、三歳まで健康的に過ごして家庭環境も良好だった。
しかし、幼稚園の入園式当日に父親の浮気が発覚。母親との激しい口論が繰り広げられた。
幼児期健忘の起こらなかった羅奈は、当時の記憶が鮮明に脳裏に焼きついている。
口論は両親のどちらも抱えていた不満のぶつけ合い。先に父親の方が限界を迎え、羅奈の母を幾度も殴打し始めた。
悲鳴を上げ、苦しむ母を父は容赦なく傷めつけた。
一時間にも及ぶ暴行の後、母は気絶した。羅奈が病院に連絡していなければ確実に死んでいただろう大怪我。
助かったものの、精神には修復不可能な傷を負った。
病院に到着後、辿々しく医者に事の経緯を説明。
父親は警察に逮捕され、暴行罪で懲役一年を求刑された。
──その日、新名家は崩壊した。
母が退院するまでの間、羅奈は母方の親戚の家に引き取られることになった。
毎日祖母に連れられてお見舞いに行くも、母の意識は窓の外に向けられるばかりで羅奈の方を見るのは、いつだって入室した瞬間だけだった。
その度、何故と疑問が胸中を満たした。
純粋に母に会いたい気持ちが大きかった。同時に心が傷ついてしまった母に寄り添いたい想いもあった。
だから毎日毎日、母のいる病室に足を運んだ。
また、楽しくお喋りするために。
だが、羅奈の願いは叶うことはなかった。
父からの暴行から一カ月後、母は退院することになった。
外側の傷は癒えても、内側の傷は癒えないまま。
悲しかった。けれど、退院できただけで羅奈は小さな体を精一杯動かして喜んだ。
喜んで喜んで、徐々に悲しみに変化して、最後には喚きたくなるくらいに苦しさが全身を支配した。
──退院後も、母は羅奈と言葉を交わさなかった。
食事の席に一緒につかず、仕事の行きのいってらっしゃいも、帰宅した時のただいまも欠かさずしていた母から一言も言われなくなり、同じ部屋で眠ることも無くなった。
完全に、羅奈は母親に避けられていた。
退院した時の喜びは束の間、僅かな日々で羅奈の心は苦しみだけとなった。
「大丈夫だよ、ママはすぐに元気になるから」
そう何度も言ったのは祖母だ。
幼い羅奈は祖母の言葉を耳にする度におかしいと思った。
元気がないから、実の娘を無視する。
このおかしな現状が、母の元気の有無で齎されるものなのかと。
ならどうして──一年も避け続けるのか。
何度泣いたかわからない。
悲しかった。辛かった。わからなかった。苦しかった。
何をどうすれば母は元に戻るのか。小さな頭でたくさん考えた。考えに考えて、やっぱり声をかけ続けることしかできないと思った。
口を聞かなくなって一年。
苦しい気持ちを押し殺して、必死に母に声をかけ続けた。娘から逃げるように行動する母を追いかけて、些細なことでも声をかけた。
半年くらいだろうか。そうやって過ごしたのは。
それでも、何一つ変化はなかった。
母との理解できない関係が始まってから一年半が経過して、ようやく変化が訪れた。
しかしその変化は、羅奈を地獄に叩き落とした。
「話があるから、八時に食卓に集まってもらえるかな」
実に一年半ぶりに、母から声をかけられた。
ただ羅奈と一対一の場ではなく、祖母と祖父のいる環境で三人に対しての声だった。加えて、祖母と祖父にだけ目線を合わせていて、羅奈には一切目を向けていなかった。
けれど確かに、母は羅奈に対しても声をかけていた。
嬉しかった。涙が出そうだった。
「話はなんだ?」
午後八時。食卓に祖父、祖母、羅奈の順に横並びに座り、正面に母が座る形だ。
最初に厳かに母に問いかけたのは祖父だ。
すると、母は疲れきった表情で、淡々と話し始めた。
「篤也さんと離婚します」
まずそう言った母に対して、祖父母は驚かず当然だと首肯した。
愛したはずの妻にあろうことか暴力を振るった最悪の男。先日出所した父は母を始めとする関係者との接触禁止命令が言い渡され、数ヶ月の監視もつけられたと聞かされていた。
ようやくだ。
母との幸せな日々が帰ってくる。
二人だけの家族で大変なことも多いだろうし、母には負担をかけることにもなる。
できる範囲で母を楽させてあげようと、離婚発言を聞いた羅奈は内心で決意した。
直後。
「あと──羅奈の親権は篤也さんに渡します」
「……ぇ?」
一年半ぶりに母から呼ばれた名前。
だけど、続く母の言葉が恐ろしく鋭い刃となって、羅奈の心を串刺しにした。
──それが、新名羅奈が壊れるきっかけの二つ目の理由だった。
羅奈の親権放棄の理由は、第一に父である新名篤也との子であること。
第二に羅奈の姿を見る度にDVを受けた時のトラウマが蘇ってきてしまうこと。
第三に、純粋な気持ちで羅奈を愛せなくなったこと。
祖父母は激しく抗議したが、母は折れなかった。
そうこうしているうちに羅奈は母の実家を追い出された。
そしていつ連絡を取ったのか、追い出された玄関先で悪目立ちする真紅に染まった外車を運転する父が待っていた。
接触禁止命令も、母から直々に警察に取り下げるように言ったらしい。
だからこうして、父は平然と羅奈の下へやってきたのだ。
後で知ったが、孤児として施設に預けるつもりだったようだ。
当然金がかかる。母も父も羅奈のために金を払うことを嫌がった。やり直すという選択肢が双方にない以上、どちらかが羅奈を育てていかなければならない。でも母は羅奈を拒絶した。
やむを得ず、母は父に親権を渡す選択をしたのだ。大部分は、金銭的なことが理由で。
待ち受けていたのはDVだらけの日々。
その予想はやはり的中した。
「痛い!!!! やぅっ! んんっ、やぁ……」
「うっせんだよガキが!! 気持ち悪りぃツラしやがって!! あぁ!?」
「ま、まぁ……おじ、んぐっ!!」
「あーうぜぇ!! なんで俺がこんなクソガキのお守りしなきゃならねんだよ!! あの忌々しい女にそっくりな顔なんかみたくもねぇのによ!!」
殴られ、蹴られ、切られ、叩きつけられ。
食事も食パン一枚だけ。
地獄だった。
いっそのこと殺してほしかった。
死ねば楽になる。痛みも悲しみも苦しみも何もかも、消えてなくなる。
だが、父は決して羅奈を殺さなかった。死ぬ寸前まで痛めつけることもなかった。
父は死なない程度に羅奈を痛めつけていた。
自殺も考えた。
包丁を持ってお腹に──できなかった。
今度は首に──できなかった。
知らないマンションの屋上の縁に立って──できなかった。
踏切の中に──できなかった。
死ねなかった。
死にたくなかった。
地獄の渦中で、死にたくない思いから羅奈の心に一つの反抗心が生まれた。
何が何でも生き続けてやろう、と。
どれだけ痛めつけれても、心が壊れても、生き続ける。
それが羅奈を捨てた母とDVをする父に対する復讐だと、自分に言い聞かせて。
如何なる地獄であろうと受け入れると誓った。
そして、運命は更なる地獄を新名羅奈に用意した。
小学校に入学して、羅奈はいじめにあった。
傷だらけの体と風呂に入れないことによる悪臭。会話もまともにできない羅奈を、周囲の人間は蔑んでゴミも同然に扱った。
六年間、男女のどちらかに陰に連れられて暴力を振るわれたり、給食をわざと溢されたりした。
中学に入っても同様の理由でいじめを受けた。
もう、限界だった。
精神が、音を立てて壊れていく。
埋められない穴が空き続けて羅奈の心は原型を失っていた。
復讐を誓った。誓っても、ダメだった。
心が完全に壊れる前に羅奈は手を打った。
高校に行かない。入学式の時点から。
また惨いいじめを受けるくらいなら、父からのDVに耐えた方がマシだと思ったからだ。
殴られ蹴られの日々を繰り返して、地獄を生きる。
羅奈にとって安全な時間は父が仕事でいない時だけ。その時間はテレビ番組を見て、ゲームをして、音楽を聴いて。本当は好きな物も食べたかったが、確実にバレるためしなかった。どれも何も感じないけれど、心が壊れないために必要なことだった。
父がいる時は暴力を振るわれ、いない時間は娯楽に没頭する。
不幸中の幸いだったのは羅奈が性的暴力を振るわれなかったこと。父にもいじめっ子にもされなかったことは、消えない身体的かつ精神的損傷を作る羽目にならずすんだということ。
本当にそれだけはなくてよかったと羅奈は思った。
そんな地獄を生き続ける中、羅奈はあるニュースを目にする。
それが、新名羅奈の人生が一変する瞬間だった。
──『刎ね子』。
五人以上を殺害し、毎回被害者の首を切り落とすシリアルキラー。
羅奈は『刎ね子』の犯罪の完璧さと異常性に惹かれ、いったいどんな人物なのかと熱中した。
掲示板を見つけて、羅奈も書き込んだ。多くの人物が『刎ね子』について思い思いに語り合う掲示板。中でも『刎ね子』を崇拝する掲示板の参加者たちとは気が合い、楽しくて仕方がなかった。
何故だかわからないが、顔も名前も知らない『刎ね子』に好意を抱いた。
可能ならば父を、いじめっ子を、殺してくれないかと願った。羅奈自身も『刎ね子』に殺されたいと思うようになった。
そして、遭遇する。
──『刎ね子』が人を殺す場面に。
▪️▪️▪️
「と、言う感じですね!」
両手を合わせ、話を締めくくる新名羅奈。
想像以上に、地獄を生きていた。
私は幼い頃から何でも与えられ、自然と人が集まってきた。
対して彼女は、幼い頃に大事なモノ全てを奪われ、周囲の人間に見捨てられた。
私とは、対極の人生を生きていた。
──上出来だ。
嘘も誇張も、少女の話からは感じられない。
話から察するに今の新名羅奈の心の拠り所はこの私、『刎ね子』だ。
なら、使える。
とことん道具として使い倒せる。
この信用が得策となるか毒となるかはわからない。
けれど、私は彼女を道具にすると決めた。
今後の首刎ねを楽に進めるために。
「では、最後の質問です」
過去を聞き、新名羅奈を道具とする決断は固まった。
でも質問は後一つ残されている。
一つ目は少女が誰かを知るために。
二つ目はただの少女の状態から殺人の道具として使えるかを確かめるために。
そして三つ目。
第三者が聞けば、質問する必要性はあるのかと疑問に思うかもしれない。
相手が完璧な役者だとして、今までの会話の内容全てが嘘で、振る舞いは演技で、露出してる部分にある傷も偽物なら全く意味をなさない。
単に一応聞いておきたいのだ。
「あなたは、私のことを警察に通報しますか?」
「しませんしません! するわけがありません!」
私の質問を遮るように新名羅奈は返答した。
あまりに残酷な人生を生きる少女が辿り着いた先が『刎ね子』。憐れさにも限度がある。
現実はこれまで、散々不幸の道を敷いてきたのだ。
少しくらい少女の願いが叶っても文句は言わないでもらいたいところだ。
「私の質問を最後まで答えてくださり感謝します」
「いえいえ! 『刎ね子』様のお力になれるだけで幸せです! 羅奈がお礼を言わせてください! ありがとうございます!」
「騒がしい方ですね……。さて、聞くだけ聞いておいて何もないのは釣り合いが取れないので──あなたの願いを何でも一つ聞いて差し上げましょう」
「……ぇ?」
「私にできる範囲で、という条件付きですが」
そう言って微笑みかけると新名羅奈は困惑した。
これから道具として使うために、彼女の願いを叶えると先に約束して、後から私の要望に答えてもらう。
加えて彼女の過去の話が事実である前提で、後に裏切られないための保険と、叶えてもらった願いの大きさから失敗は許されないという意識の強化だ。
願いを叶えるか否かで新名羅奈の有用性の向上が期待できる。
「────」
彼女は五分以上も黙り込んだ。
時刻は深夜三時。時間的にも先ほど殺した女の首を刎ねて証拠隠滅に動き始めたい。
さっさと答えを返してほしい。
「それじゃ、ぁの……」
焦りが込み上げてきたのと同時、ようやく少女は口を開いた。
「羅奈のママを」
「はい」
「ママを傷つけたゴミ男を、殺して!!」
泣き叫んで懇願する新名羅奈。
その瞳にはドス黒い憎悪が渦巻いている。
予想通りの内容だ。
もちろん承諾する。
「ええ、わかりました。あなたの父親を殺すことを約束しましょう」
私は彼女に手を差し伸べた。すると涙を腕で拭ってから私の手をとって立ち上がった。
私は新名羅奈を見下ろし、反対に彼女は私を見上げている。身長差を感じた。
その状態のまま伝えた。
「では願いを叶える引き換えに、これから私の道具として働いてもらいます。構いま──」
「いいんですか!? やったやったやっ」
「静かに」
こうして、私と新名羅奈の主人と道具の奇妙な関係性が始まった。




